教職追放で心ある教師たちが追放された。
が、戦前は心あったのにその心を捨てた男がいる。
そういう人は沢山いたに違いない。
が、困るのが権威者が心変わりすることだ。
その典型が宮澤俊義だ。
この男により日本は翻弄された。
未だに影響を受けている。
なんとも嫌な男だ。
宮澤俊義は1899年3月6日、長野市で生まれた。
1923年に東京帝国大学法学部を卒業した。
1934年に東京帝国大学法学部の教授になった。
戦前は「大日本国憲法」を積極的に擁護していた。
が、日本が敗戦し進駐軍により公職追放が実施され、
進駐軍作成の「日本国憲法」が制定されるやそれを擁護し始めた。
その理由が「8月革命説」である。
「日本の終戦....それは革命であった」
「日本国憲法は革命後の憲法であるからそれで正しい」
という解ったような解らないような論調を組み立てた。
自分の保身のための心変わりだった。
以後、東大法学部での憲法学は「8月革命説」が基調になった。
東大法学部といえば各大学の法学部をリードする立場にある。
司法試験も「8月革命説」を正しいとしなければ合格しなくなった。
そうした試験に合格してきた司法従事者の集まりである...
現在の「日弁連」にも当然に「現憲法擁護」が引き継がれている。
法曹界でそれを覆すのは容易ではない。
現行憲法をなかなか改正できない大きな理由だ。
もうひとり、信念のない憲法学者がいた。
横田喜三郎だ。
横田喜三郎は、1896年、愛知県で生まれた。
1922年、東京帝国大学法学部を卒業している。
1930年、東京帝国大学法学部の教授になっている。
横田の場合、
マルクス主義を勉強するなど元来が社会主義的法学者であった。
「天皇制廃止論」を唱えていた。
「東京裁判」も肯定的に捉えていた。
進駐軍にとっては、都合の良い宗教学者だった。
東京大学法学部の学部長になるなどトントン拍子に出世した。
ところが、1960年、最高裁判所の長官に任命された。
横田は慌てた。というのは、最高裁判所長官にとって、
過去に書いた「天皇制廃止論」はちょっとまずい。
で、学生を集め神田の本屋を廻らせ自著の本を回収させた。
そして廃棄処分にした。
こういう信念のない男が法曹界トップの裁判所長官なのだ。
嘆かわしい。
ということで、二人の男を上げたが、
当時は、こうしたことがいっぱいあったと思う。
公職追放、教職追放により心ある人物がみんな追い払われ、
残るは進駐軍へのイエスマンばかりになった。
敗戦7年にして、そんな日本になったのだ。
で、嘆かわしいことに今もそれが尾を引いている。
次回は戦後教育が何故に偏向教育になったのかを掘り下げてみたい。