日本兵がインドネシア独立戦争に参加するということは、
許された行為ではなく、そのためには、日本軍から離脱しなければならなかった。
いわゆる「脱走兵」にならなければならなかった。
覚悟して日本軍を離脱したものの、自分が「脱走兵」であるとの過去に、
独立戦争を生き残った後、全ての残留日本兵が悩むことになる。
バリ島の残留日本兵である、平良定三氏が
1993年4月、NHKラジオ「アジアに生きる」の番組の中で次のように語っている。
(証言) 平良定三
私たちは、日本の厚生省の帳簿には脱走兵と記載されている筈です。
脱走兵としてなんですよ。
そのことは領事館から聞いたのですが、その時丁度おられた某博士が、
貴方たちは日本の政府から脱走兵として見られているよ、と言うのです。
終戦になって、軍紀が乱れてきて、私達は部隊から離れました。
大東亜戦争の目的にそって行動したと思っています。
しかしながら確かに脱走兵です。
国籍の問題が浮上する
「脱走兵」とは、汚名です。
汚名であるがゆえに、問題が多くあった。
まず最初に問題となったのは、国籍のことであった。
脱走であったため、パスポートは勿論なんらの身分証明書も持っていない。
残留兵の多くは、独立戦争時イ国軍に在籍していたことそのものが、
すでにイ国民、イ国籍人として受け入れられていると安易に考えていた。
確かに国籍証明書を待たぬまま、地域社会からイ国民として認められ、
支障なく暮らせる人もいたが、
他地域に移動する場合や大きな都市に住む場合は、
何かにつけて国籍証明書が必要となった。
特に1957年になると、ジャカルタ居住在留者は外人税が徴収されるようになった。
それは本人だけではなく、たとえ現地の妻からその子供までが対象に徴収された。
一般大衆からはインドネシア人として受け入れられているのに、
このような扱いを受けるのは問題があると、
残留日本兵は、在郷軍人省を通じて国籍申請手続きをした。
独立戦争後8年を経っての申請であった。
二人の親日家を経てイ国籍が付与される
残留日本兵の国籍申請を受けて、
陸軍参謀長の名において次の仮国籍証明書が発給された。
.........証明書.........
添付記載の者達は、
インドネシア独立戦争を戦ったインドネシア国軍の元軍人であることを証明する。
彼らの法的身分は当局において尚処理中である。
本件関係官庁のご了承を得たく、又、正式決定のある迄の間、
インドネシア国人同様に扱われたし。
ジャカルタ 1957年8月31日
陸軍参謀長の名において
陸軍参謀次長 准将 ガトットスブロト
この仮証明書は、イ国籍を申請した者全員に発給されたもので、その意義は誠に大であった。
残留者を准イ国人として取り扱うということで、彼らにとって、慈雨に等しく蘇生の思いであった。但し、当時の政府機関関係者の中には必ずしも好意を持っている人ばかりでなく、この仮国籍証明書は、ガトットスブロト個人の好意で強引に認めさせたものであった。
したがって、この仮国籍証明書が本物の国籍証明書に変わるまでには、歳月を必要とした。
なかなか決定されない発給を一挙に解決したのは、スカルノ大統領であった。
1963年12月18日、
インドネシア共和国大統領スカルノ署名による、
「国籍に関するインドネシア大統領決定」と記された書類が発行された。
大統領マークの印されたものであった。
一名の却下者もなく申請者の全員に発給された。
残留者一同スカルノ大統領の措置に感激し、
それまでの苦労が一挙に報いられた想いであった。
この大統領決定書発給については、次のような裏話がある。
1963年7月、当時の駐イ大使・古内閣下が
アチェ州のテケゴンの紙・パルプ工場建設予定地を視察された際、
お供した残留日本兵の山梨茂氏に「残留者の当面の問題」を尋ねた。
山梨氏は残留者の国籍の問題が最大の関心事である旨答えられたという。
その後、古内大使はスカルノ大統領の秘書官を通じ、大統領に早期善処をお願いした。
というものであった。
ではあるが、スカルノ大統領が親日家であった為の発給処置であった、
ことは間違いのないことである。
軍人恩給の受給
インドネシアの国からは国籍証明書が出たが、日本国の方は難しかった。
