
掲載の二つの写真は、
今朝のジョギング中に出会った、
海岸でのバリ人の祈り......。
右のお二人に、
「何を祈るの?」と聞いてみたら、
「ムンブルシカン」との返事。
「お清めのため」ってことだろうか。
家に帰ってから、
カデ(お手伝いさん)に聞くと、
「一言で言えない」
「いっぱい意味がある」とのこと。
いずれにしても、
バリ人のこうした真剣なお祈り、
その敬虔さに感心させられる。
のついでに、と言っては何だが、オレの宗教観を語らせてくれ。
まず、オレのこと、オレは無宗教である。
でも、宗教は人間にとって、とっても大事なものと思っている。
過去の歴史の中で、宗教戦争といわれるものが多く発生し、今でも続いている。
が、もし宗教がなかったら、人間はもっともっと争っていたのではなかろうか。
だから、人間にとって、宗教は必要なものと思っている。
なのに、何故にオレは無宗教なのか。
それを述べる前に、オレ流の捉え方と前置きし、宗教とは何かを語りたい。
オレは、世界の宗教の全ては、人間の欲望との戦いの故に生まれたものと思っている。
ある宗教は、欲望を強制的に抑えることに終始し、
ある宗教は、欲望を抑えることに範囲を設け、規範をシステム化し、
ある宗教は、欲望を抑えることを辞め、あるがままを容認する。
と、いった具合である。

先般、ジョグジャカルタの、
世界遺産を見て来た。
そのひとつ、ポロブドゥールは、
仏教寺院である。
もう一つの、プランバナンは、
ヒンドゥー寺院群である。
この二つは、
どちらも8世紀のものであるが、
石に彫られた彫刻から、
その違いを知ることができる。
仏教寺院であるポロブドゥールには、
釈迦が悟りを開いたことを
中心に彫刻が彫られている。
人は苦しみながら考えながら、
だからして安らぎを得ることができると諭しているように思うのだ。
ヒンドゥー寺院であるプランバナンには、人間の性をあからさまに告発した彫刻が目立つ。
あるがままでいいじゃないか。
それらを許し受け入れてこそ、安らぎを得ることができると諭しているように思うのだ。
まあ、これはオレの勝手な解釈だ。
それはそれとして、
このプランバナンを建てたマジャパイト王国は、イスラム勢力に追われた。
で、王族や僧侶は、バリ島に逃れて来た、との歴史がある。
その逃れ先のバリで広められたのが、現在のバリヒンドゥー教である。
んで....、という歴史を感じながら、
今朝のバリ人のバリヒンドゥーに法った二つの祈りを観察すると、だ。
人間の欲望を否定せず、全て受け入れた上で、
それでもなお、清く正しくありたいとの祈りであるように思うのだ。
バリ人が言う......
悪人がいるから善人がいる。
善人だけでは社会が成り立たない....とか、
「tidak apa apa」いわゆる「いいよ、いいよ」....とか、
の、懐の大きい許容精神も、祈りに含められているに違いない。
バリ人のこうした祈り。
翻って、日本の現在のお寺のありかたを見てみる。
まず住職が、世襲制であるってことが理解できない。
ものを極めには、過酷さに耐える忍耐と経験があってこそ到達できる。
だから、到達できるのは限られた人のみ、だろうと思う。
それなのに世襲制とは、いかにも形骸化している。
少々生意気だが、オレは、こうした形骸化は、嫌いなんです。
人間にとって大切な宗教であるはずなのに、その宗教を持て遊んでいるようにも思うんです。
仏教信徒の家に生まれ、現在のオレが無宗教である理由、
こうしたお寺の形骸化と、それを許す日本人のあってないような宗教感に、
疑問を覚えるからなんです。
また、これとは別に、もうひとつ理由があります。
こちらの方が大きい理由かも知れません。
宗教は大事であり、宗教に敬虔であることを尊敬するオレ。
敬虔であれば、その人は人間的にというか、道徳的にというか、
全てに間違いがない人間でなければならない、と思うのです。
また、そこまではいかなくとも、
そうなることを公に宣言できる人間でなければならない、と思うんです。
が、オレは間違いだらけの人間、まだまだ宗教に入りきれません。
多分、死の間際にその入り口に近づける程度の、
今はまだ、わがままだらけの人間だからなんです。