あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



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稲川義郎様告別式のお悔やみの言葉

今日のブログは、関係のない方はスルーしてください。

関係のある方に申し上げます。
本日は、稲川義郎様の告別式の日です。
清水様ご仲介で式場には「バリ島在住一同」で供花を捧げました。
本日のブログは私が稲川様に語りかける形で書きたいと思います。

戦前戦中にはバリ島に沢山の日本人が住んでいました。
戦後、そうした日本人がバリを偲んで立ちあげたのが「バリ日本会」でした。
私の手元に「バリ日本会」の30周年記念特集があります。
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発行が1979年ですから設立が30年前というと昭和24年になります。
終戦の4年後です。
大変な時期に設立されたのに300余名の方の入会がありました。
みなさま、バリ島に住んだ印象が強かったのでしょうね。
お察しできます。
稲川様は発足当初から「日本バリ会」に参画されました。
「日本バリ会」に呼応してバリ島ではバリ人による「バリ日本会」ができました。
日本人の「日本バリ会」とバリ人の「バリ日本会」の交流が始まりました。
数十年そうした交流が続きました。
この交流も稲川様が中心になってなされたとお聞きします。
ご苦労様でした。
ただ、年を経て「日本バリ会」も「バリ日本会」も会員が少なくなってきました。
ご高齢でお亡くなりになる会員が増えたのです。
先に「バリ日本会」が閉会になりました。
ここ数年は稲川さまおひとりで「日本バリ会」を守って来られました。
足かけ70年に亘り日本人とバリ人の友好をつないで来られたことになります。
稲川さま、本当にありがとうございました。
稲川さまは、このブログをお読みくださっていました。
今日は稲川さまとの思い出をブログに書き綴りたいと思います。
稲川さまが読んでくださることを確信し書き綴ります。

稲川さま、
まずはスギアシさんからのお悔やみの言葉をつづらせてください。
スギアシさん(写真)から、私に次のようなメールが届きました。
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Saya sangat sedih mendengar Inagawa san meninggal. Dia pengganti ayah saya yang sudahmeninggal . Pagi jam 8 waktu japan meninggal. Saya sangat sedih sekali. Airmata saya menetes karena sangat kehilangan tokoh ayah yang setia pada teman nyadi Bali. Semoga arwah nya diterima disini Tuhan. Saya doakan Inagawa sanberjumpa teman teman nya di alam sama. Amin

インドネシア語が堪能な稲川さまの前で恥ずかしいのですが、
私の下手なインドネシア語で意訳します。
「稲川さんがお亡くなりになったことお聞きしました」
「稲川さんは亡くなった私の父に代わる私のお父さまでした」
「私はとても悲しいです」
「稲川さんはバリをとても大切に思ってくださいました」
「そんな稲川さんがお亡くなりになりました」
「それを思うと悲しくて涙が止まりません」
「どうぞ神のお加護がありますように....」
「天国で沢山のお友達とお会いできることを祈っております」

稲川さま、スギアシさんが言われるように、
まずはスギアシさんのお父さまのマデ・ダマさんにお会いするのでしょうね。
マデ・ダマさんは稲川さまの最も親しいバリの友人でした。
マデ・ダマさんの死の間際、耳元で、
「ピンダ隊の大砲の弾を運んだことを思いだし元気だせ」
と叫んだことをお聞きしました。
マデ・ダマさんと稲川さまは国境を越えた真の友人だったことが想像できます。
この写真は去年の11月に撮ったものです。
稲川さまにはまだお見せしていなかった写真です。
後ろにはマデ・ダマさんがおられます。
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稲川さま、マデ・ダマさんのご家族の写真を載せます。
稲川さまがバリに来られると、ご家族は必ず「マデ・ダマさんの誕生会」を祝いました。
この時はマデ・ダマさんの娘さんのアユさんが大きなケーキを作ってくれました。

