一昨日のブログ、
日本敗戦後にバリ島で命を落とした日本兵46名....
について、書きました。
ご遺族の方など、
将来、私の記述を調べ直す方がおられると思います。
そういう方のため、言い足りなかったことを追記します。
Canggu Buns / Kt Sunia の標記に関して
( Buns について)
Buns と書いてありますが、
これは、Bung の間違いです。
なぜなら、慰霊碑には、次のとおり、Bung と書かれております。
Bung の意味ですが、日本語で言えば、
「さん」 とか 「氏」 に代わる敬称です。
(後日訂正)
Bung と書いてありましたね。
老眼鏡をかけずに読んだので、Buns にみえてしまいました。
あわてものです。
( Jianggu について )
これは、Canggu と同じです。
バリでは、昔はこのように書くこともありました。
例えば、現在、日本は、 Jepang と書かれますが、
昔は、Djepang と、書かれたものもあります。
( kt について )
これは、Ketut の意味です。
即ち、第4子か第8子ということです。
大舘のバリ名は、Nyoman Sunia です。
Nyoman とは、第3子か第7子と言うことです。
バリ人にとっては、Nyoman であるか、 Ketut であるかは、
大きな違いです。
もし間違えれば、致命的ミスになります。
こういうミスは、しないものと思われます。
Kt Sunia が大舘ではない、と私が判定した根拠でもあります。
( Sunia について )
実は、ketut Sunia によく似た名前で、
ketut Senio (クトット・スニョー)と呼ばれた残留日本兵がいます。
戦後も生き残った平良定三氏が、書き留めているのです。
平良定三氏は、戦後まもなくは大舘の名を知らなかった形跡があります。
かと言って、クトット・スニョーが大舘、ということは考えられません。
平良氏は、バリ語に精通しており(奥様がそう語る....)
Ketut と Nyoman を間違うということが考えられないからです。
いずれにしても、
大舘のバリ名である、ニョーマンスニアと、
クトットスニア や クトットスニョー は、別人と思われます。
高木米治の戦死場所について
高木米治さんには、遺児がおられます。
写真の右がお孫さん、その次が遺児のアリニさんです。
アリニさんの家には、高木米治のことを書いたもの(日本語)がありました。
日本のご親戚の方がお調べになったものとのことです。
その調書には、高木米治の戦死場所が、ワナサリとなっていました。
ワナサリで戦死した日本兵は、ブンアリとブンマデです。
そのブンマデが高木米治である、としていたのです。
高木米治のバリ名は、マデ・プトラです。
が、マデとだけ呼ばれるのもバリではよくあることだからです。
私のブログも一時期、ワナサリで戦死したと書いたことがあります。
が、後日、高木米治は、マルガで戦死したことに修正しました。
そのように語る方が多かったからです。
でも、それを確証する証拠がなかなか見つからず困っていました。
マルガラナで戦死した5名の日本兵の中に 「マデ」 がいました。
が、マデというのは、第2子という意味、だから沢山いるのです。
高木米治と特定できないのです。
で、困っていたのですが.....、
ところが、それが見つかったのです。
大舘の調査をしている過程で見つけたのです。
これです。
マルガラナの資料館の中のこの表示です。
この表は、チュウアナラ(Ciung Wanara)兵士を挙げたものです。
チュウアナラとは、ングラライと共にマルガで玉砕した部隊名です。
全部で96名います。
81~85の5人が、日本兵です。
85番に、はっきりと、マデ・プトラと書かれております。
高木米治です。
マルガラナで玉砕したことは、バリ人としては名誉です。
近日中に、アリニさん宅に調査結果を知らせに行きます。
きっと、喜んでいただけると思っています。