次の回は、谷本隊長と日本人3名、
並びにインドネシア隊員30名が小銃・軽機・擲弾筒の装備で、
ウリンギ敵兵営の東側から夜襲した。
10分位の間、射撃した。
擲弾筒が威力を発揮し、
敵兵数名の絶叫と混乱の声が聞こえたという。
その後2回、夜襲をかけたが、警戒が厳重になって、
これという成果が得られなかった由であった。
その頃から布団爆雷を使用する昼間襲撃に戦術切り替えた。
先ず、手始めに井上隊が指導する1隊に砂川外2名が加わって、
マラン市に通ずるクパンジン街道にあって、
ウリンギ町東方7~8km地点の鉄橋を爆破した。
そのために敵の自動車・装甲車の通行を遮断することができた。
一方、菊池が率いる一隊が、
ウリンギ西方ブリタル街道12から5km地点にある、
短い橋梁を布団爆雷にて破壊した。
またその後の或る日、谷本隊長指揮の一隊が、
マラン市西方からウリンギ町に行軍中の敵部隊の後尾に
多大の損害を興えた。
それは掘割道路の斜面の草むらに布団爆雷を布設し、
爆発させたものである。
敵軍後尾のトラック3両を破壊し、
少なくとも兵員7~8名が死傷したと思われる戦果をあげた。
更に小川の指揮する2組の攻撃班が、
ウリンギとブリタル市間で道路の傍の屋台店に布団爆雷を仕掛け、
爆発させて、小屋諸共に敵巡察兵5~6名を死傷させた。
この様な布団爆雷を用いた攻撃戦果をみて、
インドネシア兵達も積極的に爆雷を用いた攻撃を敢行した。
そのために布団爆雷を用いた総合戦果の概算は、
敵トラック大破14輌、中・小破30輌、装甲車2輌、
兵員殺傷約80名に及んだ。
以来、布団爆雷はゲリラ部隊の虎の子となった。
我々日本兵は、ゲリラ戦の実戦と平行して、
インドネシア兵の兵員教育も担当していた。
東ジャワ憲兵隊員など50名単位でゲリラ戦法教育をほどこした。
この中で布団爆雷の使用方法も彼らに教育した。
そして、その布団爆雷を相当数準備し、
貰いに来る近隣の他部隊にもわけてやった。
それら布団爆雷が使われ、
東部ジャワの大河、プランタスにかかる橋梁のうち、
大4橋、中小8橋を破壊すると共に、
農園・工場などの諸施設の爆破に使用され威力を発揮した。
こうした布団爆雷による戦果は、
敵兵の心胆を寒からしめると共に、
インドネシ独立軍の士気を鼓舞し、且つ高揚させた。
一般民衆もその戦果に驚喜し、イ国独立軍に感謝してくれた。
さて、戦後の話になるが、
独立戦争当時、東部ジャワ州のブラウイジャ師団に所属した、
日本人の生存者29名には、1954年7月1日付をもって、
師団長職代行のスデルマン中佐署名の感謝状が贈られた。
その感謝状は、
当時氏名が明らかでなかった為に記載漏れになった方もあるが、
私は、特別ゲリラ隊に参加された、
全日本人に対する感謝状であると確信する。
そして、その要因は菊池が作った、
「布団爆雷」によるところ大であると私は信じている。
1989年1月 小野寺忠雄