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マデ・ダマさんの奥さまと共同作業でろうそくの灯を消されました。
後ろのご家族の嬉しい顔を見てあげてください。
心が通った本当に良い瞬間でした。
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稲川さま。
稲川さまのお付き合いで私がもらい泣きしたことがあります。
この写真、覚えておられますよね。
アントンさんご家族が稲川さんにお会いした時の写真です。
カリマンタン島に住むアントンさんはバリ島に来られる体力が残っていませんでした。
でも「稲川さんにお礼を言わないと死んでも死にきれない」と奥さんに頼みました。
アントンさんの娘さんも「お父さんの体が心配」とバリまでついてきました。
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私がもらい泣きしたのは、この写真の時です。
アントンさんが稲川さまの手を握り顔をくしゃくしゃにしました。
眼が真っ赤でしたが嬉しそうでした。
アントンさんの稲川さまへの想いが伝わってきて突然もらい泣きしました。
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アントンさんと稲川さまはジャカルタでご近所に住んでいました。
それほど深いお付き合いではありませんでした。
ご近所のお知り合いという程度でした。
アントンさんは手術が必要な重いガンを患いました。
稲川さまはアントンさんを東京に連れて行き手術を受けさせました。
当時の日本の名医の手術を受けたそうでアントンさんの手術は成功しました。
30年ほど前の話だそうです。
稲川さまは、困った人を徹底的に面倒みます。
稲川さまの人を大事にする心の広さを知りました。
この写真から三カ月、アントンさんの奥さまから私に電話がありました。
「アントンが亡くなりました、稲川さんにお知らせください」
感謝を込めた奥さまのお言葉でした。

稲川さま、
日本人でありながらインドネシア独立戦争を戦い死んだ曽我さんのお子さんです。
お父さんが死んだ時は、3歳だったので面影が薄くしかありません。
その面影を確かにしたのが稲川さんです。
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稲川さまは、バリに来られると必ず曽我さんにお会いになられました。
曽我さんのご家族も稲川さまを戦死したお父様のように接していました。
特に曽我さんのお孫さんのユリアさん(右)は稲川さまとお会いすることをいつも楽しみにしていました。
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稲川さまからは戦時中のバリ島のことをいろいろ教えて頂きました。
その中で、特に印象に残ったことが二つあります。
ひとつはバリ島の独立戦争を戦ったパ・ジョコの存在でした。
有名なングラライ将軍は8カ月戦ってマルガラナで戦死しました。
その後4年間の独立戦争を戦ったバリ島のリーダーがパ・ジョコでした。
左はパ・ジョコの息子さんのレオさんです。
パ・ジョコの記念館の前で撮ったものです。
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稲川さんは、戦後、パ・ジョコとも親しく付き合っておられました。
パ・ジョコの活躍の話は稲川さんから直にお聞きできました。
私にとっては目から鱗の話ばかりでした。

もうひとつは、柳川宗成と稲川さまのご交流です。
同じ大学のご出身ということでジャカルタでご交流がありました。
昭和17年3月1日、日本軍がジャワ島に上陸しました。
蘭印軍6万5千の総司令官ポールテン中将はバンドンに居ました。
柳川宗成は通訳二人を連れ徒歩で八日かけてバンドンに着きました。
その夜、ポールテンの寝室に忍び入り首にナイフを突きつけて言う。
「もう日本軍が取り囲んでいる。降参しろ!」
その日、蘭印軍は降伏しました。
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この話、私は本で読んで知っていました。
でも、稲川さまは柳川宗成から直接に聞いたことを私に教えてくださいました。
私が残留日本兵の本「尊崇」を書く気になったのは稲川さまのこのお話がきっかけでした。

11月20日はバリ島の英雄、ングラライ将軍の命日です。
マルガラナでは、ングラライを偲ぶ「マルガラナ大祭」の催しがあります。
稲川さまは「バリ日本会」代表として必ずご出席されました。
来客として最前列に座り、バリの兵士からは歓迎されました。
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そして、独立戦争を戦って戦死した残留日本兵をお詣りしました。
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マルガラナだけではなく、荒木・松井の慰霊碑にもお詣りしました。
これがプナルンガン村の慰霊碑です。
昨年の11月のもので稲川さんにまだお見せしていなかった写真です。
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これがブルングンガン村の慰霊碑です。
この写真も昨年の11月のものです。
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ところで稲川さま...
稲川さまの前の女性は稲川さまの古くからのお知りあいでした。
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稲川さまがブルングンガン村に入ると必ず来てくれました。
それは知っておりますが、お名前を聞いておりませんでした。
今年の11月にはお会いしてきます。
稲川さまが一緒でないことにがっかりなされると思います。

