昨日のブログに書いた.....
スクンプルの戦い、パンクンバンカの戦い、ランプの戦い、
の三つを含め、これから書く、ボンの戦い~ランデー村に着く、
までは、2週間という短期間にあったことです。
書くほうも忙しいのですから、
読むみなさんも忙しいと思います(笑)。
読みやすいように(といながら自分の頭を整理するためなんだけど.....)
この2週間だけのングラライの移動を図に描いてみました。

この図を描きながら思いました。
ングラライの移動は、殆どが東西方向です。
バリ島は、南北方向には道があるのですが、
東西方向には道がほとんどありません。
東西方向の行進は深い谷を降りたり登ったりを繰り返すだけです。
そうした道なき道を400名もの兵隊が、
しかもゲリラですから極力秘密裏に行進しなければなりません。
しかも、何度も書いてきたように、
400名の中にもオランダ軍のスパイがいるかもしれないのです。
通報されても追いつかれないように常時移動し続けなければならないのです。
過酷な行進であったろうと思われます。
4、ボンの戦い
バリ軍がランプ村にいることが分かったボンのオランダ軍は、
プラガから援軍を呼び、ボンの地でングラライ軍との決戦を挑んだ。
ングラライもそれ以上逃げることができず、
ボンの地での決戦を受けることになった。
戦いを前にしてングラライ軍は「ボンのお寺(写真下)」で必勝を祈願した。
(註)お寺の奥は深い谷で、手前が小高い丘になっていますが、
この小高い丘を境に戦闘があったのです。

ングラライは、オランダ軍よりも高台に陣地を構えることができた。
1946年6月13日の朝の9時に戦いが始まった。
戦いが始まると、オランダ軍はプラガの地からどんどんと援軍が来て、
ングラライ軍は、2キロ南のラワ村(lawak)まで逃げた。
さらに、翌日は東へと逃亡し山と谷を昇り降りし、
6月15日には、5キロ先のマニリュー村(manik liyu)に落ち着いた。
マニリュー村に入った頃のングラライ軍は食料が乏しくなっていた。
ングラライは、もう一度部隊を分けることにした。
武器を持っていない者は田舎に帰させ、武器を持つ者のみに部隊を絞った。
ングラライ軍として残った者は、約400名であった。
この400名を率いて、ングラライはアグン山に向かった。
(特別隊を作る)
1946年6月19日、バトル湖より南6キロのランデー村(landh)に着いた。
ランデー村で、ニョマンブレレン(平良定三)より、
キンタマニー付近のオランダ軍を襲うための特別隊を作るよう提案があり、
ングラライは、それを受け入れ、
マデプグッを隊長とするものと、アナンラムリーを隊長とするものの、
二つの特別隊を作った。
特別隊には、日本人が多くいた。
特別隊のうちのアナンラムリー隊は、
ブレレンのパキサン村に向かう途中でオランダ軍に見つかり、
一人の日本人が戦死した。
(註)戦死した日本人の名前は書かれていないが、美馬芳夫のことだと思う。
以上が本に書かれた原文どおりの意訳であるが、
この特別隊が作られた部分の記述が、
ニョマンブレレン(平良定三)自らが書いた内容と
少々違うところがあり、ブログにどのように書こうか迷っている。
両方を併記することにしたい。
(原文)
Menurut I Nyoman Buleleng(jepang),
atas bisikan dirinyalah sehingga akhirnya
Gusti Ngurah Rai membentuk pasukan tersebut.
Pasukan Istimewa ini sebagian besar
adalah bekas prajurit jepang
yang menggabungkan diri dengan pemuda pejuang.
……原文意訳…..
ニョーマンブレレンの提案により、ングラライは特殊部隊を作ることを了承した。
その特殊部隊には、元日本兵が多くいた。
(平良定三氏証言)
オランダ軍がキンタマニー地区に集結する様子がありました。
それに抗するため、私は隊長に
特別遊撃隊をつくってくれ、と具申しました。
又、その遊撃隊は日本人を主としてやらせて下さい。
とも付け加えました。
それに対してオナガイ隊長は、
それは出来ない。
私が貴方がたに銃を持って戦ってくれとは思っていない。
日本人が居るということだけで士気があがり、
敵の襲撃をおさえることが出来ます。
貴方がたが前線に出てしまったら、ここがからっぽになります。
敵の密偵がこちらに入っていることは確実です。
今、貴方がたが出撃すれば、敵に直ぐその情報が入ります。
それだけはひかえてもらいたい。
といいました。
しかし、私は食い下がりました。
オランダ軍が終結してしまうと、わが本隊が危険です。
敵を混乱させる行動が必要で急を要します。
オナガイ隊長は、
よし、そうであるなら貴方の言うことを受けましょう。
しかし、その遊撃隊の隊長は、
必ずインドネシアの青年でなければいけない。
独立はインドネシアのためだから、民族精神として、
インドネシアの青年を隊長に選んでくれなければならない。
というのです。
オナガイ隊長もしっかりした考えをもった立派な軍人でした。
結局は、隊長にプラプティという青年を選びました。
日本が作ったベタの小団長をしていた男でした。
このプラプティの元、我々の推薦した若者を加え、
約18名の特別遊撃隊を作りました。
主としてキンタマニー高原近くでゲリラ戦を行いました。
……. 平良定三氏証言終わる…..
なお、
アナンラムリー隊はブレレンのパキサン村に向かうが、
途中でオランダ軍に見つかり、一人の日本人が戦死した。
との記述があり、私は(註)として、その戦死した日本人が
美馬芳夫だと思われると書いた。
その根拠だが、美馬芳夫が戦死したクランディス村(Kelandis)は、
パキサン村(Pakisan)より3キロ南西の間近の村だからだ。
平良定三の次の証言とも一致する。
(曰く)
部隊の転進中、
シンガラジャのクランディスの民家で仮営している時、
オランダ軍に包囲されました。
我が軍の十倍の兵力で寝込みを集中攻撃されたのですから、
小銃の応戦だけでは、ジリ貧のままで、
手榴弾を投げ込まれれば全滅というところでした。
ところが、その時、美馬芳夫海軍二曹(徳島県支渋野町出身)が
小銃を乱射しながら、戸口から飛び出したのです。
つまり、陽動作戦というのでしょうか。
オランダ軍の銃火が美馬兵曹に集中した隙に、
我々は九死に一生を得て脱出しました。
美馬兵曹は、そのまま斜面を転がるように谷川に姿を消しました。
オランダ軍は、美馬兵曹を追って
谷底の川面に自動小銃を満遍なく打ち込んだ後、
止めを刺したものと引揚げようとした瞬間、
谷底からの銃声一発でオランダ軍の将校は谷底に転落しました。
それを見て、オランダの夜襲部隊は散を乱して撤収しました。