あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



三浦襄のこと(その2)

(日本軍のバリ島サヌール上陸記念塔の前の三浦襄)
((日本敗戦後に塔は破壊され今はもうない)
三浦襄のこと(その2)_d0083068_12223497.jpg

6、バリ島民は三浦襄をバパ・バリ(バリの父)と呼んだ

日本の統治下の三浦は多忙を極めた。
ある日、一人の新聞記者がバリ島を訪れた。
後に動物文学の第一人者になる作家の戸川幸夫である。

(サヌール海岸で.....)
(左が三浦襄、右が戸川幸夫)
三浦襄のこと(その2)_d0083068_12225975.jpg

三浦と戸川がデンパサール市内を歩いていると、
日本軍将校の前に二人の男が座らされてぶるぶる震えていた。
男のひとりは、三浦の顔見知りの教師だった。
三浦が男に話を聞いて事情が解った。
男がおどおど歩いているように見えたので、
将校はスパイだと思ったというのだ。
単にそれだけだった。
言葉が通じないまま疑いが晴れず、
将校は切罪の刑を言い渡していた。
三浦は将校に事情を話し、二人の男を救いだした。
三浦は、戸川に、言った。

人生の苦労も経験もない若い青年が、
支配権を握ったというだけで、
人間の生命を左右するなんて怖いことですね。
戦争という名の下に人の生命を奪い、
人の貞操を弄び、人の財産を奪う.....
許されることではありません
彼らに信頼され、慕われなければならない日本人が、
こんなことでどうして東亜の指導者になれますかね。

戸川は、後に発表する「戦場への神碑」の中で、
その時の三浦の様子を追憶している。

三浦老人は頬を紅潮させて若者のような激しい口調で喋った.....
私は老人の横顔を見て、激しい情熱と愛国心を見た、と思った.....

島民は、三浦をいつしか、
「バパ・バリ(バリ島の父)」と呼ぶようになっていた。


7、収益は全て島民に分け与えた。

昭和17年5月、軍用食料増産の必要から、
デンパサール市に牛豚肉用の缶詰加工工場が作られた(台湾畜産)。

(かって台湾畜産のあった場所.....)
(今は島内一の缶詰メ=カーcip社になっている)
三浦襄のこと(その2)_d0083068_12254663.jpg

その工場に納める牛豚を集荷する「バリ畜産会」が発足し、
三浦がその会長になった。
三浦は「バリ畜産会」には、日本人をひとりも参加させなかった。
運営、経理の全てを島民に任せた。
あくまでも島民の生活を向上させたいという思いからだった。
元三井農林小スンダ出張所員であった木舎一家は、
その時の三浦を知っていて、こういう。

「三浦さんは生活費程度の給料で決して多額の報酬を求めようとしなかった」
「働き口のなかったバリ島民に三浦さんは働く場所を作った」

三浦の指導と島民の努力によりバリ畜産会は着実に事業を伸ばした。
さらに三浦は、会社の近くにあった民家を買い取り、
食品加工の後に出て来る骨から、
歯ブラシやボタンを作る工場「三浦商会」を設立した。
デンパサール市内の貧しい島民を集め働かせ、海軍軍需部に納品させた。
ここも運営は全て現地人に任せた。
そればかりでなく、代金は全て現地人に賃金として支払われ、
三浦自身は一銭も受け取らなかった。


8、島民への税金の撤廃を陸軍大将に上申する。

三浦は、住民の負担が大きかった税金の撤廃にも腐心した。
バリ島を訪れた本庄繁陸軍大将に上申した。

「悪税を日本政府が徴する事、誠に嘆かわしきこと、
一般に日本よりの官吏の原住民に対する不遜不親切に対し、
強調して大将閣下に申述べる。」

横暴な日本人官吏や海軍の特別警備隊の乱暴ぶりについても
三浦は機会あるごとに軍上層部に抗議した。
当時占領対策の財政部門を担当していた稗方典彦陸軍大尉は言う。

「上陸部隊はほとんどが20代の青年将校ばかりであった」
「難しい部分は、いつも三浦さんに助けてもらった」
「上陸時のさまざまな政策は軍が作ったものではなかった」
「全て三浦さんの立案によるものであった」


