あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



スマラン事件(その7; 竹槍で突き刺した)

他の部屋でも生き残った人がいた。
中部陸輸局員の三輪義雄氏だ。
彼は中部陸輸局長の寺垣俊雄氏と一緒の牢に入れられた。

三輪義雄氏も手記を残している。


同じ部屋に入れられたのは、
局長の寺垣俊雄氏を中心とする局員、
邦人、軍人を交え四十三名であった。
部屋は間口二間・奥行二間のコンクリートの床敷だった。

四十三名では座るのが精一杯、
手足を伸ばすのも不自由だった。
その上、格子戸についている羽目板が閉ざされているので、
室内の蒸し暑さは言葉に絶し、
汗びっしょりで呼吸困難な状態であった。


見張り役に羽目板を開けるよう頼んだが
「喋ってはいかん」と叱られ、
明け方六時頃になってようやく
羽目板を開けてくれた。


八時頃、
鎖錠が外され二名づつ用便が認められ、
食事も与えられた。
この最中に銃声が聞こえ、
急遽入室を要求され再び監禁された。


そのあと、留置場の狭さを訴えたところ、
すぐに許され、
二十名が他の部屋に移され、
私の部屋は二十三名になった。



他所から銃声が聞こえ,
殺戮が続けられているようであった。
その内、あたりが暗くなり、
灯りのないこの部屋は真っ暗になった。

暗闇の射撃はできず、
匪賊は今日の襲撃は取りやめたようだ。 


翌十六日午前八時頃、
軽機を持った者が竹槍を持った五名を従えてやってきた。 

寺垣局長は、その中にたまたま顔見知りの者を見つけた。
その者に「陸輸ナショナルコミニツ」に連絡とるように依頼した。
相手は了承し引き上げた。 
部屋の者一同は安堵した。

午後三時頃に給食が出た。

それから三十分後、局長一人だけ外に出て、
話し合いが始まった。
ほんの少しして、竹槍で局長を突き始めた。
# by yosaku60 | 2017-05-14 13:04 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

スマラン事件(その6; 何故に殺されるのか)

全く死の恐怖の断崖に立たされたが、
頭の中ではいろいろの事が思い浮かぶ。
身は傷つき所詮死は時間の問題だろう。
このまま潔く敵の弾で斃れても良いが、
故郷に愛する妻と
未だはっきりと見覚えぬまま残して来た赤子もいる。

一同疎開先で無事であるとの便りを受け取っている。

今このままで死ぬとは!
戦争も終わり、敗れたりとはいえ、
命を全うして復員できるのに! 
インドネシア独立運動の犠牲になるとは、
全く無意味で犬死に以上の何物でもない。

ここはなんとしても生きて帰るぞと決心し、
自分に言い聞かせ念じた。


敵匪の襲撃は留置場ごとに行われ、
その都度悪魔の銃声が響いた。

その内辺りは暗闇となり、
敵匪の作業は終わり、
大殺戮事件が行われた刑務所は
何事もなかったように静かになった。


気が落ち着いてくるにつけ、
インドネシア人の我々に対する鬼畜行為には
大いなる憤懣が湧いて来た。

我々はインドネシアの独立を助長こそすれ妨害した覚えはなく、
またする必要もないのに、何故恨まれなければならないのか。

彼らに我々の心情を知らせんものと、
流れている血潮を指先につけ部屋の白壁に

「パギャン インドネシア ムルデカ
(インドネシアの独立を祈る、万歳)」と書くものもいた。

「天皇陛下万歳」とか、
「自分の名や家族の名」を書く者もいた。


遠くから銃声が聞こえて来た。
息のある者もシーンとしている。
日本軍が我々の救出に動きだしたと祈っていた。

しばらくして、また敵匪が現れた。
室内の様子をうかがっている。
少しでも動いているものを発見するや狙い撃ちである。

申し訳ないと思いながらもそっと友の亡き骸を引きよせる。
賊はなおも弾を撃ち込んでくる。
息をこらし生きた心地がしない。

「助かりたい」の一念で友の死体を抱えていることを一晩中、
気に留めながらも、いつしか眠った様だ。

その内殺気と幽鬼が一杯立ち込めていた部屋にも
夜明けの光が見えて来た。
全く長い夜であった。


# by yosaku60 | 2017-05-13 07:24 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

スマラン事件(その5; みな殺し)

前列に並んだ人は一瞬の間に至近弾を受けバタバタと斃れた。
急所を外れた者もおり部屋は阿鼻叫喚の地獄と化した。

私は部屋の一番奥にいたので、
直撃は避けれたが右ひざ関節あたりが生ぬるく感じ、
見るとズボンに丸く血がにじんでいた。
何かに当たった弾が跳ねてかすったのである。

辺りの様子がどんなに変化したか見極める余裕もなく、
専ら身を護ることが精一杯であった。

我々の部屋の襲撃を最初として、
しばらく間をおいて前の部屋の襲撃が始まり銃声が聞こえる。

死を覚悟した蛭間千代松氏(元東鉄局)の声で
「待て、待て、これから一人一人殺してくれ」
「格子の処に立つから指定したところを撃て」と、

その声に続いて一人づつ、
「ここを撃て」と頭、心臓、あるいは咽と指示し、

中には官姓名を名乗り、
または「天皇陛下万歳」を叫びながら、
刑務所の露と消えていった。

落合正男氏(元大鉄局)
古堂操氏(元名鉄局)の声も聞こえた。

私は、暴徒がまた襲撃に来る気配を感じ、
動ける者で最後の防戦をする準備をした。
まず扉を開いて中に入られてはおしまいだ。
幸い扉は内開きであるから、同胞の死体には気の毒であるが、
開き止めの盾になって貰おうと、
真っ暗の中、手探りで引き寄せた。

案の定、敵は人の動きを感じたか、
まだいきているぞ、
と無差別銃撃を始めた。

こちらも無我夢中で彼らの餌食になっては叶わぬと、
弾の死角を扉の内側に求めて身を隠した。
相手もさる者、生存者いると知るや、
今度は扉を開こうと取っ手をガチャガチャと廻したが駄目、
体当たりでも開かない。

敵はたまりかねて扉越しに弾を撃ち込んできた。
内側から扉上部を押さえていたが、バシッという音と共に、
左の尻たぶに丁度割り竹にビチャーと叩かれた様な、
軽い痛みと生暖かさを感じた。
上に手を当てるとべっとり血が付いた。
一発が肉を浅くかすめた貫通銃創であった。

しばらくして敵はあきらめて立ち去った。 
私は扉が開かないことが確認できたので、
僚友の死体に囲まれて横になり身体を休めた。

しばらくして、また外の音がして、
数人の敵匪が向かいの部屋を開いた。
死体を運び出し室内を洗っているらしい。

死体はどこに運び去られたのか、
川原にでも埋められたのか、
しばらくして、また辺りは静かになった。

# by yosaku60 | 2017-05-12 07:50 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

スマラン事件(その4; 無差別に撃ち出した)

城戸部隊が出動準備しているうちに暴徒が暴れていたのだ。
下町に住む日本人を次々といずれかに連れ去っていたのだ。

連れ去られ監禁されながらも、
九死に一生を得た、人の手記が残っている。
中部陸輸局員の北川哲夫氏の次の手記である。

十月十四日、今日は鉄道記念日。
このところの治安悪化では、いつ召集の声が係るかもしれず、
名鉄局工務畑の岩間八郎氏の発案で、
同郷の古瀬洋平氏と私の三名が食材を持ち寄り、
我が家で夕食会を開く。
鶏スキを囲み、ブランデーを飲み交わした。
これが永久の別れとも知らず、
打ち上げの盃を交わし解散した。

