あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



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三浦襄のこと(その2)

(日本軍のバリ島サヌール上陸記念塔の前の三浦襄)
((日本敗戦後に塔は破壊され今はもうない)
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6、バリ島民は三浦襄をバパ・バリ(バリの父)と呼んだ

日本の統治下の三浦は多忙を極めた。
ある日、一人の新聞記者がバリ島を訪れた。
後に動物文学の第一人者になる作家の戸川幸夫である。

(サヌール海岸で.....)
(左が三浦襄、右が戸川幸夫)
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三浦と戸川がデンパサール市内を歩いていると、
日本軍将校の前に二人の男が座らされてぶるぶる震えていた。
男のひとりは、三浦の顔見知りの教師だった。
三浦が男に話を聞いて事情が解った。
男がおどおど歩いているように見えたので、
将校はスパイだと思ったというのだ。
単にそれだけだった。
言葉が通じないまま疑いが晴れず、
将校は切罪の刑を言い渡していた。
三浦は将校に事情を話し、二人の男を救いだした。
三浦は、戸川に、言った。

人生の苦労も経験もない若い青年が、
支配権を握ったというだけで、
人間の生命を左右するなんて怖いことですね。
戦争という名の下に人の生命を奪い、
人の貞操を弄び、人の財産を奪う.....
許されることではありません
彼らに信頼され、慕われなければならない日本人が、
こんなことでどうして東亜の指導者になれますかね。

戸川は、後に発表する「戦場への神碑」の中で、
その時の三浦の様子を追憶している。

三浦老人は頬を紅潮させて若者のような激しい口調で喋った.....
私は老人の横顔を見て、激しい情熱と愛国心を見た、と思った.....

島民は、三浦をいつしか、
「バパ・バリ(バリ島の父)」と呼ぶようになっていた。


7、収益は全て島民に分け与えた。

昭和17年5月、軍用食料増産の必要から、
デンパサール市に牛豚肉用の缶詰加工工場が作られた(台湾畜産)。

(かって台湾畜産のあった場所.....)
(今は島内一の缶詰メ=カーcip社になっている)
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その工場に納める牛豚を集荷する「バリ畜産会」が発足し、
三浦がその会長になった。
三浦は「バリ畜産会」には、日本人をひとりも参加させなかった。
運営、経理の全てを島民に任せた。
あくまでも島民の生活を向上させたいという思いからだった。
元三井農林小スンダ出張所員であった木舎一家は、
その時の三浦を知っていて、こういう。

「三浦さんは生活費程度の給料で決して多額の報酬を求めようとしなかった」
「働き口のなかったバリ島民に三浦さんは働く場所を作った」

三浦の指導と島民の努力によりバリ畜産会は着実に事業を伸ばした。
さらに三浦は、会社の近くにあった民家を買い取り、
食品加工の後に出て来る骨から、
歯ブラシやボタンを作る工場「三浦商会」を設立した。
デンパサール市内の貧しい島民を集め働かせ、海軍軍需部に納品させた。
ここも運営は全て現地人に任せた。
そればかりでなく、代金は全て現地人に賃金として支払われ、
三浦自身は一銭も受け取らなかった。


8、島民への税金の撤廃を陸軍大将に上申する。

三浦は、住民の負担が大きかった税金の撤廃にも腐心した。
バリ島を訪れた本庄繁陸軍大将に上申した。

「悪税を日本政府が徴する事、誠に嘆かわしきこと、
一般に日本よりの官吏の原住民に対する不遜不親切に対し、
強調して大将閣下に申述べる。」

横暴な日本人官吏や海軍の特別警備隊の乱暴ぶりについても
三浦は機会あるごとに軍上層部に抗議した。
当時占領対策の財政部門を担当していた稗方典彦陸軍大尉は言う。

「上陸部隊はほとんどが20代の青年将校ばかりであった」
「難しい部分は、いつも三浦さんに助けてもらった」
「上陸時のさまざまな政策は軍が作ったものではなかった」
「全て三浦さんの立案によるものであった」


9、20人近くの子供たちの面倒をみていた。

戦前のバリ島は漁業基地でもあった。
海亀業を生業とする糸満市出身の日本人が
バリ女性と結婚し、ここで暮らすケースも少なくなかった。
大東亜戦争開戦と同時にインドネシアにいた日本人は、
「敵性国民」として、全員拘束されオーストラリアの収容所に送られた。
その数は二千人を超えた。
バリ島にいた日本人も同じであった。
三浦商店の従業員もその中に含まれている。
親がオーストラリアの収容所に送られて、
子供と母親はバリ島の刑務所に収容されていた。
日本軍上陸後、三浦はそれらを見つけ出し自分の家に引き取った。
その数、20人ぐらいに膨れ上がっていた。
三浦のつぎはぎだらけのズボンは邦人の間でも評判であった。
生地の配給も全て子供たちにまわしていた。

(三浦襄が養育した子供たち)
(「内地の日本人と同じ格好をさせる」と服や靴に気を使った)
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三浦が他人の子供を養育しているのを日本人官吏が、
知ったのは、かなり後のことだった。
「日本政府がすべきことだからせめて費用は政府で負担する」
との申し出があったが、三浦は
「自分で好き好んでやっていることだ」
と、きっぱり断った。


10、いったん日本に帰る。

灼熱の太陽の下での過酷な労働、
日本軍と島民の間で板挟みとなる精神的な疲労で、
50代半ばとなっていた三浦は胃痛や下痢に苦しめられていた。
戦局の悪化もあり、三浦は周囲にすすめられるまま、

「半年間、静養したら必ずバリ島に戻る」

と言い残し、日本に帰国した。
昭和19年春のことであった。
仙台に戻った三浦は4女が通う小学校で日本の戦局について話をした。
校長らを前にして三浦は「日本は戦争に負ける」と断言した。

久しぶりの家族だんらんを満喫しながら、
「死線を越え、原住民との約束」
「帰島せねば日本人の信用にかかわる」
「戦局非なりといえども使命は断じて果たす」
と、三浦のバリ帰島の決意は揺るがなかった。

