あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



カテゴリ:インドネシア独立戦争( 76 )


日本軍上陸地点近くの洞窟と翁の像

私のブログを読んで教えてくださる人がいた。
Jl.Sekar Sari の近くに日本軍のトーチカや砲台の跡がある....
で、Jl.Sekar Sari に行ってみた。

「日本軍の跡」という聞き方をしたからだろうが、
尋ねる人の誰もが「知らない」という。
ただ、何人かが「日本軍の洞窟ならある」という。
川沿いにあるという、その洞窟を探しに行くことにした。

んで、Jl.Sekar Sari からアユン川に降りてみた。
アユン川沿いに大きなワルンがあったので、聞き込みをした。
と、店主の Sang ayu putu raiさん(写真)曰く...

d0083068_10225057.jpg
「知ってる、知ってる」
「子供の時、洞窟の横でマンデーしてたわ」
どの辺ですか....
「店の横の道を上がって最初の道を左に行きなさい」
「突き当りのお寺の裏手の川に洞窟があるわよ」
と聞きこみ、横の道を上がってみた。
「Jl.Pucuk Bang」という道だ。
d0083068_10372275.jpg
ここを左に曲がる。
お寺にぶつかった。
お寺の左からお寺の裏側に廻る。
これがお寺の壁面だ。
なんにもない。
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だめだ、もういちど聞き込みだ。
表通りに戻った。
老婆を見つけた。
おばさん、日本軍の洞穴知らない....
「知ってるよ、昔はその横でマンデーしてたんだから」
みんな、マンデーしていたという。
ってことは、結構に誰もが知ってる洞穴なんだな~
おばさん、その場所、教えてくれない....
というと、先ほどのお寺の横に案内してくれて、
写真の左の屋根の右の山を指さし、
「川の対岸のあそこ」という。
d0083068_10452616.jpg
そうか、対岸か.....
よし、川に降りて対岸に行けるかどうか道を探そう。
てんで、茂みの中に入る。
これは上から川を覗いた写真....
結構に急こう配だ。
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暫く歩くと、大きなコンクリート塊があった。
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そこをすり抜けると、こんな祠があった。
なんだこれは!!
お寺の裏手になる。
d0083068_10511441.jpg
近寄って見た。
これって、「翁」ではなかろうか。
d0083068_10524710.jpg
もっと寄って見た。
おかしい!!
持っているのは、日本の「筆」だ。
顔は日本のお能の「翁」だ。
それに、耳が福耳....ってことは「福助」か。
それに、おどろいたことに...
d0083068_10571117.jpg
耳についているイヤリング、なんと「菊のご紋」だ。
の眉はボウボウ眉と言って眉毛が渦巻いていて円形になっている。
その場合、渦巻く代わりに菊のご紋そっくりな形にすることがある。
が、これは違う。
目の上に既に眉が彫られている。
ってことは、眉ではない。
では、なんだろうか。
考えられるのは、バリ人が「日本の顔」を彫ろうと...
「翁」を選んだが、目の上の丸いのは「眉」だなんて知る訳がない。
翁の写真を見ながら...これは何だろう。
どうも大事なモノのようだ。
ええい、イヤリングにしておけ!
てんで、つけたのではないだろうか。

........

この時点、私はまだ洞窟を発見していなかった。
小さな川だが、険しくて対岸には行けない。
私は、この場を離れて、バイクで対岸に行く道を探した。

で、着いた対岸に、あった、日本軍の洞窟が。
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随分と穴の背が低い。
頭をぶつけながら中に入った。
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奥に進むと長く洞穴が続いていて、途中が明るくなっていた。
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その明り取り....
外から見ると、この穴のようだ。
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そして、出口...
ここは結構に広い。
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この洞窟の意味、すぐに解らない。
少々考えてみたい。
それにしても、この洞窟の対岸の岩陰にあるのが、先ほどの「翁」だ。
「翁」は、日本人を模しているのであれば、何を意味しているのだろう。
サヌールは、バリ島で最も「ブラックマジック」が強い土地である。
同時に「ホワイトマジック」も最も強い土地である。