宴終了後、下男は後片付けを簡単に済まし,
「旦那さん、今夜は物騒だから外に出てはいかん。
青年団が夜警している」
と言い残して帰った。
今夜は屋外でピーピーと口笛を鳴らすインドネシア人の行き来が多いようだ。
私は特に気にも留めず、戸締りをして就寝した。
夜半ぐっすり寝込んだ所に突然玄関の扉を叩く音に眼を覚まされた。
出て扉を開けると武装した二人の青年がおり

「俺達は警備員だが世間が騒がしくなった。
ここにいては危険であるから、
保護するために日本人は集結してくれ今から案内する」

まさかの地獄の案内人とは知らず、
かねて緊急時のため用意していたリュックを背負って、
青年の後について行った。
近くの新聞社支部に着き中に入ると、
既に先客は沢山いたらしく、
部屋にはリュックなどの荷物が多数積んであった。

表にはバスが一台待っていた。
持ち物、リュックをその場に置き、身体検査後バスに乗せられ、
ブルー刑務所前で下車、そのまま狭い部屋に押し込まれた。

時刻は十五日午前三時頃、同室者は三十名近く、
ほとんどは顔見知りの鉄道隊員ばかりであった。
さしたる不安は感じなく、
まさかここが地獄とは思いもよらなかった。
昼食にやっと高粱米の石抜きしていない赤飯が配られた。
食べると小石がジャリッと歯に触る。

夕刻になって外部の様子がおかしくなり、
自動小銃を腰に構えた者と、
竹槍らしきものを持ったインドネシア青年二人が来て、

「これから用便のために出してやる。
その前に何人いるか点呼するから、
一同立って整列しろ」と言う。

やれやれ助かったと思い、
がやがや言いながら立ち上がり整列するや否や
銃を持った青年が引き金を引きバリバリと
無差別に我々に向かって掃射を始めた。

# by yosaku60 | 2017-05-11 14:20 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

スマラン事件(その3; 城戸部隊の指令間に合わず)

当時、スマランの警備は、城戸部隊が任にあたっていた。
隊長は、城戸進一郎少佐だ。
百二十名の特殊構成部隊で残務処理が目的で戦闘部隊ではなかった。

当時のインドネシアは、終戦直後の混乱期にあった。
その混乱に乗じ共産主義者の過激分子が台頭してきていた。
その組織は、アンカタン・ムダと呼ばれた。
スマランのアンカタン・ムダは特に過激であった。
左翼革命社会実現すべく、独立・革命を訴え、独立運動の主力になっていた。
そんなアンカタン・ムダの首脳者が、城戸部隊に武器の譲渡を迫ってきたのだ。

城戸部隊長は、すぐには断らなかった。
そうはできない状況をこんこんと説明し、最後は凛として決意を述べた。

「これ以上の要求をしたければ、私を殺してからにしろ」
「そうすれば部下は私の屍を乗り越えてゆく」
「あらゆる兵器を動員して全力で暴徒を鎮圧するだけだ」

アンカタン・ムダの首謀者は、「解りました」と言い、城戸の元を去った。
しかし、夕刻になってから、状況が一転した。
アンカタン・ムダの最過激派が違う計画を立てているとの情報が入って来た。

第一段階として、日本軍の保有する兵器の全面強奪。
第二段階として、日本軍の保有する一切の公物、私物の掠奪。
第三段階として、日本人の逮捕監禁並びに殺戮
以上の三段階を通じて武器を得る。
その武器でオランダ軍及びこれを支援する勢力と武力抗争を継続する、というのだ。

その情報を知り、城戸はすぐにアンカタン・ムダの首謀者宅に出向いた。
その真意を確かめるも、のらりくらりの返答であった。
武力による鎮圧も止むを得まい、城戸はそう決断した。

が、城戸の行動が遅れた。

その夜から翌朝にかけて、暴徒が暴れたのだ。
市内のオランダ人・混血人・親オランダ系住民が暴徒により逮捕され監禁されたのだ。
その総数は二千人に達した。
また、同じ頃、暴徒の一隊は大挙してスマラン飛行場を襲撃した。
少数の警備兵の武装を解除して連れだした後、飛行場を占領した。

城戸部隊長は、状態の悪化を知り動いた。
同日正午ごろ、市内に住む軍属・邦人に隣組を通じて次の指令を極秘理に伝えた。

「一部暴民の治安攪乱は極限まで来たため、
近いうちに武力を行使して治安の回復を図る。
軍属・邦人は市内で砲声を聞いたならば、城戸部隊、憲兵隊、
もしくは市長官舎のいずれかに集まり、軍の指揮下に入ること」

この城戸部隊長の指令も遅きに失した。


# by yosaku60 | 2017-05-10 09:01 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

スマラン事件(その2; 集団狂気)

「スマラン事件」では、百八十八名もの日本人が死んでいる。
その鎮魂の碑がスマラン市のバンジルカナル川の川沿いに建てられている。

建てられたのは、一九九八年十月十四日だ。
事件後五十年もしたということは、それほど建立が難しかったからだ。
関係者のなみなみならぬ尽力の末、ようやく建てられた鎮魂の碑だ。

その関係者の中には、救助隊の二人の分隊長、田中年男と青木正文もいた。
そうした苦労して建てられた鎮魂の碑の保全が近年危うくなった。
土地の沈下があって、崩れそうになったのだ。

再度、関係者が集まって敷地嵩上げの修繕に乗りだした。
そして、修繕を終えたのが二千十三年、今から四年前である。
関係者が集まらず、費用の負担に難渋したそうだ。
今後とも、保全には少なからず日本人の援助が必要である。

私は、未だスマランに行ったことがない。
が、近いうちに訪れたいと思っている。
できるだけ、多くの人に、スマラン事件を知ってもらいたい。
そういう人を募る意味で「スマラン事件」を詳しく語りたい。

ということで「スマラン事件」。
事件では、百八十八名もの日本人が殺された。
それもオランダではなく、インドネシア人に殺された。

殺されたのは、次のように一般人が多かった。
日本国有鉄道関係者、五十名。
王子製紙関係者、五十三名。
その他の企業邦人、二十二社、三十九名。
軍関係者、四十六名。

どうして、こんなにも民間人が殺されたのか。
殺された人は、死の直前まで殺されると思わなかった。
なんとも悲惨な事件である。

原因は、日本が戦争に負けたからだ。
日本が負けたのでインドネシアは日本に頼ることができなくなった。
インドネシア自らの力で独立をしなければならなくなった。
旧宗主国だったオランダ軍がもうすぐ上陸してくる。
その日が近づくにつれ、オランダ軍との抗戦を覚悟した。
戦うためには、武器が必要だ。
日本軍から譲り受けるしかない。
日本が譲らないなら、奪い取るだけだ。

インドネシア民衆の熱気がだんだんと高まっていった。
前にも書いたが、オランダ人の言うアモック(集団狂気)だ。
そういうアモック状況の中で起こった事件だ。

# by yosaku60 | 2017-05-09 09:07 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

スマラン事件(その1; まえがき)

私は、インドネシア独立戦争と日本人の関わりを追っている。
その中で、もし、もっとも大きな事件をあげろ....
と言われれば、「スマラン事件」をあげる。

日本の敗戦が決まり、独立に向けてインドネシア人が狂喜する。
狂喜なんていうと、大げさに思うかもしれませんが、
オランダ人がそう言っている。
彼らは、その時のインドネシア民衆を「アモック」と言った。
アモックとは、日本語で「集団狂気」です。

集団狂気の状態ですから、いろいろな事件が起こる。
バリ島でも、1945年12月13日に「バリ島同時テロ」がおこった。
が、ジャワ島スマラン市の「スマラン事件」は、惨かった。

齢をとると、涙もろくなる。
過去の残酷な場面に接すると、私は今でも涙が出てくる。
「スマラン事件」で、涙が出た場面を紹介する。

インドネシアの青年たちに虐殺された日本人が、死の間際、
自分の体から流れる血で「インドネシア独立、万歳」と壁に書き、
そして、絶命する。
殺されても相手を恨まずに死んでいくのだ。
殺された人は軍人ではない、殆どが民間人だ。
昨日まで、殺されると思っていなかった。
突然に狂気になった若者たちから、突然に殺されたのだ。
一旦刑務所に入れられ、刑務所の牢屋の中で殺された。
その日本人の数、188名.....

