①の地点で、
ングラライは、3度の戦いをしている。
1、ランプーの戦い
2、ボンの戦い
3、パンゲジャランの戦い
である。
ランプーの戦い、と、ボンの戦いは、「往路」である。
パングジャランの戦いは、「復路」である。
この「往路」と「復路」の戦いを比較してみると、
ングラライのゲリラ戦の全体像がよく見える。
やって見る。
まずは「ランプーの戦い」である。
ランプーの戦い
ランプ村には、オランダ軍の硝戒所があった。
ジクグ隊とグルブ隊が、そこを襲うことになった。
二隊合わせて二個小隊(八十名)ほどの軍勢であった。
ジクグ中尉もグルブ中尉も日本の義勇軍育ちであった。
訓練を十分に積んでいる。
立派に隊列を組み、出発して行った。
で、翌日早朝に隊は帰ってきた。
ジクグ中尉が腿に被弾し、二人の行方不明者があった。
襲うどころか襲われたのである。
敵は、とんでもないところに待ち伏せしていた。
その場所は、味方でなければわからない場所だった。
ということは、味方軍にスパイがいるということだ。
ングラライ軍が戦うと、味方してくれた村は、
あとで必ずオランダ軍により村が燃やされる。
村が燃やされるたびに、スパイが増える。
これには、ングラライも悩んだ。
同じく、パ・ジョコも悩んだ。
当時の二人の関係は微妙であった。
ングラライ隊にあって、パ・ジョコは参謀であった。
が、参謀以上の地位にあった。
パ・ジョコは一九二三年五月生まれで、当時は二三歳。
ングラライは、一九一七年一月生まれで、当時は二九歳。
年齢は、パ・ジョコの方が六歳若い。
が、パ・ジョコには、長い闘争歴があった。
日本軍がインドネシアに来た直後から闘争を始めている。
その時、パ・ジョコは、まだ十八歳だった。
二十歳でバリ島全てを統括する青年隊のトップになっていた。
今も、パ・ジョコをトップと崇めるバリ人青年が多くいた。
闘争に軍隊が必要と、ングラライを選んだのもパ・ジョコだった。
ングラライは「戦い」についてはウィスヌ少佐に相談した。
が、「独立闘争の仕方全般」についてはパ・ジョコに相談した。
二人は、そんな関係だった。
ベンケルアニャールの司令部を解いた時もそうだった。
ングラライの長征希望をパ・ジョコも賛成して決められた。
今回も二人は、話し合った。
ングラライの言い分は一貫していた。
あくまでも戦う。
戦って勝たなければ独立ができない。
が、今のままでは、勝てない。
ジャワ島からの援軍と武器の補給が必要だ。
そのために、東に向かって長征を続ける。
敵の目を東に向けて、西のジャワ軍上陸を助ける。
これに対して、パ・ジョコの意見は違った。
目的はインドネシア独立である。
親蘭派が増えれば増えるほど独立が遠のく。
戦えば戦うほど、親蘭派が増える。
戦わずして、島民の意識を変える方法を考えるべきだ。
長征して戦い続けるのは反対だ。
バリ島の中央部に司令部を構えて籠城する。
幸いに、この地の地形は複雑だ。
籠城するに最適だ。
それに、ブレレン県とバンリ県とバドゥン県の県境にある。
三つの県から注目を集める司令部ができる。
二人は、長時間話し合った。
お互いの考えがお互いに理解できた。
独立を望む闘争心は同じであった。
二人は、結論を出した。
お互いは助け合いながら独自の道を進む。
パ・ジョコは拠点をバドゥンに置き、バリ島の若者をまとめる。
パ・ジョコは、ボン村に入ったところで、ングラライ軍を離れた。
そこは、パ・ジョコの拠点であるバドゥン県だからであった。
(写真は、ランプー村にある戦闘記念モニュメント)