全くの想像だが、
この地で日本兵が死んだのではなかろうか。
戦争で死んだ場合、必ず霊となって現れる。
そうした霊を鎮めるために必ず祠が建てられる。
バリ島にあっては、普通のことだ。
そうした経緯で祠が建てられたのではなかろうか。

洞穴の意味、翁の像の意味、今後、調査してゆきたい。
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by yosaku60 | 2019-08-20 11:22 | インドネシア独立戦争 | Comments(2)

日本軍の上陸地点を見つける

1942年2月19日、日本軍(金村支隊)はバリ島に上陸した。
その上陸地点には、こんな記念塔が建てられた。
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日本敗戦後、この塔は壊されたことは解っているが、
塔はどこにあったのだろうか。
どなたかお知りになりませんか、と書きこみしたところ.....
アユン川北側の 「Sekar Sari」の海岸ではなかろうか...
と教えてくれる方がいた。
私は今までアユン川の南側ばかり探していた。
「そうだ、アユン川の北側だ」
「その方がデンパサールに近い」
てんで、昨日、探しに行って来た。
アユン川の北側の海岸線に出るには「Jl.Gemitis」が近い。

ここがJl.Gemitisが海岸線にぶつかる処だ。
d0083068_11202169.jpg
海岸の名前は、Biaun Beach だ。
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日本軍の上陸地点が何処だったか知りませんか?
数人に聞いたところ、知ってる人に会えた。
Pasek(パセ)という名のこの人だ。
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彼はこの地の出身でこのビーチで働いている。
日本軍の上陸地点はお父さんから聞いているという。
「昔は、この浜はずーと先に伸びていた」
「上陸地点は、今はもう海の中だよ」
「川の近くにお寺があるでしょう、あの沖合だよ」
彼の指さす方を写真にとってみた。
この写真の丁度真ん中付近だ。
d0083068_11303475.jpg
この写真では、左端になる。
d0083068_11311189.jpg
これが現在のアユン川の河口だ。
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上陸地点を地図の上で描いてみた。
d0083068_11324665.jpg

ところで、この地図....
「日本軍の洞窟」と「翁の像」と書きこんであるでしょう。
Sekar Sari から入って聞き込みしながら探して見つけたのです。
明日はそれを書きます。

by yosaku60 | 2019-08-19 11:36 | インドネシア独立戦争 | Comments(2)

独立記念日式典

独立記念日式典を観に行った。

張り切る男たち...
左の親父が友人。

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祝典を待つバンジャールのご婦人たち....
毎年、この日のためのクバヤを新調する。

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高校生たち....
緊張が伝わってくる。

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国旗掲揚.....
どこの国であっても、国歌を聞くと胸が熱くなる。

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独立記念日、おめでとう。

by yosaku60 | 2019-08-18 12:36 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

今日は独立記念日です。

8月17日、今日はインドネシアの独立記念日です。
昨晩は、その前夜祭で住民の松明行列がありました。
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さて、インドネシア独立について、
日本人が余り知らないことのみ書いてみます。


バリ島上陸......

1942年2月19日、金村支隊がサヌールに上陸した。
その上陸地点には、このような上陸記念塔が建てられた。
塔の横に立つのは、三浦襄。
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日本の敗北後、塔は壊された。
壊される際に、あったことを示す目印が置かれたとのこと。
私は、ずーと、その目印とやらを探しているが未だ見つけていない。
マタハリツルビットの北の至近にオランダ軍が上陸したモニュメントがある。
これは1906年のバドンのププタンの時のものです。
そのモニュメントより少し北のところの筈だがどなたか知りませんか。


オランダ軍降伏......