次の日、殺された現場をオンソネゴロ州の知事が見に来る。
余りにもの悲惨さに驚く。
壁に血で書かれた「インドネシア独立、万歳」を見る。
その時、知事が喋った、言葉に、私は涙する。

バハギヤ キク ビナタン.....

「わが民族は野獣なり」という意味だ。
誤解が生んだ殺人、狂気が生んだ集団殺人だった。
これが、新聞に載った。
それ以降、日本人を見る目が変わったと言われている。
そういう意味で、「スマラン事件」は、
インドネシア独立戦争に関わった日本人.....
を知る時の重要なファクトである。

日本人が188名殺された。
それを日本兵が救助に行ってインドネシアの若者と戦いになる。
日本兵が助けたのは、日本人だけでなく、
オランダ人や、オランダ人との混血、親蘭派インドネシア人、など
いろいろだった。
5日間、戦って、インドネシアの青年が1000~2000名殺された。
人数が、あいまいなのは、それだけ混乱していたということだ。
まさに、アモック だった。

私は、思うんです。
インドネシアに住む日本人ならば、
「スマラン事件」を知っておくべきではないでしょうか。
かといって、大きなことが言えません。
私は、まだ、スマランに行っていないんです。
でも、いずれ、行くことになると思います。

とういうことで、明日から、「スマラン事件」を連載する。

# by yosaku60 | 2017-05-08 10:52 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

日本軍の上陸地点を探しております。

昨日のブログ、なんであんな処を歩いたのかって?
昭和17年2月19日の日本軍がサヌールに上陸した地点を探しに行ったのです。
でも、見つかりませんでした。
昔は、こんなのが建っていました。
金村大隊のバリ島上陸記念碑です。
立っているのは、三浦襄です。
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が、これは、日本が戦争に負けたので、壊されてしまいました。
壊された後に、「ここがそうです」と、目印の小さな石柱があるそうなんです。
それを探しに行ったのです。

サヌールの海岸のどこにあるか、
ご存知の方があれば、教えてください。
私も、また、探しに行きますが、
なにしろ、昨日は歩き疲れて、しばらくは活動お休みです。

ところで、マタハリツルビットにある、これは違います。
これは、バドンのププタンの時に、オランダ軍がここから来たという地点の標識です。
でも、日本軍上陸の、たった40年前です。
そんなに昔ではありません。
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# by yosaku60 | 2017-05-07 08:24 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

こういうところに、こんなのが、

デンパサールの海岸を北東方向に歩き、
川向うがギャニヤールアールという場所....
にこんなのがありました。
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1974年4月22日のパンアメリカン航空の飛行機が
ブレレンの山に衝突した時の犠牲者の慰霊碑です。
乗客96人、搭乗員11人の全員が死亡した事故です。
96人のうちの29人が日本人だったそうです。
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日本人全員の名前が記載してありました。
この慰霊碑ができたのは、2015年です。
日本人の遺族は知っているのでしょうか。
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# by yosaku60 | 2017-05-06 10:40 | バリ島=ちょっとびっくり | Comments(2)

久しぶりの散歩

毎朝、ビーチに行きます。
でも、ワルンでコーヒーを飲み、朝飯を食べ...
前は、その後、散歩してたのですが、
「腹ふくれたから、今日は止めようか」と、
だんだんとずるをして....
そんで、歩かなくなって、はや、一ヶ月....
これじゃ、いけない、てんで....
今日はラクダ公園に行って来ました。

入り口のセキュリィテーのお二方、
「いいだろう、今日も.....」てんで、無料で入れてくれます。
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ラクダ小屋が、きれいになっていました。
でも、窓はウソ....これは、絵で描かれた窓です。
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誰かが言いました。
ジルバをかぶる女性は美人に見えるそうです。
同感です。
後ろは、「僕」.....
こんな時は、「僕」って書くんです。
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こんな、普通の幸せ家族も...
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# by yosaku60 | 2017-05-04 10:24 | バリ島=その日のできごと | Comments(0)

バリの昔を探るのは大変です。

先日、ついに行ってきました。
ングラライ隊が解散した、ブレレンの地。
探し探して、やっとたどり着きました。
その話は、いずれ....

今日は、そうした調査に関連した別の話です。

ングラライが活躍したのは、1945年12月13日から1946年11月20日のたったの一年。
バリでのゲリラ活動に限ってみれば、1946年5月から11月までのたったの7カ月。
この7カ月にしても、8月~10月は、ほとんど雲隠れ的状態で欠落。
てんで、ほんとうにバリで戦ったのは、4カ月だけ.....なんですよ。
その4か月の行動を追って、あしかけ5年.....だなんて、俺もヒマ。

バリ島での昔の調査は、結構に大変です。
記述がいい加減だからです。
次の写真、見ていただけますか。
タナアロンにある、ングラライ隊の歩いた経路です。
アグン山は、頂上に登っているのに、そう描かれていません。
復路は、全くいい加減、というより、ウソ。
通ってない道を通ったことにしています。
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それに比べれば、次の写真。
マルガラナ記念館にある、ングラライ隊の歩いた経路です。
大体、合っています。
でも、都市や村の位置関係がいい加減なんですヨ。
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詳しいのは、自分で描くしかありません。
# by yosaku60 | 2017-05-01 07:54 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

永くなりました、バリ島での隠遁生活

昨日は、おめでたい日でした。
結婚式があり、ポトンギギがあり、オトナンが各所でありました。
ポトンギギ;野獣性を消し、本物の人間になる儀式。
      日本でいえば、成人式。
オトナン; 生まれてから6ヶ月目に行う通過儀礼。
      この日を境に、輪廻転生で生まれ変わりつつある物体が
      この世の「人」になる。
日本では、結婚式が重要な式であるが、ここバリ島では、異なる。
大事な儀式を大事なものから順序付けると....
1、葬式 2、ポトンギギ、3、オトナン...
               で、このいくつかあとに結婚式。
ただ、シンガラジャ地区では、生まれて6ヶ月目のオトナンよりも、
3ヶ月目の方を大事にします。
まあ、ということで、いろいろあって、一概に言えません。
バリ島は、儀式の格付けも場所によって、実にいろいろです。

さて、余談はこのくらいにして、今日の本題....
昨日は、知り合いから、ポトンギギの儀式に呼ばれました。

井口君、9年前のこと覚えていますか。
我々のために踊ってくれた、小学生低学年だった、フェヴィちゃん(左)。
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今、彼女は高校2年生になりました。
身長174cm、見上げてしまいます。
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同じく、兄のエサ君。
彼も小学生でした(左の手を上げている子)。
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今は、大学生です。
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ポトンギギのお祝いは、この二人です。
この日のため、サンガ(家寺)も新しく建て直していました。
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収入の5割が儀式のために使われる、バリ島.....
大変でしょうけど、みんながそれを受けいれております。
部外者から見ると、そのことが驚きです。

# by yosaku60 | 2017-04-28 10:13 | バリ島=人生のかかわり方 | Comments(0)

柳川宗成物語(その19; 最終回)

戦後、ペタの卒業生が柳川に尽くした話に移る。
戦後三十余年を経て、スハルト時代になった。
インドネシア国軍のトップの多くがペタ出身だった。
そうした元生徒が、柳川をインドネシアに呼んだ。

柳川への感謝の意味だ。
老後をインドネシアで送ることを提案したのだ。

昭和三十九年、柳川はその誘いを受けた。
家族と共にインドネシアに住み始めた。
その後、インドネシア国籍も取得した。
インドネシアに住んだ柳川は教え子たちに大事にされた。