荒木・松井と言えば、この方を思いだします。
荒木・松井と同じ家に住んでいたスサンディーさんです。
稲川さまとは旧知の仲でした。
残留日本兵の平良定三さんの家でお会いした時のものです。
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稲川さま、
この写真を覚えておられますか。
残留日本兵として戦死しプラガの町にお墓がある「ワジャ」をお詣りした時のものです。
お墓をお守りしてくれるバンジャール会長の家の前で撮ったものです。
「ワジャ」の日本名がわかりません。
稲川様もお調べしてくださいましたが解りませんでした。
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これも残留日本兵・工藤栄のお墓です。
お墓に巻かれた布が汚れていました。
稲川さまは「新しい布を買ってください」
と墓守のバリ人に気前よくお金を上げました。
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稲川さま、
この場所を覚えておられますか。
ングラライが旗揚げをしたムンドックマランです。
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稲川さまがご存知の堀内秀夫の銅像があります。
戦後、稲川さまが堀内秀夫を「日本バリ会」にお誘いしたと聞いております。
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話、変わります。
稲川さまは戦後間もなくムグイの日本人集結所に住んでおられました。
その場所が思いだせないと私に探してくれと頼まれました。
ようやく探せて、その場所にご一緒したのがこの写真です。
当時と全く景色が違っていることに戸惑いになられました。
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バリに住む日本人の知人の話に移ります。
バリに住む日本人なら誰もが知る著名な方がおられます。
イスカンダール万亀子さんです。
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ある日、稲川さんのお泊りになっているホテルに入った時、
イスカンダール万亀子さんから、長い自筆の手紙が届いてました。
「お会いできませんでしたが足の痛みに効くお薬を届けます....」
とのことが書かれていました。
古くからの友人だそうですね。
イスカンダール万亀子さんもお悔やみになってることと思います。
ラマツアーという旅行会社を経営するイスカンダール万亀子さん。
その会社に入社したのが、右の村澤崇広さん。
「村澤君、村澤君」と、どこに行くにも村澤さんにお声がけをしていました。
お孫さんのように可愛がっている様子がうかがえました。
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稲川さま、清水様から伝言がありました。
バリの知人とのお付き合いを私と村澤さんに継いで欲しい....
と清水様に伝えていたことを知りました。
清水様も稲川さまを継いで毎年「マルガラナ大祭」に参加すると言っておられます。
大丈夫です。稲川さま...私たちは稲川さまのご意志を継いで参ります。
天国で沢山の友人とお会いできるようスギアシさんと一緒に祈っております。


by yosaku60 | 2020-03-06 04:32 | 帰らなかった日本兵 | Comments(1)

残留日本兵を調べに来た、嬉しい訪問客

私の右隣のお二人は、どちらも大学教授。
右端が日本の大学、その隣がバリの大学.....
私の左隣のお二人は日本の大学生....
さらに、その左のお二人はバリの大学生....
こんなに沢山の人が私を訪ねてきてくれたのです。
目的はバリ島の残留日本兵の取材...
こんなことを勉強したがるとは、なんと嬉しいことか!
しかも、こんなにお若い方々が。

残留日本兵を調べに来た、嬉しい訪問客_d0083068_09344017.jpg
日本の大学の教授さんが、
知蘭の特攻隊のこと...
敗戦で日本兵がインドネシア人に武器を渡したくとも、
渡せずに殺されたこと....
映画「ムルデカ」のこと....
残留日本兵の英雄墓地での扱い...
など、専門的なことを次々と聞いて来る。
残留日本兵に興味を持ってくれることが嬉しい。
ありがとう、訪ねてきてくれて嬉しかったです。

私が書いたバリ島の残留日本兵の本...
残留日本兵を調べに来た、嬉しい訪問客_d0083068_09444350.jpg
事実を淡々と書いたもので面白くありませんが....
と説明すると、
中央の三つ編みの学生さんが
「それがいいんです」
「事実を知りたいのです」
「全部読ませていただきます」....
と言うじゃありませんか。
ご立派.....ありがとう。

by yosaku60 | 2020-02-15 09:50 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

