あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



カテゴリ:バリ島での独立戦争( 161 )


マニク・リユに行って来た(現地調査)

マニク・リユに行って来た。

ウブドの西の町を通り過ぎギリクスマ で左折し
脇道に入る(「Manik Liyu」の標識が出ている)。

道路は最近に舗装しなおされたようできれいだ。
走りやすい。
最近のバリ島、山の奥まで舗装しなおされてる。
10年前とは確実に変わっている。

車やバイクの往来が少なく快適な走行が続く。
左右の見晴らしも良い。
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家を出てから1時間半、思ったより早く、
マニクリユに着いた。
早速、聞き込み開始....
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ングラライ軍がこの町に来たことなど、誰も知らない。
まあ、思った通りだ。
が、戦争記念塔はあるという。
「そうか、あるのか」びっくりだ。
で、行ってみた。
立派なのが建っていた。
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マルガラナのミニチュアのような記念塔である。
松井と荒木が祀られているプナルンガンの記念塔と同じである。
戦いがあったことを示す塔もあった。
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これだけのものが揃っておれば、
村の言い伝えも残されているだろう、
と記念塔の意義を聞き歩く。
が、村の誰もが知らない。
どうして知らないのだろう....
なんて思わない(笑)。
バリ島はどこに行ってもこんな具合だ。
過去のことなぞ、気にしない。
識字率5%程度の時の戦いだから、記録も残っていない。
さはさりながら、やはり聞き歩いた。
が、記念塔の意義を知っている人は誰もいなかった。

まあ、いい。
記念塔があることだけ知っただけで由としよう。
それ以上の取材を諦め、昼食をとるためキンタマニーに行く。

途中、バトゥル山(左)、アバン山(中)、アグン山(右)の
見える箇所があった。 
三山が一緒に見える時は、そう多くない。
アグン山が雲に隠れることが多いからだ。
が、この日はアグン山も見えた。
薄く煙をあげて噴火の余韻も確認できた。
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バトゥル山、バトゥル湖、アバン山が
展望できるレストランで昼食を摂る(写真はエヴィ)。
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昼食を摂りながら思った。
これで終わりにしたくない。
あれほどの記念塔があったのだ。
村の誰かが記念塔の意義を知ってて当然だ。

もう一度、マニクリユ村に行こう。
私は、エヴィとカミさんに発破をかけた(笑)。

で、マニクリユ村に戻ったこと、やはり正解だった。
村長さん(写真=スアルティカさん)に逢えたのだ。
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村長さんは知っていた。

1、ングラライ軍が大勢で来て、ここで一晩泊った。
2、今でも11月20日の彼の命日に記念祭が行われている。
3、ングラライの軍(800人)の食事は、村人総出で準備した。
4、今のマニクリュ村は350軒だが、当時は今より大きかった。
5、ングラライの後に日本兵が来たことは村に伝わっている。
6、が、その日本兵の名前は伝わっていない。
7、村がオランダ軍に全て焼かれたことも伝わっている。
8、記念塔は、この村からングラライ軍に加わり戦死した者がいるからだ。

ということであった。
これが解っておれば、「尊崇」のマニクリユ村に関する記事、
もっと、大胆に筆が運べたのになあ~、
まあ、書いたことが合っていた裏付けがとれただけでも由としたい。

by yosaku60 | 2018-07-02 11:06 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

マニク・リユに行ってくる(予告)

エヴィがもうすぐ日本に行ってしまう。
エヴィに居てもらわねばできないことがある。
今日それをやってしまうこととする。

マニクリュに同行してもらうことだ。
マニクリユ;Manik Liyu (バンリ県)
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「尊崇」は書きあげて本にしてしまったが、
本当は、是非に事前に調査に行きたかった所だ。
調査に行かなかったので、
マニクリュについては、多くを書けなかった。

(書いたのは....)

ングラライは800名の軍勢で、マニクリユに着いた。
武器を持たぬ兵(竹槍だけ)も多かった。
そんな兵を故郷に帰すことにした。
430名がマニクリユの地で帰され軍勢は370名になった。
精鋭ばかりとなった。
で、ここから、タナアロンの戦い向かった。

(書かなかったのは....)

後日、マニクリユにはオランダ兵が駐屯する。
そのオランダ兵を残留日本兵が主の「特別遊撃隊」が襲う。
怒ったオランダ軍がマニクリユの村を焼き払う。


.......

