アンボンが歴史に登場するのは、16世紀に入ってからだ。
ざーと歴史を走ってみると.....
最初はポルトガル。
次のように、大航海時代のヨーロッパ勢力の一番手として、
香料貿易の利益とキリスト教布教めざしてやってきたのが、ポルトガル。
1513年;ポルトガル人が初めてアンボン島に上陸する。
1521年;ポルトガルがアンボン島に香料工場を建設する。
1546年;フランシスコ・ザビエルがアンボン島に来て布教する。
ついでオランダ、つづいてイギリス、そして両者の争いに。
1610年、アンボン島がオランダ東インド会社の本拠地となる。
1615年、イギリスがアンボン島のカンベロに居住地を建設する。
1623年、オランダがカンベロ居住地を襲う。
イギリス商館員を拷問の末に全員殺害。(アンボイナ事件)
1663年、オランダが丁子(香料)の生産拠点をアンボン島などに移す。
モルッカ諸島の政治経済の中心がアンボン島に移る
1796年、ライニア提督の下、イギリスはアンボン島を手中に収める。
1802年、アミアン和約でアンボン島がオランダに戻される。
1810年、再びイギリスが奪還する。
1814年、再度オランダに戻される。

ここに挙げた年表の中で、間違ってはならないのは、
1610年のオランダ進出についての解釈だ。
この時点のオランダ進出は、オランダの国ではない。
進出してきたのは、オランダにある東インド会社という「株式会社」です。
株主は、オランダの一般市民です。
1615年のイギリス進出も同じです。
イギリスではなく、イギリスにある「東インド会社」です。
これら二つの東インド会社は、名前は同じですが、全く別のものです。
二つとも最初は領土支配の意志も能力もなかったのです。

インドネシアがオランダの植民地になって350年....
と一口に言われますが、
オランダと言う国家が、進出して来た訳ではなく個人の会社なのだ。
さらに、その頃は、インドネシアという国もありませんでした。
ちょっと、脱線しますが、
歴史をいい加減に語る時は、いいですが、
正確に語ろうとするときは、こういう細かなことは大事なことです。
大東亜戦争での日本について
「インドネシア侵略」などといいますが、
当時は、インドネシアという国はありませんでした。
人が住んでいたので、ちょっと語弊がありそうなので、言い直すとして、
例え、あったとしても、日本はインドネシアを攻めたのではないのです。
それを植民地化している、オランダを攻めたのです。
日本の兵隊は、オランダ兵と戦ったのです。
戦かった土地もインドネシアではありません、オランダです。
何故なら、オランダの植民地だったからです。
誰が考えても、当たり前のことです。
当時のアジアでの独立国は、日本とタイだけでした。
アメリカがフイリッピンを
イギリスがインド、パキスタン、ビルマ、マレーシアを
フランスがベトナム、ラオス、カンボジアを
オランダがインドネシアを
植民地にして、わがまま限りにしていたのです。
中国にしたって、イギリス、日本、ロシアが食い荒らし、
さらに国内の争いもあって、国家としての呈をなしていなかったのです。
日本もいろいろ批判されますが、
何故に、こうした土地を植民地にした当事者である、
イギリス、フランス、オランダ、アメリカが批判されないのでしょう。
日本は、欧米のわがままに堪えかねて、それに抗しようと、
欧米の真似(帝国主義)をしました。
真似をした国を悪く言うなら、
真似される土台を作った国も責められなくてはなりません。