すでに日本は連合艦隊の大半を失い、
中部太平洋の制空権も失っていた。
バリ島に帰るだけでも命かけだったが、
12月19日、三浦は帰島を果たした。

バリ島に戻る三浦を自宅近くの駅で見送った久子は、
別れ際に父と握手した。
その時の三浦の力の込め方が異常に強かったことを覚えている。
「もう二度と会えない」と直感したという。


11、三浦が帰り、島内は平静になった。

大東亜戦争の戦局は日に日に悪化していた。
バリ島民の間からも、日本軍に対して、疑念の声が上がり、
労役や資材の拠出も滞るようになっていた。
だからこそ、12月の三浦の帰島の果たした意味は大きかった。

「トアン・ミウラ ダタン(三浦の旦那が来た)」
「ミウラがいるなら大丈夫だ」
島内は再び平静を取り戻した。

間もなく、日本政府がインドネシアの独立予定日を9月7日と約束した。
三浦は「再びバリに戻って来た甲斐があった」と喜んだ。
インドネシア各地に独立の準備委員会である「建国同志会」が結成された。
バリ島に「建国同志会」が生まれたのは8月11日であった。
事務所はシンガラジャに置かれた。
日本人としてただひとり参加を求めれらた三浦は、
本部次長というポストだった。
三浦は最後のご奉公のために一か月の半分を
シンガラジャに滞在することにした。
このため三浦は、養育中の子供を全員母親の元に返し、
バリ畜産会や三浦商会の仕事も全て島民の自主経営に切り替えた。
そして、シンガラジャの事務所に姿を見せたのは、8月14日、
即ち、日本の敗戦のわずか一日前であった。


12、三浦、日本の敗戦を知る

シンガラジャの民生部の越野菊雄長官から敗戦に至る経緯を聞かされた。
三浦は頭を下げたまま、一言も口をきかなかった。
翌日、三浦は思いつめた様子で邦人の知人を訊ね、
「原住民に嘘をついた、腹を切らねばならぬ」
と言い残し、それからしばらく姿をくらました。

そして、数日後、人々の前に現れた時は、
何かがふっきれたかのように、朗らかで、インドネシアの民族歌や
日本の歌を口ずさみ、上機嫌だったという。


13、自決の理由

敗戦後の三浦襄ともっとも見近に接していたのは、
三井農林の研究員として、
バリ島の農業試験場の運営にあたっていた藤岡保夫だった。
藤岡は、三浦の家に同居していた。
藤岡の手記によると、三浦はある日妙なことを言いだした。
「試験場にセメントがあったら2、3袋貰えないだろうか」
いかぶる藤岡に三浦は、
「自分の墓を作るためだ」と答えたという。

藤岡が三浦の自決の決意を知ったのは、この時だった。
若い藤岡は自分も三浦と同じ道を進むべきと訴えたが、
三浦は、
「前途ある若者が自決するのは誤りだ」
と取り合わなかった。
三浦が藤岡に語った自決の理由は次の三つだった。

①  戦時中「日本人というものは戦争に負けたら、
   腹を切るものだ」と島民に言って来た。 
   誰も自決する者がいないと、日本人がうそつきになってしまう。
②  これまで、インドネシアの独立のために努力してきたが、
   不可能になった。 
   今後はこの地にとどまって激励したい。
③  戦時中、そして戦後のバリ島における、
   日本人の行動は全く話にならない。 
   自分の自決が日本人に反省の機会を与えるだろう。


14、バリ中をお詫びの行脚に巡る。

それから数日後、三浦は藤岡に「一緒に行かないか」と誘った。
「これからバリ人にお別れの挨拶をしに、バリ中を巡りたいんだ」
藤岡は快諾した。

それから三浦たちは、39郡を駆け巡った。
行く先々で、土地の有力者を集め、
日本が敗戦に至り、独立を援助できない事情、
しかし、精神的にはあくまでも独立を支持する旨を説いて、理解を求めた。
「お詫び行脚」の最終日は、9月6日だった。
三浦は半袖、半ズボン姿で、デンパサール市内の映画館に集まった、
約600人の島民の前に立った。
目は充血し、憔悴しきった表情ながら、
渾身の力を振り絞るように声を出した。

「みなさん、私はインドネシアを愛し、バリを愛しています。
今まで、この国の独立を信じ皆さんと生きて来ました。
しかし、日本は戦争に敗れました。
私も日本人もこの国の独立を助けることができません。
すみません。
独立の約束を果たすことができませんでした。
しかし、私は皆さんと同じようにインドネシアの独立を信じています。
私はインドネシアを、バリを愛するがゆえに、
全日本人に代わりこの国に骨を埋め、独立を見守るつもりです。
どうか皆さん、許してください。」

そして最後に言った。
「さようなら」
三浦の目には涙があふれ、体は小刻みに震えていた。
聴衆の誰もが三浦の自決の意志が固いことを知った。

たくさんの島民が傍に駆け寄った。
その中に独立後、少スンダ州の初代州知事となる、
イ・グスティ・クトット・プジャがいた。
三浦の家の家主であったプジャは、三浦を父のように慕っていた。
「パパ・ミウラ、死んではなりません」
「独立の約束を守れなかったのは、あなたのせいではありません」
「死んではなりません」

聴衆の最前列で三浦の演説を聞いていたのが、
上陸作戦の時に行動を共にした稗方典彦大尉であった。
稗方はその時のことを言う。
「三浦の頭上にオーラーが差していた」
「私だけでなく、他の人も見ました」
「あの神々しさはいままで見たことがないものでした」


15、自決する

演説の後、三浦は家で親しい人たちに囲まれていた。
もはや、説得はかなわないと思い定め言葉に詰まる稗方に、三浦は、
「日本の再建を頼みますよ」と逆に激励した。
稗方は、鎌倉時代から伝わる家宝の軍刀を差し出し、
「どうか南の空で永久に守ってください」と手渡した。
三浦は、
「承知しました」
「この軍刀をもって南は絶対に3千年守ります」
「安心なさい」と受け取った。

三浦は集まっていた人たちと午前零時過ぎまで、
インドネシアの独立、日本の将来のことを語りあっていたが、
やがて三浦は、いつまでも傍から離れようとしない人々に怒りだし、
「立ちされ、立ち去れ」と言葉を荒げた。

