独立養成塾は、海軍の前田精少将の言わば私塾でした。
独立に向けて陸軍に動きがあったのは、
小磯声明が出されてから8ヶ月経過した1945年4月29日でした。
すでに戦況が悪化し、補給線が絶たれていました。
独立準備調査会という、
「調査」の名がつけられた会合の設立です。
何もかもが遅すぎたのですが、
この日(4月29日)から日本敗戦(8月15日)までの、
4ヶ月半のインドネシア独立に関する動きは次のとおりです。
1945年4月29日、
独立準備調査会を設立する。
70名の委員が発表され、
この日からメラプティ旗(現インドネシア国旗)、
インドネシアラヤ(現インドネシア国家)の使用を許可される。
この調査会において、
スカルノは国体としてのパンチャシーラを提唱、
またインドネシア現行憲法の骨格もこの時期に決まる(6月)。
1945年8月7日
インドネシア独立準備委員会が設立される。
独立がカウントダウンに入る。
1945年8月9日
スカルノ、ハッタらは、サイゴンに発つ。
8月11日、サイゴンにて、
寺内寿一元帥(南方軍総司令官)による、
独立承認のセレモニーを受ける。
制空権、制海権も奪われ東京への交通が,
確保できない状況であったため、
日本は南方軍総司令部が代わって,
インドネシア独立承認を告げたのである。
独立は、小磯声明から一周年でもある,
1カ月後の9月7日に予定された。
1945年8月14日
スカルノ、ハッタらは、
サイゴンからジャカルタに戻る。
......
そうなんです。
スカルノ、ハッタがジャカルタに戻った次の日の
8月15日が、日本の敗戦日ですよね。
インドネシア独立を承認するはずの日本が、
突然にいなくなったのと同じです。
独立を約束した9月7日まで日本はもたなかったのです。
これじゃ、独立できません。
が、揺れにゆれて、その2日後の8月17日、
インドネシアは、独自の見解において独立を宣言します。
日本軍も連合軍もいない、
権力の空白を利用しての独立宣言でした。
独立宣言を決める8月16日、
たったの一日なれど分刻みで激動した24時間。
そこに登場するのが、海軍武官府の前田精少将。
でも、それはシークレット...
いよいよ、これを書けるところまで来ました(笑)。
が、書くのは、来年。
みなさん、佳い年をお迎えください。