9、20人近くの子供たちの面倒をみていた。

戦前のバリ島は漁業基地でもあった。
海亀業を生業とする糸満市出身の日本人が
バリ女性と結婚し、ここで暮らすケースも少なくなかった。
大東亜戦争開戦と同時にインドネシアにいた日本人は、
「敵性国民」として、全員拘束されオーストラリアの収容所に送られた。
その数は二千人を超えた。
バリ島にいた日本人も同じであった。
三浦商店の従業員もその中に含まれている。
親がオーストラリアの収容所に送られて、
子供と母親はバリ島の刑務所に収容されていた。
日本軍上陸後、三浦はそれらを見つけ出し自分の家に引き取った。
その数、20人ぐらいに膨れ上がっていた。
三浦のつぎはぎだらけのズボンは邦人の間でも評判であった。
生地の配給も全て子供たちにまわしていた。

(三浦襄が養育した子供たち)
(「内地の日本人と同じ格好をさせる」と服や靴に気を使った)
三浦襄のこと(その2)_d0083068_12261899.jpg


三浦が他人の子供を養育しているのを日本人官吏が、
知ったのは、かなり後のことだった。
「日本政府がすべきことだからせめて費用は政府で負担する」
との申し出があったが、三浦は
「自分で好き好んでやっていることだ」
と、きっぱり断った。


10、いったん日本に帰る。

灼熱の太陽の下での過酷な労働、
日本軍と島民の間で板挟みとなる精神的な疲労で、
50代半ばとなっていた三浦は胃痛や下痢に苦しめられていた。
戦局の悪化もあり、三浦は周囲にすすめられるまま、

「半年間、静養したら必ずバリ島に戻る」

と言い残し、日本に帰国した。
昭和19年春のことであった。
仙台に戻った三浦は4女が通う小学校で日本の戦局について話をした。
校長らを前にして三浦は「日本は戦争に負ける」と断言した。

久しぶりの家族だんらんを満喫しながら、
「死線を越え、原住民との約束」
「帰島せねば日本人の信用にかかわる」
「戦局非なりといえども使命は断じて果たす」
と、三浦のバリ帰島の決意は揺るがなかった。

すでに日本は連合艦隊の大半を失い、
中部太平洋の制空権も失っていた。
バリ島に帰るだけでも命かけだったが、
12月19日、三浦は帰島を果たした。

バリ島に戻る三浦を自宅近くの駅で見送った久子は、
別れ際に父と握手した。
その時の三浦の力の込め方が異常に強かったことを覚えている。
「もう二度と会えない」と直感したという。


11、三浦が帰り、島内は平静になった。

大東亜戦争の戦局は日に日に悪化していた。
バリ島民の間からも、日本軍に対して、疑念の声が上がり、
労役や資材の拠出も滞るようになっていた。
だからこそ、12月の三浦の帰島の果たした意味は大きかった。

「トアン・ミウラ ダタン(三浦の旦那が来た)」
「ミウラがいるなら大丈夫だ」
島内は再び平静を取り戻した。

間もなく、日本政府がインドネシアの独立予定日を9月7日と約束した。
三浦は「再びバリに戻って来た甲斐があった」と喜んだ。
インドネシア各地に独立の準備委員会である「建国同志会」が結成された。
バリ島に「建国同志会」が生まれたのは8月11日であった。
事務所はシンガラジャに置かれた。
日本人としてただひとり参加を求めれらた三浦は、
本部次長というポストだった。
三浦は最後のご奉公のために一か月の半分を
シンガラジャに滞在することにした。
このため三浦は、養育中の子供を全員母親の元に返し、
バリ畜産会や三浦商会の仕事も全て島民の自主経営に切り替えた。
そして、シンガラジャの事務所に姿を見せたのは、8月14日、
即ち、日本の敗戦のわずか一日前であった。


12、三浦、日本の敗戦を知る

シンガラジャの民生部の越野菊雄長官から敗戦に至る経緯を聞かされた。
三浦は頭を下げたまま、一言も口をきかなかった。
翌日、三浦は思いつめた様子で邦人の知人を訊ね、
「原住民に嘘をついた、腹を切らねばならぬ」
と言い残し、それからしばらく姿をくらました。

そして、数日後、人々の前に現れた時は、
何かがふっきれたかのように、朗らかで、インドネシアの民族歌や
日本の歌を口ずさみ、上機嫌だったという。


13、自決の理由

敗戦後の三浦襄ともっとも見近に接していたのは、
三井農林の研究員として、
バリ島の農業試験場の運営にあたっていた藤岡保夫だった。
藤岡は、三浦の家に同居していた。
藤岡の手記によると、三浦はある日妙なことを言いだした。
「試験場にセメントがあったら2、3袋貰えないだろうか」
いかぶる藤岡に三浦は、
「自分の墓を作るためだ」と答えたという。

