11月20日は、バンリ県の英雄、
Anak Agung Gede Anom Mudita(ムディタ) 少尉の戦死した日である。
写真は、ムディタ。
名前が示す通り、ムディタは、王様の家系である。
バリには8つの王国がある。
その王国の領域がそのまま今の「県」になっている。
ムディタは、8つの中のひとつ、バンリの王様の家系である。
さて、
11月20日は、ングラライが戦死した日でもある。
が、ングラライは1946年の11月、
ムディタは、1947年の11月である。
ングラライの後、一年戦って、同じ日に戦死した。
戦死したのは、実家より5キロと至近のプンリプランの地であった。
指導者亡き後の一年間、ムディタはどのように戦ったのだろうか。
私は、なんとか調べたかった。
それもあったので、
11月20日、プンリプランの地に向かった。
当日は、8時から慰霊祭が始まった。
なのに、勘違いして9時から始まると思っていたオレ、
式典に間に合わなかった、馬鹿だね、オレって(笑)。
着いた時は、参加の子供たちが帰るのに出会っただけ...
しようがないので、会場に入った。
まだ、ベテラン(独立戦争に生き残った兵士)が着席しており、
その写真撮影は、なんとか間に合った。
手前の髭のじいさんは、ムディタの弟さんであるが、
写真を撮った時は知らなかった。
遅ればせながら、慰霊碑に参拝した。
床いっぱいに花びらが撒いてあった。
このままでは帰れない。
ムディタに関する情報を知ろうと、
残っている、あるグループに話しかけた。
下の写真の人達である。
と、何を聞いても、スラスラと応えてくれる。
当たり前であった。
この人達は、ムディタのご家族だった(後方は、オレとカミさん)。
ご家族から、いろいろ教えられた。
驚くことに、ムディタの奥さんがまだご存命でいらっしゃるとのこと。
さらに、弟さんもいて子供さんもいて、ここに来ているとのこと。
左から、ムディタの息子さんのスルジョンさん(70歳)。
カミさん、ムディタの奥さま(年齢聞き忘れる)、オレ...
そして、ムディタの弟さんのAnak agun Gde Bagus Ardana さん(84歳)。
この王家の人々、
「このあと、是非にプリ(宮殿)にいらっしゃいな」と、誘ってくれる。
嬉しい申し出.....勿論、行って来ました、宮殿に。
宮殿に着くと、アルデナさんがいろいろと教えてくれました。
その話の中で、びっくりしたのが、ングラライの軍勢の多さ!
アグン山の麓に隠れてゲリラ活動をしていた人数です。
私は、いろいろな書物から、300人と書いて来ました。
が、それは、部隊を分けた後の話であって、
それ以前には、800人いた、とのことです。
その800人の食料をこの宮殿に集め....、
ここから、オランダ側に見つからないように....
夕方出発して、朝方に潜伏先に着く道程....
それも毎日、それも頭に載せての人力運搬....
考えてみても、大変なことです。
その運搬を指揮したのが、当時のバンリの王様(写真)。
王様だからこそ、できたのでしょう。
ムディタの息子さんより父君のことが書かれた資料も頂いた。
難解な昔のインドネシア語で書かれた資料のようだ。
読み解けたら、このブログで発表する。
ムディタの慰霊祭への参加は、成功だった。
行動すれば、何か得るものがあると、あらためて思う。