「脱走兵」の汚名がなかなか消えないのである。
残留日本兵自らが汚名を消す為の運動を始めたのは、戦後35年経ってからであった。
それまでは、生きてゆくのに忙しく、そういう運動ができなかったということであろう。
「日本国」が約束したことを守らなかったので、
「日本人の自分」が代わりに約束を守ったとの自負を持つ残留日本兵は、
日本国が軍人恩給を払うべきと訴えたのである。
お金が欲しいわけではなかった。
日本軍人と認められて恩給が出るということであれば、
「脱走兵」ではなくなるという意味があったからだ。
そうした運動を始めたのは1982年、
申請資格者全員に恩給が支給されたのは、1993年であった。
種々の問題が解決されるのに10年の歳月を要したということである。
軍人恩給の金額そのものは数万円たらずという、少ない額であったが、
「脱走兵」の汚名が消えたとして感涙する者が多かった。
そのひとり、残留日本兵の田中年男の証言を紹介する。
「金額は少ないが、この事実により元日本軍人としての名誉回復できたことは喜びにたえません。これで祖国の亡父母等先祖に対して、日本軍人としての義務を果たしたことを立証できると共に、当地帰化した私共インドネシア共和国の二世・三世に対しても、軍人当時の父親を理解してもらえることは喜びにたえません。」
生存者全員に大使表彰がなされる
軍人恩給が出たといっても全員ではありませんでした。
ある規則のもとで、該当しない者もいました。
ただ、軍人恩給が出たということは、
過去の逃亡にそれなりの理由あった、と日本国が由と認めたということです。
関係他所からも評価されやすくなりました。
そういう意味もあったと思います。
1995年8月25日、その時期に生存していた残留元日本兵69名全員に、
日本国全権大使から表彰されることが決まったのです。
私は、この「大使表彰」をもって、
残留日本兵の過去の汚名が完全に消えたと受け止めております。
さらに、そればかりでなく名誉も獲得したものと思っています。
残留日本兵にとっては、本当に良いことでした。
乙戸昇が払ってきた努力の集大成が、この大使表彰でした。
そんな大使表彰を少々詳しく書いてみたく思います。
大使公邸で行われた表彰式の模様
当日は表彰される残留元日本兵69名中、36名が出席した。
式場の広間正面には金びょうぶが配置され、金びょうぶの右側には、
ウマル・ウィラハディ・クスマ元副大統領、ウマル・ヤディ元アセアン事務局長、
ウィヨゴ元ジャカルタ特別市長などの来賓の方々が、
左側には渡辺大使ご夫妻はじめ大使館員の方々が着席された。
そして金びょうぶ前の広間中央には、
椅子が2個づつ列をなして並べられ、受賞者夫妻あるいはお子様と共に着席された。
10時5分過ぎ司会者によって、表彰式開催が告げられました。
(中略)
さて、乾杯となって出席者全員が祝杯を手にし、
ウマル・ウィラハディ・クスマ元副大統領の音頭で乾杯をしました。
乾杯の後、元副大統領はマイクの前に立ち、
独立戦争時に共に戦った残留日本兵のことを述べられ、
多くの残留日本兵の功績を称えられました。
その元大統領の挨拶を
乙戸は、予期せぬパパ・ウマルの称賛に残留日本人は感激し、
且つ参列者全員に深い感銘を与えたとし、
「聴きとめによるため、誤りがありましたらお詫びいたします」と、
月報で次のように紹介記事を書いている。
受賞者を代表しての石井正治氏の挨拶と共に、ここに転記する。
ウマル・ウィラハディ・クスマ元副大統領のご挨拶要旨
大使閣下並びにご出席の皆様、
皆様のご了承を得て、私より一言ご挨拶申し上げたいと存じます。
始めに、インドネシア政府および国民がインドネシア共和国独立50周年を記念する行事を行う中、ジャカルタにおいて日本政府が有意義な式典を挙行されたことに対し敬意を表します。
この日本政府の行為は、1945年8月17日の独立宣言を擁護し尊重すべくインドネシア民族が行った激しい闘争、並びにパンチャシラと1945年憲法に基づく公平を反映した社会および制度の建設を目指す開発を実現しようとする決意に対する、日本政府並びに国民の理解と関心が示されたものです。