日本軍(那須支隊)がジャワ島に上陸したのは1942年3月1日。
その翌日、陸軍中野学校出の柳川宗成が隊長の命を受け、
単独(通訳のみ二人連れ)で欄印司令部のあるバンドンに向かう。
3月7日夜、バンドン着。
3月8日未明、柳川は欄印司令部のポールテン中将の寝室に入る。
寝ていたポールテンを叩き起こして言った。
「バンドンは既に三方から日本軍が包囲している」
柳川のはったりだったが、ポールテンはそれを信じた。
柳川は続けて言った。
「貴方の部下や兵を傷つけたくなかったら即刻降伏されたし」
その日の昼、蘭印軍は日本に降伏した。
以上が8日間という短期間にオランダが日本に降伏した真相だ。
このことは余り日本人に知られていない。


インドネシア独立....

オランダとの独立戦争を終えたのが独立記念日ではない。
日本の敗戦が決定した二日後、即ち、1945年8月17日....
スカルノが「独立宣言」をした日が、独立記念日だ。
このあと宣言を認めないオランダが日本軍が去った後、
インドネシアに攻めてきた。 
それが4年続いたのがインドネシア独立戦争だ。
だんだんと国際世論がインドネシアに味方するようになった。
その国際世論に耐えきれず、
オランダはインドネシアの独立を認めた(ハーグ協定)。
オランダは独立を認めるに際しインドネシアに補償金を求めてきた。
自分から攻めてきておいて補償金(60億ドル)を求めるとは法外な!
だが、真の独立をしたいインドネシアはそれを呑まざるを得なかった。
かと言って、インドネシアにはそんなお金がない。
結局、これを払ったのは、まわりまわって日本だった。
このことは余り知られていない。


オランダがスカルノの「独立宣言」を認めたのは、2005年だ。

まだ、知られていないびっくりすることがある。
オランダはインドネシアの独立を認めたが、
スカルノの独立宣言を認めた訳ではなかった。
それを認めたのは、インドネシア建国60年の2005年8月17日だ。
今からたった15年前だ。
この時の謝罪だが....
「日本軍が去ったあと攻め入ったのは遺憾だ」だけだ。
補償金の60億ドルの根拠がなくなったのに返金されなかった。
同時に、植民地時代のことを詫びる言葉が一切なかった。

.....

さて、私の家の隣の広場から太鼓の音が聞こえます。
そろそろ、独立記念日の祭典が始まります。
見に行こうと思っております.....では。

by yosaku60 | 2019-08-17 09:23 | インドネシア独立戦争 | Comments(2)

インドネシアのラストサムライ没す

尊敬する人生の先輩である清水教博さん。
インドネシア中の日本兵のお墓の供養行脚をなさっておられる。
(写真はバリ島の残留日本兵「ワジャ」のお墓に案内した時の清水さん)
d0083068_11272842.jpg
その清水さんからよく、お話をお聞きしていた。
「ジャワ島にPETAの兵士が残っているのですよ」
「もう目が見えなくなっていますが元気です」
「逢いに行くと、とても喜んでくれるのです」

その清水さんから、
「彼がお亡くなりになりました」
との報が届いた。

私はご本人にお目にかかったことはなかった。
だが何度もお見舞いしていた清水さんのお心をお察しし、
また、私自身もご冥福を祈りたく、ここに掲載する。

.....

ご本人のお名前は、バンバン・プルノモさん(享年93歳)という。
中部ジャワの山間の町、テマングンに住んでおられた。

彼は、日本軍が創設した「郷土防衛義勇軍=PETA)の隊員だった。
独立戦争ではインドネシア国軍の中佐として戦った。
彼は大の親日家で、日本敗戦時にテマングンに駐屯していた第48師団の
「磨(みがき)部隊」が記念碑として建てた「万邦団結」の石碑を市内
の丘の上に屋根付き小屋を建てて護ることまでしている。

また、テマングンの町外れに「YUKO TERAKOYA」(友好寺小屋)という
日本語塾を開いていた(左;本人、右;YUKO TERAKOYA)。

d0083068_11470214.jpg
彼は、特に日本語を勉強した訳ではなく、義勇軍時代の独学である。
自分を”ラストサムライ”と名乗り自家用車にも「ラストサムライ」の
ステッカーを貼っていた。
日本人の友人が訪ねてくると軍歌を合唱したが、一番好んで歌うのは、
「海征かば」であった。

死の間際まで、日本を愛し続けた、バンバンさん。
その貫く意志! 貴方は真のラストサムライです。
ご冥福をお祈り申し上げます。


(ひとりごと)

お会いした事はなかったが、
こういう方がお亡くなりになったと聞くと、
だんだんと昔の日本が遠のくような気がして寂しくなる。

by yosaku60 | 2018-06-23 11:38 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

ングラライを忖度(そんたく)する

バリ島の英雄、ングラライ....

