あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



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アプリの実家を訪ねる

昨日は、ガルンガン(お盆)....
バリ人にとっては、お祭りのようなもの。
ごちそうを作って...
子供たちが家に帰って来て...
親類が皆集まって....
そんなガルンガンの日に、アプリの実家に行って来た。
場所は、ムグイ....の森の中の一軒家だった。
アプリの実家を訪ねる_d0083068_10392715.jpg

アリンアリン(門をくぐってすぐにある衝立)がある、本格的なバリの家屋。
アプリの実家を訪ねる_d0083068_10395998.jpg

実家所有のお花畑のアプリ。
アプリの実家を訪ねる_d0083068_10493252.jpg

左から、末妹、パパ、妹、ママ、アプリの5人家族。
アプリの実家を訪ねる_d0083068_1054254.jpg

親類が集まって、賑やか....
アプリの実家を訪ねる_d0083068_1131122.jpg

腹いっぱい、ごちそうを頂き、お土産までもらった。
アプリ、ありがとう。
by yosaku60 | 2015-07-16 11:03 | バリ島=その日のできごと | Comments(0)

今日はガルンガンです

今日はガルンガン(日本でいえば、お盆)です。
人々は、この朝、特別のお祈りに忙しい。
ほとんどの店がシャターをおろし、
道路には、車の往来がなく、閑散としている。
浜の漁船もお祈りの意味の旗をあげている。
今日はガルンガンです_d0083068_9185829.jpg

先日、アプリちゃん(写真)の仕事探しのお世話をした。
今日はガルンガンです_d0083068_9254854.jpg

彼女にとっては、良い仕事場だったらしく、
そのお礼に、今日のガルンガンに実家に呼ばれている。
彼女の実家は、ここから一時間半のところ....そして、
その近くに、知り合いのバリ人医師が開いた老人療養施設がある。
その二カ所を訪れるべく、今から行ってきま~す。
by yosaku60 | 2015-07-15 09:27 | バリ島=慣習・伝統 | Comments(0)

サム部落に行く(最終回)

Pure村からCibulik村に抜ける道....
木々が倒れて、道路をふさいでいた。
通れない、元来た道に戻れ.....って、そりゃないよ。
サム部落に行く(最終回)_d0083068_12333092.jpg

村人がかけつけてくれて、木を切断し、車の通る道を作ってくれた。
最後まで、ちょっとドキドキしたが、サム部落の探検、これで終わり。

エヴィ、ご苦労様。
我々夫婦だけでは、こんな無茶な探検は不可能でした。
お礼という大げさなものではないけど、
昼食はちょっと張り込んで、Bukit Jambut の眺望レストランで....
サム部落に行く(最終回)_d0083068_12411380.jpg

絶景が売りのこのレストラン、見えるのは、水田ではなく、お花畑。
サム部落に行く(最終回)_d0083068_12463387.jpg

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by yosaku60 | 2015-07-14 12:43 | バリ島での独立戦争 | Comments(2)

サム部落に行く(その5)

サム部落の隣村のPule村は、
太陽の陽が十分にそそぐ台地にあった。
前を行くご婦人の右の建物....
サム部落に行く(その5)_d0083068_12124342.jpg

の手前のブロック造りの小さな小屋の壁に、
こんな銘板が掲げられていた。
「この水の供給施設は、名古屋のロータリークラブの援助による」
との銘板である。
サム部落に行く(その5)_d0083068_12144137.jpg

小屋の裏にまわってみると、牛小屋があった。
サム部落に行く(その5)_d0083068_1226121.jpg

牛小屋の後ろには、立派な家屋が並んでいた。
そこの住民に、日本人がここに来ることがありますか....
と、聞いてみたが、それはないとのこと。
多分、ロータリクラブからの寄付金を受け取った、
カラガッサム県が、独自の判断で、ここに給水場を作ったのだろう。
日本の援助が確実に活きている、嬉しいことだ。
by yosaku60 | 2015-07-14 12:23 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

サム部落に行く(その4)

4人に、もっとも知りたかったことを聞いてみた。

ここにングラライ軍が滞在していたことを知っていますか。
と、4人全員が大きく頷いて、「知っている」と言う。

これで充分であった。

というのは....
バリ人の多くは、歴史に無頓着である。
ングラライ軍が訪れた地で、その足跡を住民に尋ねると、
訪れたことを知らないばかりか、
独立戦争そのものを知らない人もいるのだ。