それから、4時間後、三浦が自殺するまで、
どのようにすごしていたのかわからない。

が、机の上には、仙台に残した妻子や、
バリ島民にあてた遺書が残されていた。
愛用の万年筆や時計などの遺品は、几帳面に送り先が記され、
わずかな現金は養育していた子供たちに分かち与えるように、
封筒に名前まで書き残されていた。

(デンパサール、Tagal Langon にある三浦襄の墓)
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         私の家から20分のところにある三浦襄の墓、
         訪れるたびに誰かがお詣りした様子がある。
         お供え物から、お詣りした人は、全てバリ人と解る。
         日本人がどれくらい訪れるのだろうか.....
by yosaku60 | 2015-12-21 11:15 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

三浦襄のこと(その1)

三浦襄を語らなくてバリの残留日本兵を語れない。
三浦襄の思いが残留日本兵の思いでもある。
熱い思いは三浦襄から残留日本兵に繋がっている。
私の残留日本兵の探求は三浦襄から始まった。
三浦襄から松井久年と荒木武久を知ったのだ。
そして、そこから深く入っていった。

そんな大事な三浦襄....
に関する私のブログを読み直してみた。
2012年1月18日~12月1日;三浦襄(その1~その6)
2014年4月6日;三浦襄の墓
の二つである。

驚いた。
いかほども三浦襄のことを語っていない。
情報発信者として、これではいけない。
バリに住む日本人なら三浦襄を知って当然である。
バリに来る日本人に三浦襄を知って欲しい。
と、思いを新たにした。

ということで、産経新聞に掲載された
2005年2月7日~18日の「凛として」の記事を中心に
少々力を入れて紹介する。

(写真は三浦襄)
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独立予定日に自決した三浦

1945年9月7日は、日本の敗戦で叶わなかったが、
本来ならばインドネシアの独立が予定されていた日であった。
その日の早朝、一発の銃声がデンパサールの市内に響いた。
銃弾は右のこめかみから撃ち抜かれていた。
傍には等身大の棺が準備されていた。
57歳の三浦襄の覚悟の自決であった。
バリ島130万の兄弟諸君へと宛名書きした遺書があった。

戦争のためとは言え、
愛するバリの皆様に日本の国策を押し付け、
無理な協力をさせたことをお詫びします。

参列者一万人の壮麗な行列

発見者により三浦の身体の血がぬぐわれた。
遠巻きにしていた近所の住民の
むせび泣く声が高く低く聞こえていた。
その日の午後、中庭で葬儀が執り行われた。
この日が予感され、知れ渡っていたからだろう。
バリ島の8人の王とその士候が僧侶や従者と共に参列した。
葬儀が終わると地元住民らが棺をかつぎあげ、
墓地への搬送が始まった。
若い娘たちが棺の前で片手で白い布を長く広げ、
もうひとつの手で花の枝を差し上げた。
棺のすぐあとに数百人の参列者が続いた。
中央通りを進むうちに葬列はみるみる長くなった。
墓地に着くころは二キロ近くに達し参列者は一万人にもなった。
通りの両側の家々には、独立の象徴であるメラプティ旗が
半旗に掲げられ、風に揺れていた。

そんな三浦襄の生い立ちを書いてみる....

1、セレベス島マカッサルに雑貨店を開く

三浦襄は明治21年8月10日、東京神田の猿楽町で生まれた。
父はキリスト教会の牧師で母は英語教師であった。
明治38年、父、宗三郎は、
ハワイの日本人教会の牧師として単身赴任した。
父からの仕送りは少なく、困窮の中、三浦は明治学院に入学した。

(明治学院時代の三浦;下から三段目中央)
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ある日、知人を通じ、外国行きの打診があった。
老いてゆく祖母、両親に少しは楽をさせたい。
金儲けのできる外国に出て目的を果たそう。
そのように思っていた三浦は、この誘いを受けた。
行き先はジャワ島スマランの「南洋商会」であった。
言葉も地理も分からないまま家々を訊ね歩いて、
薬や雑貨を売り歩いた。
が、南洋商会の経営が思わしくなく、8か月で退社した。
明治42年12月であった。
その後、三浦はジャワ各地、バリ島、ロンボク島、
それにスラバヤの各島を転々と流浪した。
そうした経験を重ね、
大正元年12月セレベス島のマカッサル市に雑貨店を開いた。
足掛け3年かけて、一国一城の主になったのだ。

2、家財道具の一切を捨てバリ島に渡る。

雑貨店の経営は順調であった。
大正5年にはいったん日本に帰り、民子と結婚した。
三浦は27歳になっていた。
間もなく本店をマカッサル市に置く「日印貿易商会」を
共同出資で開業した。
第一次世界大戦後の好景気を背景に経営は順調であった。
が、三浦が日本に帰国中に共同経営者が強盗に襲われ、
資金を奪われ、殺害された。
三浦は「日印貿易商会」を解散した。
妻、民子が過労がもとで3人の子供を残し死亡した。
失意の中で、三浦は、山に入り、
トラジャでコーヒー園の経営を始めた。
少しづつであったが、経営は順調に推移した。
昭和3年、三浦は日本に帰り、母の紹介で「しげ」と再婚した。
トラジャでの一家5人の生活が始まったが、
その幸せも長くは続かなかった。
翌年10月に始まった世界恐慌のあおりを受け、コーヒー園は破綻した。
三浦一家は家財道具の一切を捨て、バリ島に渡ることにした。
昭和5年のことだった。

(トラジャからバリ島に向け出発する三浦一家)
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3、デンパサールで「三浦商店」を開く

バリ島に渡った三浦は、41歳になっていた。
三浦はデンパサールで自転車修理業を始めた。
toko miura と呼ばれた「三浦商店」である。

(三浦商店)
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熱帯の暑さの中、油まみれになる仕事にもかかわらず、
三浦は毎日、ネクタイをきちんと締め、仕事に精を出した。
当時、バリ島には日本人は3家族しかいなかった。
デンパサール市内に限れば、三浦一家だけであった。
三浦は自転車の販売にも乗り出した。