この様な観点から、ここに参集しました私たちは、恒久の平和を反映した幸福な環境を創造する努力を行うパートナーとして、新しい世紀を共に迎えようとする両国国民の希望を確かにするために、ここに式典を遂行されましたことが、インドネシア及び日本においても伝えられることと確信致しております。
ご列席の皆様
只今、私たちは日本政府から70名の日本出身インドネシア国民及び1名の日本国籍日本人に対する表彰式に立会いました。
彼等は50年以上に亘りインドネシアと日本の相互理解と友好関係増進に寄与されました。
更には、この大多数の方は、われわれ民族の独立闘争に参加された方であります。
ここに参加した私達インドネシア国民は、皆様方の功績に対し敬意と感謝を申しあげます。
本日は71名の内37名しかここに出席できませんでした。
欠席された方に対し、私達の気持を直接お伝え出来ませんことはまことに残念なことです。
私個人、西部ジャワの私の指揮下にあったシリワンギ部隊の中に数名の日本人兵士がおり、武器を手にオランダに対する戦闘に加わった彼らの真剣さと勇敢さを目の当たりにした経験があります。 組織的に彼らは私の部隊の中で完全に同化し、他のインドネシア兵士と区別できなくなりました。 私は彼らの他の兵士との親しい交流を観察し、戦闘を含む任務及び上官の命令を果たす規律を見てからは、インドネシア共和国独立のため真剣に戦う部隊への彼らの忠節さを疑う余地はありませんでした。
私の部隊の日本人兵士の功績のお陰で、大日本軍の諸行為と、その中の人々の個人的な行為を区別できます。 大日本軍はオランダ政府とその軍隊を威嚇攻撃しましたが、それはインドネシア民族を攻撃したのではありませんでした。
私たちは、インドネシア国土において戦闘を行った大日本軍の行為が、インドネシア国民に多大な苦難と損害を与えたことを経験し、認識しておりますが、日本人将兵の中に、一部には規律を遵守しつつ、一個人としてインドネシアとの関係において真実の声を聞いた方がおられました。 かかる人的交流が発展し、植民地支配から解放され独立した民族としての生き方を獲得するため、われわれ被支配民族の熱意に対し、彼らより物的な理解及び支援を得るに至りました。 私は、私達の日本人の友人の、私が前に述べた人々を含むインドネシア民族に対する功績に対し、本日ここに、日本政府より表彰されたことは正当なものと思います。
恐らく、私たちが立ち会いましたこの式典は、マスメディアを通じインドネシア及び日本全土に放映されることになりましょう。この式典は、将来両国間の共通の利益のために、インドネシアと日本との協力の土台を強化することができましょう。
最後に、ここ参集しましたインドネシア国民と共に、深甚なる意味を持つ表彰を今朝受けられた日系の友人全員にお祝いの言葉を申し上げます。 皆様方がここインドネシアの地において、平和で幸福な生活を末永く享受されますことを願ってやみません。
石井正治氏、受賞者代表挨拶
本日は大使閣下のご恩情により、残留日系人一世の私共、及び長い間市井にあり友好・親善に努められた方々と共に表彰を賜りましたのは、身に余る光栄と厚くお礼申し上げます。
時まさに戦後も50年、長い年月でございましたが、私共は敗残兵の身としては、ある時は逃亡兵として誹を受けましたが5年間にわたるこの国の独立戦には身を挺して戦い抜き多くの戦友を犠牲にしてしまいました。
戦後は善良なインドネシア国民として巷に融け込み現在に至りましたが、殆どの同胞とは幽明境を異にし、今日の晴れの日にも出席できぬのは誠に残念と云わねばなりません。
この時にあたり大使閣下より表彰を拝受いたしましたのは、私達残留者にとっては、50年来待ち望んだ故国からの免罪符をやっと手にした思い、又、民衆の中にあった友好・親善を実践された方々も、今やっと永年の苦労が報われた思いも一入、共々に感謝・感激あるばかりでございます。
私共は皆すでに老境にあり余命も幾許も無いと思われますが、倒れ付すその日に至るまで、日・イ両国親善融和のため、尚一臂の力を捧げ以ってインドネシア日系人の歴史を飾りたいと考えますので、これからよろしくご指導ご愛願賜ります様切にお願い申し上げ、簡単ではございますが受賞者一同を代表しまして一言お礼の言葉を申し上げます。