そういう中で、
ここにいる全員が即座に、
ングラライ軍の滞在を応えてくれたのだ。
ってことは、部落民にとって「重要な昔」だということだ。

で、オレにとっては、
4人全員が大きく頷いたことで、充分であった。
サム部落に来た価値があった。


続いて聞いてみた。

サム部落には家が何軒あるのですか?
「何軒あるか知らない、が130人いる」
ええ、130人だけですか?
「家長が130人ということです」

そうなんだ。
ここで、初めてサム村は村でなく、
一つのバンジャール(村落)ということが掴めた。

バンジャールでは、頭数は家長数で数えるからだ。
バリの家族制度だが、
子供が独立したからと言って、その家を出てゆくとは限らない。
その場合、家がひとつで家長が二人となる。

さて、次に聞きたいことを聞いてみた。

ングラライ軍は、どの辺りに滞在したのですか?
と、「もう少し先だ」という。

それを聞き、その「もうひとつ先」を探しに、この場を離れた….
ことがいけなかった(笑)。
もっと、この人たちを取材すべきであった。

というのは、
「もうひとつ先」を探して悪路を進むに、
悪路との格闘が壮絶すぎて、周囲を見る余裕などないのだ。

どれだけ走ったろうか、
悪路が過ぎ周りが開けた場所に出て来たが、
この場所、もう、隣のPure村だった。
サム部落に行く(その4)_d0083068_11444343.jpg

車を走らせることに一生懸命になりすぎて、
サム部落を走り抜けてしまったのだった。

要するに、サム部落は、
北は行き止まり、南は谷、東も西も悪路....の狭間にあったのだ。
何人かの人とすれ違ったが、取材をしないままで終わった。

通り抜けてしまい、その地に佇んでの思考を逃したが、
振り返って思う「サム部落」は、次のとおりであった。

1、サム部落に平地(広場)はない。
300名のングラライ軍は、一カ所に集まるスペースがない。
多分、5人、10人と、ばらばらに固まってたむろしていたのだろう。

2、蚤退治のため、服を脱いで太陽にさらした、
と書いているが、「木陰(こかげ)」が多すぎて、
太陽の陽がまともに当らない、木を登って干したのだろうか。

3、途中で、水瓶を運ぶバイクに出会った。
どこから汲んできたのだろう。
サム部落には、昔も水はなかったが、今も同じくないようだ。
水がないので水田がない。
太陽の光が地上に届かないので畑も少ない。
行き止まりの地であり、交通の通過点(要所)ではない。
どうして、こういうところに昔も今も人が住んでるのだろう。

4、ングラライ軍(300名)が去った日の翌日、
300名のオランダ軍がこの地に攻めて来た。
小さな部落に押し寄せた、この混雑さ….
荒ましいものだったに違いない。

5、オランダ軍は、300名もの兵隊を一日で集めて攻めて来た。
当時のオランダ軍は末端組織まで、すでに熟成していたということ。
ングラライ軍のゲリラ活動の困難さが思い知れる。
by yosaku60 | 2015-07-14 11:45 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

サム部落に行く(その3)

ワルンのおばさんに尋ねる。

ここからサムに行けますか?
「行けるよ、あっちの方向だよ」
と、アグン山の左の丘の向こうを指さす。

どう行けばいいのですか?
「知らない、私は行ったことがない」

ここから2キロでしょう、行ったことがないのですか?
「近いことは知ってるよ、だけど行ったことがない」

でも、行けるのでしょう?
「ああ、行けるよ、男衆で行った人がいるよ」

車が通れるの?
「ああ、通れるらしいよ」

......