どれほど大事にされたかの実話を書きたい。

私が直接に聞いたエピソードである。
前にも書いたように、柳川は、拓殖大学出身である。
バリ島残留日本兵の私の調査に助言してくれる人がいる。
東京在住の稲川義郎さんだ。

稲川さんは現在九十歳、戦中は軍属としてバリ島に住んでおられた。
戦後、商社に就職しインドネシア各地を歩いた。
その稲川義郎さんも拓殖大学ご出身だ。
大学の後輩として稲川さんは、柳川宗成とは何度も会っている。
稲川さんから直接聞かされた、その時の体験談である。

ある日、稲川さんは柳川さんの家に遊びに行った。
朝食を終えた頃に柳川邸を訪れた。
朝の訪問は、初めてであった。

ヤッ、稲川君、
柳川さんは、いつものように快活に迎えてくれた。
どんな話をしたか覚えていない、しばらく雑談が続いた。
と、家の前に黒塗りの車が止まり中から白衣の数人が降りて来た。
聞くと、医師団一行で、毎朝来るとのこと。
柳川さんが健康で過ごせているかの健診だとのこと。
稲川さんは、驚いた。
インドネシアは、なんと柳川さんを大事にしていることかと。

こんな話もしてくれた。
インドネシアは、柳川宗成にインドネシア名を名乗ってくれるように懇願してきた。
将来とも柳川さんの恩に報いるためインドネシアにお墓を建てたかったからだ。
日本名のままでは、宗教上お墓が造れないそうな。
が、柳川宗成は、それを拒んだ。
親からもらった名前をそんなに簡単に変えれるか、と最後まで拒んだ。
と、稲川さんは、男としての生き方を通した柳川宗成を語ってくれた。

日本が敗戦した後にインドネシア独立戦争が起こった。
敗戦しても日本に帰らず、現地人と共に独立戦争を戦った日本兵が一千余名いた。
いわゆる残留日本兵だ。

戦後、残留日本兵が集まって「福祉友の会」を作った。
ジャカルタにいた柳川は、「福祉友の会」を陰ながら応援、援助した。
が、「福祉友の会」には入会しなかった。

柳川は、インドネシア兵として独立戦争を戦いたかった。
が、連合軍に収監され、戦いに参加できなかった。
そのことを生涯悔やんだ。
インドネシアのために戦えなかったことを恥とした。
そのため「福祉友の会」の会員たる資格がないとして入会しなかった。
柳川宗成....
昭和六十年十月七日、ジャカルタの自宅で逝去、享年七十一歳。
死の直前まで豪胆に生きた。

# by yosaku60 | 2017-04-27 08:01 | インドネシア独立戦争 | Comments(2)

柳川宗成物語(その18: 日本人の島国根性)

ペタでは、七百人ほどの日本人指導官がいて、インドネシア人青年を指導した。
両者の間には、当時の占領者と被占領者の関係を越えた深い人間関係が築かれていた。
それなのに、そういう風潮が何故に日本軍全体に広まらなかったのか。

私は、義勇軍指導部の山崎大尉の次の言葉に共感する。
山崎大尉は第十六軍から出向という形で義勇軍教育隊に関わっていた。
柳川の上官であった。
上官であったが、柳川を信頼し全てを任せる、という人格者であった。

戦後、その彼が言った。

我々は、英軍兵士のインドネシア人将校に対する態度をまざまざと見せつけられた。
英軍兵士のインド人将校に対する敬礼の厳粛さよ。
この時こそ《我敗れたり》と、しみじみ感じさせれずにおられなかった。

どういうことかというと、戦時中、日本軍にも内務規定というのがあった。
その規定には、日本軍の下士官・兵は、義勇軍上級幹部に敬礼すべし、とあった。
ところが日本軍の誰もがそれを守らなかった。
山崎は、日本軍の《さもしさ》を嘆いたのだ。
山崎は、その日本人の意識を掘り下げ、さらに書いている。

明治開国以来、列強に俉してゆくために当時の政府がとった教育政策、
すなわちアジア諸民族を低くみることによって、
相対的に自民族が優れたものであると認識させる.......
誤った優越感を持たせることにある。 
日本人には、多民族の言語、風俗、習慣を異なるものとし、自国の方が良いとする。
極端にいえば、相手を認めたがらない、島国根性がある。

私は、今バリ島に住んでいる。
住んでもう十年になる。
バリ島には三千人の日本人が定住している。
今も山崎大尉の言う日本人の島国根性が周囲に散見する。
いや、私自身が時にそうなる。
思い当たることが多い。
なんと恥ずかしいことか。
自分への警鐘として聞いておきたい。

# by yosaku60 | 2017-04-26 08:39 | インドネシア独立戦争 | Comments(3)

柳川宗成物語(その17; スハルト語る)

自らもペタの中団長であった経験を持つ大統領は、こう答えた。

インドネシアが独立宣言をしたのは一九四五年八月十七日である。
一方、日本軍によってペタの解散が行われたのは、その後の八月一九日である。
独立にあたり日本軍から譲り受けた軍事力は何一つ存在しない。
独立戦争に参加したペタの将兵たちは、
インドネシア共和国の人民治安本部の招集に参加したのであって義勇軍として参加したわけではない。
当時の日本軍はファシストの軍隊であった。
インドネシアがその創造物であるかのごとき見解は認められないし、断じてそのようなことはない。
インドネシアは日本に独立を与えられたのではない。
しかしながら、精神鍛錬の基礎、これこそが実際は、我々の闘争の最高の資本となった。
我々に国家と民族のために全てを犠牲にする覚悟を目覚めさせた。
そこから人民治安軍が組織され、遂にはインドネシア国軍となった。
我々がペタから受け継がねばならないのは、その精神と気迫である。

このスハルトの談話を要約するとこうなる。

ペタは日本軍が作った組織だ。
独立戦争に貢献したのは、ペタではない。
人民治安本部だ。
人民治安本部にペタの卒業生が多かっただけだ。
ペタの卒業生は、鍛錬から得た戦う強い精神力を持っていた。
その気迫が、独立に貢献した。
と、語っている。

要するに、語りの最後でペタの貢献を認めているのだ。
スハルトの日本軍政感は、必ずしも日本や日本人に好意的ではなかった。

日本軍のインドネシア占領はアジアの解放ではなく日本自身のためだった。
と、明言している。

が、ペタの日本人指導官につては好意的に見ている。
スハルトは、「私の履歴書」という自伝を残している。
その中で、次を書いている。

日本軍のインドネシア占領は、日本自身のためだった。
我々がそんな日本軍に協力したのは、独立のためだった。
ペタの日本人指導官は、それを解って、我々を指導してくれた。
ペタの訓練は想像を絶していた。
朝の五時半から夜遅くまで軍事教練、理論、精神教育が続き、
仲間の一人がたるんでいると全員が夜中まで正座させられた。
相撲もやった。
五回勝つまでやめられず、きゃしゃな私は辛い思いをした。
《駆けろ、駆けろ》の朝の走行訓練での指導官の掛け声は今も耳に残っている。
私が当時を語る時の用語は、今も日本語である。
私の指導教官だった土屋競大尉も上官の柳川宗成も厳しい軍人精神の持ち主だったが、
彼らは、独立に向ける我々の気持ちを汲んでくれていた。

# by yosaku60 | 2017-04-25 07:24 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その16; サンペ・マティ)

ペタ解散直後一か月ほどして起こったスラバヤ戦争についても紹介したい。
ペタが解散しているということは、勿論、日本の敗戦後の話だ。
これがインドネシア独立戦争の奔りにもなった。
ペタが中心のインドネシア軍に対し連合軍側は英国軍であった。
一九四五年九月下旬、英国軍はスラバヤに上陸してきた。
旧宗主国であった同盟国のオランダから聞かされていた。

