日本バり会の会誌「Bali」32号
寄稿 ジャワからバリへふたたび 内村三俊
昭和61年2月3日、5回目の旅行に旅だつ。
前回の旅行からちょうど一年ぶりである。
旅行の目的というほどのことではないが、
昔この国で一緒に苦労した
台湾山砲の戦友たちが福岡で旅行団を組み、
ジャワ、バリの戦跡巡りをするというので、最後のバリで彼らを出迎え、
ネガラ方面、特に去年私が一人で訪れたチャンデクスマや、
住民の手で山の中に葬られている兵隊の墓へ、
案内をしてやろうというのも動機のひとつである(中略)。
2月4日、午後、ジャカルタからバリへ飛んでクタビーチに宿をとる(中略)。
2月9日、タクシーを雇ってネガラへ。
去年と同様プリアグンのステジャ邸にまた厄介になることにする。
2月11日、主に中東部ジャワを巡って来た戦友一行、
夫婦同伴も含めて12名、ネガラに到着する。
全員九州四国の居住者で、
同じ日本に住みながら戦後はじめての再開の連中である。
幹事に対しては、出発前手紙や電話でなるべく詳細な情報を提供し、
現地へも協力を依頼しておいたので一応準備は整っている。
しかし、なによりも気にかかるのは時間の問題で、
デンパサールから100キロ、しかもネガラからさらに西へ30数キロのギリマヌ、
その途中ではチャンデクスマ、更に山道を北へ入っての墓参など、
一日の中に消化してまたデンパサールへ帰さねばならない。
そのためプリアグン(王宮)での休憩は予定していなかったのだが、
是非に日本の兵隊さん達をもてなしたい、
というステジャ夫人の好意を謝絶することができなくて、
一同プリに招じ入れて冷たい飲み物などご馳走になった(中略)。
こうして先ず、
チャンデクスマ北方約10キロの小さな部落、
サリクニンにある戦友の墓へ。
わざわざ同行を申し出て下さったステジャ夫人のほか、
数名の地元の篤志の人達も加えての出発である。
幸い旅行団が乗ってきたバスも乗り入れることができ、
はじめ最悪の場合一人でも二人でもと思っていたのに
全員墓参ができるのは望外の幸運という他はない。
車を降りて墓までの数百メートルは、
所々崩れた畦道や竹の一本橋等で婦人たちには気の毒な難路であった。
そしてようやく墓。
考えてみると、私は昨年の昨日にあたる2月10日、
やはりこの墓前に立っていた。
前回のバリ会誌で報告した通り敗戦の昭和20年12月14日、
バリ全島が決起した夜、チャンデクスマの分哨が襲撃され、
虐殺された後、同じ住民の手で葬られ、
以来折々の祭祀をしてもらっている前田久一上等兵の墓である。
昨年私は戦後40年初めての同胞として墓を訪れたのであるが、
その時はまだこの墓の主の名前すら知らないままであった。
初めての日本人とはいえ、直接指揮系統もなかった私と違い、
今回は同じ兵隊仲間で親しくしていた筈の何人かを含め大勢の戦友達が訪れ、
故国から持参した線香の煙の中で日本酒などを供えられ、
そして椰子の梢に谺する
台湾軍の歌の合唱を聞いて、
40年余淋しい思いに泣いていたであろう墓の主は、
はじめて成仏してくれたのではないかと思う。
(註)稲川さんから教えていただいたことですが、...
台湾軍とは、台湾人による軍隊ではなく、
台湾防衛を目的とした軍のことです。
台湾山砲とあるのは、台湾軍の中の連隊です。
大東亜戦争では、日本の北部の者は支那方面に、
九州・四国の者が南方方面に派遣されたとのことです。
再び街道に出てギリマヌで遅い昼食。
一行の何人かは昔ここに駐留していた連中、
あの頃の貧弱な船着き場が、
今ジャワとの間に大きなフェリーの通う立派な港に
生まれ変わっているのに目を見張っていた。
降りだした雨の中を再び引き返してチャンデクスマ。
ここもちょうど一年前、
はじめて私は一人で海岸に花を撒き香を焚いたものだったが
今日は大勢の戦友達と一緒である。
特記したいのは、
この中にチャンデクスマ分硝13名中11名が虐殺された中で、
辛うじて生還した2名の中のひとりである、
尾崎末広君(高知出身)が居ることである。
彼は、あの時、
負傷しながら海に飛び込み潮流に乗って、
20キロ余も離れたギリマヌに泳ぎ着き九死に一生を得た男である。
今ここにいる他の戦友達とは比べ物にならない程の
彼の感慨は察するに余りがある。
彼は作りはるばる携えて来た数基の小さな墓標を
浜昼顔の葡う砂の上に突きさして合掌していた。
悲惨な死を遂げた戦友の名を呼びつつ、
降りしきる雨の中で「俺だけが生きながらえて許してくれ」
と慟哭する彼の姿を私たちは粛然と見守るばかりであった。
それから一週間、私はネガラにいた。
ステジャ夫人には、去年と同じく長期間お世話になり、
特に今回は、曽ては州知事夫人として、
バリのファーストレディであった身で、
わざわざ日本兵の墓参にまで同行して下さるなど、
我々に示してくださった行為に対しては感謝のほかはない(後略)。
(付録)
チャンデクスマの浜辺で戦友が歌った「台湾軍の歌」の歌詞です。
私は、音痴ですが、軍歌を歌うのが好きです。
軍歌を歌うときは、大声を張り上げるようにしています。
本間雅晴中将が自ら作詞したものだそうです。
太平洋の空遠く 輝く南十字星
黒潮しぶく 椰子の島
荒波吼ゆる 赤道を
にらみて起(た)てる 南(みんなみ)の
護(まもり)は 吾等(われら) 台湾軍
嗚呼 厳として 台湾軍
滬寧(こねい)の戦(いくさ) 武漢戦(ぶかんせん)
海南島に 南寧(なんねい)に
弾雨 の中を 幾山河
無双の勇(いさみ)と 謳(うた)われし
精鋭名ある 南の
護は 吾等 台湾軍
嗚呼 厳として 台湾軍
歴史は 薫る 五十年
島の鎮(しずめ)と畏(かしこ)くも
神去りましし大宮の
名残りを受けて 蓬莱(ほうらい)に
勲(いさお)を立てし南の
護は 吾等 台湾軍
嗚呼 厳として 台湾軍
今極東の 黎明に
興亜の 鐘は 鳴り渡り
五億の 民が 共栄の
目指して 築く 新秩序
前衛として 南の
護は 吾等 台湾軍
嗚呼 厳として 台湾軍