5万ルピア紙幣の顔ですが、嘆かわしいかな、それすら知らない....
インドネシア人、時にはバリ人、時にはバリ在住の日本人、がいる。

バリ島の独立の歴史は、ングラライだけではない。
が、調べてゆくと、どうしてもングラライにぶつかる。

独立戦争の歴史は約5年。
そのうち、ングラライが歴史に出てくるのは1年だけ。
ってことは、5分の1、なのに、何故に、ングラライなのか。
何故に、パ・ジョコをもっと語らないのか。

その理由を一言でいうと....
ングラライのいた一年間だけ、バリの一般島民が一緒に戦ったからだ。
その闘争の結果であるが、はっきり言って、オランダが勝利した。
さらに、はっきり言おう。
オランダを勝利させたのも、バリ島民だ。
バリ人にとっては、歴史の恥部である(と、私は思うのだが)。
でも、生きてゆくためにしようがなかった部分がある。
ングラライもそれを認めながら、苦しく戦った。

さて、ングラライがマルガラナで玉砕した後、
闘争は、日本軍がいた時と同じように、地下に潜る。
実際には、地下でなくて、山に登って籠るのだが(笑)。
地下に潜ると、一般島民は参加できにくくなる。
で、一般島民は騒がなくなって....
歴史として、語らなくなって...

というのが、
ングラライだけが語り残され、
残りが歴史から消えた真相である。

さて、
ングラライだが、私は、長年、ングラライを忖度してきた。
その上で、ングラライの主たる闘争歴史.....の
そのスタート....(1945年12月13日)と、
その終わり.......(1946年11月20日)に、
日本人が大いに関わっていたことが解ってきた。

これは、どんな本にも書いていない。
私がングラライの心を忖度して解ってきたことだ。

バリ人は、こんなことを思っても記述に残さない。
かといって、日本人の誰も、ここまで興味を持たない。
ングラライの日本人に対する心の忖度をする者がいない。

日本人に対する、ングラライ司令を一言で忖度すると、
スタートは「憎しみ」。 
終わりは「感謝」だった。

そういう話、書き残したいが、私には文才がない。
一度、挑戦して、よーく解っている。

お酒飲むときの「私の得意なお話し」にしておこう(笑)。
一緒に飲む機会があったら、ングラライを質問してね。
待ってます~

by yosaku60 | 2017-05-28 08:24 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

スマラン事件(その12; 最終回)

病院からの迎えの自動車が待ち遠しく、
一分が一時間ほどの気がしました。

病院へ行けば、輸血も考えられるので,

「閣下、血液型は何ですか」
「血液型を聞いて何にする」
「俺は輸血の必要がない」

「それでは私が困る、軍医に聞かれても応えられない」
「A型だ、けれど輸血の必要は無いぞ、それよりか水を一杯くれ」

「水、水は差し上げることはできません」
「腹部重傷に水を飲んだら助かるものも助からぬことになります」
「こればかりは閣下の命令でも私は絶対にお上げすることはできません」
「そうか、皆に済まぬ、野市にも気の毒なことをした」

(野市さんは寺垣局長が銃で撃たれるのを防ぐため、
 身を挺して護り暴徒の竹槍に刺され戦死した)