インドネシア人は極めて従順な種族である。
日本軍が降伏してしまった現在、我々が上陸すれば、彼らはただちに元どおり従順になる。

しかし、インドネシア軍はもはや従順ではなかった。
日本軍によって訓練されていたのだ。
インドネシアの民衆軍(ペタ)に強襲され、たちまち一個師団が全滅してしまった。
英国軍がかくも簡単に負けたのは、ペタの戦う気持ちが強かったからである。

が、他にも原因があった。
英国軍は自国の植民地のインドから兵隊を連れて来ていた。
このインド兵が、インドネシア兵を見て驚いたのだ。
おなじアジア人だ。
なのにインドネシア兵は強い。
それに独立に一生懸命だ。
インドネシアが羨ましい。
我々もインドに帰って自国の独立のために戦いたい。
インド兵は、真剣にインドネシア兵と戦う気が失せてしまった。
鉄砲を空に向けて撃ったとの話も残っている。
驚いたのが英国兵だ。
インド兵はまともに動いてくれない。
考えてみれば、我々はオランダが来るまでのつなぎ役だ。
それなのに、旅団長のマラビー准将までも射殺された。
死傷者もすでに千三百七十七名出ている。

スラバヤ戦争に嫌気がさし始めた。
結局、英軍はスラバヤの市街地を占領するのに百日間も費やした。
それも、一応形だけ整えた占領だった。
形を整えると、英軍はすぐに軍事制圧を断念し和平交渉に転じた。
で、一九四六年、軍隊を撤退させた。

撤退の起因するところ、やはりペタの存在だった。
ペタがいたからこその勝利であった。
青年道場の合言葉はペタの合言葉にも引き継がれていた。
「死ぬまでやる(サンペ・マティ)」
それがあったからこその勝利であった。

以後、ペタは、インドネシア独立戦争にどっぷり入ってゆく。
そのインドネシア側軍隊としての中心的存在がペタであった。

が、ペタであったが、ペタではなかった。
なぜなら、日本敗戦とほぼ同時にペタは解散していたからだ。

解散し存在しないペタが独立戦争を戦えるはずがない。
それを発言したのが、第二代大統領のスハルトだ。
一九八七年、元ペタの将校が集まって、スハルト大統領と会談した。

元ペタの将校たちは、大統領に要望した。

ペタこそが、かって独立戦争の中軸となって戦った。
その後のインドネシア国軍の母体を築いたのもペタである。
このことを認めて欲しい。

と、大統領に迫ったのだ。

# by yosaku60 | 2017-04-24 09:36 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

シダカリヤ地区のムラステー

今朝の浜、すごい人だかり...
シダカリヤ地区のムラスティーという。
ムラスティーとは.....
ニュピの前に浜に繰り出してするお祈り、
と思っていたが、そうとも限らないとのこと。
そういえば、セセタン通りに大きな寺がある。
その寺に関係するムラスティーではなかろうか。
ガルンガン、クニンガンの大きな行事が終わったばかりのバリ。
今朝もこんな大きなお祈り....
バリ人は、大変だ!
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生贄....羊一匹、鶏2羽、アヒル1羽

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行列が来た。
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# by yosaku60 | 2017-04-23 10:10 | バリ島=慣習・伝統 | Comments(0)

柳川宗成物語(その15; ペタがあったからこそ独立がなった)

約五百名の大団の中に七名ほどの日本人指導者を置いたが、それは脇役であった。
軍の幹部も生徒も全てインドネシア人による構成だ。
但し、幹部になるために最初の教育だけは、日本軍が担当した。

「ジャワ郷土防衛義勇軍幹部錬成隊」である。
地元で義勇軍を育てるための教官を育てる機関だ。
ペタ促進のために、背中を押してやる役だ。

昭和十八年十月のこの錬成隊には四つの中隊があった。
その中で最も重要な中隊は、
ジャカルタ州、バンテン州、ブスキ州、バニュマス州を管轄する第三中隊であった。
第三中隊の生徒は小団長要員二百名であった。

柳川は、その中隊の隊長を勤めながら錬成隊全体に目を配った。
が、中隊を受け持ちながら全体を見るのは少し無理があった。
柳川は「錬成隊」を「教育隊」と改名し、若干の組織替えをした。
そして、その「教育隊」の隊長の任についた。

正式な役職名は、ジャワ防衛義勇軍幹部教育隊長である。
教育隊で学んだ幹部が次々と地元に帰り、ペタを広げていった。
ペタの開設から解散までの期間は約二年間であった。

その二年間の内にペタの軍勢は、六十六大団、三万六千人に膨れた。
柳川が目論んだとおりであった。

そんなペタも解散の日が来た。
一九四五年八月一五日、日本軍が敗戦した。
その二日後の八月一七日、スカルノらによるインドネシア独立宣言があった。
さらに、その二日後、ペタは解散した。

ペタが解散した後に、インドネシア独立戦争が始まった。
独立戦争には、ペタが大きく貢献した。
その証言は、今も多くが語り継がれている。

そのうちのいくつかを紹介したい。

まずは、柳川の教え子、後のジャティクス陸軍中将の弁である。
「もし、我々(ペタ)がいなかったら独立宣言もただ一枚の紙だった」
すごい自信である。
五年を超える困難な独立戦争を戦ってきた自負があったのだろう。

# by yosaku60 | 2017-04-23 07:56 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その14; ペタの創成)

木登りだけではない。
教育全般について生徒の母親から感謝の手紙が届いた。

息子は以前は全く弟たちの世話をしませんでした。
それが、先日帰って来た時は、良く世話するようになっていました。 
どんな教育をされたか判りませんが、丈夫になり、
見違えるような青年になり本当にありがとうございます。

ということで、柳川の「青年道場」は、その成果著しいものがあった。
昭和十八年六月、第一期生五十名の教育を完了した。

柳川は書いている。

タンゲランで、第一期生と涙の別れをしました。
また逢えると思っていても心血を注いだ生徒たちとの別れは本当に辛かったものです。
生徒たちには、預金していたお金を小遣いとして持たせました。
生徒たちには半年ぶりの帰省でした。
但し、第二期生の新規募集も含めての帰省でした。

というこで、応募を終え、翌月には、もう第二期生の教育を開始した。
そうした教育を始めて二か月ほどした頃であった。
日本側とインドネシア側の双方から同時にある要望がなされた。
インドネシアの民族軍が必要である、との要望だ。

但し、双方の思惑は、異なっていた。
日本側は、不人気になりつつある「兵補」に代わるものを求めた。
インドネシア側は、日本抜きの自立した「民族軍」を求めた。
目的は違っていたが、作りたいものは同じであった。

柳川は、それを聞きつけて動いた。
柳川が思い描いたのは、「兵補」の延長ではない。
「インドネシア民族隊」の創立だ。

胸の中には、かねてからの構想があった。
青年道場を開設して以来、腹案として持っていたのだ。
で、立案は簡単だった。

団、分団と分けた。
一個大団を五百名とし、一個大団の中に四個中隊、一個中隊に三個小団とした。

第一期生は、「青年道場」から横滑りさせ骨格を作れば良い。
そんな柳川の案が通った。

多分に、原田熊吉司令官の後押しがあったのだろう。
昭和十八年十月二十六日、インドネシア民族軍ができた。
名称は、柳川の案どおりに「郷土防衛義勇軍(ペタ)」と名付けた。

柳川が苦心したのは、日本名を使わぬことであった。
「兵補」は、日本語である。
インドネシア人にも「ヘイホ」と呼ばせた。
これではいけない。
インドネシア人をして、日本に加担するためとなってしまう。
要するに、押しつけになってしまう。
郷土防衛義勇軍は、そうであってはならない。
郷土防衛義勇軍は、インドネシア軍である。
インドネシアの呼び方をすべきだ。
柳川は、頭文字をとり「PETA(ペタ)」と呼ばせた。