 で、
(書いたのは)の、その「言い伝え」が村に残っていないか。
(書かなかったのは)は、本当にそんなことがあったのか。

その二つを調べに行くのだ。
バリ人は昔のことを語り継がない。
よほど掘り起こさないと聞き込みができないと思う。
私のインドネシア語では、そんなことはできない。
エヴィの助けが必要だ。

エヴィは朝の8時に来ることになっている。
あと、30分だ、
あわただしく道路図(上)も書きあげた。
間に合った、行ってきます。

by yosaku60 | 2018-07-01 08:31 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

ウオンガヤグデ村の悲劇(その4;42名を殺害する)

6名の若者がングラライ軍の陣地にやってきた。
彼らの持つ竹槍や短剣には、まだ血が付いていた。
わざと血の付いたのを見せるために拭かないでいたのだった。

どうした、その血は?
と聞くと、ムルデカ!(独立!)と興奮して叫ぶ。
興奮するな、ゆっくり話せ、と言うと。
中の勇敢そうな若者が前に出てきて、早口で
「42人、全員を殺し、穴に埋めて来ました」
と言う。
何があったのだ、
もっとゆっくり話せ、と重ねて聞くと、
次のように語り出した。

昼頃、親オランダ派の住民の大部隊が刀や短剣で、
武装してワオンガヤグデ村にやってきた。
村を守っていたのは、我々(数人)だけだった。
我々の傍には本当は爆破しない教練用の手榴弾が
あった。
私は、その手榴弾を持ちあげ、相手を睨みつけて
言った。
「手をあげろ!」
「さもなくば、この手榴弾を投げる」
「お前らは全員死ぬぞ!」
大部隊の全員が震えあがって手を挙げた。
「動くな!」
「動いたら、爆弾をお前らに投げるぞ!」
もう一度脅すと全員が恐怖で固まってしまった。
固まって動けなくなった敵をひとりひとり刺していった。
竹槍や短剣で刺していった。
次から次と刺される間、敵は固まったままだった。
結局、6人で42名殺しました。

.......

この殺害事件があった後、オランダ軍は怒って村を
取り囲み、村に火を放った。
村人はちりじりばらばらに逃げ、若者の多くは、
ングラライ軍の行軍の後を追って合流したが武器を
持たず、ングラライ軍にも迷惑をかけるだけで、
バンリ県のマニクリユ村で解散となった。で、再び、
ウオンガヤグデ村に戻る羽目となったが、その後も
オランダ軍から目をつけられ散々な目に遭った。

その怒りのメモリーが、この記念塔である。
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by yosaku60 | 2018-06-18 11:07 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

ウオンガヤグデ村の悲劇(その3;武器がなくとも勝てた理由)

6人の武器を持たないバリ人の若者が
42人の武器を持ったバリ人の若者を殺した。

なぜに、こういうことができたかを探る次の......

①独立派の若者は武器を持っていなかった理由。
②武器を持たずに相手に勝てた理由。

二つの理由のうちの
今日は、②武器を持たずに相手に勝てた理由、である。

(武器を持たずに相手に勝てた理由)

私は、こういう場面にであったことがないので、想像する
だけだが、ひとことでいえば「迫力の違い」であろう。

武器を持たない若者は、日本兵から教練を受けていた。
武器を持った若者は、オランダ軍から武器をもらっただけの者だ。
教練を受けていた者と受けていない者との違いだ。

教練をした日本兵は、大久保宗臣 海軍兵曹長
          満留四齢  海軍衛生一曹
          土屋道義  海軍兵曹長
          松村巌   海軍一曹
          美馬芳夫  海軍二等兵曹....だった。

日本軍には武器を持たずに敵と戦う時の次の教訓があった。

1、銃や剣がなければ、腕で相手を絞め殺せ
2、腕がなければ、歯で相手を噛み殺せ
3、腕も歯もなければ眼で相手を睨み殺せ

残留日本兵の5人は、バリの若者にこうした教訓を徹底して
教えたものと思う。

日本兵がインドネシア人を徹底的に教練した例として、
「PETA=郷土防衛義勇軍」が有名である。
インドネシアの第二代大統領のスハルトもPETAで日本兵から
教練を受けていた。
彼は独立戦争を振り返り、次のように言っている。

  インドネシアは日本から独立を与えられたのではない。
  インドネシア自身で勝ち取った。
  だが、日本軍からは精神の鍛練を教えられた。
  それは独立を果たす上で大きな礎となった。

