(証言)
そうした位置に着き、第一日目無事であった。
二日目も何もなかったので、後方100メートルの空家に入り就床する。
三日目の明朝8時オランダ軍は、
パンセル7台・ジープ4台・トラック7台位に分乗して攻撃して来た。
私の壕の位置とオランダ軍の最前パンセルの間は、
せいぜい25メートルであった。
幸いなことにパンセルは道路の関係上横隊になれない。
私の所持兵器はマドソン。
敵先頭パンセルから猛烈に機関銃を射って来る。
「こ奴を射殺、沈黙させれば、敵の戦闘力の半分は減勢できる」
と思い、マドソンでよく照準する。
3発を射つ。
うまく銃眼に入ったようだ。
間もなく血が少ししたたるのを認められる。
敵パンセルの射撃が止まった。
と同時に、前の高地から機関銃を連射してくる。
その相手を狙い1発射った。
命中。
交代射手が3発と射撃しない内に、
又、その射手を射ち命中。
私の所持していたマドソンはバネが弱いために、
時々射撃不能になるため、
一緒に壕内に居た現地兵の日本軍の38式歩兵銃と交換し、
弾丸も16~17発貰っておいたのである。
丘の軽機関銃がその後射撃して来ない。
と、丘から7名ばかりのオランダ軍が降りて来て、
パンセル傍で膝射ちの姿勢をとる。
その分隊長らしい兵の胸を狙い射つ。
勿論命中。
2人のオランダ兵はおどろいて崖に落ち、
あとの兵はパンセルの後に隠れた。
勇敢な敵兵1人がステンガンをパンセルに乗せ、
そっと手を出し、頭を出しかける。
やっと口のあたりまで出した時、
私の1発を額に食らい倒れた。
より勇敢な色の白い敵兵が、
切断道路に飛び降り、こちらに向かおうとしている。
同壕内の現地兵の注意で慌てた私は、
腰がめで1発射つ。
うまく命中。
弾丸も射ちつくしたので後退だ。
現地兵は先に逃げたが、
私はアメーバ赤痢とマラリアのため体力が衰えて走れない。
怖いが諦めてぼつぼつ歩く。
1Kmばかり後退すると、同部隊の兵隊達に会い、
その晩は切断道路から若干離れた村に宿泊する。
翌朝、私は兵隊達に昨日の壕を利用せず、
もっと後退して壕を造るように命じた。
又、今日はオランダ軍も作戦協議や資材準備のため、来ないだろうが、
明日には必ず来るので、その際は抵抗することなく後退しろと命じた。
そのとおりとなった。
10月31日朝8時、オランダ軍は徒歩で進撃してきた。
兵が1人もいないのを確認して、私は道路に飛び下り退却する。
一昨日の壕に砲弾が命中している。
予感が的中した。
いち早く壕を後退させておいたて良かった。
脇の細道に入ると、
上田氏所属の擲弾筒の弾丸持参の少年が1人ぼんやりと待っている。
その少年を連れて、切断道路崖下の森林中に潜伏した。
オランダ軍がどういうことを言うか、聞きたかったのである。
弾丸の音が絶えると、
道路資材を下ろす音が聞こえ、オランダ兵が現地人を逮捕し、
「一昨日、ここで抵抗した日本人は誰か」
「兵隊を14名も殺したのだ、名前を教えろ!」
と殴打しているのが聞こえる。
これで私は、(おー、一昨日、敵はそんなに死んだのか)と思った。
一昨日の戦闘では壕近くに砲弾が落下して、
俺の体は土砂だらけだった。
戦闘当初に撃った上田氏の擲弾筒の弾丸も敵のジープに命中したようだ。
この戦闘では、私1人で3時間、敵と防戦したことになる。
こんな状態では、インドネシアの独立は至難だ。
いっそ死んだほうが良いかも知れないという、自暴自棄の気持ちになる反面、
俺は日本人である、という自尊心があって、複雑な思いにかられた。
日本軍時代も師団司令部つきであったので、
戦争らしい戦争をしたのはシンガポールへ上陸してからだった。
日本軍の時は、上官の命令に従い、絶対的信用ができたが、
現地軍を指揮してみて、把握指揮が如何に難しいか分かった。
怖いのは誰も同じで、我々も怖ければ敵も同様なのだ。
誰が先制勇敢に戦うかで勝負が決まる。
精神状態と教育が如何に大切であるか痛感した。