# by yosaku60 | 2017-04-22 07:39 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その13; 木登り訓練)

柳川は、述懐している。

インドネシア人は真面目で粘り強い。
こんなにも優れた面を持つ人々をたとえ間接統治とはいえ、
三百四十年もの長きにわたり抑え続けて骨抜きにしたオランダ人に新たな怒りを感じた。

青年道場の敷地には、数百本の椰子の木があった。
毎日の相撲の後で自由に椰子の実をとって良いとしていた。
水を飲み、中のま白い果肉に塩を加えて喰った。
相撲で疲れた乾ききった咽喉を潤すには絶好であった。
相撲が終わると駆け足で道場南の椰子畑に行って実をとって食べた。
各班で木登りの得意な者を選んで椰子の実をとっている。
いつも同じ生徒が木登りに当たっている。

柳川は、それを見ていて思いついた。
これも訓練のひとつに加えよう。
自分の飲む分は自分で取って来るように仕向けるのだ。
全員が椰子の木に登れるように訓練するのだ。
それにはまず自分自身が木登りができないといけない。
柳川は、みんなが寝静まった真夜中に木登りの練習を始めた。
両手で引っ張り、両足で突っ張る「エテ公」式の登り方を習得した。
登るのは簡単で一晩で習得できたが、降りるのが大変であった。
こっそり練習を初めて四日目でなんとか登り降りできるようになった。

柳川は、生徒に申し渡した。

今日からは自分で食う椰子の実は、各人が登って取るようにしろ。
自分で取らぬ者は食うことならん。
日本人班長も同じである。
よしかかれ。
どれをとってもいい。
甘いものをとれ。

降りる時が難しかった。 
途中で力つきずり落ち、顔から胸まで擦りむいた者がいた。
残り二メートルを残し落下し気絶する者もいた。
が、そのうちに全員が登り降りできるようになった。

後日、こんな木登りについて、当時の生徒のひとりが思い出を語っている。
後に香港総領事となる、ブリアツナ准将だ。

私は生まれて初めて柳川隊長より椰子の木登りをやらされた。 
私はバンテン州バンデグラン県の県長の息子でした。 
椰子の実が欲しいと言えば使用人にすぐに取らせる地位にありました。 
自分で椰子の木に触ることもなかったし、
ましてや自分で椰子の木に登ることなど思ってもいませんでした。
それが生まれて初めて登らされたのであります。
大変な擦り傷をしましたが登れるという自信は大変なもので、
この点でも私自身独立戦争中に偵察に攻撃に自分で登って部下を驚かせました。
柳川隊長のおかげであります。

# by yosaku60 | 2017-04-21 07:37 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その12; 水泳訓練)

水泳訓練だ。
水泳訓練に先立ち、柳川は次を訓示した。

明日から水泳訓練を実施する。
訓練は三日間と限る。
三日間の練習の後、一人でも泳げない者がいたら、その班の全員の責任とする。
泳げない者は、水の中を歩いてでも渡る覚悟で練習しろ。

実施の第一日目は、五メートルの跳び込み台から跳び込む訓練だった。
準備運動の後、後一列に並ばせ、順々に跳び込み台に登らせた。
先ず、柳川が跳び込んだ。 
続いて日本人教官が跳び込んだ。

生まれて初めて高飛び込みをした者がいたと思う。 
水泳の得意な者は、われ先にと飛び込んだ。
次に恐る恐る泳げる者が飛び込んだ。
第一回で飛び込めない者が約半数いた。

柳川は各教官を飛び込み台下の両側に配して台上から注意を与えた。

おい、今から飛ばぬ奴を突き落す。
よし、というまで助けないように、少々水を呑んでも死なないことを教えてやるのだ。
いいか、よし、と行ったら初めて助ける。

下で、富樫通訳が青年たちに聞こえるように大声で通訳した。
台上でふるえて泣きっ面の生徒を無理やり飛び込ませた。
泳げる者はなんとかべそをかきながら飛び込んだ。

柳川は、自力で飛び込めない者を手で突き落していった。
全く泳げない者も何人かいた。
水中でアップアップしている。
少しばたつかせておいて助け上げる。

飲んだ水を吐かせてまたすぐ飛び込ませる。
真っ青になって台に登りまた溺れる。
泳げない連中は何度もアップアップする。
適当に水を飲んでから教官に引き上げさせる。

中には、失神する者もでる。
水を吐かせ、人工呼吸をして生気づくと直ちにまた飛び込ませる。
これを三回繰り返す。

全員が飛び込めるようになった。
飛び込めるようになったので、水泳を教えた。

泳げない連中には、プールの底を這わせた。
プールの浅い処ではない、一番深いところを選んだ。
すぐにアップアップしながら、同じところを行ったり来たりする。
教官が途中で引張ったり突いたりしながら対岸まで押してゆく。

途中で気力尽きてだんだんと沈んでゆく者もいる。
しかし、なんとか対岸まで、引いたり突き飛ばしたりして辿り着かせた。
こうした訓練をして三日目、全員が二十五メートル以上泳げるようになった。

若いインドネシア人が猛訓練についてきてくれる。
彼らは真剣に日本人教官に追いつこうとしたのだ。

# by yosaku60 | 2017-04-19 07:33 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その11; 死ぬまでやる)

毎朝の点検後の体操をした後に駆け足もした。
一キロから二キロ、二キロから四キロと距離を伸ばした。
初めは、生徒どうしや教官に抱えられ、引張られて帰って来る者がいた。
が、一か月後には、全員元気で余裕を持って走れるようになった。

こうした火を吹くような訓練は、
適切で十分な給食と相まって、発育盛りの彼らの体位を急速に上昇させた。
四週間後には、全員の体重が増えた。

一方、精神面だが、独立精神を鍛えること終始した。
柳川は、彼らを次のように叱咤した。

独立は自らの力で取るものである。
与えられるものではない。
与えられたものは、すぐに奪われる。
自らの力が備われば、独立は自然にできる。
自らの力が備わるまで黙って勉強せよ。
黙々と自力を養うことだ。
そのためには、私たちは全霊全魂を捧げる。
私たちに負けるな。
私たちに負けるような力では独立はできない。
独立は諸君が私たちに如何にして勝つかにある。
一日も早く我々に優る能力を作るために全精力を体力、気力の養成に打ち込め。

柳川は、そう言って徹底的に精神力を鍛えた。
青年たちは、学科は熱心に聞いていた。
青年はたちは狭いジャワ観から一遍に世界観にまで視野を広げた。

柳川が書いている。

学科の勉強から受けた彼らの開眼は、目を見張るものがあった。
私が中野学校で受けたものの数十倍にもましての驚きであった。
当時の青年道場の合言葉は、

「死ぬまでやる(サンペ・マティ)」であった。

この合言葉が、端的に当時の教育の熾烈な状況を表している。
その「死ぬまでやる」を実践した訓練があった。

# by yosaku60 | 2017-04-18 09:17 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その10; 教育カリキュラム)

そんな青年道場の教育内容だが、
柳川は、陸軍中野学校で自分が学んだことを中心に次のように組み立てた。

一、学科
(イ)精神教育(精神訓話)
(ロ)世界事情(和蘭東印度史)
(ハ)軍事学(軍隊内務、戦史、戦術、作戦、築城、交通通信)
(二)語学(日本語)

二、特殊教育
  諜報、宣伝、謀略、防諜、統計

三、実科
  教練、体操、相撲、水泳、銃剣術

四、術科
  射撃、偵察、連絡、潜行、潜在、破壊、殺傷

五、演習、見学

六、課外
  軍歌演習、軍歌解説、号令調整、その他一般常識

柳川は、青年たちの体力と精神との両面の向上に苦心した。
なぜなら、青年たちの最初の平均体重は四六・九キロだったからだ。
強い精神は、強い身体に宿る。
柳川は、まずは体力の増強に取り組んだ。
その手段に選んだのは、相撲だった。
土俵を作りさえすれば、あとは褌一本あれば良い。
それが相撲を選んだ理由だ。

