あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



カテゴリ:バリ島での独立戦争( 165 )


私の原点に二人の女性を案内する(その4;曽我さんを訪ねる)

私たちは次に曽我さんの家を訪ねることにした。
曽我さんの父親は日本人で独立戦争で戦死した。
母親はバリ人だ。

そんな曽我さんを探し得た時の私の話を先に書きたい。

バリの本では曽我さんのことを次にように書かれていた。
..........
彼の日本名は曽我であった。
彼はバドゥンのシバンカジャに住んでいた。
シバンカジャでは、村の若者と一緒に戦闘に参加した。
戦闘には非常に精通していた。
彼は住んでいた家の娘と結婚した。
男の子が生まれた。
彼はタバナンのパトリティーでオランダ軍に捕らえられた。
オランダは見せしめのため、彼をトラックにロープで結び、
引きずりまわして殺した。
彼はまさに体と魂を犠牲にしてインドネシアの独立のために戦った。
..........

男の子が生まれたとある。
今もご存命だろうか。
ご存命なら、今もシバンカジャに住んでおられれるのだろうか。
日本名は曽我だがバリ名は何と言うか知らない。
私は、シバンカジャの近くに行った時は必ず聞き込みをした。
聞き込みを重ねて2年、遂に探し得た。
生きておられた。
お会いできてうれしかった。
これがその時の写真だ。
左が曽我さんの奥さま、真ん中が曽我さんだ。
d0083068_12380672.jpg
私よりも3歳年長だった。
殺された日本兵の子供であることはご存知だった。
さらに日本人の子に生まれたため苦労されたことをいろいろと聞かされた。
お母さんが日本人と結婚したということでお母さんの家族がいじめられた。
お母さんの弟(曽我さんにとっては叔父さん)が、
日本のスパイだと思われてバリ人に殺された。
曽我さんも小学校の時は日本人の子ということでいじめられた。
父親が独立戦争で戦死したことの恩恵なぞ受けていないのだ。
日本人の血が入っていると言うことでご苦労なさったのだ。
にも拘わらず、曽我さんはお父さんのことを尊敬している。
3歳の時に戦死したので、うっすらとしか覚えてないという。
そんなお父さんのため、曽我さんは自分の家に神棚を置いている。
日本式はこうなのだろうと想像して作った手造りの神棚である。
私も曽我さんの家に行った時は、その神棚に手を合わせる。

ということで、
曽我さんは日本人の子として生まれたために苦労された。
そんな曽我さんを日本人の私が黙ってみている訳にはいかない。
大げさに言えば、曽我さんに
「日本人はあなたのことを忘れません」とお示ししたい。
で、私は時々、曽我さんをお訪ねしている。

さて、ユキさんとミチヨさんをお連れした時、
残念ながら、曽我さんはお出かけされていて、お会いできなかった。
が、曽我さんの奥さまとお孫さんにはお会いできた。
ユキさん、ミチヨさんは曽我さん手造りの神棚に手を合わせてくれた。
曽我さんがお帰りになれば、奥さまからそのことが伝わるはずだ。
曽我さん、同じ日本人として、これからも時々遊びに来ますからね!!

by yosaku60 | 2019-10-19 13:13 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

私の原点に二人の女性を案内する(その3;プナルンガン村の慰霊碑)

プナルンガン村の慰霊碑の前に立った。
左から、ユキさん、ミチヨさん、カミさん。
三人の左の敬礼している像は日本兵である。
d0083068_10473682.jpg
この慰霊碑の近くに村役場がある。
そこで交渉すれば鍵が借りられ中を見ることができる。
が、前に書いたように今は祭壇が仏式で飾られている。
二人には中を見てもらいたくなかった。
ちなみに以前の内部を昔に撮った写真で紹介する。
松井と荒木の写真が飾られ、
その横に部下(戦った村の衆)が刻印され、
中央にはチャナン(お供え物)を置かれる机があった。
典型的なバリヒンドゥーの祭壇であった。