日本兵の教練がどのようであったかは、私がブログで書いて
いる「柳川宗成」をご参照頂きたい。

さて、
ということで、バリ人6人は、
武器を持たない代わりに、戦う精神力を持っていた。
そんな6人が、どういう風にして武器を持った42名を
殺せたかは、明日、書きます。

by yosaku60 | 2018-06-17 09:04 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

ウオンガヤグデ村の悲劇(その2;武器がなかった理由)

ウオンガヤグデ村(村に向かう途中の道)で、

6人の武器を持たないバリ人の若者が
42人の武器を持ったバリ人の若者を殺した。

この記事に接した時、私は、
「そんなことがあるわけないだろう」
「ほんとかいな」と目を疑った。

が、次の二つの理由が分かるにつれ、
それが理解できるようになった。

①独立派の若者は武器を持っていなかった理由。
②武器を持たずに相手に勝てた理由。

で、今日は、そのうちの①を語ってみる。

① 独立派の若者が武器を持っていなかった理由

(同時テロ失敗)

1、終戦後、日本軍は連合軍から武装解除を命ぜられた。
2、日本兵は武装解除する前に武器をインドネシア兵に渡したかった。
3、が、連合軍の目を盗んでそれをすることは難しかった。
4、それでもいろいろと作戦を練りインドネシアに武器を渡した。
5、ジャワ島では陸軍の参謀自らがオランダ軍を欺いた。
6、で、ジャワ島の日本軍武器の約4分の3がインドネシア軍に渡った。
7、バリ島ではそんな訳にいかなかった。
8、バリ島の日本軍のトップが真面目すぎて融通が利かなかったのだ。
9、日本軍から武器を譲ってもらえないバリ人は怒った。
10、戦時中も苦しめられ、戦後も苦しめられるのかと怒った。
11、1946年12月13日、バリ人は「同時テロ」を起こした。
12、日本軍から武器を奪おうとバリ島の4か所でテロったのだ。

(武器の運搬失敗)

1、同時テロの首謀者はングラライ中佐だった。
2、場所は、シンガラジャ、ムグイ、ヌガラ、デンパサールだった。
3、同じ時間に日本軍を襲ったが、そのどれも成功しなかった。
4、ングラライはバリ島の日本軍から武器を奪うのを諦めた。
5、ジャワの自軍から武器を分けてもらうべくジャワ島に渡った。
6、ングラライは、武器を受けとることに成功した。
7、それを船でバリ島に運ぼうとした。
8、7回の渡島を試み成功したのは2回だけだった。
9、5回は、途中でオランダ軍に阻まれたのだ。


(そうした結果)

1、十分な武器を運びこむことを諦めねばならなかった。
2、バリ人に武器を渡せぬことで腹を立てた日本兵もいた。
3、司令官がだらしがないからだと腹を立てたのだ。
4、そうした兵の何人かは日本を捨てインドネシア側についた。
5、いわゆる残留日本兵だ。
6、彼らは武器を担ぎバリ兵と共に戦うことにした。
7、同時に戦い方を知らないバリ人に戦い方を指導した。

by yosaku60 | 2018-06-16 11:52 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

ウオンガヤグデ村の悲劇(その1;記念碑)

とうとう見つけた!
ウオンガヤグデ村の記念碑。
立派な記念碑だ。
空高くそびえ立っている。
過去に2度探しに来たが自動車の車窓から、
横ばっかり見ていたので探せなかったのだ。
たまたま空を見上げたので探せた。
やはりあったのだ!
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バリ島の独立戦争を本(「尊崇」を既出版)にするため、
私は、戦闘のあった現地を必ず訪れるようにしていた。
それで解ったことがある。

1、戦死者が出た戦闘地には必ず記念碑がある。
2、現地ではその戦闘が言い伝えられていない。

であるが、例外があるので困る(笑)。

戦死者がなくとも戦闘があったというだけで、記念塔の
建っているケースもあるのだ。

アグン山の麓の「プムテラン村の戦い」がそうだ。
オランダ軍に襲われる前に逃げることができ、現地では
誰も死んでいない。
が「プムテラン村の戦い」として記念塔(写真)がある。
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更に腑に落ちないのが「アンブンガン村の戦い」である。
多くのングラライ軍の戦士が死に、その戦死者の名前も
解っている。
が、現地の村にその記念碑が建っていないのだ。

  記念碑を探しに村人に聞くも誰も記念碑など知らない、
  という。逆にどんな戦闘だったかを私に聞いて来る。
  説明すると村人はびっくりする。
  こと左様にバリ島では歴史が伝えられていない。

......