幸いにも近くに元プロがいた。
別班本部で炊事係りをしていた戦前派の米山老人である。
齢こそ六十才だが、元十両の力士だった。
彼に泊まりこみで指導してもらい立派な土俵ができた。
相撲の指導は、押し相撲一点張りとした。

最初の内は「ズボン」でとっていたが、被服の破損が激しかった。
被服交換の日本人担当から苦情も出た。
そこで軍を介して帆布を手に入れ、それを切って褌を作った。
土俵と褌がそろい、相撲は本格的になった。
行司の教官の「用意」の号令で俵に足を突っ張り構える。

「始め」で突進する。
一直線に相手につき進む。
後退とか横に飛ぶことは許さない。
うっちゃりも絶対に許さない。
前進、ただ前進のみである。
最初は、なかなかうまくいかなかった。
どちらかが、怖れるか、遅れるからだ。
ちょっとでも立ち遅れると、構えたまま後ろにつき飛ばされる。
立ち会いに気合負けする者は残し、何度でもやらせる。
苦しまぎれにうっちゃりをやった者は負けである。
押し合い、突っ張りが合いが永くなると「止め」の号令で中止。
改めてやらせる。

顔面青黒くなり、眼は必至の力を表し、ふらふらしながらも激突する。

「相手をオランダと思え、敵と思え」
「お前がいかねば、敵が来るぞ」

互いに心気伯仲すれば、土俵の中央で頭と頭、額と額がガッと衝突する。
両者ともにひっくり返る。
時々、両者とも、額に刃物で切ったような傷ができる。
ヨーチンをつけ繃帯をして、またすぐ始めさせる。
恐怖と苦痛で青黒くなった顔に目を血走らせて相撃つ肉弾戦は鬼気迫るほどになった。

柳川自身も土俵の鬼になった。
五十名ひとりひとりを入れ替わり立ち替わり突き飛ばした。
当初は全く赤子を扱うような有様であった。
その彼らのへっぴり腰が二十日もすると、腰もすわった。
必死の眼光に青光りする鋭気を加えて、見違えるほどになった。

# by yosaku60 | 2017-04-17 07:28 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その9; 道場開きの挨拶)

柳川は、この地に決めた。
後に「タンゲラン青年道場」と呼ばれたり、
生徒をして「タンゲラン一期生」などと呼ばれたのは、そのためである。
昭和十八年一月、青年道場の開場式があった。
開場式にあたり、生徒たちを全員いがぐり頭にした。
そのいがぐり頭にオランダ軍から押収した戦闘帽を被せた。
軍服、帯剣、編上靴も押収品であった。
ただ、脚絆だけは日本式に巻かせた。
五十名の生徒を一班と二班に分け、二列横隊に並ばせた。
国旗掲揚台には、日の丸を掲げた。

柳川は、生徒たちに向かい訓示した。

今日、只今から諸君と此処で起居を共にし、一身一体となり一緒に勉強する。
諸君は選ばれた「インドネシア青年」として一日も早く、
我々から学び取り得る全てを学び、
強く、正しく、新しい「インドネシア青年」として生まれ変わってもらいたい。
諸君自らの手で、我々と共にアジア解放に、共戦共死できるようになってもらいたい。
我々のアジアは我々の手で解放しよう。
諸君は選ばれた戦士らしく、我々と共にアジア建設の捨て石となってもらいたい。
今日、我々はアジアをアジア人の手に取り戻すために戦っている。
普通の時代ではないのだ。
我々が一日休めば敵は一日進歩し前進する。
諸君は圧政下三百四十年の遅れがある。
それを一気に最も短い期間に取り戻さなくてはならない。
これは全く無理な話である。
この無理を承知してやるのだ。
大変な覚悟が必要である。
覚悟を十分にしてもらいたい。
ここでの教育は特に厳格にし、また強度のものとする考えである。
その程度は諸君の力量と見合わせ、だんだんと強めてゆく。
勿論、我々にできることを諸君に要求するのだ。
我々も人間、諸君も同じ人間だ。
我々にできることは諸君に出来ぬことはないと思う。
私は出来ぬ者があれば、みんなが出来るまでやらせる方針である。
もし一人でだめなら二人で、それでもできなければ三人ででもやり遂げさす。 
全員、何物にも負けず努力してもらいたい。
判ったか!
本日の開場式は、これで終わる。 
今日からは私が諸君の父である。 
各班長は諸君の母と思え。
他の教官は全員が諸君の兄貴であり兄弟である。
何事でも良い、相談するように。
何事でも困ったことは申し出るように。
また終わったことは忘れてもいい。
忘れたら覚え直せ。
忘れては覚え、忘れては覚えしている間に、いつかは覚えて来る。
先ず、理屈抜きで身体で覚えるのだ。
身体で覚えたものはちょっとのことで忘れるものではない。

# by yosaku60 | 2017-04-16 07:14 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

クニンガンのワジャ(残留日本兵)

今朝はクバヤを着た女性が街にあふれております。
お盆の最後、クニンガンです。
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お盆の始めは、工藤栄さん(残留日本兵)のお墓をお詣りしました。
で、お盆の終わりは、ワジャ(残留日本兵)のお墓をお詣りしてきました。
ワジャの日本名は解っておりません。
ただ、その行動については、だいぶわかってきました。
そのうち、書きたいと思っております。
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ワジャのお墓の掃除は、地元プラグのバンジャールにお願いしております。
写真は、そのバンジャールの首長さんの奥さんと、お孫さん。
バリ人のお祈りは敬虔です。
この子たちは、きっとワジャの墓を護り継いでくれるでしょう。
工藤栄さんもそうですが、ワジャもバリ人に護られてお幸せです。
写真の中央の方は、清水さん。
インドネシアにある、残留日本兵のお墓をお詣りし続けています。
ソロでは、95歳の元ペタ(郷土防衛義勇軍)の兵士の面倒を見ておられます。
もちろん、インドネシア人の元兵士です。
が、もう目が見えなくなったそうです。
そんな方に日本人の清水さんが、今も寄り添っています。
一昨日は、マカッサルに行って三五名の日本兵のお墓をお詣りしてきています。
お付き合いさせていただいて、頭がさがります。
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同じく、残留日本兵の曽我さんをお詣りしてきました。
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遺児のマデ・スワルジャさんです。
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清水さん、七六歳、スワルジャさん七五歳、私、七一歳。
いろいろなことが、ありがたくなります。
齢をとるっていいいものですね。

# by yosaku60 | 2017-04-15 09:52 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

柳川宗成物語(その8; 青年道場を開く)

昭和十七年十二月、柳川は「特殊教育」の企画書を作成した。
それを第十六軍参謀部別班の企画として軍司令部に提出した。
当時の第十六軍の司令官は、原田熊吉中将であった。
原田は、前任の今村均ほどではなかったが、現場主義であった。
大本営の意向を越えて、インドネシアの早期独立を願っていた。
ただ、それを表面に出すことなく、軍政にあたっていた。
そんな原田にとって、柳川の企画は、目指す処のものであった。
インドネシア独立の匂いがする企画だった。
原田は、柳川の企画を讃辞し、すぐに認可を下ろした。
司令官の讃辞を知った柳川は、感謝した。

話は戦後に飛ぶが、原田は戦犯としてシンガポールで絞首刑になった。
柳川は、その英霊に向けその時の感謝を伝えている。


原田さん、義勇軍は立派に成長しました。
実を結びました。
原田あっての義勇軍、義勇軍合っての柳川と申せましょう。
このことは私が一番よくわかっております。
本当にありがとうございました。