稲川さん、曽我さんと会う

日本軍統治時代、稲川さんはシンガラジャに住んでいた。
海軍民政部で物品購入担当をしていた。
同じ経理畑に曽我さんが住んでいた。
曽我さんはインドネシア独立戦争を一兵士として戦った。
でオランダ軍に殺された。
稲川さんと曽我さんも同じ官舎に住んでいた。
職場も同じなら官舎も同じだった。
曽我さんはバリ人と結婚しお子さんがいた。
まだヨチヨチ歩きだったそのお子さんを稲川さんは覚えている。
そのお子さんと稲川さん....
当時から73年経って二人は再会した(写真)。
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今まで、曽我さんの家には何人もの日本人をお連れした。
だが、曽我さんがもっとも喜んでくれるのは稲川さんと会う時だ。
父親が殺された時は、2~3歳。うっすらと覚えているという。
そんな父親の面影を稲川さんに見るからだろう。

by yosaku60 | 2019-11-25 10:25 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

工藤栄のお墓が移動していました。

稲川さんが工藤栄(残留日本兵)のお墓にお詣りに行きたいという。
三年前になるだろうか、
稲川さんがお金を出してくれてお墓の飾りの一新を村民にお願いした。
それがどのようになっているかを見たいという。
私もそれ以来お詣りしていない。

工藤栄のお墓はタンジュンブノアの先端近くの東海岸にある。
で、現地に着くと....びっくり!
工藤栄のお墓の廻りにあったお土産店なんぞ一軒もない。
代わりに大きなビルが二つも建っていた。
マリンスポーツのためのビルである。
勿論に工藤栄のお墓もない。
付近にいた者に、
「元日本兵のお墓がどこに移されたのか」と聞くと、
一人が「あそこ」というので「あそこ」に行くと、
単なる「サンガ(家寺)」だった。
他のひとりが「ビルの屋上」というので、ビルをかけ昇ると、
やはり「サンガ(家寺)」だった。
いくら私でも「サンガ」と「お墓」の違いは分かる。
バリ人は信心深い。
お墓を取り壊すなんてことはない。
工藤栄のお墓は一体どこに移されたのだろうか。

工藤栄(残留日本兵)のお墓....
過去の経緯を写真で追いながら書きたい。

1、埋葬

第三警備隊の白石勉二等兵曹と工藤栄兵曹長が
独立戦争に関連してオランダ軍に殺された。
埋葬されたのは戦後1年の1946年である。
埋葬したのは上官の月森省三大尉であった。
月森省三は、その地に二人を埋葬し、
二人の名を書いた卒塔婆を残した。

2、お墓の建立

それから35年の1982年...
埋葬された地点付近に不審な事故が続いた。
日本兵二人の祟りがあると噂された。
それを慰霊しようとする動きが起こった。
地元の村長さん(ニョーマン・プゲグ)が中心になって、
月森が埋葬した同じ位置に慰霊碑を建てた。
左の写真の右から二番目が月森省三(バリに来た)、
左端が村長のニューマン・プゲグ。
右の写真はニョーマンプゲグの親族たち(現在)。
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3、慰霊碑の発見

それから約30年、お墓のことは日本人の間で忘れられていた。
2014年、工藤栄さんの御親族から私に、
「工藤栄のお墓を探して欲しい」との依頼があった。
私は、タンジュンブノアの地で、お墓を見つけた。
左が、当初、村人の手で作られた慰霊碑。
右が、私がそれを見つけた時(傍に立つのはカミさん)。
写真を見比べて欲しい。
同じ慰霊碑なのに、右の方が低くなっている。
慰霊碑の下部の台座が石畳の下になっている。
バリ人はお墓の高さにこだわる。
で、慰霊碑を建て直すことにした。
工藤栄のお墓が移動していました。_d0083068_07451764.jpg
4、慰霊碑の建て直し

慰霊碑建て直しの費用は工藤栄さんのご親族が負担された。
慰霊碑取り壊しの際は、神様の許しをもらわねばならない。
その取り壊しの儀に工藤栄さんのご親族がご出席された(写真)。
工藤栄のお墓が移動していました。_d0083068_07500838.jpg
新しい慰霊碑が建てられた。
その入魂式にはバリ在住の多くの日本人にご参列をいただいた。
右の写真の奥の方に高く建っているのが新しい慰霊碑だ。
工藤栄のお墓が移動していました。_d0083068_07520195.jpg
.......