d0083068_10542317.jpg
ユキさんとミチヨさんに、松井と荒木の話をした。
大体、こんな話をした。

松井久年は当時30歳、中国戦線時代から戦闘に参加し、
6年間戦い続けていて兵曹長という兵隊上がりの最上位だった。
一方、荒木武友は松井より5歳下の25歳、上等兵曹であった。
1946年1月10日、二人は日本軍を抜け出した。
戦争に負けた日本に悲観しバリ人として独立戦争を戦うことを決めた。
当時、バリ人は再び統治に戻って来るオランダ軍と戦うことを決めていた。
日本軍の武器が欲しい、日本兵の援助が欲しい、と思っていたが、
日本軍統治時代に苦しめられた経験があるので日本兵を信用していなかった。
そんな処に松井と荒木の二人が転がり込んできた。
二人が信用できる人物だろうか。
一緒に戦う人物だろうか。
転がり込んできた二人の真意を確かめるため、バリ人の隊長は二人を試した。
1、日本軍から武器を持って来て欲しい。
2、オランダ軍を攻める勇敢さを見たい。
二人は二つをチャレンジしたが、どちらも成功しなかった。
ただ、チャレンジする二人の行動を見たバリ人は、二人を信用した。
以後、二人の元にバリ人が集められ戦う兵としての訓練が行われた。
二人に訓練されたバリの若者は成長し整然とした軍隊になった。
訓練から3ヶ月、バリ兵がデンパサールのオランダ兵舎を攻めた。
ムグイからデンパサールまでの約20キロの夜中の行軍であった。
500人を超える行軍であったにも拘わらず、
誰にも気づかれることなく目的地に着いている。
訓練の成果だ。
また、日本軍から武器をもらい受ける話も一部成功した。
あとになって12.7ミリ重機が松井と荒木の元に届けられたのだ。
12.7ミリ重機は飛んでくる飛行機も落とせる兵器だ。
ただし持ち運びの台座を含めると300キロの重さがあった。
運搬には、4~6人の兵が必要であった。
ではあったが、
この重機を運びながら行進するングラライ隊をバリ人は感激して迎えた。
ングラライ隊の看板兵器が松井が扱う12.7ミリ重機だったのだ。
12.7ミリ重機が威力を発揮したのは「タナアロンの戦い」だった。
タナアロンは、アグン山の直下の深い森だ。
そこで、ングラライ隊がオランダ軍に包囲された。
ングラライ軍350名に対しオランダ軍は2000名いた。
隊の後ろはアグン山で退却する逃げ道がなかった。
ングラライ隊は、陣(次図の如く)を張った。
中央の⑥の本隊に敵をおびき寄せ、
近づいたところを本隊の横に配置した12.7ミリ重機が
(味方の⑤の頭上を超え)敵を襲撃するのだ。
戦いは1946年7月7日に始まった。

d0083068_11505381.jpg
順調に攻めてきたオランダ軍は、
ングラライ軍から250Mのところで何を思ったか休憩をとった。
250Mもあれば、襲われることはない。
総攻撃前に隊を整える意味があったのかも知れない。
ところがどっこい。
12.7ミリ重機にとっては絶対に的を外さない距離だ。
松井が扱う12.7ミリ重機が火を噴いた。
この戦争で、オランダ軍は96名の兵士が命を落としている。
に対して、バリ人兵士は一人の死者も出さなかった。
今も語られるングラライ軍の大勝利だった。
ただ、語られてはないが、
この戦いで12.7ミリ重機の弾はみな撃ち尽くしたようなのだ。
その後、ングラライ軍はアグン山(3008M)を登り、
アグン山の背後の村に降りる。
12.7ミリ重機は多分、解体され放棄されたのだろう。

ングラライはオランダ軍と幾度も戦ったが、
特にタナアロンの大勝利を語りたくて、この話をした。
ここまでは、ユキさんとミチヨさんには話してない。
ブログの読者のみなさんに聞いて欲しくて書いただけだ。

もうひとつ、みなさんに聞いて欲しい話がある。
私が「尊崇」を書くにあたり、
自分自身が涙しながら書いたくだりだ。

ングラライ隊350名、撃つ弾が少なくなり、
民衆に見せるためだけの行進を続け敵が来ると逃げ回るだけ....
そういうことが続き、ングラライは隊を解散することを決めた。
その会議の場所をムンドック、プンゴレンガンという。
この時の話は「尊崇」から引用する。

「尊崇」372頁.....

