昭和十七年九月頃より広がり始めていた「兵補」の存在だ。
ここで少々「兵補」を説明しておきたい。
日本軍はインドネシア占領後、地域を分担して軍政を敷いた。
が、インドネシアは広大だ。
全土を統治し、護るには、兵力が不足した。
そこで補助戦闘部隊として現地人を採用することにした。
それを「兵補」と呼んだのだ。
十六歳から二十五歳までの青年を対象に募集した。
募集の当初は、志願者が多く五万人ほどが集まった。
しかし、すぐに不満が出て人が集まらなくなった。
日本軍の補助要員との位置づけに不満が出たのだ。
志願者が減ったため半ば強制的に徴募するようになった。
兵補の法的身分は、準軍属であった。
軍属ではなく、準軍属だ。
軍属とは、軍に採用される民間人を言う。
関連する国際法として、ハーグ陸戦条約がある。
条約では、占領地住民を強制して軍に従わせてはならない。
軍属としての法的身分では、国際法違反になる。
で、それに「準」をつけて準軍属としたのだ。
こういう言い逃れは、姑息である。
それも半強制的に徴募するのは、明らかに国際法違反だ。
原住民から不満が出たのは、当たり前だ。
ということで、「兵補」は、原住民に不人気だった。
が、これは、後々の話だ。
柳川がインドネシア青年による特殊機関を作ろうとした時点ではそうではなかった。
設立の初期であり、まだ、インドネシア人に歓迎されていたのだ。
が、柳川には、その時すでに「兵補」が行き詰まることは見えていた。
日本軍が目指す「兵補」と自分が目指す「特殊教育」は別である。
柳川は、二つを差別化した。
「特殊教育」は、「兵補」であってはならない。
「兵補」は、日本軍のためである。
「特殊教育」は、インドネシアのためである。
が、そのことを表に出してはならない。
誰にも悟られてはならない。
特に日本軍に悟られてはならない。
インドネシア青年は、独立に向けて燃えればよい。
日本人教官もそれを全面的にサポートする。
ただ、外部に対しては「日本のため」を見せつけるのだ。
教育の現場でそれを自覚しておれば、なんとかごまかせる。
誰にも本音を悟られずに、教育できる。
柳川は、そう心にとどめ、事を進めていった。