残留日本兵のワジャについてだが、陸軍でもなく海軍でもなく軍属でもない。
どうも民間人のようだ。民間人の場合、どこの誰だかよくわからない。
が、ワジャという名前は「鉄」とか「鋼」の意味である。
イメージとして強かったのだろう。
また、キンタマニー出身の少年兵「テレム」が彼になついていた。
少年が慕いたくなるような優しい男だったのだろう。
日本人特別遊撃隊は、日本人8名、バリ人5名の13名だった。
13名はクランディスのさらに山奥のムンガンダン部落に潜んでいた。
スパイに通報されオランダ軍が襲ってきた。
突然の襲撃で小屋から出ることができなかった。
木村が足を撃ち抜かれた。
圧倒的な敵の数だった。
その時だった。
美馬が扉を開き外に出た。
小銃を乱射しながら北の谷に走った。
敵の銃が全射、美馬の逃げた方に撃たれた。
その間、小屋に向かって撃たれていた銃声が一旦途切れた。
その隙に遊撃隊隊員は東の密林に逃げた。
負傷した木村は体の大きなワジャがおぶって逃げた。
(中略)....自費出版書「尊崇」参照
ワジャとテレムは一行から離れ、二人で密林に向かった。
この道路(写真)は直ぐに消え、密林に入る。
密林を抜けたところがスマニック村だった。
二人は村人に護られながら、村のほとりの茂みに潜んだ。
テレムが川でマンデーをしていた時、見回りのオランダ軍に見つけられた。
テレムが殺された。
ワジャは怒り、オランダ兵を追いかけた。
深追いしすぎた。
大勢のオランダ軍が援護に駆けつけた。
逃走中のワジャは背後から撃たれた。
負傷しながらワジャは谷底に降りた。
深い深い谷だった。
写真はその谷に一緒に降りてくれたエヴィ。
通訳が必要だったので、無理を言って同行してもらった。
ワジャは、谷底の大きな岩の陰に隠れたが傷が大きすぎた。
その場所で眠るように息を引き取った。
ワジャが息を引き取った岩は今でも村の語り草になっている。
マデ・チョコドゥさん(現在78歳)がその岩を教えてくれた(写真)。
ワジャの隠れた様子も演じてくれた。
ワジャの墓を教えてくれたのも死に場所を教えてくれたのも、
マデ・チョコドゥさんだった。
今回は、稲川さんをお連れし、マデさんに当時のお礼を言いたくて訪ねた。
マデさんは今もご健在だが、遠くの畑に出かけていてお会いできなかった。
お会いできなかったが、現在のお写真をコピーしてきた。
息子さんのお嫁さんに逢えた(写真の右)....
お礼を伝えて欲しいと持参したお土産をお渡しした。
次に稲川さんをワジャの墓お案内した。
スマニックの戦死場所とお墓の場所の位置は図の通り。
ワジャのお墓は、地元民が建ててくれたもの。
当初、日本人は誰も知らなかった。
発見したのは、私だ。
これが発見した時の写真...薮の中にお墓の頭だけが見える。
それを村の人にお願いして修理、清掃してもらった。
これが、修理直後の写真。
左がワジャ、右がテレム。
それから数年、これが現在のワジャのお墓。
お墓の周囲が草ぼうぼうだが、お墓は誰かがお詣りしている跡があった。
地元バンジャールに清掃をお願いしてある。
ただ、ここ一年ぐらい訪れていない。
久しぶりに訪れて、バンジャールの長にお会いしてきた。
長は、この子たちの親だ(今回、写真を撮り忘れた)。
さて、今から、稲川さんと一緒に一泊予定でシンガラジャに出発する。
シンガラジャに行く途中、
日本軍が武器を隠した場所、プンガヤマンを訪れる予定だ。