部隊の解散が決まり、隊員の受け取り方はいろいろだった。
が、悲しむ者がほとんどだった。
ジャワ海軍のマルカディ大尉は大きな木の根元に寝ころんだ。
黒の海軍帽で瞼を被い顔を見せなかった。
最も落胆したのが、日本兵の松井だった。
彼は解散の話を聞くと全く寡黙になった。
眼から幾筋もの涙が流れていた。
涙をハンカチで拭うと、やにわに軽機を掴んで立ち上がった。
付近のものは発砲するかもと恐れた。
彼は大声で「馬鹿」と怒鳴るとどこかに去っていった。
自殺しにいくと誰もが察した。
プゲッグ・プトラが彼のあとを追っかけた。
なんとしてでも思いとどませるつもりであった。
プトラが追いつくと....
松井は黙って軽機から弾を抜きだした。
涙を拭ったハンカチで軽機の掃除を始めた。
掃除しおわり、弾を契機に装着した。
プトラが傍にいなければ、松井は自決するつもりだった。
松井は涙しながらプトラに語った。
「私は6年間、いろいろなところで戦闘に参加してきた」
「だが、こんなことは初めてだ」
「死んだ方がましだ」
「もう私は我慢できない」

......

この話を書く時、松井を察し私自身が涙した。
松井が涙した、ムンドック、プンゴレンガン.....
私もその場所に行ってみたく随分と探した。
そんな地名は本に載っていない。
近くの住民のみが語っている名前だ。
適当に検討をつけて聞きまわるしかない。
私はシンガラジャに行く度に場所を替え聞き込みを続けた。
そして、見つけた。
ここがムンドック・プンゴレンガンだ。
田圃の奥の小高い丘がそうだ。
ムンドック・プンゴレンガンとは、
中華鍋をひっくり返したような形をした丘、という意味だ。
まさに、その通りの丘だ。
この丘を見つけた時の感激は今も忘れない。
d0083068_12524203.jpg
記述には、
ムンドック・プンゴレンガンの周囲には、
小川があったと書かれている。
その小川(写真)を見つけた時も感激した。
左がカミさん、右が私。

d0083068_13031451.jpg
さらに、松井が涙した丘の上...
今はこんな祠が建っている。
d0083068_13442065.jpg
今日のブログ....
調査に苦労した昔を思い出しながら、懐かしく書けた。

by yosaku60 | 2019-10-18 13:44 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

独立宣言・三日前の今日

今日は、日本語を教えているアリさんの来る日....
d0083068_05325374.jpg
勉強を始める前の30分を日本語で雑談することにしている。
その「雑談のテーマ」を何にしようか....いつも迷う。
が、今日は、8月14日、あと、三日したら独立記念日....
即ち...

8月14日が今日...
8月15日が日本の終戦の日....
8月16日がバリ島でパジョコが地下会合(日本への抵抗)を開いた日...
8月17日がジャカルタでスカルノが独立宣言した日....

この激動の日の三番目に上げた「パジョコの会合の日」...
のことをアリさんと話す「雑談のテーマ」に選ぶことにした。
バリ人はングラライを知っているがパジョコを知らない。
知らなさすぎる。
ングラライは8カ月間、バリ島のリーダーだった。
独立戦争は4年半続く。
ングラライ死後の長い間、実に激動の間....
バリ島のリーダーはパジョコだった。
それがバリ人の間に知られていないのが残念だ。

最初の会合をもったダルンには、こんなのが掲げられている。
1945年8月16日.....と書かれているでしょう。
この時点、パジョコはまだ日本の敗戦(前日)を知らなかった。

d0083068_05455896.jpg
アリさんに見せるためにパジョコ関連の写真をまとめた。
左がパジョコ本人、中が戦後奥さまと結婚された時のもの、
右が、現在(4年前に私がお会いした時)の奥さまと息子さん。
奥さまは今もご健在です。

d0083068_05581914.jpg
アリさんには、同時に三浦襄の話も少ししたい....
と、思っていたら「バリ会」の昔の会誌(1976年)に、
三浦襄の娘さん(斎藤久子さん)がバリに来て、
お父さんの墓をお詣りしたことが載っていた。