こんな経緯の慰霊碑だ。
それが消えたのだ。
付近にいる誰に聞いても行方を知らない。
まあ、バリ人にはよくあることだ。
で、昔のことを知っている村長さんの家に行ってみた。
ニョーマンプゲグの多分、お孫さんだと思うが、
バパ・マデという人物(写真)に会えた。
工藤栄のお墓が移動していました。_d0083068_19013042.jpg
ニューマン・プゲグの写真を見せると、
「私は間違いなく彼の子孫だ」という。
「日本兵の墓はどこに行ったのか」聞いた。
彼は、知っていた。
そして案内してくれた。
元の場所から南に500mほど離れた浜辺だった。
場所の名は、Pura Prajapati だという。
まあ、日本語で言えば、「火葬場」になるだろうか。
広い土地の中央に、こんなのが建っていた。
工藤栄と白石勉の慰霊碑だという。

工藤栄のお墓が移動していました。_d0083068_19044522.jpg
以前の慰霊碑には、
その頂上に日本兵とわかる水兵の帽子を被った顔があった。
よくよく見たが、それがない。
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5年前に新しくした卒塔婆もない。
同行したバパ・マデにそのことを確認すると、
卒塔婆はあった、だがなくなった。
水兵の帽子を被った顔の像は、この地の下に埋めたという。

そうなのだろう...
そうなのだろうが、
こうしたバリ人の話は完全に信用できない。
というのは、つぎのようなことがあった。

バパ・マデは、この地で沢山の日本人が殺されたという。
沢山の日本人が殺されて、私が知らないはずがない。
なんど聞きなおしても、そうだという。
そして、その場所は「あそこ」という。
彼の指さす「あそこ」は広い場所だった。
工藤栄のお墓が移動していました。_d0083068_08592445.jpg

歩いて近寄ってみた。
中央に何かある。
工藤栄のお墓が移動していました。_d0083068_09001235.jpg
更に近寄ると、こんなのがあった。
福神とある。
お墓の意味は解らないでもない。
でも、日本のお墓であれば色彩で飾らない。
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この墓の横に、こんなのがあった。
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書いてある文字の意味は解らないが、1970年とある。
独立戦争ではない。
1970年といえば、1967年がスハルトのクーデターの年だ。
スハルトは政権をとってすぐスカルノが大事にした「共産党」を弾圧した。
200万人にも及ぶ共産党員を殺したといわれる。
当時、中国共産党系列のインドネシア共産党の華僑も弾圧にあった。
数十万人の華僑が殺されたという。
もしかしたら、そうした華僑のお墓ではなかろうか。
年代がまあまあ合致する。
ただ、家に帰って調べると....
お墓に「福神」と書くのは、華僑よりも日本に多い。
どうしたものだろうか。
いずれにしても、
バパ・マデの「日本人がここで殺された」というのは信じがたい。
彼のいうことが信じがたいといえば、不安になる。
本当にこれが「工藤栄のお墓」なのだろうか。
バリで、こうしたお墓を確認する際には、本当に苦労する。
もう一回、この地に来て、ゆっくり調査したい。
それまで、工藤栄さんのご親族には知らさないことにする。


by yosaku60 | 2019-11-19 09:16 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

残留日本兵の足跡に案内する。

ワジャのお墓に着いた。
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豪華なお花.....!!
ワジャもびっくりしているだろう。
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お若い方のお詣りは嬉しいものです。
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帰り道のプナルンガン村...
松井・荒木の祈念塔に案内した。
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ブルンブンガン祈念塔の前の道路が整備され....
銘鈑も新しくなっていた。
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小寺と言う名の日本兵、未だ探せないでいる....
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新しい布が巻かれていた。
松井・荒木は今も村人に大事にされている。
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by yosaku60 | 2019-08-26 11:10 | 帰らなかった日本兵 | Comments(2)

高木米治兵曹長さんの遺児に会って来た。

インドネシア独立戦争を戦った高木兵曹長。
いわゆる残留日本兵。
機関銃操作に秀でていてムンドックマラン上空を飛ぶ...
オランダの飛行機を地上から狙って撃ち落とした。
最後はマルガラナでングラライ将軍と一緒に玉砕した。
そんな高木兵曹長の遺児のアリアニさんにお会いしてきた。