ウオンガヤグデ村では戦闘があった訳ではない。
が、42名の若いバリ人が殺されている。
オランダに味方したバリ人をオランダに抵抗したバリ人が
殺したのだ。
バリ人がバリ人に殺されるというのは悲劇である。
さらに悲劇が重なった。
怒ったオランダ軍がウオンガヤ村を焼き討ちしたのだ。
小さな村なので村の全てが焼野原になった。

  焼け出された村人は、オランダ軍に仕返ししようと、
  バトゥカル山麓を行進するングラライ軍の後を追う。
  が、ほとんどの村人はその後も凄惨な目に合う。

ということで、ウオンガヤグデ村は悲惨な村だが、
オランダ軍とングラライ軍との戦闘があった訳ではない。

で、記念塔は多分ないでだろう....とのいい加減な見当を
つけて探していたので、探せなかったのだった。

それが、冒頭に書いたように、記念塔はあった。

戦闘がなかったので記念塔には、期日が書かれていない。
それにしても立派な記念塔だ。
記念塔は、小学校の校内に建っている。
その小学校はバトゥカル寺院に向かって通りの左にある。

現地に行かれて、記念塔をみられる方もおられると思う。
ウオンガヤグデ村について「尊崇」から拾って書きます。
現地の記念塔を見る際の参考にして頂ければ幸いです。

by yosaku60 | 2018-06-15 11:15 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

行き残した現地に行ってみた。

バリ島でのインドネシア独立戦争を書いた「尊崇」・・・・
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を書くために、バリ島のあちこちを歩いた。
が、全ての現地を歩いた訳ではない。
既に本は自費出版しており書く目的はもうない.。
が、知っておきたい処はまだまだある。

そのひとつが、
バンリ県にある、Karang Suung 村....。

1945年12月、シンガラジャの兵舎にいた4名の日本兵は、
どうせ日本は負けたのだから日本に帰ってもしようがない。
インドネシア人と一緒に独立戦争を戦おう!
それには戦いの激しいジャワ島に行くべきだ。
ジャワ島にはパダンバイの港から船が出ている。
まずはパダンバイに行こう。
ということで、シンガラジャからパダンバイの隠密旅に出る。

が、途中でバリ人に捕まり、
「そういうことなら、バリ人に戦い方を教えてくれ」
と頼まれる。
頼んだのがバンリの王様の2番目の息子であったムディタ。
そのムディタに案内され、バリ人の戦闘訓練をしたところが、
Karang Suung 村(と言われている)。

70年前の話だが、何らかの足跡があるかも知れない。
で行ってみた。

現地に着くと(写真のように)Dusun と書かれていた。
村ではなく、 部落だ。
部落だが、家がいっぱいある。
オランダ軍に見つからないように集まらなければならない。
とてもこういう場所で訓練したとは思えない。
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聞き込みを続けると、
Karang Suung の2キロ北の Puraja ではなかろうかと言う人がいた。
で、行ってみた。

と、こんなのがあった。
おお!!ここかも知れない。
付近には民家がなく、ヤシの茂った野原だ。

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独立戦争に関係した標しもある。
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多分、ここだろう。
ここで、日本の4人の兵士は、
バリ人を集めて、どんな訓練をしたのだろうか。
(平良定三軍曹が沖縄空手を教えたともいわれる)
聞き込みをすると、
5キロ南の Bangbang村に90歳を超える元バリ兵がいて、
知っているかも知れないとのことだ。

行ってみたい。
お会いしてみたい。

.......が、

お会いすると、書き足したくなるようで.....
が、もう、本はもう書き上げてしまった。
変に書き足す気持ちが出てくると厄介だ。
やめやめ、!!(笑)。
で、家路についた。

by yosaku60 | 2018-04-30 19:34 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

本物だろうか?この写真....

Face Bookに バリ島の歴史....
ってことで、マルガラナの戦いの跡の写真が載っていた。
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バリ島の独立戦争を調べている、私にとっては、衝撃の写真だ。
だが、よく見ると、なんだかしっくりしない。
もしかしたら、映画あたりで撮られたシーンではなかろうか。
と思ってきたのだ。

