昭和41年4月、私は「商船三井」に航海士として採用された。
新米の航海士は、半年間は4等航海士として働くことが決まっていた。
船には航海士が3名いる。
1等航海士、2等航海士、3等航海士の3名である。
3名がそれぞれに専門分野を受け持っている。
4等航海士は、まあ言ってみれば、はみ出しの余分の航海士である。
が、半年後には3等航海士として、どこかの航路で働くことが決まっている。
半年間で、全てを学び終えなければならない。
私は、一万トンの雑貨船「ありぞな丸」に4等航海士として乗船した。
日本と西アフリカ及び南ヨーロッパを4か月かけて渡り歩く定期航路船である。
昔は、今のようにコンテナなんてなかった。
全ての貨物が、木箱に入っていたり、カートンに入っていた。
それらの貨物を積むのが.....
日本諸港、及び香港、シンガポール。
日本諸港とは、横浜、清水、名古屋、神戸であった。
それらの貨物を揚げるのが.....
1、南アフリカ (ダーバン、ケープタウン)
2、カメルーン (ドアラ)
3、ナイジェリア (ラゴス、アッパッパ、ポートハーコート)
4、ベニン (コトノウ)
5、トーゴ (ロメ、クペメ)
6、ガーナ (テマ、タコラジ)
7、コートジボアール (アビジャン)
8、リベリア (モンロビア)
9、セネガル (ダカール)
10、シエラレオネ (フリータウン)
11、ポルトガル(リスボン)
であった。
国なんてどうでも良い。
問題は、16 もの港を寄港することであった。
この16港の行き先の順序を頭にしっかり叩きこまねばならない。
というのは、ケープタウン行きの貨物の上に、
例えば、それよりも奥地のラゴス行きの貨物を積んだら、
ケープタウンでは、貨物が下敷きになっていて、引っ張り出せないからである。
が、頭が弱いオレ、
寄港地名と、その寄港順序が頭に入って来ない。
メモを見ている様じゃ、プロの航海士ではない。
というのは、「航海士」というのは、航海中の話、
港に停泊中は、「荷役士」になる。
で、プロの荷役士になれないのは、
プロの航海士ではないってことになる。
ということで、実社会に出て、最初に困ったのが、
オレの頭の悪さであった。
そして、頭の悪さをごまかすための、いいかっこしいであった。
まあ、4等航海士の思い出と言えば、こんなところであろうか。
ああ、そうそう、あとひとつ、強烈な思い出がある。
カメルーンの ドアラ港での話。
ドアラの人夫達....
みんなみんな頑強な大男(勿論に黒人)なのだ。
しかも顔がきつく、怖いのなんのって。
アフリカ諸港では、貨物も揚げるが日本行きの貨物も積む。
積む貨物は、丁寧に積まないとスペースが足らなくなる。
で、その大男たちに、「もっと高く、もっと奥に詰めろ」
と、言うのだが、誰もオレの言うこと何か聞いてくれない。
ちょっときつく言うと、彼らは反抗して怒りだした。
数人がオレに襲い掛かりそうな勢い。
その中の数人、何やらニヤニヤ笑っている。
そこは、誰も来ない船底の船倉。
いわば、外から見えない隔離された密室。
突然に、先輩が言っていたことを思いだす。
日本の若者は、可愛い!!!
彼らにとって格好の強姦の餌食だ。
オレは、怖くなって、その場から逃げた。
梯子を一気に登って、デッキまで逃げた。
んで、オレは、今でも黒人の大男が怖い。
ドアラの港も好きではない。
アフリカは東岸と西岸とでは、同じ黒人でも体格が違う
西岸だけを見ても、
カメルーン、ナイジェリアは、屈強で大柄な体格。
ガーナやトーゴになると小柄で可愛くなる。
それが、セネガル、シエラレオネまで来ると、また大きくなる。
と思うのだが、最近のアフリカのことではない。
50年前は、そうだったということ。
んん、まあ、ということで、
4等航海士時代の思い出は、
苦しかっただけ、楽しいことが少なかったように思う。