カミさんはアリアにさんより20日ほど早く生まれた。
同級生と言うことで会うと話が合うらしい。
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彼は、アリアニさんの息子さん。
高木兵曹長のお孫さんだ。
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左は、奥さま。
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大きな家に10人ほど一緒に暮らしている。
アリアニさんからスタートしたご家族...
ほとんどが日本人の血が流れている。
高木兵曹長のバリ名は、マデ・プトラ....
日本人として、バリ人に溶け込み、命を全うされた。
毎回、背筋が伸びる想いで、ご一家を訪ねる。

by yosaku60 | 2019-05-06 10:10 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

残留日本兵・平良さん宅を訪ねる

現在、バリ島には残留日本兵のご一家が3軒残っている。
曽我さん、高木さんはインドネシアの独立戦争で戦死した。
曽我さんの場合、遺児として男の子が残った。
高木さんの場合、遺児として女の子が残った。
そのお二人には、時々お会いしに行く。
3軒のうちの残るもう一軒は平良定三さんの家である。
平良さんは戦後も生き残ったので8人のお子さんがいる。
その内の4名が今もご健在だ。
現在、平良家を継いでいるのは4番目のクトッさんだ。
先日、そのクトッさんをお訪ねした。
お元気だった(写真)。
残留日本兵・平良さん宅を訪ねる_d0083068_10310650.jpg
応接間には新しい絵が飾ってあった。
クトッさんの息子さん(平良さんのお孫さん)が
描いた平良さんご夫婦だ。
よく似ている、ほんとうに良く似ている。
残留日本兵・平良さん宅を訪ねる_d0083068_10340184.jpg
今はお二人ともお亡くなりになったが、
私は奥さまとは何度もお会いしている。
平良さんのことを奥さまの口から直接にお聞きしている。
平良さんご本人とはお会いできなかったが、
残留日本兵の調査を進めてゆくと、
その行きつく先で、いつも平良さんのご存在があった。
お孫さんが描かれた平良さんの肖像画を見ながら...
私があちこちで「出会った平良さん」を思いだしたい。


1、バリ島の本に記述の日本兵はほとんど平良さんが語ったものだ。

バリ島で独立戦争を戦って戦死した兵士の略歴を
書いた本(インドネシア語)がある。
私もその本を読みながら、残留日本兵を探した。
その略歴記述のところで「ニョーマンブレレン曰く...」
との注釈が入っていた。
ニョーマンブレレンとは、平良定三さんのバリ名である。


2、工藤栄さんの慰霊碑お護りに平良さんが関わっていた。

工藤栄さんのご家族から私に
「工藤の慰霊碑があるはずなので見つけて欲しい」
とのメールがあった。
それを縁に工藤栄のご家族と懇意にさせていただいた。
そんな時いただいた資料に、
慰霊碑には上官の月森省三さんが関係していることが書かれてあった。
その月森さんがバリ島に来て、
工藤栄の慰霊碑を見つけた時に同行したのが平良さんだった。
平良さんは地元のバンジャールと交渉し、
慰霊碑の安寧に尽力した。


3、曽我さんの口から出た最初の言葉は「ニョーマンブレレン」だった。

曽我と言う日本兵がいてオランダ兵に殺されたとの記述があり、
そこには曽我さんには遺児がいる...
と書かれてあった。
私は2年かけて曽我さんの遺児探しをした。
そしてついに見つけた時、本当に日本兵の遺児かどうか疑いを持った。
が、探せた曽我さんが、
「ニョーマンブレレンが時々家を訪ねてくれた」と言う。
平良定三さんが日本兵の遺児を見守るためにこの家に来ていたのだ。
間違いなく、目の前にいるのが曽我さんのご遺児だ。
確認できてうれしかった。


4、マルガラナに行くたびに平良さんに出会えた。

独立戦争中に戦死した兵士は全員、
マルガラナに祈祷塔(チャンディ)が造られている。
残留日本兵・平良さん宅を訪ねる_d0083068_11440775.jpg
日本兵の祈祷塔は11基ある。
このうち日本名が判っているものには漢字で氏名が表記してある。
この日本名表記は、
平良さんがバリ州に許可をもらって書きこんだものだ。
私は毎年マルガラナに行き祈祷塔をお詣りするが
日本名を見るたびに平良さんのご苦労を思う。


