高原の街、バンドゥンを象徴するものといえば、
スカルノ初代大統領が学んだバンドゥン工科大学を筆頭に、
私立も含めれば25以上もの大学がある学園都市だということ、
それに美女・美男子が多く、
インドネシアのスターの多くがバンドゥン出身ということ、
の二つはバリに居ても知っていました。
が、もうひとつバンドゥンに来て新しく知った街の象徴がありました。
第一回の「アジアアフリカ会議」があったところということです。
1955年に開かれた第一回のアジアアフリカ会議は、
衝撃的な世界の歴史として、特に「バンドゥン会議」と呼ばれているのです。
市民もそのことを誇りとしており、今でもその足跡を大事にしております。
写真は、会議が行われた場所、今では博物館として市民に開放されています。
日本人と署名し入館したところ、所員が最後まで付き添って案内してくれました。

バンドゥン会議については、
ネットで検索すればわかることなので、多くは書きませんが.....
西欧の植民地として、虐げられてきたアジア、アフリカ諸国が、
一丸となって自立の尊さを確認しあったものです。
要するに、もう植民地政策を辞めなさいと、世界に対してものを申すという、
過去を考えれば、画期的な会議だったのです。
この会議には、アジア、アフリカから29の国の参加がありました。
植民地であった国々が一丸となって協議する場に、
一時は植民地にしようとした加害者側の日本にも招待状が来ました。
複雑な思いで参加した日本だったのでしょう。
当時の新聞には、消極的な日本と報道しております(これも展示品の一部)。

が、本当のところは日本はどうだったのでしょう。
日本から会議に参加した、加瀬俊一氏(当時・外務省参与)は、
この時の様子を次のように語っています。
私は政治家とお役人の話は、話半分に聞くことにしております。
次の談話も話半分なのでしょうが、
部分的には真実もあるのだろうと思っております。
談話の内容をそのまま書きます、曰く
.....
日本にも招待状が来ました。
国内ではアメリカに気兼ねして参加に慎重な人が多かったんです。
私は『出た方がいい』と言ったんです。
敗戦後間もない日本にとっては、国際社会に復帰する絶好のチャンスでした。
それで出席することにはなったけれども、
外務大臣は都合が悪くて私が行くことになったんです。
特命全権大使として『出た方がいい』と言ったのは、
私だけなんだけれども、内心不安でした。
というのは、アジア・アフリカというけれども、
アジアは大東亜戦争の戦場でした。
日本はいいこともしているけれども、
ご承知のように悪いこともしなかったわけじゃない。
それでね『行ったら白い目で見られるんじゃないか』
と思ってあまり気がすすまなかった。
しかしその会議に行くとね、あちらこちらから
アフリカの代表、アジアの代表が出て来てね、『よく来たね!』
『日本のおかげだよ!』と大歓迎でした。
それは『日本が大東亜共同宣言というものを出して、
アジア民族の解放を戦争目的とした。
その宣言がなかったら、
あるいは日本がアジアのために犠牲を払って戦っていなかったら、
我々は依然としてイギリスの植民地・オランダの植民地・フランスの植民地のままだった。
日本が大きな犠牲を払ってアジア民族のために勇戦してくれたから、
今日のアジアがある。』ということだった。
この時は『大東亜共同宣言』を出してよかった、と思いました。
我々が今日こうやって独立しました、
といって『アジア・アフリカ民族独立を祝う会』というのがA・A会議の本来の目的だった。
こんな会議が開けるのも日本のおかげですと、
『やぁー、こっちへ来てください』
『いやぁ、今度は私のところへ来てください』と言ってね、大変なモテ方だった。
『やっぱり来てよかったなぁ』とそう思いました。
.......
お役人ですから、誇張されているのでしょうが、
他の国から白眼視されるということはなかったようです。
ただ、出席したメンバーは、
中国の周恩来首相、
インドのネール首相、
エジプトのナセル大統領、
地元インドネシアのスカルノ大統領など、
煌めくような新興国のリーダーばかりでした。
日本だけが代理出席(鳩山一郎首相の代理)だったのです。
どのように言い訳しようとも日本が消極的だったことは確かです。