(自転車に乗った当時の三浦)
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市内の繁華街のガジャマダ通りにあった「三浦商店」には、
日本製はじめ各国の新品の自転車が並び、
南国の日を浴びてまばゆい光を放っていた。
自転車業は大きな利益をあげることがない代わりに、
景気の変動の影響を受けることもなかった。
三浦の生活は、安定し始めた。
同時に、バリの社会において、一等国民として、
欧米人と一緒にサロンに出入りするなど、
名実共にバリの日本人を代表する存在になっていった。

4、蘭印の総督府が三浦の財産を凍結する

昭和8年7月、三浦一家は日本に帰国した。
4女、栄子が生まれ、子供たちの教育はやはり日本で、
と、三浦が決心したからだ。
当時10歳だった二女の道子が言う。
「父は言いだしたことは必ず実行する性分でした」
「母はじめだれも文句を言うことなく日本に戻ることを決めました」
帰国した三浦は仙台市に落ち着いた。
三浦は毎年夏に帰国することを約束し、
晩秋になって一人でバリ島に戻った。
数年経過し、徐々に日本と米国の緊張が度合いを深めていった。
そんな昭和16年6月、例年のとおり三浦は日本に帰国した。
その翌月であった。
日本の南進政策を警戒する蘭印の総督府が、
バリ島の三浦の財産を凍結したのだ。
そして大東亜戦争勃発.....

5、バリ島民の合言葉は「トワン・ミウラ ダタン」であった。

日本軍がとった蘭印作戦の中のバリ島攻略....
三浦は、その道案内として海軍司令部から同行を命じられた。
2隻の船でバリ島に向かったが、三浦の乗った船は「笹子丸」であった。
当時、笹子丸に乗った稗方典彦陸軍大尉が語る。
「島内の事情は全く分からなかった」
「三浦の存在は頼もしかった」
「まるで太陽が現れたようだった」
2月19日未明、「笹子丸」「相模丸」の2隻から
陸軍部隊千名が上陸作戦を開始した。
その先頭に三浦襄がいた。
部隊は、デンパサール市に向かった。
途中で自転車に米を載せて運ぶ男に出会った。
三浦の姿を見たその男は、
「トワン・ミウラ(三浦の旦那)ではないか」と驚いた。
一方、別の上陸部隊は、トゥバン空港に向かった。
無血のうちに制圧し、空港には海軍航空隊が進駐した。
翌日には、
上陸部隊の中には三浦がいるという話が島内に拡がっていた。
「トワン・ミウラ ダタン(三浦の旦那が来たぞ)」
「ミウラがいるなら大丈夫だ」.....
トワン・ミウラ ダタン という言葉は、
このあと日本軍がバリ島内を占領していく過程で、
島民の合言葉になっていく。

写真は、日本軍がバリ島上陸後に撮られたもの.....
(後列は島内の士候;ラジャ)
(後列右から4番目が三浦)
(前列右が稗方典彦)
(前列左が初代バリ州知事になるグスティ クトット プジャ)
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by yosaku60 | 2015-12-20 12:46 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

庭師のワヤンの仕事ぶり

伸びきった生垣の伐採に来てもらいました。
庭師のワヤン、こんなにきれいに刈ってくれました。
庭師のワヤンの仕事ぶり_d0083068_724117.jpg

でも、ワヤンはもともと庭師ではありません。
家の庭を面倒見てくれと私が頼んだ、にわか庭師です。
本職は床屋さんです。
刈るのが商売だから...
てな訳で庭木の伐採をお願いしているはありませんヨ(笑)。
いろいろあって、心が通った古い友人なだけです。
ワヤンの強いのは、機械.....
高校卒業後、機械の専門学校に進んでいるのです。
我が家の芝刈り機、よく故障するんですが、
ワヤンはかるーく使いこなすんです。
バイクにしても芝刈り機にしても、ワヤンはみんな解るのです。
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加えて、ワヤンは上品で真面目です。
オレのようなガサツな男とは、大違いです。
もし、ワヤンが日本で生まれていれば....
そんな風に思うことがあります。
夜の中って不公平ですね~
オレみたいのが幸せに生きて...
ワヤンのような非の打ち所のない人間が、
仕事がなくて、しようがなく床屋さんになって.....
ワヤン、申し訳ないね~
by yosaku60 | 2015-12-19 07:49 | バリ島=人物往来 | Comments(0)

終戦直後のバリ島にいた日本人

バリ島の残留日本兵を総括すると勇ましいことをほざいたオレ。
何のためかというと、将来に記録を残すためです。
もしかしたら、今後新しい資料が出てくるかも知れません。
そんな資料が出て来たら、それを検証するために、
今わかっていることだけでも書き残しておきたいのです。
今まだバリ名しかわからない残留日本兵がいます。
この記録から、将来、その者の日本名が解るかも知れません。
そんな期待をこめて今わかる範囲で記録を残しておきたいのです。

さて、そんな理由で、記録を記述するには、
終戦時のバリ島に、どんな日本人が住んでいたのだろうか...
ということを調べねばなりません。
ということは、
バリ島の日本統治は、どういう組織形態にあったのだろうか....
についても調べねばなりません。
ということは、日本軍のバリ島攻略がどのようであったか....
を語らずには前に進めません。
さらに、その頃のバリ島の島民事情がどのようであったか,....
にも言及しておいた方が、理解が進む気がします。

などなど、
ということは、ということは...
で、どんどんさかのぼると、きりがありません(笑)。

が、少々遡りながら、書き進めたいと思います。
その手法として、まずは、時代を1942年に置きます。
そこから、前に進んだり後ろに戻ったりしながら書いてみます。

さて、1942年です。

日本軍の蘭印作戦が始まった年でもあります。
日本軍は、この年の1月からオランダ領インドネシアへ進出しました。
その進軍は早く、破竹の勢いでした。
ボルネオ島、マルク諸島、スラウェシ島を掌中に収めました。
で、3月1日には、ジャワ島に敵前上陸しようとしていました。
が、ジャワ島は蘭印軍の拠点です。
一筋縄ではいきません。

