小学校には、次の3系統があった。
1、蘭人小学校: オランダ人子弟が入る。
2、原住民一般小学校: 原住民が入りマライ語を主として修める。
3、原住民特別小学校: 原住民(選ばれた優秀者のみ)が入りオランダ語を主として修める。
(
原住民一般小学校)
原住民一般小学校は、さらに二つに分けられていた。
1、下級初等学校:3年生で、Sekolah A(SA) と呼ばれる。
2、上級初等学校:2年制で、Sekolah B(SB) と呼ばれる。
就学する児童が少ない中、行ったとしても、
SA で終って家業につくのが普通であった。
SBにまで進むのは極めて少数である。
したがって、SBの学校数も少なく、
ロンボック島とバリ島を合わせて、41校、児童数4016人であった。
(原住民特別小学校)
原住民特別小学校は、7年制でSekolah C(SC)と呼ばれた。
SB以上に学校数は少なく、ロンボク島とバリ島を合わせての
210万の人口に対して、僅かに5校、児童数924名であった。
ただ、将来、出世しようと思えば、この特別小学校に行かねばならなかった。
で、富有者の子弟ないし秀才は、悉くここを目指したが、
授業料が目の飛び出るほど高かった。
中等学校にあたるものとして、「中学校」と「男子教員養成所」があったが、
ロンボック島とバリ島を併せて、
中学校は2校、男子教員養成所は3校の計、5校しかなかった。
(註)女子教員養成所は、後ほど日本軍によって作られたものである。
このように、多くのバリ人が満足に学べない環境にあって、
人々はどのようであったのだろうか.............
和歌山県師範学校付属小学校の主事(校長)で、
鈴木政平(明治32年生)という人がいる。
鈴木は、日本軍統治時代に文教課長として、
バリ島に赴任し、島民への教育制度改革に携わった。
彼は、赴任早々、バリ島の小学校を視察して廻った。
その時の印象を次のように語っている。
鈴木政平文教課長の証言
(中略)
目を転じて一年生の子供を眺めてみる。
内地の子供に見るあの緊張さ、溌剌さ、無邪気さというものが全然ない。
まるでお面のように無表情である。
身体も一般に大きいようで、それにしても何と大人を小さくしたような子供である。
勿論熱心に勉強していると言われないが、といって隣同士で話しをする訳でもなし、
自分の好むいたずらを楽しんでいるでもなし、うつろな目でただぼんやりとしている。
授業に対する子供らしい喜びや感激といった影が全く見えない。
しかし、子供の服装はそう悪くない。
みんなよく洗濯されてこざっぱりしたものである。
日本の子供とは違った体臭が通ってくる。
男児は半袖シャツに半パンツ、女の子は簡単服が大部分、まれにサロンを用いた者がいる。
しかし、ことごとくが裸足である。
(中略)
体操の授業を覗く。
体操といっても遊戯である。
十人が二組に分かれて20メートル先の石ころを拾って、
こちらの空き缶に入れるということをやっていた。
二人づつ走るだけで、リレーというものを知らない風であった。
あとでわかったことであるが、人民の団結を恐れたオランダの
分裂政策の教育方面における、ひとつの現われと知った。
が、そういうことを教師たちも気付いていない。
すっかり骨抜きにされてしまっている教師達……
(中略)
朝、子供が登校する。
途中や校庭で先生にお目にかかっても、敬礼もしなければ挨拶もしない。
先生もまたこんなことには無頓着である。
鐘を合図に教室に入るが「おはようございます」もなければ「敬礼」もない。
いきなり授業が始まる。
子供の姿勢と見れば、腕組みをして一様に机の上にもたせかけ、
顎をつきだして先生を見ている。
指名されても「ハイ」でもなければ、立つでもなく、そのままの姿勢で答える。
(中略)
さればと言って、インドネシア人をつまらぬ奴らと判断してしまうのは早計なんです。
オランダの愚民政策、文盲政策の犠牲になって、
いやしくも政治に関連するような能力面は、徹底的に抑圧され、
根こそぎ打ちのめされてしまっているのですが、
従って気概、気骨、勇気、開拓、創造工夫といった能力は
ほとんど見るべきものがないといった状態ですが、
そういう方面に関係のない能力は、豊かな個性をもって、
脈々とその伝統を維持しながら、
彼等独自の領域を展開していることは見逃してはなりません。
彼らは十分に従順で、十分に素直です。
訓練すればものになる資質があるのです。
(中略)
オランダの教科方針をひとことでいえば「ねむれ、ねむれ」というところにあった。
日本の教科方針は「起きよ、起きよ」というところにすべきである。
……………………..
さて、この報告がなされた後、3年もしないうちに日本が敗戦になり、
ングラライの独立戦争が始まった。
オランダ時代に骨抜きにされたインドネシア民衆が
日本軍統治時代のたったの3年間で完全に意識が変ったとは思えない。
国政へ能動的に参加するまでに意識が変ったのは、
教育を受ける機会を享受できた一握りの者だけだったのであろう。
教育を受ける機会が多かったのは、貴族である。
ングラライ軍が貴族主導の軍隊であったのもわかろうというものだ。
逆から言えば、意識が変らなかった、即ち無関心な民衆が多い中で、
挙兵したングラライの苦労がわかろうというものである。
ということで、次は、
いよいよ本題のングラライの独立戦争記に入りたい。