吉住、市来の最後の場面を書いて、
ジャワ、出発前の話を終わりにする。
まずは、吉住留五郎。
吉住は結核を病んでいた。
その頃の吉住を
小野盛と田中年夫の両名が書いている。
二人の証言をそのまま掲載する。
(小野盛証言)
1947年10月11日、
重体の吉住氏を山野氏と共にサワンガンに移す。
爾後、市来氏は終日、吉住氏の看病にあたる。
1947年11月30日、
吉住氏小康を得、サワンガンを離れる。
1948年2月1日、
市来氏の元に吉住氏が訪ねて来る。
本人は、病気全快というが、とてもそのように思えない。
が、一同で祝杯をあげる。
吉住氏は一泊し、情報並びに意見の交換をする。
吉住氏は状態の推移を黙視し得ず、
スカルノ大統領以下政府要人に意見具申のためジョグジャカルタに行くといい、
市来氏に同道を求める。
共にインドネシア独立のために戦う無二の親友とはいえ、
事、政治的見解については自説を固持した。
そして、このときは全く見解を異にし、大論争となるも合意に達しなかった。
その晩、一泊した吉住氏は、翌日一人で出発した。
1948年7月、
病状小康を得た吉住氏は、サワンガンよりウンギリに出て来て、
市来氏と計り、強力な遊撃戦を展開すべく、
東部、中部ジャワの日本人を集め、日本人部隊を編成、両氏が指揮をとった。
それら日本人は、各部隊に分散していたものを
司令部の許可を得て集めたもので、総員29名であった。
しかし、吉住氏は尚療養の要あり、ダルガン農園に入り、
部隊の指揮は市来氏がとった。(この月、吉住氏病死さる)
(田中年夫証言)
東部ジャワ、ケデリー市内に吉住を訪問する。
面接すると、病気の吉住は口伝で、
インドネシア独立宣言以来の政治家の活動状況を
あらゆる角度から検討してまとめている。
橋本が傍で筆記している。
肺病の吉住は、自分で書くだけの気力もないようである。
顔色も悪い。
挨拶するといきなり「刀を見せてくれ」と言う。
出した私の刀を抜いて、じっと眺めていた吉住は、
「菊一文字か、立派なものだ」と、讃めたあと、
「私のは胴田貫だ」と言って、
長く重そうな刀を抜いて見せる。
実戦用の刀である。
背の低い吉住には、似合わない長刀である。
数日後、吉住はセゴン農園に転地療養のため担架で運ばれて行く。
その途中、クリンギの日本人部隊に立ち寄った。
市来に後事を託した吉住は、私にも繰り返し握手を求めた。
氷のように冷たい手で、しっかりと握る手には、
全身の力が集中されているようである。
「早く全快されるお祈りしております」と言うと、
「ありがとう、ありがとう」と、繰り返し、かすかに微笑する。
............
ブリタル英雄墓地にある吉住留五郎の墓
...... 吉住留五郎の略歴、再掲載.......
明治44年山形県に生まれる。
オランダ統治下、すでにジャカルタにあって新聞記者として活躍。
その活躍ぶりがオランダの植民地政府にとって、
目障りなため逮捕され投獄される。
その後、日本に送還される。
戦争中はインドネシアに帰ってきて、
陸軍の宣伝班員としてジャワ派遣軍に加わり、
日本の統治に入ってからは、前田海軍少将に請われ、海軍の通訳として、
また海軍武官府にあって民族主義運動を工作する。
戦後もインドネシアに留まり、
インドネシアの独立戦争にあっては、
独立軍の軍事参謀指揮官として活躍する。
結核で血を吐きながら、
一個師団を率いて山々を転々としオランダ軍と戦うが、
昭和23年7月、ゲデリ州セゴンの山中にて病没。