作戦を成功させるためには、制空権の確保が必要でした。
ジャワ島に近いのは、バリ島です。
バリ島には、トゥバン空港(現在のデンパサール空港)があります。
で、ジャワ島上陸以前にトゥバン空港の制圧を目論んだのです。

その制圧に選ばれたのが、台湾歩兵第1連隊第3大隊でした。
ここで、台湾....
との名があるので、台湾人による軍隊と間違う人がいます。
そうではありません。
当時日本の領地であった台湾を防衛するための軍隊なのです。
だから、隊員は台湾に近い、即ち九州人が多いのです。
当時の日本軍ですが、
日本の北、即ち東北人は、戦争区域でも北の支那を担当し、
日本の南、即ち、九州人は、戦争区域でも南の南方諸島を担当する。
という風に、区域別されていました。

さて、どこまで話したっけ、
そうそう、台湾歩兵第1連隊第3大隊の話でしたね。
話しを戻します。
陸軍第48師団本部から台湾歩兵第1連隊第3大隊に、
バリ島攻略の命が下ったのです。

第3大隊の大隊長は、金村亦兵衛少佐でした。
バリ島に敵前上陸したのは、何人ほどの軍勢だったのでしょうか。
書いてありませんが、大体想像できます。
次の表を見て下さい。
終戦直後のバリ島にいた日本人_d0083068_15123163.jpg

大隊で、指揮官が少佐であれば、500名ほどの軍勢だったのでしょう。
そうした500名が、バリ島に敵前上陸したのは、1942年2月18日の夜半でした。
敵の反撃がほとんどない状態で、次の日にはトゥバン空港を制圧しています。
実際の軍勢は約千名でした......後日談 。

そして、その後の金村大隊ですが、
2月27日にシンガラジャを占領し、
3月18日には、バリ島全域を掌握しています。

必要があって、このバリ島掌握をもう少し細かく見てみます。
大隊にはいくつかの中隊(2~6)があります。
バリ島掌握にあたり、シンガラジャの警備にあたったのが、第10中隊でした。
また、デンパサールの警備にあたったのが、第12中隊でした。
そして、この第12中隊の中隊長こそが阿南大尉でした。
何故に「必要があって」と、強調したかというと、
阿南大尉は、その後少佐に昇進して、終戦時には、
阿南大隊を率いて、再度バリに駐屯することになります。
で、ここにわざと名前を出したのです。
阿南大隊.......名前を覚えておいてくださいね。
この大隊から4人の残留日本兵が出るからです。

さて、話を1942年に戻します。
バリ島を掌握した金村大隊ですが、
バリ島にいたのは、約40日だけでした。
バリ島を含む小スンダ列島は、日本海軍の軍政担当地域と決まったからです。
担当交代日は、4月23日でした。

    (註)バリ島を撤収した金村大隊は、
       その後、ジャワ島のマゲランへと一端転進し、
       その後も転進を重ね、チムール島に行き、
       終戦時には、スンバワ島に集結していました。
       スンバワに集結したのは、金村大隊だけではありません。
       いろいろな部隊が集まり、
       終戦時には、4~5万ほどがスンバワに集結していたそうです。
       戦後、その一部がバリ島に来るのです。
       ですから、これも覚えておいてください。

さて、4月23日です。
その日から陸軍の金村大隊に代わりバリ島を警備するのは、
堀内豊秋大佐の指揮する海軍部隊になります。

堀内豊秋と言えば、思いだしますよね。
そう、北部スラゥシ島に電撃のように舞い降り、
占領した、落下傘部隊...
そう、その落下傘部隊の堀内大佐の軍です。

堀内の善政は、有名です。
特に厳しかったのは、占領地でのみだらな行為でした。
1942年の中ほどのバリ島....
軍律に厳しい堀内隊に加え、それを支える民間人の三浦襄がいました。
バリ島の統治が平和裏にすすんだのは、
この二人のおかげが大きかったのです。
後々まで、比較的穏やかにバリ島統治が行われたのです。

戦後の話になりますが、
バリ島からは、戦犯が出ませんでした。
その理由を稲川さんは、「三浦襄がいたから...」とおっしゃいます。
稲川さんの話には実感がこもっています。
なぜなら、その稲川さん、
三浦襄とは何度も会ってるからです。
稲川さんに言わせば、
つぎはぎだらけのズボンをはいた、普通のお爺ちゃんだったそうです。
が、支給される多額のお金は、全部バリ人に与え、
自分は着た切り雀のつぎはぎズボンだったのですって....
まさに明治の気骨人ですよね。

てな話で、またも脱線....
どこまで、話したっけ、
そう、堀内大佐の話でしたね。

実は、この堀内大佐の軍、
途中で解散し堀内大佐は日本に戻るのです。
いつだったのか、よくわかりません。
いずれにしても1942年の暮れには、堀内は日本にいるので、
多分、堀内隊によるバリ島警備は、6か月ほどだけだったのでしょう。

その後、バリ島を警備したのは、
海軍の第2南遺艦隊の第3警備隊でした。
この第3警備隊の司令部はデンパサールにおかれました。
そして、同隊が1946年の終戦までバリ島にいたことになります。
残留日本兵の内、実に10名が第3警備隊出身であるのは、
こうした理由からです。

さて、バリ島を統治したのは、軍隊だけではありません。
軍隊は戦いが専門で、平穏時は、警備だけです。
統治には、行政が必要です。
その行政を司るのが「民政部」です。

占領地の「軍政」と「民政」の関係をちょっと書きますね。
占領の最初は、軍政で統治されます。
統治が落ち着くと、民政が追加されます。
より住民の深部に入り、穏やかな統治をせんがためです。
が、ひとたび、戦線が混乱すると、民政を廃止し、
統治を軍政だけにする場合があります。

