6月7日は、浜のカデの誕生日。
旅の疲れがあって遅れたが、先程お祝いを届けた。
23歳の時に知りあった彼女も30歳になった。
両親を看ているので、結婚できないでいる。
そんなカデへの誕生日のお祝い….
いつから渡すようになったかも忘れた。
お祝い品….最近は衣服を贈ることに決めている。
身体が大きすぎて、合うものを探すのが難しい。
が、ここ2年は、ぴったり合うものを贈れている。
彼女との付き合いも進歩してきている(笑)。

さて、5泊6日のオレの東部ジャワ島旅行….
総括することで、書き終えにしたい。
まずは、
自宅を出て戻るまでの総走行距離だが、約1700km
バリ島内の300キロを除くと、ジャワ島での分は1400km。
何時間かけて、1400km走ったかであるが、
考えるのも嫌になるので、やめとこう。
ひとつ書き加えておきたい。
最初の日に「金輪際こんな無謀な運転をしない」と書いた。
が、ゆったり帰る筈のバリへの帰り道。
又も追い越せ追い抜けの激走劇を演じた。
ゆったり走っていると、
追い越して来た車が、急に目前に割り込んで来る。
それはそれで危険なのだ。
遅く走る大きな車は、追い越した方が安全なのだ。
結局は、ジャワ島での運転の結論は、
少々無理な運転をしなければ安全が確保できない、となる。
さて、次は、旅を終えて心に残ったことである。
まずは、初代インドネシア大統領スカルノのカリスマ性。
今もって、国民から崇拝されていることが判った。
同時に、インドネシアにとって、
独立への悲願が、どれだけ強かったか。
ゆえに、独立した時の喜びがいかほどであったか。
あらためて、私の心に染み入った。
そして、そのスカルノと一緒に
インドネシア独立戦争を戦った日本人がいたこと。
中でも市来竜夫の戦い….
ゲリラと言っても逃げるのではない。
常に戦うことのみを求めて行軍した。
日本人9人が参加したアルジャサリの戦い……
日本刀と拳銃だけを持って戦闘を指揮していた市来。
敵を目前にして、日本刀をインドネシア兵に渡し、
そのインドネシア兵がもっていた小銃を受けとり、
最前線の小銃隊に飛び込んで行った。
隊長は、後方で指揮するのが普通。
が、彼は、一人でも多くの敵軍を殺したい、
と心が逸って、そういう行動をとったのだろう。
43歳にして、なお血気盛んな市来竜夫。
日本軍がインドネシアに来る前から、
すでにインドネシアの独立を願って行動していた。
その行動の期間も強さも筋金入りであった。
そんな彼、小銃隊と共に、
トウモロコシ畑に身をひそめ、
敵を撃とうと立ち上がったところを
3発の銃弾に撃たれ即死した。
今度の旅で、その撃たれた場所もおおよそ確認できた。
そして、撃たれた隊長を起こそうとしたインドネシア兵二人、
その重さに、隊長をずり落としてしまった。
そのインドネシア兵は、
申し訳なさから、その場から逃走した。
ずり落ちた市来の死体は、谷の途中で止まった。
なかなか発見できにくい場所であった。
今度の旅で、その場所に立つこともできた。
その場所に立ったオレ、
こういう場所で戦い、こういう場所で死んだのか。
65年前のことが、そんなに昔でないように思えた。
が、市来龍夫のことを思うと….
彼は日本軍がインドネシアに来る前からの、
筋金入りのインドネシア独立推進派であった。
インドネシア独立を知ることなく道の途上で戦死した。
それはそれで、彼は本望だったのではなかろうか。
市来竜夫は、この地で終えたことを納得している筈だ。
市来龍夫が眠るその地を訪れて、
私は、あらためてそのように思うのだ。
が、私にとって、それは、さらりとした思いだ。
この地を訪れて、
この地の空気に触れたオレにとって、
さらりとではなく、もっと思いを深くしたものがある。
市来龍夫隊長に仕えた残留日本兵のことである。
たとえば、小野盛。
北海道の富良野で育った小野盛。
広々とした自然に囲まれ、真っ直ぐな性格だったのだろう。
以前にも書いたことがあるが、
彼のメモは、全て月日が記入されている。
真っ直ぐであり、且つ生真面目でもあった。
さて、大東亜戦争…
日本は、アメリカから経済の兵糧締めに遭い、
その兵糧をインドネシアに求めた。
インドネシアに至るまでの制海権、制空権を得るためには、
マレー半島、フイリッピン、太平洋諸島を
掌中にしなければならなかった。
で、アジアに攻め入った。
攻め入る口実をアジア各国が欧米列強から独立するためとした。
いろいろあったが、戦時中にそれを実行できた。
インドネシア以外のアジア諸国には、独立を約束し自治を認めた。
が、インドネシアだけには、そうはさせなかった。
なぜなら、インドネシアの資源を奪うことが目的だったからだ。
大東亜戦争の最終目的がインドネシア統治だったのだ。
独立させるためにインドネシアに上陸した….
これは、日本の嘘であった。
当初、現地で戦う日本軍の実戦部隊は、
そういう嘘には気付かない。
が、徐々に気付くことになる。
嘘が嫌いな日本人、
中でも嘘が徹底的に嫌いな僅かな日本人、
インドネシア全土で1000人程度….
が、残留日本兵として、インドネシアに残った。
そして、国としての約束を守るために、
インドネシア人と共に独立戦争を戦った。
もとより、死ぬ覚悟であった。
要するに、残留日本兵は、
自分の命よりも約束を重んじたのだ。
さらに言えば、
日本に残した家族よりも約束を重んじたのだ。
武士道を重んずる、サムライだったのだ。
翻って、今の日本、
自分本位の人ばかりが蔓延している。
嘘が嫌いな日本人、70年前に4万人の中の千人だった。
今、そういう人が何人いるだろうか。
ほんのひとにぎりだけだろう。
オレはどうだろうか…….
さて、明確にしておきたい。
オレは、そのたった千人の行為をもって、
日本軍のインドネシア侵略を美化したくない。
日本はどうであれ、
インドネシアにとっては、侵略であった。
たった2年半だが、
インドネシア人にいっぱいの苦しみを与えた。
過去350年、オランダから苦しめられたことよりも
2年半、日本に苦しめられたことの方が酷であった。
と評する歴史書もある。
今も残る「ロウムシャ」の言葉がそれを物語る。
さて、話を戻す。
残留日本兵の一人の小野盛….
市来隊長のお墓を作り、毎年、命日に訪れている。
失明するまで、続けられたというから、
多分、80余歳まで、続けたのであろう。
律儀である。
戦争で片腕を失った小野盛。
一枚の写真に収まらないような、
広大な土地を片腕で開墾した。
努力家である。
お子さん達に残した言葉、
「曲がったことをするな」だった。
嘘をついてはならない、ということだ。
そういう、小野盛だったからこそ、
残留日本兵として、インドネシアに身を投げ出したのだ。
義を重んじる人であった。
今、私は、インドネシアに住んでいる。
過去、日本が日本のわがままで、
インドネシアに迷惑をかけたことを心に刻んでいる。
が、そういうことを口にしてもしようがない。
過去は戻ってこない。
東部ジャワ島の旅で、
残留日本兵の過去に接してあらためて思う。
ささやかであるが、
今、私ができる範囲内で、
インドネシア人のためにできることをしてあげたい。
いや、させていただきたい….と思うのである。