閣下は自動車の中で多少苦痛を訴えておられたが、
その内に何も言われず、
握っていた手も大分冷たくなっていました。

もしかすると駄目かもしれぬと思ってきました。
「閣下、何か遺言がありませんか」
「何もない、みなに済まぬ」
「留守宅への遺言は」
「何もない」

思わず、私は大声で泣きました。
閣下の目にも涙が出ていました。
さぞかし残念なことでしょう。

「この仇は必ず討ちます」
「.......」
この時、閣下は私の手をしっかりと握られ、
二度シャックリをされ、
これが永遠のお別れでした。


これが「スマラン事件」だ。
が、これは全容ではない、一部だけだ。
監獄に入れらた日本人を救出する場面だけだ。

日本の憲兵隊は、
監禁されたオランダ人・混血人・
親オランダ系住民をも救出している。
そのために、インドネシアの青年たちと戦い続けた。

インドネシア側の犠牲者は、千名から二千名いた。
こんなにも犠牲者数が曖昧なのは、
それだけ混乱していたからだ。

日本軍とインドネシアの過激な青年との戦争は五日間続いた。
これら全てを通して「スマラン事件」と呼ばれている。
by yosaku60 | 2017-05-19 07:37 | インドネシア独立戦争 | Comments(2)

スマラン事件(その11; 我が民族は動物なり)

隊長は、生き残った負傷者の手当てを託して、
この惨劇をインドネシアの代表者に検証させるため、
城戸部隊に軟禁中のオンソネゴロ省知事、
スカルジョ・プルサ病院長の両名を現場に連行して
各監房内の惨状を目撃させた。

正面から入って右側、
三番目の監房内の壁に書かれた

「インドネシアの独立を祈る、万歳」

血書の前で、
青木がオンソネゴロにこの文意を
インドネシア語で伝えると、
彼は顔面蒼白になり

「バハギャ キク ビナタン(我が民族は動物なり)」

と繰り返した。

以上が救出隊の分隊長であった、
青木氏の手記である。


........


あとひとつ手記があるので、これも語り継ぎたい。
松音友治氏(中部陸輸局員)が語る,
寺垣俊雄司政長官のその後である。

(松音友治氏手記)

私は、閣下の安否を尋ね大声で
「寺垣閣下、寺垣閣下」と叫び続けた処、
折よく憲兵隊長が来られて

「閣下は重傷だ、すぐ行け、そこの布団の上に寝ておられる」

と言うので駆けつけますと、
何とお気の毒に全身血まみれて既に顔面の血色もない、

「閣下、松音です。傷は浅い。大丈夫です」

「ウン、有り難う。俺は腹を遣られているから多分駄目だ。」
「手足はもう痺れている。皆に申し訳ない。」
「自分としてはできるだけのことはしたつもりだが、今となっては何にもならない。」
「みなによろしく伝えてくれ。」
「それにしてもお前が助かったことはせめてもの幸せだ。」
「俺のいた室の壁に遺書を書いてあるから後で見てくれ」


ただ涙のみで物は言わず、
すぐに病院へと思いましたが、戦闘中で如何ともできず、
幸いオランダ人医者が来て、カンフル注射三本をうちました。

閣下の傷は下腹部、臍の下を自動小銃で貫通していました。
閣下が言っておられた遺書のことが気になり、
他の同僚に閣下をお願いし、室に参りますと、
その中で二十数名折り重なって憤死し、
その惨状はとても言葉や筆は表現できるものではありません。
by yosaku60 | 2017-05-18 08:04 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

スマラン事件(その10; 壁に書かれた血書)

決死隊員は逃げて行く青年たちには目もくれず、
各監房内の日本人救出に全力をあげた。

丁度その時、血まみれになった日本人数名が
監房内から転がるようになって飛び出して来た。

この人達は我々の身体に抱きつくなり,
「ありがとうございました」
と泣きながら礼を言っていた。

この中のひとりは、
中部陸輸総局の寺垣司政長官であったが、
寺垣氏は我々に礼を言った後、
それ以上は口を利く気力もなく、
所内の庭に崩れる様に倒れてしまった。

中部陸輸総局で特殊任務に携わっていた青木分隊長は、
これが寺垣俊雄司政長官閣下であることが一目でわかった。

青木は長官に傍に駆け寄り、
「救護班がすぐに来ますから、どうぞ頑張ってください」
と大声で告げ、携帯していた三角巾で、
出血の激しい腹部の応急手当てをして差し上げると、