それが、軍政と民政の関係でしょうか。
いずれにしても、1943年2月には、
バリ島に「小スンダ民政部」がおかれたのです。

話が1946年に行ったり、1943年に行ったりしました。
さて、1942年に戻りますね。

1942年。
この頃のバリ島の島民事情を思いやってみましょう.....
1942年といえば、ププタンが終わってから、
まだ40年しか経っていません。

40年というのは、それほど長い年月ではありません。
例えば、40年前のオレ、30歳の青年でした。
すでに結婚していて2児の親で、
少々は、カミさんに威張れていた時代です。
日々の出来事を昨日の事のように覚えています。
私のようにボンクラがそうなのですから、
1942年当時のバリ人は、まだまだ「ププタン」を覚えている筈です。

ああ、そうそう、先にププタンの説明が必要ですね。
少し、詳しく書きましょう。

オランダのインドネシア支配は350年と言われますが、
バリ島は違ったのです。
王国の支配がしっかりしていたため、オランダは容易に入れなかったのです。
なんとか、バリ島を完全支配したかったオランダは、
1870年頃から、バリ島にちょっかいを出し始めたのです。
最初の頃の反発者はブレレン国の国王でした。
3回もの戦いを経て、それを滅ぼし、
その後、ひとつづつ王国の支配を広げ、
最後はバドゥン国の王を攻めました。

その頃のバドゥン王は、
バリ島の多くの王がオランダの軍門に下り、
もはや、多勢に無勢の状態でした。
戦闘にて抵抗できずに、態度で抵抗したのです。
それがププタンです。
「玉砕」とか「集団自決」とかに訳されるようですが、
死に装束に身を固め、オランダ軍の前で集団自決したのです。
女性は、金銀の首輪を首から千切り「欲しけりゃ持ってけ!」
とオランダ兵に投げつけ自決したそうです。
壮絶ですよね。

オランダとバリの王国とのこれら戦いを「バリ戦争」と呼んでいます。
30年続き、1903年のバドゥン王家のププタンで終結したのです。
それから、40年しないで、日本軍が攻めて来たのです。
バリ人にとって、戦争の傷跡が少々残っている時です。
多分、まだまだ複雑な気持ちで日本軍を迎えたのではないでしょうか。

話がいろいろ飛びましたが、
分かっていただけたでしょうか。
話の流れなので、全体的にぼやーと分かれば十分だと思います。

ということで、
今日の話のまとめに入ろうと思います。

1942年から始まった日本の統治....
それから、3年続いた1945年、その8月に日本が敗戦しました。
その1945年8月のバリ島にいる日本人の内訳です。

今まで書いて来たことから、わかりますよね。
次のようだったのです。

1、海軍の第3警備隊(司令部;デンパサール)
2、小スンダ民政部(本部;シンガラジャ)
3、転進中の陸軍阿南大隊の一部(駐屯地;シンガラジャ)
4、その他の陸軍散在(例えばヌガラの山砲兵第48連隊一部)
5、それに民間人。

ということで、これらの総数が、2000余名でした。
1945年9月以降、
その多くが「ムグイ集結所」に集まり、日本への引揚を待っていたのです。
by yosaku60 | 2015-12-18 15:12 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵総括の目次

昨日のブログで、バリ島の残留日本兵を総括したいという記事を書いた。
それに先立ち、書くことの整理を思い立った。
目次と言えば大げさだが、
書くにあたっての頭の整理である。
おおよそ、次の順序で書きたい。

終戦直後のバリ島(日本の統治)

  (海軍)民政部と第3警備隊  その1
      台湾畜産と三浦襄   その2
  (陸軍)阿南大隊        その3
      林田大尉隊       その4
  下士官のみのバリ       その5

終戦直後のバリ島(バリ人の地下活動)

   12月13日の暴動       その1
   資金の調達           その2

バリの残留日本兵総括(まえがき)

   1、何故にバリ名なのか、
   2、バリ名の難しさ、
   3、マルガラナの日本名刻字


こうした前書きから書きだす、残留日本兵の数だが、
最大公約数的に、次の約30名について書くことにしたい。

バリの残留日本兵の総括

   海軍関係(情報元;月森省三大尉)
     1、松井久年(兵曹長)
     2、荒木武友(上曹)
     3、堀内秀雄(主計大尉)
     4、竹崎 清(機関兵曹長)
     5、美馬芳夫(二曹)
     6、高木米治(上曹)
     7、土屋道義(兵曹長)
     8、満冨四年(衛生一曹)
     9、大久保宗臣(兵曹長)
    10、松村 巌(一曹)
    11、工藤 栄(兵曹長)
    12、ソガ(民政部)
    13、ワジャ(施設部)

  平良氏随行(情報元;平良定三)
    14、平良定三(陸軍軍曹)
    15、木村三春(陸軍伍長)
    16、田島 遙(陸軍軍曹)
    17、中野  (陸軍伍長)