d0083068_06183723.jpg

その記事を読むと、バリ島滞在中はマデダマさんに、
ずーとお世話になったということが書いてあった。
マデダマさんは今はお亡くなりになったが奥さまはご健在だ。
何度か家に呼ばれてお会いしている。
左が三浦襄、中が三浦襄のお墓、右がマデダマさんだ。
マデダマさんは独立戦争では重い大砲の弾を持って走った。
戦後は、日本の「バリ会」に呼応してバリの「日本会」をまとめた。
マデダマさんのことも忘れてはならない。

d0083068_06102507.jpg
アリさんに語ることが多すぎる。
が、間もなくインドネシア人なら誰しもが胸に手を置く独立記念日だ。
アリさんに少し我慢してもらって、一時間かけて話そう....と思っている。

by yosaku60 | 2019-08-14 06:12 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

Pangejaranの慰霊碑を訪ねる

タナアロンの戦いでのングラライ軍は、
自軍の戦死者ゼロで96名のオランダ軍兵士を殺すという大戦果を挙げた。
が、持っている弾をほとんど撃ち尽くしていた。
武器が使えない状態でアグン山を越えアバン山に沿いに歩きバトル湖の北に出た。
Belandingan村で休憩をとるも村人に密告され又も西に逃れた。
そのまま西方に歩きPangejaran村に着き村人に歓迎され休憩をとる。
が、その夜、誰が通報したか突然にオランダ軍が襲ってくる。
ングラライ軍は村の西のクランディス渓谷に落ちるように敗走した。
が、戦闘で見張り二人が殺された。
その慰霊碑がこれ(写真背景)だ。
d0083068_19063238.jpg
中央の村の男がここで戦闘があったことを知っていた。
見張りの二人がここで戦死したことも知っていた。
地元民が慰霊碑の訳を知っているのは珍しい。

by yosaku60 | 2018-11-24 19:12 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

マニク・リユに行って来た(現地調査)

マニク・リユに行って来た。

ウブドの西の町を通り過ぎギリクスマ で左折し
脇道に入る(「Manik Liyu」の標識が出ている)。

道路は最近に舗装しなおされたようできれいだ。
走りやすい。
最近のバリ島、山の奥まで舗装しなおされてる。
10年前とは確実に変わっている。

車やバイクの往来が少なく快適な走行が続く。
左右の見晴らしも良い。
d0083068_10270970.jpg
家を出てから1時間半、思ったより早く、
マニクリユに着いた。
早速、聞き込み開始....
d0083068_11082791.jpg
ングラライ軍がこの町に来たことなど、誰も知らない。
まあ、思った通りだ。
が、戦争記念塔はあるという。
「そうか、あるのか」びっくりだ。
で、行ってみた。
立派なのが建っていた。
d0083068_10312089.jpg
マルガラナのミニチュアのような記念塔である。
松井と荒木が祀られているプナルンガンの記念塔と同じである。
戦いがあったことを示す塔もあった。
d0083068_10335085.jpg
これだけのものが揃っておれば、
村の言い伝えも残されているだろう、
と記念塔の意義を聞き歩く。
が、村の誰もが知らない。
どうして知らないのだろう....
なんて思わない(笑)。
バリ島はどこに行ってもこんな具合だ。
過去のことなぞ、気にしない。
識字率5%程度の時の戦いだから、記録も残っていない。
さはさりながら、やはり聞き歩いた。
が、記念塔の意義を知っている人は誰もいなかった。

まあ、いい。
記念塔があることだけ知っただけで由としよう。
それ以上の取材を諦め、昼食をとるためキンタマニーに行く。

途中、バトゥル山(左)、アバン山(中)、アグン山(右)の
見える箇所があった。 
三山が一緒に見える時は、そう多くない。
アグン山が雲に隠れることが多いからだ。
が、この日はアグン山も見えた。
薄く煙をあげて噴火の余韻も確認できた。
d0083068_10440887.jpg
バトゥル山、バトゥル湖、アバン山が
展望できるレストランで昼食を摂る(写真はエヴィ)。
d0083068_10461538.jpg
昼食を摂りながら思った。
これで終わりにしたくない。
あれほどの記念塔があったのだ。
村の誰かが記念塔の意義を知ってて当然だ。