ん、まあ、行くしかない、と車を走らせた。
しばらく行くと、こんな立派な家があった。
家の前で休んでいる人に尋ねた。
サム部落に行く(その3)_d0083068_12371734.jpg

サムに行けますか?
「ああ、行けるよ、突き当りを左に行けば良い」
「そのあと、橋を渡ったら、別れ道がある」
「良い道と悪い道があるが、悪い道の方に進め」

ええ、悪い道に行くのですか?
「そう、良い道を行けば、元に戻ってくるだけだ」

なんとなく、先が思いやられる。
でも、行くしかない。
運転はクルンクンを過ぎてからずーとエヴィに任せていた。
エヴィ、行くしかない.....と、オレはエヴィに発破をかけた。

んで、それからが大変。
悪い道は、過去に舗装されたことのない道だった。
獣道を少し広げただけ、草混じりの赤土が露出しており、
その赤土のところどころに、でっかい穴が空いて、
右のタイヤが、そのでっかい穴にはまったと思ったら、
次は、左のタイヤが次のでっかい穴にはまり、
常時どちらかに傾きながらを走ることに....

余りにも揺れるので、写真も撮れない。
サム部落......もしこの先にあるとすれば、
まさに、陸の孤島だ。

どれだけ走っただろうか。
長い時間じゃないが、大変な時間だった。

突然に、道路が開け、
右の崖の下に、家があり、
道を隔てて、左の崖の下に、こういう人たちがいた。
ここはサムですか?
「そうだよ」
おお!とうとう、サム部落に来たのだ!!
サム部落に行く(その3)_d0083068_12545980.jpg

by yosaku60 | 2015-07-13 12:55 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

サム部落に行く(その2))

で、Pemeteran村への脇道を探しながら、本通りを走るも、
google マップに描かれた場所に、その脇道はない。

車を降り、付近の住民に聞くと、
「Waringin寺院の横に小さな脇道がある」という。
googleマップにも地図帳にも描かれていない処。

バリの山道の情報、あてにならない。
こんな調子では、サム部落へは行けないかも....

不安を感じながら、Waringin寺院を探す。
と、あった!
寺院の横を斜めに入る、ちいちゃな脇道が....
で、しばらく走ると、こんな道に(写真は車窓より)。
先行きが安心できる程度の道だ(笑)。
でも、車の往来がない。
サム部落に行く(その2))_d0083068_1029248.jpg

ところどころに民家が見えだした。
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Pemeteran村に入ったようだ。
とあるワルンの前で車を止める。
アグン山を背景にかなり大きな広場がある。
ワルンのおばさんが言うには、
ングラライ軍とオランダ軍との戦い跡を広場にして残した、とのこと。
そうか、ここが Pemeteranの戦いの古戦場 なのか。
来たかった場所のひとつ。
意外と簡単に探せた....感激だ!
サム部落に行く(その2))_d0083068_10341123.jpg

広場の横にモニュメントがあった。
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1946年6月20日に、この地で戦いがあったことが書かれている。
サム部落に行く(その2))_d0083068_10424189.jpg

ングラライ軍から出た戦死者(一人)の慰霊碑。
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その戦死者の名が刻まれていた。
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by yosaku60 | 2015-07-13 10:46 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

サム部落に行く(その1)

サム村に行ってきた。
行ってわかったことだが、サムは村ではなかった。
村の単位以下のひとつのバンジャールであり、
今後は、それにふさわしい呼び方として、「サム部落」と呼びたい。

さて、そんなサム部落に行ってきた訳だが、
行く前に道路事情を調査したところ、
サム部落に行くには、

A、本通りからPemeteran村に行き、
  Pemeteran村から山と谷を越えサム部落に行く
B、本通りからブサキ寺院の方に右折し、
  その途中のCibulik村から左折し、Pule村に至り、
  Pule村から谷を渡りサム部落に行く。

の二通りの道がある...が、

8年前に発行された「地図帳」と
Googleマップの道路が一致せず、

「地図帳」には、Aの道のピンクの処に橋がなく、
googoleマップには、Bの道のピンクの処に橋がなく、

どちらを採用するか、
間違えれば、サム部落に行けないことになるのだ。

   黒の破線は「地図帳」
   青の破線は「Google マップ」
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で、考えた末、もし、サム部落に行けなくとも、
pemeteran村の戦いの跡を見てみたいと、
googoleマップの方を信用して、でかけることとした。
by yosaku60 | 2015-07-12 17:13 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

誰に聞いても「よく釣れる」という

最近のサヌールの海岸、釣り人がいっぱい。
ここなんぞ、数えてみると、23人。
人の字が升目にきっちり埋められている。
行間すらない感じ....バリ人は行儀が良い(笑)。
誰に聞いても「よく釣れる」という_d0083068_8543259.jpg