今時、世界に蔓延る各種の紛争や宗教戦争に似たテロ戦闘。
これらの要因を辿ってみると全てが欧米の植民地政策にぶち当たります。
そこから生まれた貧困や妬みが要因になっています。
なぜに歴史的な負の要因として、これが取りあげられないのだろうか。
私はそれが府に落ちないのです。
持論が飛び出ました。
気を取り直して、話を戻し...(笑)
オランダが国として、インドネシアを植民地にした時期です。
私は、18世紀末と考えています。
オランダの東インド会社がつぶれた頃です。
オランダの東インド会社は、最初は領土支配の意志がありませんでした。
しかし、権益を拡大したいがために、だんだんとその欲が出てきたのです。
それには、莫大な費用がかかります。
18世紀後半には、イギリスに産業革命が起こりました。
なのに以前、オランダは重商主義に傾いたままでした。
ビジネス的に、勝負になりません。
オランダの東インド会社が潰れたのです。
その結果、
その領土、財産、負債がオランダ政府に移ったのです。
18世紀がまさに終わろうとしている時です。
私は、この時点をもって、
オランダ国としてインドネシアの植民地化がなった。
と考えています。
さて、冒頭の年号のアンボンの歴史の説明に戻ります。
1623年のアンボイナ事件です。
フランスの東インド会社がイギリスの東インド会社を襲った事件です。
この時イギリスも襲われることを予測していました。
で、傭兵を雇っていました。
この傭兵....日本人です。
9名の日本人が傭兵としてイギリス商館に雇われていたのです。
1623年といえば、山田長政がシャム王として活躍していた年です。
関ヶ原の戦いを経て職を失った武士で海外に出る者がいました。
1612年に発令された、鎖国令でこれら武士は日本に帰れなくなりました。
アジアには、そういう日本の武士が結構にいたはずです。
イギリスの商館もシャムあたりから、
そんな日本人を雇ったのではないでしょうか。
まあ、雇った経緯は解りませんが、9名の日本人がいたのです。
この9名の日本人傭兵は、オランダ側に斬首されています。
まあ、日本とアンボンの最初のおつきあい....
ということで書きましたが、余り良い話ではありませんでしたね。
今日は、久しぶりに口が滑る。
要するに、
歴史は今から遡るのではなく、その時点をピンポイントで見る必要がある。
ということで、口を滑らせております。
アンボンの歴史が始まったのを16世紀と書きました。
であれば、それを思う時、400年前の世界をみる必要があります。
それがその時の世界であり、現実だからです。
400年前の世界...
北アメリカは、まだ先住民の土地でした。
(メイフラワー号アメリカ到着;1620年)
南アメリカはアスカ帝国やインカ帝国が滅び独立国家はありませんでした。
ヨーロッパにしたって、国や国王が覇権争いをして、ざわざわしていました。
一方、ユーラシアの南西は、
ヨーロッパ諸王国の規模をはるかに超えた帝国....
オスマン帝国、サファヴィー帝国、ムガル帝国がありました。
400年前は、こういう時代だったのです。
当時の世界人口を見ると、もっとはっきりします。
400年前の世界人口は、5億数千万人でした。
その中で、ムガル帝国の人口は、一億五千万人でした。
ムガル帝国と言えば、今のインド(北インド)付近でしょうか。
そういう処に、世界の5分の1の人口がいたことになります。
そして、その東の東南アジアには、2300万人しか住んでいませんでした。
今からは、想像しがたい人口分布です。
こういう世界情勢の中での、
アンボンの歴史であることを感じ取って欲しいのです。
随分と古い....とお思いでしょうが、
でも、江戸時代ですよ。
信長や秀吉がもう死んでいないのですよ!
そんなに古くもありませんよね。
さて、アンボンの歴史を続けます。
19世紀までアンボン島は世界のクローブの生産の中心でした。
オランダはアンボンの独占権を確保するため、
クローブの木を育てることを禁止したからです。
他の島々はその規則に従っていました。
オランダ統治時代は、
アンボンはオランダ居住民の中心地で、
モルッカ諸島の軍司令部がヴィクトリア砦に置かれていました。
第2次世界大戦では、
アンボンの街にはオランダ軍の主要基地がありました。
そして、1945年、インドネシアが独立宣言。
このあと、数年、俗に言う、インドネシア独立戦争が始まるのですが、
アンボン人は、独立側でなく、独立阻止派になるのです。
要するに、アンボン人は、オランダ兵として、
インドネシア人と戦うのです。
となると、正式に独立したあと、アンボン人は恨まれますよね。
そう、それで、起きたのが、
1950年の、南モルッカ共和国の反乱.....
アンボンがインドネシアから独立しようとしたのです。
この反乱には、オランダからの援助もあったようです。
それに負けて、オランダに逃げたアンボン人、その数、約2万人、
が現在、オランダに暮らしています。
そんな歴史を持つ、アンボン。
まだまだあるんです.....アンボン動乱、
については、写真があるので、後日。
あああ、今日は良く口が滑った。
お見苦しきはお許しを。