  その他(情報元;各所)
    18、ブン・アリ(陸軍中尉)
    19、ブン、スラマット(ジャワ島より来る)
    20、ブン、チャング
    21、イ、チャング
       ブン、チャングもイ、チャングも呼び方としては同じである、
       但し、ブン、チャングは、
       マルガラナの戦死者のひとりとして名を連らねている。
       一方、イ、チャングは、カランガッサムの戦いで、
       敵を深追いしすぎて帰って来なかった、
       とバリ兵が証言している。
       戦死日が違う。
       ということで、二人は別人である可能性がある。
    22、イ、グヌング
       土屋道義もワヤン、グヌングと呼ばれていた。
       但し、土屋道義は、1946年にジャワに渡っている。
       が、ここにあげるイ、グヌングは、1949年12月27日まで、
       バリ島で戦っていたと、バリ兵が証言している。
       名前は同じでも、二人は別人である可能性がある。
    23、イ、クトット
       ここに挙げるイ、クトットは、
       デンパサールの蘭印軍攻撃の作戦会議に出ている。
       作戦会議があったのは、1946年4月8日のことである。
       美馬芳夫も木村三春もクトットを名乗っていた。
       が、美馬芳夫は、どちらかと言えば、
       イ、ミマと呼ばれることが多かった。
       また木村三春は、平良定三と一緒に、
       パダンバイからバリ島に上陸しており、
       4月8日の会議には間に合うべきもない。
       であれば、ここにあげるイ、クトットは、
       二人とは別人で、第3のクトットである可能性がある。
    24、イ、マデ
       マルガラナで戦死したリストに、この名がある。
       マデと呼ばれた日本人は、
       荒木武友、中野、高木米治の3氏がいる。
       が、荒木はマデ、スクリと呼ばれ、
       別にリストアップされており完全に別人である。
       中野は、ジャワ島に移動中に水死している。
       で、これら二人は、ここに挙げる、マデではない。
       一方、高木米治は、ワナサリで戦死したことになっている。
       高木米治の正式なバリ名は、イ、マデ、プトラであった。
       タバナンの墓地では、ワナサリで戦死した日本人名を
       ブン、マデとしているが、これはやはり高木米治であろう。
       とすれば、マルガラナで戦死した、マデは誰なのか?
       日本名のわからぬ、別人である可能性がある。
    22、大舘
    23、クトット、スニョウ
       大舘は、ニョーマン、スニアと呼ばれていた。
       が、ここに挙げるクトット、スニョウも大舘ではなかろうか、
       との説がある。スニョーとスニアが似ているからだ。
       が、ニョーマン、スニアとクトット、スニョウは、
       第3子と第4子という呼ばれ方の徹底的な違いがある。
       多分、別人であろう。
    24、平田林之助
    25、片岡三喜
    26、グデ
       ピンダ少尉が証言するングラライ軍の行軍録に、 
       グデと言う名の日本人が登場する。
       グデとは、長男という意味であるが、
       日本兵でグデと呼ばれたのは、田島遙だけである。
       が、田島は、平良と共に「別働隊」であって、
       ングラライ本隊とは、行動を別にしたはずである。
       であれば、ピンダ少尉の証言するグデは、
       別人である可能性がある。
       なお、ワジャもワヤン、グデ、ワジャの正式名を持つが、
       ここに挙げるグデとの関係は推測のしようがない。
    27~34、氏名不詳
       タバナンの戦没者墓地に7名の姓名不詳の墓がある。
       墓守りは、言い伝えで全員日本人という。
       であれば、これら7名が、ここまでに挙げた日本兵か、
       それとも、まだまだ他にいた日本兵なのか。
       確かめようがない。  
by yosaku60 | 2015-12-16 13:28 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

稲川さんから教えていただいた事実(その5)

バリ島の残留日本兵の中で、
ングラライの指示で、ジャワ島に武器をもらいに派遣された兵がいた。
田島遙、中野某、土屋道義、の3氏である。
が、3氏が乗った船は、バリ海峡で水没した。
この水没で中野某は、行方不明になったが、
田島遙と土屋道義は、ジャワ島に泳ぎ着いた。
両氏は、独立戦争後も生き残った。
で、残留日本兵の会である「福祉友の会」に入会している。

と、いうことを稲川さんから教えて頂いた。
福祉友の会の名簿を見ると、まさにそのとおりであった。

稲川さんが何故に残留日本兵に詳しいのか、
ご本人から聞いた訳でなく、私が勝手に思うのだが....

1、戦中、戦後、バリ島の民生部に勤務していた。
2、戦後、日本に帰り拓殖大学(インドネシア語科)に学び、
  インドネシア語は話すだけでなく、読み書きできたため、
  情報を本や文字からも得ることができた。
3、大学卒業後、商社に入社したが、
  当時の商社(インドネシア関係)には、残留日本兵が多く、
  仕事の関係上からのつきあいがあった。
4、商社であったために、インドネシアだけではなく、
  他の東南アジア諸国への渡航経験もあり視野が広かった。
5、例えば、柳川中尉は、拓殖大学出身である。
  という風に、大学の先輩後輩というような繋がりもあった。

ということであるが、
これは、あくまでも、私の想像....
が、私の想像ではなく、稲川さんご本人が語ることがある。
即ち、

6、ずーとバリの残留日本兵を調べて来た。

そうなんです。
これがすごいのです。
福祉友の会の名簿で、バリの残留日本兵は、「バリ島」として、
独立して掲載されています。
これは稲川さんの要求でなされたものだそうです。
すでに稲川さんの調査が成され、終えていたということです。

バリ島の残留日本兵の調査については、
まずは、残留日本兵の平良定三氏(ニョーマンブレレン)が労をとりました。
平良さんの労は、マルガラナの慰霊碑に「日本名」を刻んだことで、
象徴されると思います。
その平良定三氏と重なる形で、稲川さんが労をとってきました。
稲川さんの労は、平成10年に稲川さんがまとめあげた、
「バリ独立戦争における日本人リスト」に集約されています。

今、私の手元に、
お二人の調べられたものが、あります。
そして、私自身が調べあげたものも若干あります。
でも、これらには、完全に一致しない部分があるのです。
ですから、なかなか、全てを書けないでいました。

が、戦後70年が過ぎようとしています。
もう、一致しない部分の照合は、難しいと思います。
一致しない部分は、一致しないことを記した上で、
全部を書き残しておく時期がきたように思うのです。

要するに、バリ島残留日本兵の最大公約数的記述です。
挑戦してみたく思います。
by yosaku60 | 2015-12-15 11:44 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

バリにも四季がある

2日前も昨日も夜中に雨が降った。
今朝の浜....雨で洗われ空気が澄んでいる。
昨日、今日と、やっと、暑さから抜け出たようだ。
この時期の暑さ、普通なら2週間だが、
今年は、3週間あったような気がする。
いよいよ雨季到来だ!ほっとしている。
バリにも四季がある_d0083068_9432918.jpg

日本は春夏秋冬という四季がある.....
が、バリには乾季と雨季の二つの季節しかない.....
と、言う人が多い、実はオレもそう思っていた。
が、住んでみての実感だが、バリにも次のように四季があるようだ。

1、乾季
  6月~10月
  ほとんど雨が降らず、さわやかである。
  
2、雨季願望季
  11月
  風が吹かず、暑い日が続く、雨季が待たれる。

3、雨季
  12月~4月
  毎日のように雨が降るため、暑さが和らぐ。
  木々が良く育つ。

4、乾季願望季
  5月
  風が吹かず、蒸し暑くなる。
  多くの人が体調を崩し、乾季が待たれる。

さて、ここ2、3日の雨で、急に庭木が伸びた。
オレの家.....外から見ると、
バリにも四季がある_d0083068_1061737.jpg

家の中から生垣を見ると、もっと解る。
入口のトンネルが高くなってしまった。
うっとおしい.....刈らなくっちゃ~ね。
バリにも四季がある_d0083068_1075368.jpg

by yosaku60 | 2015-12-15 10:08 | バリ島=社会・生活 | Comments(0)