マルガラナの戦闘で語り継がれていることを抜粋してみる。

①、戦闘は、1946年11月20日の朝から夕方まで続けられた。
②、死体の収容は、バリ側もオランダ側も翌日行われた。
③、ングラライ軍の戦死者は96名であった。
④、戦死理由の多くは、飛行機による機銃掃射であった。
④、オランダ側の戦死者は、おおよそ300名であった。
⑤、ングラライ軍の96名の内、56名は、殆ど急ごしらえの民兵であった。
  その56名は、全員がマルガから7キロ以内の近隣の民である。
  (3キロ以内と絞っても41名いる)
  すなわち、兵士の多くが「近所の若者」だったのだ。
⑥、ングラライ軍の残りの兵の死体の多くは、検死のため他の場所に移動された。
⑦、その場所は、12キロ先のムグイの「日本人集結所」であった。

こういう状況の中で撮られたのが、この写真だとすると.....
次のような疑問があるのだ。

①、竹槍を持つのは、わざとらしい。
②、戦って死んでいるのに死体がきれいすぎる。
③、埋葬光景が史実と一致しない(例えば、場所、それに雰囲気)

いずれにしても、戦死者(その骨)は、その後、タバナン英雄墓地に移されている。
タバナン英雄墓地にいる埋葬者で、マルガラナで戦って戦死したバリ兵を数えてみた。
と、全部で(日本人を含まない)62体あった。
タバナン出身の民兵がほとんど入っていることになる。
(ングラライやウィスヌやスギアニャールは、タバナン英雄墓地には入っていない)

タバナン出身の民兵....
写真は、まさにそんな感じであるが、
戦死した次の日のこと、
近所なのだから、家族が受け取りに来るのではなかろうか。
写真には、そういう雰囲気が感ぜられない。

私にとっては、貴重な写真だが....
この写真、ほんものかどうか、疑わしく思っている。

by yosaku60 | 2017-08-05 13:39 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

マルガ英雄墓地(?)とタバナン英雄墓地の見方

odayakanao さん、おはようございます。
ご友人をマルガラナに、ご案内し、
次は、タバナン英雄墓地に、ご案内したいとの書き込み拝誦致しました。
説明が多岐にわたるので、このブログをもって返答したく思います。

1、タバナン英雄墓地の場所

スバック博物館の小路を通り越し、左に大きく回ると信号があります。
その信号を渡って、すぐに左に廻ると、墓地前の広場に入れます。

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2、マルガラナ英雄墓地(?)とタバナン英雄墓地の見方

マルガラナには、すでに行かれたということなので、お分かりかと思いますが、
あそこは「英雄墓地」ではありません....というか、日本でいう「お墓」では
ありません。こちらの言葉では「チャンディ」と呼ばれます。
チャンディの日本語訳はわかりません。
私が勝手に「祈祷塔」とか呼んでいますが、「墓標」と呼ぶ人もいるようです。
いずれにしましても、日本にはないものなので、日本語にならなくて当然かも
知れません。
それに比べ、タバナンは「お墓」です。
ですから、タバナン英雄墓地は、真の英雄墓地です。

どういう基準で、これらの中にと入ることができるかを知ると、二つの違いが
明確に解るかと思います。
マルガラナは、独立戦争中に戦死し、その事実があきらかな兵士を祀っており
ます。 日本兵関係は次表のとおりです。


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固有のチャンディを持つ日本人は、「ングラライの長征」に参加した人に限られております。
その理由は、バリ人にも知られる日本兵だからです。
ただ、祈祷塔が作られた後に、バリ人に知られる日本兵と解った人は、1372番に入って
いると見なされています。 
大舘は、ワナギリの戦い、で戦死したことが知れ渡っております。
工藤栄は、タンジュンブノアにバリ人の建てた慰霊碑があり、知れ渡っております。
曽我は、バリ兵が書いた「日本兵」の項で、戦死が書かれております。

一方、タバナン英雄墓地は、独立戦争に参加した兵士で、タバナン出身であれば、誰もが入る
ことができます。 戦後生き残り、最近に死んだ元兵士も、ここに祀られます。
ちなみに、1992年には、601名(私は全員の名簿を持っております)でしたが、現在は
800名ほどに増えているはすです。

次に、遺骨に関連しての違いです。
マルガラナは、祈祷塔なので、地下に骨はありません。
それに比べ、タバナンは本当のお墓なので、地下に「骨もしくは灰」があります。
タバナン英雄墓地は、「骨」そのものがそのままあります。
ですが、シンガラジャ英雄墓地は、原則として「灰」だけに限られています。
「骨」が持ち込まれる場合、10年に一度ほど、まとまって骨を焼いて灰にして
埋めなおす儀式をしているとのことです。
この違いは、何故なのかは、過去の私のブログに書いております。