釣り人の誰に聞いても「良く釣れると」という。
釣れるのは、タワと呼ばれる小魚。
ゴレン(揚げる)にすると美味しいという。
by yosaku60 | 2015-07-11 09:00 | バリ島=その日のできごと | Comments(0)

明日、サム村(Samuh)に行ってきます。

明日、「サム村」探検に出かけます。
ングラライ軍の長征の調査の最初がなぜにサム村なのか。

インドネシア独立戦争のうちのひとつである、
バリ島でのングラライ中佐のゲリラ活動.........

ゲリラ戦というのは、所在を明かさず「つついては逃げる」
と敵に嫌がらせをし、住民の奮起を待つ戦法を言う。

ングラライ軍は、サム村に9日間滞在している。
一カ所にこれほど、滞在したのはサム村だけです。

8か月間に及ぶ緊張の連続のングラライのゲリラ活動、
その中で、唯一、ほっと気を許したのが、
サム村での、この9日間だった......
ほぼ70年前のことですが、もしや、
「ほっとした」足跡が残っているかも知れません。
それを探しに行くのです。

サム村に行く準備として、
サム村関連の情報を掲載します。
固くなった私の頭の整理の意味もあります。

まずは、2014年9月18日に、
ブログで書いた情報の再掲載から....

明日、サム村(Samuh)に行ってきます。_d0083068_1334182.jpg


ランディー村で二つの特別部隊を作り、それらと分かれたングラライは、
翌日の6月20日、5キロ東方のプムテラン村(pemuteran)に着いた。

この頃のオランダ軍は、
バリ島の全ての村に分隊を配置するほどに拡大していた。
プムトゥランはアグン山の西方の裾野にある小さな村であったが、
この村にもオランダ軍の分隊があった。

ここでの戦いは、オランダ軍が少数であったことで、
ングラライ軍は勝利を収めた。

しかし、長居が出来る状態ではなく、
ングラライは、軍を東に2キロ転進させ、サム村(samuh)に着いた。

サム村の村人は、オランダ軍に通じておらず、
ングラライは、サム村でケガ人を治療させることした。
サム村では、9日間の休養をとり、軍を再編成し、
6月29日、タナアロンの地に向かった。

ングラライがサム村を離れた翌日の6月30日、
300名からなるオランダ軍はサム村に攻めて来た。
サム村はもぬけの殻であったが、
怒ったオランダ軍はサム村の住民を拷問にかけ、村の家々を焼き払った。

.................

サム村については、ングラライ軍の参謀であった、グスティ. ピンダ氏が
さらに詳しく、書いております。



Gusti Ngurah Pindha の証言
(東京在住の稲川義郎様の翻訳より抜粋)

サム村にいた間、われわれ指揮官の間ではいろいろな戸惑いがあった。
その理由は、ジャワからの支援部隊のバリ島上陸がなく、武器と弾薬の補給も入手できなかったからである。 入手できたのは、紙面の便りだけであった。
我々がバリ島の東の方に転進したのは、敵を東に呼び寄せ、ジャワ支援隊のバリ島の西部上陸を助けるためであったが、それも効果がなかったということである。
ある日、ライ中佐はわれわれ指揮官を集め、次を会議した。

議案1; このまま東へ進むべきか、それとも西へもどるべきか
議案2; 部隊を小さく分散するか、それとも今のままにしておくか

西に戻るべきという根拠は、
もう我々は東部地域の大分遠くまで活動を展開してしまっている。 一方、ジャワからの支援部隊がバリ島の海岸に上陸できなかったのは、われわれの戦略が間違っていたからではなかろうか。それを更に東へ進めば、もっと防衛が困難になるのではなかろうか。それに東の地域は貧困地区で、大部分の住民をわれわれはまだ把握できないでいる。だから我々は西に戻るべきである。