バリ人の男の道楽

あるバリ人の家に呼ばれて行った。
鶏が立派な鳥かごに入っていた。
どうしたの、この鶏? .....と聞くと、
「と、と、とんでもない、鶏じゃない」
じゃ、なんなんだ?
「鳴き鳥だよ」.....なんて言う。
どう見ても鶏だが...
鳴き声専門の鶏は、単に「鶏」とは言わないらしい。

まあ、どうでもいいが....
鳴き声を争う鳥を飼うことを
男の道楽としている贅沢な男連中がいることは確かだ。

先日、その「鳴き声大会」があった。
写真で、その道楽ぶりを紹介する。
まずは、大会宣言の看板....
「鳥のさえずりの競争と展示会」と書かれている。
バリ人の男の道楽_d0083068_12122063.jpg

飼い方の勉強会もある。
手前の弁当箱の中は、鳥の餌....
バリ人の男の道楽_d0083068_12131072.jpg

どんな餌....かって?
アップすると、こんなの.....ウジャウジャうごめいている。
バリ人の男の道楽_d0083068_12135338.jpg

これが競演会場の全景。
バリ人の男の道楽_d0083068_12145139.jpg

鳥かごを天井から吊るすが、飼い主は、この真下に入れない。
遠くから眺めながら、自分の鳥に「鳴け、鳴け」と声援を送る。
バリ人の男の道楽_d0083068_1218050.jpg

検査官数名(写真では、中央の人)が、
鳥かごの下に行き、番号を確認しながら点数をつける。
バリ人の男の道楽_d0083068_12233852.jpg

競争は、鳥の種類ごとに行われる。
自分の鳥の順番が来るまで、時間待ちの男たち。
失礼だが、オレには、「遊び人」の面構えにしか見えない。
バリ人の男の道楽_d0083068_12263943.jpg

by yosaku60 | 2015-12-14 12:18 | バリ島=社会・生活 | Comments(0)

稲川さんから教えていただいた事実(その4)

20~30名いたと思われる、バリ島の残留日本兵。
中でも有名なのは、松井久年と荒木武友である。
もはや、神格化され語り継がれている。
その松井と荒木と一つ屋根で暮らしていた、ライ・スサンディさん。
彼の存在を教えてくれたのも稲川さんである。
写真は、久しぶりに会った、稲川さんとライさん。
       ライさんについては、以前の私のブログ、
       2015年2月15日の「沙季さんの一週間(最終日)」参照。
稲川さんから教えていただいた事実(その4)_d0083068_8495026.jpg

お会いしたのは、同じく残留日本兵の平良定三さん(故人)の家。
稲川さんと我々夫婦とエヴィ、
残留日本兵の調査に来ていた、中央大学の斎藤さんと添川君、
平良さんの息子さんと奥さん(右)とライさん(左)、
の9人で話している時である。
       平良さんの奥様、お身体の調子が戻り、
       短時間なら、こうしてお話しできるようになった。
       喜ばしいことである。
稲川さんから教えていただいた事実(その4)_d0083068_90426.jpg

話は、マルガラナでの松井と荒木になった。
と、ライさん曰く、

1、松井と荒木は、ングラライの本隊とは少々離れたところで戦った。
2、戦闘が終わった次の日、遺体回収に行って松井の遺体を見つけ持ち帰った。
3、が、荒木の遺体は見つからなかった。

このライさんの証言には、稲川さんも私も驚いた。
その頃のライさんは、16歳。
その頃の年代では、十分に大人であった。
間違う訳がない。
それに、松井、荒木を兄のように慕っていた、ライさん、
思い入れもあっただろうから、記憶違いである訳がない。

荒木の遺体が見つからなかったことは、謎であるが、
納得できるところもある。

何故なら、松井の担当武器は、重機....
荒木の担当武器は、軽機....
ングラライの本隊は、ほとんど小銃だけ....、

戦いは、地の利を得ながら戦う。
武器の役目が違うので、同じ場所で戦う訳がない。
二人は、ングラライの本隊とも離れ、
さらに松井と荒木も、少々離れて戦ったのであろう。

松井の遺体が見つかり、
荒木の遺体が見つからなかったのは、当時のバタバタ感の中では、
どうしようもなかったのかも知れない。
二人は、ングラライの行軍中もずーと離れずに一緒であった。
荒木は、松井のそう遠くない場所で戦死したに違いない。
そう思うだけで、今さら確かめようがない。
ということで、この話は、ライさんから聞き及ぶだけとした。

さて、この松井だが、
稲川さんは、シンガラジャの官舎を巡回警備している彼をよく見たそうだ。
(荒木については、覚えていないという)
松井は、銃器を大切にし、その扱いに長けていたとのこと。
プナルンガン村に松井の写真を提供したのも稲川さんである。
生前の松井を知っていたから、できたことであった。
by yosaku60 | 2015-12-13 09:23 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

素晴らしい陳列技術

バリ人は大雑把である。
だから気楽である。
が、大雑把でないことが二つだけある。

ひとつは、乾いた洗濯物のたたみ方、
形の違った服でも、四つ角を揃え同じ大きさに畳み、
箪笥がない場合、床に重ねておくことになるが、
絵になるほどきれいで、なんら目障りにならない。

んで、もうひとつは、ワルンの商品の陳列である。
素晴らしい陳列技術_d0083068_1044433.jpg

商品の品種別に、ラベルを同じ向きに並べ、
さらに、色彩まで華やかになるように陳列する。
どこのワルンも大概にこのようである。
これは、もはや、バリ人の「技術」である。
素晴らしい陳列技術_d0083068_10472095.jpg

by yosaku60 | 2015-12-12 10:47 | バリ島=ちょっとびっくり | Comments(0)

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