5、ブンアリの隠れ里「プガヤマン」を知ったのは平良さんの記述による。

「ブンアリ」という名の勇敢な日本兵の潜伏したところを
平良さんは「ウガヤマ」と記述していた。
そこには日本の義勇兵が何人も潜んでいた。
是非に「ウガヤマ」の地を探したいと私はブレレン中を探し回った。
ある日「プガヤマン」という地を見つけた。
「ウガヤマ」と似ている。
その地に行ってみた。
日本兵が潜んだ三つの洞窟を見つけた。
残留日本兵・平良さん宅を訪ねる_d0083068_20161988.jpg
ブンアリの潜伏先を見つけて日本兵の足跡が埋まった。
「尊崇」を書き上げ自費出版する自信を得た。
これも平良さんのお蔭である。

なお、ブンアリはワナサリで戦死した。
ワナサリの戦死の地にブンアリの慰霊碑(写真)が建っている。
残留日本兵・平良さん宅を訪ねる_d0083068_20554345.jpg

6、日本兵の心意気を知った。

平良さんは2004年にお亡くなりになった。
インドネシアの陸軍儀杖隊のラッパに送られ8名の兵士が棺を運んだ。
2004年と言えば、15年前である。
ついこの間である。
戦後50年以上をかけて過去を語ってくれた。
直接にお会いできなかったが、
間接的に戦中・戦後・戦争というものを多く学んだ。
戦後の日本からの観光客がうすっぺらすぎる、
と、強く嘆いておられたのも知った。
平良さんと会ったことのある坂野徳隆氏のご著書は
「サムライ、バリに殉ず」だ。
それを読むと、名のとおり「サムライ」であることがわかる。
死ぬこと、負けることなど、もともと考えていない。

サムライ....

私は、平良さんのご家族にお会いすると、
平良さんの戦い方を思いだし....
それがいつか、ルバング島の小野田少尉の戦い方に繋がる。
どちらもゲリラ戦だ。
激しさでは同じようなものだった。
小野田少尉がルバング島を出て来た時、私は28歳だった。
人生で最も多感な時だった。
私は小野田少尉のことを根ほりはおり追いかけた。
多くのことが脳裏に残っている。
その脳裏に残ることを何度も再確認したくなる。
昨日もそうであった。
昨日一日、私は小野田少尉に浸った。
残留日本兵・平良さん宅を訪ねる_d0083068_12442290.jpg
これまで何度も読んだものをもう一度読んだ。
あらたな感動があった。
感動と同時に怒りもあった。
この怒りは新しいものだった。
当時、小野田が悩んだことは新聞で知っていた。
小野田は日本に嫌気がさしブラジルに逃げた。
30年も戦った兵士と言うことで、
当時世界中が小野田の勇気と日本魂を賞賛した。
私は、そんな世界の評判を嬉しく読んだ。
日本魂イコール小野田....を誇りに思っていた。
そんな世界に誇れる男を日本が追い落としたのだ。
誰が、何が、そうさせたのか。
その理由を当時の私は知らなかった。
知りたかったが新聞でも確か詳しく書かれなかった。
が、昨夜、その理由を語る小野田の映像に出会えた。
解った。小野田を苦しめたのは....
現在の日本のリベラルと言われる輩からの攻撃だった。
今もまだ続いているということだ。
それに後日だが、小野田は、
パフォーマンスに終始する小泉元総理をも怒っている。
明日は、小野田少尉のこれらふたつの怒りを書きたい。

by yosaku60 | 2019-02-15 12:49 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

自費出版「尊崇」の販売

自費出版「尊崇」は、300冊作りました。
その内、200冊は売れ、残り100冊になりました。
その100冊ですが、バリ島に30冊、日本に70冊の在庫があります。

読んでいただいてなんぼのモノ...ですから、
早く処分したく思っています。

で、販売を次のように致します。

(バリ島での販売)


30冊全てをレストラン「ムティアラ」に販売委託します。
一冊=150000ルピアです。
お買いくださる方は、セセタン通りの「ムティアラ」でお求めください。

(日本での販売)

来年の2月上旬まで、私は、石川県の自宅に居ります。
日本でお求めの方は、私のメールアドレス 
yoji-yoko@po3.nsknet.or.jp
に、送り先と冊数を連絡下さい。
郵送致します。
ただ、郵便局の「代引き」で送りますので、
本代1500円+送り代650円+郵便局手数料350円....
の計約2500円となることご承知おき下さい。

青木茜様に申し上げます。

青木さま、
ということで、日本での送り先を教えてください。
日本に戻ってから、郵送いたします。

.....