もう一度、マニクリユ村に行こう。
私は、エヴィとカミさんに発破をかけた(笑)。

で、マニクリユ村に戻ったこと、やはり正解だった。
村長さん(写真=スアルティカさん)に逢えたのだ。
d0083068_10505161.jpg
村長さんは知っていた。

1、ングラライ軍が大勢で来て、ここで一晩泊った。
2、今でも11月20日の彼の命日に記念祭が行われている。
3、ングラライの軍(800人)の食事は、村人総出で準備した。
4、今のマニクリュ村は350軒だが、当時は今より大きかった。
5、ングラライの後に日本兵が来たことは村に伝わっている。
6、が、その日本兵の名前は伝わっていない。
7、村がオランダ軍に全て焼かれたことも伝わっている。
8、記念塔は、この村からングラライ軍に加わり戦死した者がいるからだ。

ということであった。
これが解っておれば、「尊崇」のマニクリユ村に関する記事、
もっと、大胆に筆が運べたのになあ~、
まあ、書いたことが合っていた裏付けがとれただけでも由としたい。

by yosaku60 | 2018-07-02 11:06 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

マニク・リユに行ってくる(予告)

エヴィがもうすぐ日本に行ってしまう。
エヴィに居てもらわねばできないことがある。
今日それをやってしまうこととする。

マニクリュに同行してもらうことだ。
マニクリユ;Manik Liyu (バンリ県)
d0083068_08160230.jpg
「尊崇」は書きあげて本にしてしまったが、
本当は、是非に事前に調査に行きたかった所だ。
調査に行かなかったので、
マニクリュについては、多くを書けなかった。

(書いたのは....)

ングラライは800名の軍勢で、マニクリユに着いた。
武器を持たぬ兵(竹槍だけ)も多かった。
そんな兵を故郷に帰すことにした。
430名がマニクリユの地で帰され軍勢は370名になった。
精鋭ばかりとなった。
で、ここから、タナアロンの戦い向かった。

(書かなかったのは....)

後日、マニクリユにはオランダ兵が駐屯する。
そのオランダ兵を残留日本兵が主の「特別遊撃隊」が襲う。
怒ったオランダ軍がマニクリユの村を焼き払う。


.......

 で、
(書いたのは)の、その「言い伝え」が村に残っていないか。
(書かなかったのは)は、本当にそんなことがあったのか。

その二つを調べに行くのだ。
バリ人は昔のことを語り継がない。
よほど掘り起こさないと聞き込みができないと思う。
私のインドネシア語では、そんなことはできない。
エヴィの助けが必要だ。

エヴィは朝の8時に来ることになっている。
あと、30分だ、
あわただしく道路図(上)も書きあげた。
間に合った、行ってきます。

by yosaku60 | 2018-07-01 08:31 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

ウオンガヤグデ村の悲劇(その4;42名を殺害する)

6名の若者がングラライ軍の陣地にやってきた。
彼らの持つ竹槍や短剣には、まだ血が付いていた。
わざと血の付いたのを見せるために拭かないでいたのだった。

どうした、その血は?
と聞くと、ムルデカ!(独立!)と興奮して叫ぶ。
興奮するな、ゆっくり話せ、と言うと。
中の勇敢そうな若者が前に出てきて、早口で
「42人、全員を殺し、穴に埋めて来ました」
と言う。
何があったのだ、
もっとゆっくり話せ、と重ねて聞くと、
次のように語り出した。

昼頃、親オランダ派の住民の大部隊が刀や短剣で、
武装してワオンガヤグデ村にやってきた。
村を守っていたのは、我々(数人)だけだった。
我々の傍には本当は爆破しない教練用の手榴弾が
あった。
私は、その手榴弾を持ちあげ、相手を睨みつけて
言った。
「手をあげろ!」
「さもなくば、この手榴弾を投げる」
「お前らは全員死ぬぞ!」
大部隊の全員が震えあがって手を挙げた。
「動くな!」
「動いたら、爆弾をお前らに投げるぞ!」
もう一度脅すと全員が恐怖で固まってしまった。
固まって動けなくなった敵をひとりひとり刺していった。
竹槍や短剣で刺していった。
次から次と刺される間、敵は固まったままだった。
結局、6人で42名殺しました。

.......