藤岡が三浦の自決の決意を知ったのは、この時だった。
若い藤岡は自分も三浦と同じ道を進むべきと訴えたが、
三浦は、
「前途ある若者が自決するのは誤りだ」
と取り合わなかった。
三浦が藤岡に語った自決の理由は次の三つだった。

①  戦時中「日本人というものは戦争に負けたら、
   腹を切るものだ」と島民に言って来た。 
   誰も自決する者がいないと、日本人がうそつきになってしまう。
②  これまで、インドネシアの独立のために努力してきたが、
   不可能になった。 
   今後はこの地にとどまって激励したい。
③  戦時中、そして戦後のバリ島における、
   日本人の行動は全く話にならない。 
   自分の自決が日本人に反省の機会を与えるだろう。


14、バリ中をお詫びの行脚に巡る。

それから数日後、三浦は藤岡に「一緒に行かないか」と誘った。
「これからバリ人にお別れの挨拶をしに、バリ中を巡りたいんだ」
藤岡は快諾した。

それから三浦たちは、39郡を駆け巡った。
行く先々で、土地の有力者を集め、
日本が敗戦に至り、独立を援助できない事情、
しかし、精神的にはあくまでも独立を支持する旨を説いて、理解を求めた。
「お詫び行脚」の最終日は、9月6日だった。
三浦は半袖、半ズボン姿で、デンパサール市内の映画館に集まった、
約600人の島民の前に立った。
目は充血し、憔悴しきった表情ながら、
渾身の力を振り絞るように声を出した。

「みなさん、私はインドネシアを愛し、バリを愛しています。
今まで、この国の独立を信じ皆さんと生きて来ました。
しかし、日本は戦争に敗れました。
私も日本人もこの国の独立を助けることができません。
すみません。
独立の約束を果たすことができませんでした。
しかし、私は皆さんと同じようにインドネシアの独立を信じています。
私はインドネシアを、バリを愛するがゆえに、
全日本人に代わりこの国に骨を埋め、独立を見守るつもりです。
どうか皆さん、許してください。」

そして最後に言った。
「さようなら」
三浦の目には涙があふれ、体は小刻みに震えていた。
聴衆の誰もが三浦の自決の意志が固いことを知った。

たくさんの島民が傍に駆け寄った。
その中に独立後、少スンダ州の初代州知事となる、
イ・グスティ・クトット・プジャがいた。
三浦の家の家主であったプジャは、三浦を父のように慕っていた。
「パパ・ミウラ、死んではなりません」
「独立の約束を守れなかったのは、あなたのせいではありません」
「死んではなりません」

聴衆の最前列で三浦の演説を聞いていたのが、
上陸作戦の時に行動を共にした稗方典彦大尉であった。
稗方はその時のことを言う。
「三浦の頭上にオーラーが差していた」
「私だけでなく、他の人も見ました」
「あの神々しさはいままで見たことがないものでした」


15、自決する

演説の後、三浦は家で親しい人たちに囲まれていた。
もはや、説得はかなわないと思い定め言葉に詰まる稗方に、三浦は、
「日本の再建を頼みますよ」と逆に激励した。
稗方は、鎌倉時代から伝わる家宝の軍刀を差し出し、
「どうか南の空で永久に守ってください」と手渡した。
三浦は、
「承知しました」
「この軍刀をもって南は絶対に3千年守ります」
「安心なさい」と受け取った。

三浦は集まっていた人たちと午前零時過ぎまで、
インドネシアの独立、日本の将来のことを語りあっていたが、
やがて三浦は、いつまでも傍から離れようとしない人々に怒りだし、
「立ちされ、立ち去れ」と言葉を荒げた。

それから、4時間後、三浦が自殺するまで、
どのようにすごしていたのかわからない。

が、机の上には、仙台に残した妻子や、
バリ島民にあてた遺書が残されていた。
愛用の万年筆や時計などの遺品は、几帳面に送り先が記され、
わずかな現金は養育していた子供たちに分かち与えるように、
封筒に名前まで書き残されていた。

(デンパサール、Tagal Langon にある三浦襄の墓)
三浦襄のこと(その2)_d0083068_12264390.jpg

         私の家から20分のところにある三浦襄の墓、
         訪れるたびに誰かがお詣りした様子がある。
         お供え物から、お詣りした人は、全てバリ人と解る。
         日本人がどれくらい訪れるのだろうか.....
by yosaku60 | 2015-12-21 11:15 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)
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