バリ島の空港を「ングラライ空港」という。
バリ島を南北に走る幹線を「バイパス・ングラライ」という。
ングラライはバリ島の象徴なのだ。
ングラライとは誰か。
日本の敗戦の翌々日にインドネシアは独立を宣言する。
それに怒ったのがオランダだ。
日本軍に追われてインドネシアから出て行った宗主国のオランダだ。
インドネシアが勝手に独立するって.....
そんなの許さない、許せるものか.....
我々は300年も植民地として支配していたのだ.....
日本が出てゆくのだからオランダが戻って当然だろうが.....
と、オランダはインドネシアに再上陸してきた。
そして独立を主張するインドネシア軍と戦った。
それがインドネシアの独立戦争だ。
インドネシアの独立戦争を日本軍と戦ったと思っている人が多い。
違う、インドネシアはオランダと戦ったのだ。
日本の敗戦でバリ島からも日本軍は消えた。
日本の統治時代はバリ島には2000人の日本人がいた。
それが日本敗戦とともに一気に消えた。
それはそうだが、全員ではない。
日本は大東亜戦争に負けた。
そんな日本に今更帰れるか!
もう国に捧げた命、そんな命なら.....
次はインドネシアのために差し出そう.....
てんで、インドネシアに味方してオランダと戦った日本兵がいた。
それが残留日本兵だ。
インドネシアでの残留日本兵が何人いたのか。
インドネシア全土で2000人の残留日本兵がいたと言われる。
が、名前の判っている残留日本兵を数えると903名だ。
バリ島には20名以上の残留日本兵がいた。
そのうちの12名が戦死しバリ島の英雄墓地に眠っている。
インドネシアの独立戦争....
バリ島での独立戦争を任されたのがングラライだ。
ングラライはオランダ軍と壮絶に戦った。
300名いた兵が少しづつ減って最後は96名になった。
チュウワナラ隊と呼ばれた。
チュウワナラ隊のことを少し詳しく書きたい。
1946年の夏、ングラライ軍は、
タナアロンの地でオランダ軍を打ち破った。
が、武器弾薬を使い切ってしまった。
武器弾薬がないままに逃げ回る軍に成り下がった。
これ以上無様な戦いをして島民をがっかりさせたくない。
ングラライ隊は一旦戦いを止めて解散した。
が、二か月後策略を用いオランダ軍警察から武器を奪った。
んで、その地で再度戦うことを決めた。
それがマルガである。
マルガの近隣の村から若者が集められた。
56名の若者がはせ参じた。
その村と青年の数は次のとおりだ。
56名の血気盛んな若者達、
が、この56名は鉄砲の撃ち方も良く分からない若者達だった。
チュウワナラ隊は全員で96名いる。
56名を引いた残りの30名の多くは少々位の高いバリ兵だった。
戦略をたてれるが、実際の戦いの経験が少ない者が多かった。
そんな中、56名の青年たちに戦い方を教えたのは残留日本兵だった。
次の5名だ。
1,ワヤン・スクラ(日本名;松井久年)....海軍兵曹長
2,マデ・スクリ(日本名;荒木武友).......海軍上等兵曹
3,マデ・プトラ(日本名;高木米治).......海軍兵曹長
4,ブン・チャング(日本名;近藤四郎).....陸軍軍曹
5,ブン・スラマット(日本名;安永正二郎)陸軍曹長
5名とも戦歴の長いベテラン兵だ。
56名の青年たちを即戦力のある兵に仕上げた。
さて、1946年11月20日、
チュウワナラ隊はオランダ軍に包囲され全員が玉砕した。
その玉砕の地がタバナン県の「マルガ」であって、
玉砕のことを「ププタン」と言う。
写真を見て欲しい。
ププタン・マルガラナと言う名のセレモニーだ。
玉砕地で玉砕日に行われるバリ島独立の祝宴だ。
この行列を見て判っていただけると思う。
何度見ても盛大です。
で、私もその祝宴に参加した。
もう10年は参加しているが、今年は堂々と参加した。
少し考えることがあったからだ。
私も少々齢をとった。
もう何回、この式典に参加できるか判らない。
であるならば、残留日本兵の心を思いはかって、
日本人として堂々としていたいからである。
ププタンへの思いも例年以上に丁寧に感謝した。
「日本バリ会」のことを少々書きたい。
日本軍統治時代には2000人の日本人がいたことを書いた。
そのうちの多くはバリ島に良い想い出を持った。
で、終戦5年後の1951年.....
バリ島に住んでバリ島に思いを待った人が集まって、
「日本バリ会」が作られた。
300名のバリ島ゆかりの日本人が集まったと聞く、
その中心になったのが稲川敏郎さんだ。
稲川さんは戦中は海軍(シンガラジャの地)で働いていた。
既に故人だがつい最近まで「日本バリ会」を守って来た。
お亡くなりになると同時に「日本バリ会」の存在は消えた。
が、稲川さんと親しくさせていただいていた....
京都在住の清水さん、バリ在住の村沢さん、それに私の三人が
「日本バリ会」の名前だけでも残そうと、
ププタン・マルガラナの祝宴に花束を届け続けている。
今年は、こういうものを届けた。
お寺の門の前に「NIPPON BALI KAI」を飾ってくれた。
毎年、飾る場所が正面にでてくるようでうれしい限りだ。(笑)。
思いがありすぎて雑多に書き進んでしまった。
ここからが結論です。
ププタンマルガラナ祭に参加するといつも思う。
残留日本兵がバリ人のために戦った。
そして命を捧げた.....
バリ人のために命を捧げたのは日本人だけである。
バリに住む日本人はバリ人から大事にされる.....
残留日本兵の行為がバリ人の中で語り継がれているからだ....
私はそう思っている。