写真は、一昨日、バリ島の我が家に来られ、
6冊(それも一万円で)お買い頂いた、小山政史先生(ドクター)。
自費出版「尊崇」の販売_d0083068_12532323.jpg

by yosaku60 | 2017-11-08 12:53 | 帰らなかった日本兵 | Comments(7)

残留日本兵の卒論で賞を受けた斎藤紗季さん。

斎藤紗季さんが御両親と家に来てくれた。

2015年2月11日~2月15日の私のブログ.....
「紗季さんの一週間」を見て欲しい。

当時、中央大学の大学3年生だった、斎藤紗季さんは、
卒業論文に「バリの残留日本兵」を書くことにした。
で、私の処に取材に来て、
私がバリを案内した記述が「紗季さんの一週間」であった。

次の年、紗季さんは卒業論文を書きあげ提出した。
それが優秀と認められ賞を受けた。
残留日本兵の卒論で賞を受けた斎藤紗季さん。_d0083068_16442773.jpg
卒業論文は、私が指導した訳でない。
私は、逢うべき人を紹介し、見るべきところを案内したに過ぎない。
書いたのは、全て斎藤紗季さんだ。
が、そんな紗季さんが表彰を受けて、わがことのように嬉しかった。

それから、一年.....

それが、それが.....本日、
紗季さんが、卒業論文が掲載された「報告書」を持って、
ご両親と一緒に私に挨拶に来てくれた。
残留日本兵の卒論で賞を受けた斎藤紗季さん。_d0083068_16384751.jpg
左から、紗季さん、お母さん、お父さん、エヴィ.....
紗季さんは、見てのとおりお母さん似の美人であるが、
それに慢心することなく心根が優しい。

さて、

お礼を言われると舞い上がってしまう傾向がある、私...
先ほど来、ふんわふわと舞い上がっている。

by yosaku60 | 2017-09-19 16:58 | 帰らなかった日本兵 | Comments(2)

出版記念パーティー

出版記念パーティを主催して頂いた、佳子さん邸....
の一階ロビー。
出版記念パーティー_d0083068_10313364.jpg
25メートルのプールは泳ぎ甲斐がありそう。
出版記念パーティー_d0083068_10330384.jpg
2階に上がり....
出版記念パーティー_d0083068_10334826.jpg
外を見ると、ちょうど「凧揚げ大会」の真っ最中。
出版記念パーティー_d0083068_10354436.jpg
で、始まった「お食事」....
夫のフイリップはフランス人。
で、佳子さんもフランス料理がお得意。
エヴィ達女性陣は、さすが詳しい。
横文字をいっぱい並べた料理の数々をどれも美味しいと感嘆する。
私は、どれが何でどれがそれか全くわからない。
手前の「ちまき」は、佳子さんちの使用人シェフ。
それ以外は、全て佳子さんご自身の手作り。
出版記念パーティー_d0083068_10432464.jpg
をテラスでいただき....
出版記念パーティー_d0083068_10442674.jpg
んで、次に始まったのが、新聞社の取材。
出版記念パーティー_d0083068_10593694.jpg
続いて「説明会」というのかな....
私がもっとも苦手とする「おはなし」
が、後ろの方に、バリ人のグループが話を聞いてくれていた。
話は、ところどころ、エヴィが通訳してくれた。
実は、私が「尊崇」をもっとも読んで欲しいと思っているのは、バリ人。
話しながら、時々、バリの方々が頷いてくれるのが嬉しかった。
そして、終わったら....
バリ人の若い男の人が挨拶に来て、
「バリ人への語りかけ、心に届きました」
「感激しました、ありがとう」
と言ってくれたのです。
私は、話し下手ですが、このひとことで救われました。
ありがとう。
出版記念パーティー_d0083068_10505512.jpg
佳子さん!!
素人の私なんぞが書いた本「尊崇」のため、
かくも盛大な「出版パーティ」を開いてくださってありがとうございます。
身に余る光栄なひとときでした。
写真は佳子さんとフランス名誉領事。
出版記念パーティー_d0083068_10553989.jpg


by yosaku60 | 2017-08-21 10:56 | 帰らなかった日本兵 | Comments(2)

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