一方、このまま東へ進むべきという根拠は、
われわれが西へ進めば、敵は全軍を西地域に動員してくるだろう。西地域の哨戒所も強化され、ジャワからの応援部隊を更に困らすことになる。応援部隊の派遣はもう決定していて、現在は、ただその時期をみている状況である。 さらに、これから東へ進んでカラガッサムの住民の闘争心を奮い立たせる目的もある。もし今、われわれが彼らの闘争心を奮い立たせておかなければ、彼らはバリ島での独立闘争を信用してくれなくなるおそれがある。そうなれば、敵に降参してしまい、それを取り戻すことはできなくなるであろう。

これらふたつの意見を聞き、ライ中佐は、どちらの提案を採択するか、長いこと決断を出さず、黙って考えていた。
この会議は、二軒の家の東側の家のベランダで行われ、約10人が出席したが、私は全員を覚えておらず、記憶しているのは、
Wisnu少佐 Soegianyar大尉 Broto氏 Wijana Mataram Tjokorda Ngurah Maudita 、
そして、カラガッサムの青年戦士達だった。

沈黙の後、バンリの指揮官だったと記憶するが、彼がみた昨夜の夢を語りだした。
夢の中で髪の毛も服装も真っ白な老人が出て来て、次のように言われた。
「子供たちよ、西に向かったらあまりにも危険が多すぎる。ここを去るなら東の方に進みなさい」
この様に言って、老人は消えたとのこと。
この話を聞いて、東へ行くことを主張していたものも、何も言わなくなった。

ライ中佐はこの話を否定せず、更に皆に質問した。
「どうでしょう、みなさん、われわれは東に行くべきか戻るべきか」
Wisnu少佐が意見を述べた。
「食料を調達できるならば、東へ進むべきと思います」
すかさず、カラガッサム指揮官が応答した。
「その点については、われわれが保証します」
ライ中佐は、決断を下した。
「よろしい、われわれは東に進むことを決定する」
「理由は、われわれはバリ島全域の住民に闘争心を高めてもらわねばならない」
「それに東の住民は、前々から、われわれに来て欲しいと願っているからだ」

ということで、東に進むことが決定されたが、西に派遣した連絡員からの連絡が届くまで出発できず、更に約一週間、サム村にとどまった。
一か所での滞在が長くなり、食糧の支援が日が経つにつれ苦しくなった。
ある時は朝、ある時は昼、ある時は夜、と食料の届くのが一定せず、みながイライラし出して、かといって、誰にもあたることができず、しまいには、食糧を運んでくる者たちを「本当に独立闘争を支援する気があるか」と怒る者がでてきた。

と、食糧を運んでくる者から、食糧を運ぶことがどれだけ大変であるか、次のような説明があった。

元々不足している食料、その中から工面して食料を集め、20kmの道のりを谷を通り山を越えて、その途中で敵に妨害されるかも知れないところを徒歩で運んでくるのだから、それは大変な作業である。彼らは敵からの妨害を避けるため、まだ人が通ったことのない道、即ち、数百メートルもの深さの谷や川をうまく利用して、彼らの村からサム村に来る間、敵のパトロールから隠れて危険をおかして運んでくる。

さらに、次のことも説明され、怒った者も黙ってしまった。
食料支援につき、A.A Maudita やA.A,Gde Ngurah からは、少なからぬ援助を受けている。
彼らは100ヘクタールの土地の収穫物の全てをこの独立闘争に捧げてくれている。
だからこそ、これだけの人数の闘争会議司令部の本隊がこれだけ長くサム村に居れる。


さて、われわれが、サム村に滞在している期間中、しなければならない仕事があった。
それは、われわれの衣服に住み着いた蚤退治である。
その数はものすごく、何としても全部退治しなければならないのだが、その卵は非常に小さく、衣服をお湯でゆでるか焼かなければ絶滅は不可能だった。一番沢山この蚤を養っていたのは、ジャワからの応援部隊の海軍隊のMarkadi大尉配下の皆さんで、それは彼らの制服がラシャや厚手のウールで作られていたため、蚤が自分の巣を作るのに一番適していたからである。
多くの隊員は、その痒さに堪えかねて服を脱ぎ、太陽の光の下にそれを干していた。だからサム村の松林には沢山のジャワ原人が出現しているようだった。