3、タバナン英雄墓地には、どんな日本人が入っているのか。

名前が刻んであるのは、110番のブンアリとブンマデです。
ブンアリとブンマデは、タバナン地区のワナサリで戦死し、名前も
はっきりわかっているので、名前が刻まれています。

名無しの日本兵のお墓は、9個あります。
次の人達です。カッコ内は、戦死場所で、全てタバナン地区です。
戦死した日付順に並べてみます。

1、長野兵曹長(スディマラ)
2、島村兵曹長(ヌサマラ)
3、大舘(ワナギリ)
4、ブンチャング(マルガ)
5、ブンスラマット(マルガ)
6、高木米治(マルガ)
7、荒木武友(マルガ)
8、松井久年(マルガ)
9、不明

これらは、他に埋められていたのを移設する際、名前がわからないまま
tanpa nama (無名)として、お墓が作られました。
この無名のお墓は、墓地に入って右手前の「最近死亡した人を祀る場所」
の奥に、比較的まとまって在ります。


odayakanao さん、
タバナン英雄墓地を見る際の概略を取り急ぎ書いてみました。
お友達をよろしくご案内してあげてください。

4、最後にバリ島の日本兵の数を書いてみます。

バリ島でインドネシア独立戦争に加担した日本兵は、
わかっているかぎりでいえば、32名です。
32名の内、6名が生き残り、その6名のうちの3名は日本に帰り、
2名がジャワ島に住み、1名がバリ島に住みました。
で、26名が戦死した訳ですが、
そのうちの14名がマルガラナに祀られていますが、
残り12名のうち、長野、島村の両氏は、タバナン英雄墓地、
白石勉は、タンジュンブノアに祀られていることは解っていますが、
残り、9名は、どうなっているのかわかりません。
敬虔なバリ人のことですから、
私がまだ探せないところで祀られているのかも知れません。

by yosaku60 | 2017-07-26 09:07 | バリ島での独立戦争 | Comments(1)

独立戦争史跡巡り(タバナン地区)

大東亜戦争の日本兵のお墓をお詣りして、
ジャワ島、スラウエシ島、スンバ島を巡っておられる清水さん....
がバリ島に来られた。
独立戦争の史跡巡りにタバナン地区をご案内した。
朝の10時に出発、午後5時に帰るという、
7時間の史跡巡りを写真で紹介する。
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① ムンドックマラン

遠いところから行くということで、まずは、ムンドックマランに行った。
1946年4月14日、ングラライ軍が旗揚げ式をした処である。
2000人の兵が、バリ島中から、ここに集結した。
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集まった2000人の中に、次の10名の日本兵がいた。
ワヤンスクラ、マデスクリ、ブンアリ、ブンチャング、ブンマデ、
ニョーマンスニア、ニョーマンサヤン、マデプトラ、イクトット、イグデ、
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②; ワナサリの戦い慰霊碑

1946年10月5日、
日本兵のブンアリとブンマデが10名の部下を従え、
オランダ軍と戦い、この地で戦死した。
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前に訪れた時も「ワンカップ大関」があったが、
今回も新しい「お酒パック」が御供えされていた。
日本人の誰かが、お詣りしてくれたようである。
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慰霊碑のあるお寺の同じ敷地内には、
神格化された、ガジュマロの樹がある。
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③;ベンケルアニャール

ムンドックマランを逃れたングラライ軍は、
次の司令部をベンケルアニャールに置いた。
その司令部跡にこんなお寺が建てられている。
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ここまでくる、観光客はいない。
村人に珍しがられる。
インドネシア30年の清水さんは、村人ともすぐに仲良くなる。
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④;タバナン英雄墓地

ワナサリで戦死した、ブンアリとブンマデのお墓をお詣りする。
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手前のお墓は、イスラム教徒の戦死者。
支柱の頭の形が違う。
さらにお墓の方向がメッカの方に向いている。

ところで、ワナサリの戦いでは、
ブンアリとブンマデは、こういう格好で戦死した。
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当時、その場所に埋められた二人を
戦後、タバナン墓地ができ、そこに移すため、掘り起こしたところ、
二人の骨は、くっついたままで離れなかったそうな。
で、タバナン墓地には、二人一緒のお墓に入っている。
800余名のお墓で、二人で入っているのは、ブンアリとブンマデだけである。

ここには、無名の日本兵のお墓もある。
7個あると思っていたが、数えなおすと9個あった。
墓守(左)に確かめると、全て日本兵とのこと。
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by yosaku60 | 2017-07-25 10:50 | バリ島での独立戦争 | Comments(1)

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