この殺害事件があった後、オランダ軍は怒って村を
取り囲み、村に火を放った。
村人はちりじりばらばらに逃げ、若者の多くは、
ングラライ軍の行軍の後を追って合流したが武器を
持たず、ングラライ軍にも迷惑をかけるだけで、
バンリ県のマニクリユ村で解散となった。で、再び、
ウオンガヤグデ村に戻る羽目となったが、その後も
オランダ軍から目をつけられ散々な目に遭った。

その怒りのメモリーが、この記念塔である。
d0083068_10270232.jpg


by yosaku60 | 2018-06-18 11:07 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

ウオンガヤグデ村の悲劇(その3;武器がなくとも勝てた理由)

6人の武器を持たないバリ人の若者が
42人の武器を持ったバリ人の若者を殺した。

なぜに、こういうことができたかを探る次の......

①独立派の若者は武器を持っていなかった理由。
②武器を持たずに相手に勝てた理由。

二つの理由のうちの
今日は、②武器を持たずに相手に勝てた理由、である。

(武器を持たずに相手に勝てた理由)

私は、こういう場面にであったことがないので、想像する
だけだが、ひとことでいえば「迫力の違い」であろう。

武器を持たない若者は、日本兵から教練を受けていた。
武器を持った若者は、オランダ軍から武器をもらっただけの者だ。
教練を受けていた者と受けていない者との違いだ。

教練をした日本兵は、大久保宗臣 海軍兵曹長
          満留四齢  海軍衛生一曹
          土屋道義  海軍兵曹長
          松村巌   海軍一曹
          美馬芳夫  海軍二等兵曹....だった。

日本軍には武器を持たずに敵と戦う時の次の教訓があった。

1、銃や剣がなければ、腕で相手を絞め殺せ
2、腕がなければ、歯で相手を噛み殺せ
3、腕も歯もなければ眼で相手を睨み殺せ

残留日本兵の5人は、バリの若者にこうした教訓を徹底して
教えたものと思う。

日本兵がインドネシア人を徹底的に教練した例として、
「PETA=郷土防衛義勇軍」が有名である。
インドネシアの第二代大統領のスハルトもPETAで日本兵から
教練を受けていた。
彼は独立戦争を振り返り、次のように言っている。

  インドネシアは日本から独立を与えられたのではない。
  インドネシア自身で勝ち取った。
  だが、日本軍からは精神の鍛練を教えられた。
  それは独立を果たす上で大きな礎となった。

日本兵の教練がどのようであったかは、私がブログで書いて
いる「柳川宗成」をご参照頂きたい。

さて、
ということで、バリ人6人は、
武器を持たない代わりに、戦う精神力を持っていた。
そんな6人が、どういう風にして武器を持った42名を
殺せたかは、明日、書きます。

by yosaku60 | 2018-06-17 09:04 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

ウオンガヤグデ村の悲劇(その2;武器がなかった理由)

ウオンガヤグデ村(村に向かう途中の道)で、

6人の武器を持たないバリ人の若者が
42人の武器を持ったバリ人の若者を殺した。

この記事に接した時、私は、
「そんなことがあるわけないだろう」
「ほんとかいな」と目を疑った。

が、次の二つの理由が分かるにつれ、
それが理解できるようになった。

①独立派の若者は武器を持っていなかった理由。
②武器を持たずに相手に勝てた理由。

で、今日は、そのうちの①を語ってみる。

① 独立派の若者が武器を持っていなかった理由

(同時テロ失敗)

1、終戦後、日本軍は連合軍から武装解除を命ぜられた。
2、日本兵は武装解除する前に武器をインドネシア兵に渡したかった。
3、が、連合軍の目を盗んでそれをすることは難しかった。
4、それでもいろいろと作戦を練りインドネシアに武器を渡した。
5、ジャワ島では陸軍の参謀自らがオランダ軍を欺いた。
6、で、ジャワ島の日本軍武器の約4分の3がインドネシア軍に渡った。
7、バリ島ではそんな訳にいかなかった。
8、バリ島の日本軍のトップが真面目すぎて融通が利かなかったのだ。
9、日本軍から武器を譲ってもらえないバリ人は怒った。
10、戦時中も苦しめられ、戦後も苦しめられるのかと怒った。
11、1946年12月13日、バリ人は「同時テロ」を起こした。
12、日本軍から武器を奪おうとバリ島の4か所でテロったのだ。