もうひとつの大変な仕事と言えば、水探しだった。
水源はわれわれの村から3km離れていて、その水を運ぶ道具は釜とか土製の洗面器、又は竹筒しかなかった。 一番実用的でないのは土製の洗面器であり、水をいっぱい入れ、そのあと3kmもの道を上ったり下りたりして運んで来れば、当然こぼれてしまうのは当たり前で、良くいって、戻って来た時に半分あればいい方で、その代わり運んだものは水浸しになっていた。


ある時、何人かの隊員が竹筒を持って東南の方向にある少し離れた場所の泉に水を取りに行った。 ついでにその泉で水浴をして帰途についた。道を歩いている時、谷の東から埃が立ち上るのを見てびっくりし、よく見ると、約半ケ分隊のオランダ兵達が懸命に走って逃げていく姿を発見した。 おそらくオランダ兵達は、こちらより先に気付いたらしく、われわれ隊員が担いでいた竹筒を彼らが最も恐れていた、バズーカ砲と勘違いした様である。 
この敵の姿を見た隊員達は大急ぎで戻り、このことを指揮官に報告した。

この報告を受けたライ中佐は、われわれの存在が敵に知れてしまった。追って敵は、数を動員して我々を包囲してくるであろう。至急に移動すべきである、と結論付けた。

その夜、われわれは、とても好きであったサム村を離れ、アグン山の東南のふもとにあるタナアロンを目指した。タナアロンまでは直線距離で35kmであるが、歩く距離は60kmである。
翌早朝、我々はサム村の東南約7kmのプラグデ村に到着した。
そこで、プナガ村やランディ村から運ばれてくる予定の食料を待った。

一時間ほど経ったころ、男女約25名ほどの行列がこちらに向かって近づいてきた。男は肩にご飯がいっぱい詰まった籠を担ぎ、女性はご飯やお菜の入った籠を頭上にのせていた。彼らは自分たちの村から約20kmの道のりを歩いて来たので体中汗びっしょりになっていた。しかも、その道は山道で数百メートルの深さの谷を約10カ所上ったり下りたりして来たのである。
私が特に印象に残ったのは、一人の婦人がもう子供が生まれそうな大きな腹をかかえて、この一行に参加していたことである。彼女はご飯のいっぱい入った籠を頭にのせ、汗びっしょりで大きなお腹を被った上衣は裾までぬれていた。彼女は頭の籠を下すのを手伝ってくださいと頼み、頭の下に置いていたタオルを頭から取ると汗を拭きだした。ため息をついているのだろうか? そうではなかった。 むしろ、それより嬉しがっている様にみえた。私は彼女を可哀想に思っていたが、彼女にはそんな私の気持ちを伝える必要などなかった。
彼ら彼女らの犠牲は、ここに食料を運んできただけにとどまらない。帰りの道でも死を覚悟しなければならない。オランダ兵達は常に道を遮断して通行人を検査し、それがゲリラ部隊の本部がある方向から来たとなると、更にきつい検査をし、もし彼らが独立闘争を助けていると強い疑念がある場合、遠慮なくその住民を射殺してしまうからである。

実は、この一行も、そのような不幸な運命になってしまった。
道路を封鎖され、プナガ村のナンムカルは、降参しなかったため、射殺されてしまったのだ。後の者も拷問を受ける結果となった。 その拷問だが、バンリのジョコルダの話によると、一週間、何も食べさせてもらえなかったという。ただ、あのお腹の大きかった婦人は無事に子供ができたそうで、それだけが救いであった。
夕方の5時ごろ、我々は東に向けて出発したが、どの地域を通って、どの村を抜けたのかを私はよく覚えていない。 夜昼をかけての強行軍だったので皆疲れて居眠りしながら歩いたからだ。 行軍の中で一番効率的な眠り方は、交代交代で誰かを前に歩かせ、後の者は前の者の肩や腰の布を握り歩きながら眠るのである。 熟睡はできないが、少しでもこのように眠ると居眠りの防止にはなる。………後述。

.......

さて、こんなサム村へ明日出かけるのだが、
なにしろ、密林の中の猫の額のような平地にあるサム村。
再度、地図を描いてみると、こういうところ。
明日、サム村(Samuh)に行ってきます。_d0083068_13393179.jpg

果たして、車で行けるのかどうか、
行ってみなければわかりません。
まずは、トライあるのみ....です。
by yosaku60 | 2015-07-10 13:40 | バリ島での独立戦争 | Comments(2)

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