中川一郎は1925年に生まれ、1963年に衆議院議員になった。
1973年、若手タカ派グループの「青嵐会」を作った。
1979年、中川派を立ち上げた。
中川一郎の政治信条は、
国粋主義者、憲法9条改正論者であり、
反共主義であったが、その裏では国家の自立を目的に、
アメリカ一辺倒ではなく、親ソ政権も視野に入れていた。
1982年、鈴木善幸総裁辞任のあと、
次の総裁を選ぶための予備選挙があった。
中曽根康弘、安倍晋太郎、河本敏夫、中川一郎が立候補した。
全国の自民党員100万票を争う戦いだった。
結果は、一位;中曽根、二位;河本、三位;安倍、四位;中川だった。
この選挙で中川一郎は極端に落胆したと言われる。
中川は落胆したが、総裁選に立候補したということで、
海外の国の中川を見る眼が変わってきた。
当時、アメリカとソビエトは冷戦時代にあった。
ソビエトは、日本に近づく方法を諮った。
反米に傾きそうなナショナルリーダーを探した。
中川派の政治信条に眼をつけた。
中川一郎に直接当たって見ることにした。
ソビエトは、コフレンコを日本に派遣した。
コフレンコは、共産党の国際部の副部長だった。
1982年9月10日、コフレンコと中川一郎は、
赤坂の料亭で逢った(日本の公安が確認している)。
中川は、自主独立とソビエトとの友好を口にした。
コフレンコは、中川に魅力を感じその旨本国に連絡した(暗号文)。
コフレンコは、中川に交換条件も提示した。
それは、将来のサハリン石油開発に参加させる用意があることだった。
対日工作の眼玉商品だった。
それから3ヶ月した1983年1月8日、
中川は、自派の新年会出席のため札幌に居た。
新年会では5分間、挨拶をした。
その時、出席者は中川の異様さを感じ取っていた。
友人の佐藤尚文が話している。
「背広にも通るほどのひどい汗をかいていた」
後援者に「先生、お疲れみたいですからお休みを」と促され、
後援者と貞子夫人が付き添って1022号室に戻ったのは、
午後7時だった(下の写真はその時のもの)。
その時、中川は後援者のひとりに言った。
「俺はもうだめだ、今日で限界だ」
後援者は、中川をなだめ、部屋を出た。
不眠症の中川の邪魔をしないよう夫人はソファーで寝た。
ベッドに入った中川だが、眠れない様だった。
午前3時半、友人の石原二三朗に電話をしている。
その石原氏(写真)が語っている。
「中川がもう駄目だというので、気にするなと元気づけた」
「大体、話し終えた、午前4時すぎだった」
「電話口の中川が、(おおー)と言った」
「中川が来客者に挨拶する時のいつもの口調だった」
「誰か来たのだなと思い(切るよ)といって電話を切った」
中川の死亡推定時刻は午前5時だ。
電話を切ってから1時間が空白の時間だ。
死体を発見したのは午前7時、隣の部屋にいた貞子夫人だった。
目覚めて寝室にいくと中川が居ない。
風呂場に行くと、そこで首を吊って死んでいた。
翌日の新聞に中川の死が心筋梗塞で報道された。
その二日後、誰かのリークで自殺であったことが報道された。
中川の死を知ったソビエトは、本国に次のように報告している。
「これは他殺である」
「中川が総理大臣になるとアメリカは困る」
「アメリカは自分が困る前に殺したのだ」
さて、
この怪死事件に腑に落ちないことが4つある。
1、午前4時に本当に来客があったのだろうか。
来客だとしたら顔見知りの人である。誰だろうか。
2、ソビエトは中川との交渉を公表している。
コフレンコもインタビューに応えている。
同じく中川とのことをアメリカに公開公表を迫るも、
「中川とのことは永久に公表できない」として、
アメリカは未だに無回答である。
3、死後、解剖されることなく、すぐに焼却している。
死因が正しかったのだろうか。
4、中川一郎は、
死の一ヶ月ほど前から顔が吹き出物でごつごつになった。
ウクライナの大統領ビクトル・ユーシェンコフが
毒を盛られて顔がごつごつに変わったのを思いだす。
彼の場合は、ダイオキシンだったが、
他の毒物を少しずつ飲まされたなんてことないだろうか。
中川と貞子夫人の不和は有名だった。
夫人は中川家を憎み、中川の太った容姿が嫌いだった。
中川は不眠症ということで睡眠薬を飲んでいた。
それも徐々に飲む量が増えていった。
睡眠薬を与えるのは夫人の役であった。
誰かが夫人に罠をかけて、
間接的に少しずつ毒を飲ませたのではなかろうか。
さて、
私がここで言いたいのは、怪死の謎解きではない。
アメリカの態度を分析することだ。
日米/中の冷戦時代において同盟国をよく知っておくことだ。
私は何度も述べてきた。
今日の日本に暗い影を落としてきた日本人の自虐精神….
この自虐精神を植え付けたのはアメリカである。
日本人は、自分自身への謙虚さで身につけたと思っているが、
そうではない、元凶はアメリカである。
アメリカがアメリカ最高、日本最低を押しつけたのだ。
(当時は、そのように報道規制された)
国際法では敗戦国に憲法を押し付けてはならない。
が、アメリカは、日本人に作らせた形にして、
アメリカが作った現行憲法を押し付けた。
日本に二度と歯むかえないように軍隊を持つことを禁じた。
おめでたい日本人はそれを「平和憲法」と喜んで頂いた。
日本の経済がどんどん伸びると、それを憎んだ。
当時、私はアメリカにいて、
日本人だというと、唾をかけられた経験がある。
日本の役割が国際的に重要になって来た時、
国連内に日本を常任理事国にしても良いのでは、
との意見が広がった。
それを潰したのは、なんとアメリカだった。
(これは裏の話なので余り知られていない)
同盟国なのに台頭してくることを拒んだのだ。
アメリカには基本的に日本を小馬鹿にする傾向がある。
残念ながらあるのだ。
白人と有色人からくる人種差別であり、
昔の占領国であったという理由もあるのだろう。
そのことを忘れてはならない。
というか油断してはならない。
今はまだ無理だが、自国は自国だけで守ることの
気構えだけでもでも持っておくべきと思うのだ......
が、ただ、
トランプが大統領になってから少し変わってきた。
日本が核武装すべきだというアメリカ国民が6割に増えた。
今までなら、日本が核を持つなんて話を許すはずがなかった。
それが、6割になったなんて、びっくりだ。
そういう意味では、北朝鮮危機は悪いことばかりでない。
アメリカ人にも日本人にも目を覚まさせる効果があったようだ。