私たちは次に曽我さんの家を訪ねることにした。
曽我さんの父親は日本人で独立戦争で戦死した。
母親はバリ人だ。
そんな曽我さんを探し得た時の私の話を先に書きたい。
バリの本では曽我さんのことを次にように書かれていた。
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彼の日本名は曽我であった。
彼はバドゥンのシバンカジャに住んでいた。
シバンカジャでは、村の若者と一緒に戦闘に参加した。
戦闘には非常に精通していた。
彼は住んでいた家の娘と結婚した。
男の子が生まれた。
彼はタバナンのパトリティーでオランダ軍に捕らえられた。
オランダは見せしめのため、彼をトラックにロープで結び、
引きずりまわして殺した。
彼はまさに体と魂を犠牲にしてインドネシアの独立のために戦った。
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男の子が生まれたとある。
今もご存命だろうか。
ご存命なら、今もシバンカジャに住んでおられれるのだろうか。
日本名は曽我だがバリ名は何と言うか知らない。
私は、シバンカジャの近くに行った時は必ず聞き込みをした。
聞き込みを重ねて2年、遂に探し得た。
生きておられた。
お会いできてうれしかった。
これがその時の写真だ。
左が曽我さんの奥さま、真ん中が曽我さんだ。

私よりも3歳年長だった。
殺された日本兵の子供であることはご存知だった。
さらに日本人の子に生まれたため苦労されたことをいろいろと聞かされた。
お母さんが日本人と結婚したということでお母さんの家族がいじめられた。
お母さんの弟(曽我さんにとっては叔父さん)が、
日本のスパイだと思われてバリ人に殺された。
曽我さんも小学校の時は日本人の子ということでいじめられた。
父親が独立戦争で戦死したことの恩恵なぞ受けていないのだ。
日本人の血が入っていると言うことでご苦労なさったのだ。
にも拘わらず、曽我さんはお父さんのことを尊敬している。
3歳の時に戦死したので、うっすらとしか覚えてないという。
そんなお父さんのため、曽我さんは自分の家に神棚を置いている。
日本式はこうなのだろうと想像して作った手造りの神棚である。
私も曽我さんの家に行った時は、その神棚に手を合わせる。
ということで、
曽我さんは日本人の子として生まれたために苦労された。
そんな曽我さんを日本人の私が黙ってみている訳にはいかない。
大げさに言えば、曽我さんに
「日本人はあなたのことを忘れません」とお示ししたい。
で、私は時々、曽我さんをお訪ねしている。
さて、ユキさんとミチヨさんをお連れした時、
残念ながら、曽我さんはお出かけされていて、お会いできなかった。
が、曽我さんの奥さまとお孫さんにはお会いできた。
ユキさん、ミチヨさんは曽我さん手造りの神棚に手を合わせてくれた。
曽我さんがお帰りになれば、奥さまからそのことが伝わるはずだ。
曽我さん、同じ日本人として、これからも時々遊びに来ますからね!!