さて、ということで、「特殊要員養成隊」が発足した。
一応、スタートラインに立った。
が、特殊要員養成隊という名を掲げることには躊躇した。
これは正式名である。
が、そうした名称から、教育内容が外に漏れるようでは拙い。
防諜名が必要だ。
柳川は、防諜名を「青年道場」とした。

そして、自分がその道場主になった。
生徒を五十名とした。
柳川子飼いの六名に加え、柳川の部下が選りすぐりを集めた。
道場をどこにするか。

ジャカルタの近辺で、いろいろ探したがなかなか見つからなかった。
やっと探し当てたのが、タンゲランの不良少年少女感化院だった。
ジャカルタから二十キロで、それほどに遠くない。
用地も縦千メートル横千五百メートルと広かった。
周囲が鉄条網で囲まれ、相当痛んでいたが、最適と思われた。

# by yosaku60 | 2017-04-14 07:19 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その7;兵補との比較)

昭和十七年九月頃より広がり始めていた「兵補」の存在だ。
ここで少々「兵補」を説明しておきたい。
日本軍はインドネシア占領後、地域を分担して軍政を敷いた。
が、インドネシアは広大だ。
全土を統治し、護るには、兵力が不足した。
そこで補助戦闘部隊として現地人を採用することにした。
それを「兵補」と呼んだのだ。

十六歳から二十五歳までの青年を対象に募集した。
募集の当初は、志願者が多く五万人ほどが集まった。
しかし、すぐに不満が出て人が集まらなくなった。
日本軍の補助要員との位置づけに不満が出たのだ。
志願者が減ったため半ば強制的に徴募するようになった。
兵補の法的身分は、準軍属であった。
軍属ではなく、準軍属だ。
軍属とは、軍に採用される民間人を言う。

関連する国際法として、ハーグ陸戦条約がある。
条約では、占領地住民を強制して軍に従わせてはならない。
軍属としての法的身分では、国際法違反になる。
で、それに「準」をつけて準軍属としたのだ。
こういう言い逃れは、姑息である。
それも半強制的に徴募するのは、明らかに国際法違反だ。
原住民から不満が出たのは、当たり前だ。
ということで、「兵補」は、原住民に不人気だった。

が、これは、後々の話だ。
柳川がインドネシア青年による特殊機関を作ろうとした時点ではそうではなかった。
設立の初期であり、まだ、インドネシア人に歓迎されていたのだ。
が、柳川には、その時すでに「兵補」が行き詰まることは見えていた。
日本軍が目指す「兵補」と自分が目指す「特殊教育」は別である。

柳川は、二つを差別化した。
「特殊教育」は、「兵補」であってはならない。
「兵補」は、日本軍のためである。
「特殊教育」は、インドネシアのためである。
が、そのことを表に出してはならない。
誰にも悟られてはならない。
特に日本軍に悟られてはならない。
インドネシア青年は、独立に向けて燃えればよい。

日本人教官もそれを全面的にサポートする。
ただ、外部に対しては「日本のため」を見せつけるのだ。
教育の現場でそれを自覚しておれば、なんとかごまかせる。
誰にも本音を悟られずに、教育できる。
柳川は、そう心にとどめ、事を進めていった。

# by yosaku60 | 2017-04-13 14:12 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

今朝のアグンサンは2色でした

その日の空気により、アグン山の表情が変わります。
今朝は、遠い山と近い山の色が分かれていました。
その中で、アグン山の位置がはっきり見とれました。
d0083068_10062548.jpg

# by yosaku60 | 2017-04-12 10:06 | バリ島=その日のできごと | Comments(0)

柳川宗成物語(その6; 若者の教練を考える)

隊に戻った柳川は、考え続けた。
老婆に会った後に、決断したことだ。
この国の人を助けることについてだ。
それはオランダから独立し自立させることに尽きる。

柳川は、知っていた。
日本軍はインドネシアに侵攻した。
アジアの独立をうたってのインドネシア侵攻であった。
が、これは建前であった。
本音は、インドネシアの石油が欲しかったからだ。
そのためには、簡単に独立してもらっては困る。
日本軍には本音と建前があったのだ。
嘘がばれれば、いずれ両国間にもめごとがおこる。
その結果、独立できなければなんにもならない。
そうならないためのことを今の内から考えておかねばならない。

それには、インドネシア民衆が自立して独立を勝ち取ることだ。
日本に頼らないように、民衆に力をつけるのだ。
民衆にそのような教育する。
それも将来のある若者を教育する。
この国の若者には光がある。
この国には、未来がある。

老婆の孫を見て、そのことを実見していた。
しかし慎重に教育しなければならい。
日本の本音は、日本のためだけである。
インドネシアのためなんて考えていない。
そうした本音に毒されないようにしなければならない。

考えた末、柳川は、まずはやってみようと決断した。
個人的に、それをやるのだ。
まずは、おおげさでなくて良い。
小さいところから始めれば良い。
柳川個人で若者を育ててみる。

その後どうなるかは、その時考えれば良い。
いわゆる走りながら考えることにしたのだ。
その頃の柳川は、軍の合同宿舎に住んでいた。
佐藤参謀、土屋中尉、富樫通訳らと一緒だった。
行動を起こすため、柳川は、その宿舎を出た。
そして、旧蘭印軍の砲兵隊長官舎に一人で移り住んだ。

柳川は、六人のインドネシア青年を選んだ。
そして、自費で手元においた。
別棟に住まわせ、柳川自らが教育を始めた。
日本語を教え、柔道、相撲、剣道、空手を教えた。
青年たちは学ぶことに純真だった。
柳川の思いを真綿に水が沁み込むように吸収した。
こうした彼らへの教育成果から、柳川は確信した。
インドネシアの青年は使える。
特殊教育機関を作れば、効果をあげることができる。
それも陸軍中野学校のような教育機関だ。
中野学校の訓練の成果は柳川自身が身に沁みて知っていた。
将来できるであろうインドネシア民衆軍に取り入れたい。
柳川は、着々と準備を始めた。
が、ひとつ障害があった。
# by yosaku60 | 2017-04-12 09:23 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その5;敵の司令官を恫喝する)

ボゴールからバンドンまでは、さらに百数十キロある。
が、山道が多く人家が少なく、比較的楽に距離を稼げた。
昭和十七年三月七日夜、三人は、バンドンの町に入った。

日本軍がジャワに上陸して、まだ六日目であった。
目指すのは、バンドンの蘭印軍司令部であった。
そこには、蘭印軍六万五千人を束ねる、司令官がいる。
ハイン・テル・ポールテン中将だ。

翌、三月八日未明、柳川は蘭印軍司令部陸軍省に乗りこんだ。
中野学校で訓練していた柳川にとっては造作もないことであった。

柳川は、寝ていた、ボールテンを叩き起こして迫った。
「日本軍は既にバンドンを三方から取り囲んでいる。」
事実、三月六日より日本軍はジャワ西部の中心部に進軍していた。
柳川のハッタリであったが、ポールテンはそれを信じた。

柳川は、ポールテンを睨みつけた。
当時の日本軍には、共通の教訓があった。
銃や剣がなければ、腕で相手を絞め殺せ。
腕がなければ、歯で相手を噛み殺せ。
腕も歯も使えなければ、眼で相手を睨み殺せ、との教訓だ。
陸軍中野学校では、実際にそのような訓練もした。
柳川は、訓練で得た眼光の強さには自信があった。
その眼光でポールテンを睨んだ。

しばらくおいて、低い声で言った。
「あなたの部下や兵を傷つけないためにも、一刻も早く降伏願いたい。」

柳川は、それだけ伝えて、その場から消えた。
同日、蘭印軍は、降伏した。
降伏の交渉は三月八日十六時より、カリヂャチィで行われた。

# by yosaku60 | 2017-04-11 07:52 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)


常時ほろ酔い候
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