幽かな声で、
「青木さん、ありがとうございました。
他の人達のこともよろしくおねがいします」
のみ、言い終わったが、
顔面は既に死相になっていた。


監房内の死体を搬出していた青木は、
薄暗い監房内の血痕の飛び散っているようなものに気付いた。

側によってよく見ると、

「インドネシアの独立を祈る、万歳」

と書かれた血書である。

機銃で射殺された日本人犠牲者が死を直前にして、
流れでる自らの血を指に採り書いたものである。
文字の大きさは、一文字十センチぐらいで、
最後の「万歳」の文字はもう精根尽き果てたという感じであった。

青木はすぐに、この文字のことを報告した。

隊長はこの文字の前に立って、
しばし茫然としていたが、ただ一言、

「遅かった」

と、腹の底から絞りだすような小声を残して壁から離れた。
by yosaku60 | 2017-05-17 13:36 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

スマラン事件(その9; 救助隊来る)

この三輪義雄氏の手記。
つぎのとおり救助隊が来たことが書いてある。


十月十五日の未明の三時を期して、
城戸部隊は完全装備し、
波状的に戦闘を開始した。

目的は市内の治安維持だった。
午前中には、インドネシアの青年隊(急進共産革命を目指す)が
占有している処を全て確保した。



引き続き市内の掃討作戦を展開している時、
日本人が拉致され、
拉致された人々はブルー刑務所に監禁され、
多数の死者が出ている、との情報が憲兵隊に入ってきた。


和田憲兵隊長は
早速に城戸部隊長に邦人救出の意見を具申したが、
ブルー刑務所に通ずる道路の強行突破は、
現状兵力では至難との返答であった。

和田憲兵隊長は部隊がやらなければ、
憲兵隊だけで決行しようと決断した。

これがため、決死隊を編成し、自らが救出隊長となり
四十名の救出隊を編成した。


編成は和田隊長率いる指揮班を根来准尉以下七名、
左側小路を進むのは田中第一分隊長以下の十六名、
右側小路を進むのは青木第二分隊長以下十六名とした。

前進中の田中部隊にガラン川の向こうから撃ってきた。
補助憲兵のひとりの腹部を貫通しその兵は間もなく戦死した。


田中部隊は、銃が撃ち込まれる中、さらに前進した。
三方の道路から前進した救出隊は、
夕暮れ近くの五時頃、
刑務所前の通りに辿り着いた。

和田隊長は道路を隔てて全面に立ち塞がっている
ブルー刑務所の正面扉を睨みながら、
河野曹長と青木分隊長に、正面扉を破って突入を命じた。


両名に向かって
付近の家屋の二階や物陰に潜んでいる敵から
機銃掃射があった。

両名は、それを意にせず、
十二メートル幅の道路を全速力で駆け抜け、
刑務所正面の木製扉に体当たりした。

扉は微動だにしなかった。
両名は、それにひるまず、
二度三度と身体中で扉にぶつかった。


その間、インドネシア青年隊が軽機関銃で
二人を目掛けて掃射を浴びせて来た。

両名は腰を低くして銃弾をよけながら、
なおも繰り返し扉に体当たりを続けたところ、
奇跡的に突然扉がギーと鈍い音をたてて開いた。

両名は開いた扉から転がり込むようにして、
刑務所内に飛び込んだ。

それを見て、和田隊長が「突撃」を指示した。

全員が刑務所内に飛び込んだ。
「日本人はどこにいるか、憲兵隊が救出に来たぞ」
と叫びながら、所内に駆け足でちらばっていった。

刑務所内にいたインドネシア青年二十名ぐらいが
高い塀をよじ登って、
われ先にと刑務所の外に逃げて行くのが見えた。
by yosaku60 | 2017-05-16 07:33 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

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