(武器の運搬失敗)

1、同時テロの首謀者はングラライ中佐だった。
2、場所は、シンガラジャ、ムグイ、ヌガラ、デンパサールだった。
3、同じ時間に日本軍を襲ったが、そのどれも成功しなかった。
4、ングラライはバリ島の日本軍から武器を奪うのを諦めた。
5、ジャワの自軍から武器を分けてもらうべくジャワ島に渡った。
6、ングラライは、武器を受けとることに成功した。
7、それを船でバリ島に運ぼうとした。
8、7回の渡島を試み成功したのは2回だけだった。
9、5回は、途中でオランダ軍に阻まれたのだ。


(そうした結果)

1、十分な武器を運びこむことを諦めねばならなかった。
2、バリ人に武器を渡せぬことで腹を立てた日本兵もいた。
3、司令官がだらしがないからだと腹を立てたのだ。
4、そうした兵の何人かは日本を捨てインドネシア側についた。
5、いわゆる残留日本兵だ。
6、彼らは武器を担ぎバリ兵と共に戦うことにした。
7、同時に戦い方を知らないバリ人に戦い方を指導した。

by yosaku60 | 2018-06-16 11:52 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

ウオンガヤグデ村の悲劇(その1;記念碑)

とうとう見つけた!
ウオンガヤグデ村の記念碑。
立派な記念碑だ。
空高くそびえ立っている。
過去に2度探しに来たが自動車の車窓から、
横ばっかり見ていたので探せなかったのだ。
たまたま空を見上げたので探せた。
やはりあったのだ!
d0083068_10270232.jpg
バリ島の独立戦争を本(「尊崇」を既出版)にするため、
私は、戦闘のあった現地を必ず訪れるようにしていた。
それで解ったことがある。

1、戦死者が出た戦闘地には必ず記念碑がある。
2、現地ではその戦闘が言い伝えられていない。

であるが、例外があるので困る(笑)。

戦死者がなくとも戦闘があったというだけで、記念塔の
建っているケースもあるのだ。

アグン山の麓の「プムテラン村の戦い」がそうだ。
オランダ軍に襲われる前に逃げることができ、現地では
誰も死んでいない。
が「プムテラン村の戦い」として記念塔(写真)がある。
d0083068_11272576.jpg
更に腑に落ちないのが「アンブンガン村の戦い」である。
多くのングラライ軍の戦士が死に、その戦死者の名前も
解っている。
が、現地の村にその記念碑が建っていないのだ。

  記念碑を探しに村人に聞くも誰も記念碑など知らない、
  という。逆にどんな戦闘だったかを私に聞いて来る。
  説明すると村人はびっくりする。
  こと左様にバリ島では歴史が伝えられていない。

......

ウオンガヤグデ村では戦闘があった訳ではない。
が、42名の若いバリ人が殺されている。
オランダに味方したバリ人をオランダに抵抗したバリ人が
殺したのだ。
バリ人がバリ人に殺されるというのは悲劇である。
さらに悲劇が重なった。
怒ったオランダ軍がウオンガヤ村を焼き討ちしたのだ。
小さな村なので村の全てが焼野原になった。

  焼け出された村人は、オランダ軍に仕返ししようと、
  バトゥカル山麓を行進するングラライ軍の後を追う。
  が、ほとんどの村人はその後も凄惨な目に合う。

ということで、ウオンガヤグデ村は悲惨な村だが、
オランダ軍とングラライ軍との戦闘があった訳ではない。

で、記念塔は多分ないでだろう....とのいい加減な見当を
つけて探していたので、探せなかったのだった。

それが、冒頭に書いたように、記念塔はあった。

戦闘がなかったので記念塔には、期日が書かれていない。
それにしても立派な記念塔だ。
記念塔は、小学校の校内に建っている。
その小学校はバトゥカル寺院に向かって通りの左にある。

現地に行かれて、記念塔をみられる方もおられると思う。
ウオンガヤグデ村について「尊崇」から拾って書きます。
現地の記念塔を見る際の参考にして頂ければ幸いです。

by yosaku60 | 2018-06-15 11:15 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

カテゴリ
画像一覧
以前の記事
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月