5、プムトゥランの戦い
ランディー村で二つの特別部隊を作り、それらと分かれたングラライは、
翌日の6月20日、5キロ東方のプムテラン村(pemuteran)に着いた。
この頃のオランダ軍は、
バリ島の全ての村に分隊を配置するほどに拡大していた。
プムトゥランはアグン山の西方の裾野にある小さな村であったが、
この村にもオランダ軍の分隊があった。
ここでの戦いは、オランダ軍が少数であったことで、
ングラライ軍は勝利を収めた。
しかし、長居が出来る状態ではなく、
ングラライは、軍を東に2キロ転進させ、サム村(samuh)に着いた。
サム村の村人は、オランダ軍に通じておらず、
ングラライは、サム村でケガ人を治療させることした。
サム村では、9日間の休養をとり、軍を再編成し、
6月29日、タナアロンの地に向かった。
ングラライがサム村を離れた翌日の6月30日、
300名からなるオランダ軍はサム村に攻めて来た。
サム村はもぬけの殻であったが、
怒ったオランダ軍はサム村の住民を拷問にかけ、村の家々を焼き払った。
(註)400名に近いゲリラ隊が、サム村に長居をした。
味方の中にもスパイがいるかも知れない状況のなかで、
一箇所に9日間も安住できたのは、どうしてだろうか。
村人の中にスパイがいなかったことは、勿論であるが、
「軍が動き出すとすぐにオランダ軍にばれた」という事実から、
サム村にいた間、ゲリラ隊の全員をお互いに見張り、
スパイを含め一兵をも村より出さない、
との策をとったのではなかろうか。
6、プサギの戦い
サム村を出たングラライは、
アグン山々麓の深い谷と峰を15キロ縦横し、
5日後の7月4日には、アグン山の南の山麓に達した。
着いたのがカランガッサムのプサギ村(pesagi)であった。
そのプサギ村で休養をとっていた時、誰かが叫んだ。
「オランダ軍がやってくる!!」
その頃のングラライ軍は、分隊を繰り返していたが、
新たに加わったものもいて、未だ400名ほどの兵がいた。
一瞬パニックになりかけたが、
ングラライ軍はオランダ軍より高い位置を確保しており、
さらに、プサギ村に入る前に各所にワナをしかけて来ており、
パニックはすぐに収まり平静さを取り戻してオランダ軍と戦えた。
この戦いでは、オランダ軍兵士は12名戦死し、
バリ軍兵士はけが人が一人出ただけで戦死者はなかった。
ングラライは、タナアロンに向け兵を進めた。