あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その5; Wana Giri の戦い)

ということで、Wana Giri の戦い....
のピンダ中尉の記述を語りたい。

(ピンダ中尉証言)

dalang 村を出て、数十歩も歩いていない時、
Sumandhi分隊の隊員の一人である、大舘(バリ名=I Sunia)が、
緑ヘビに足を噛まれそうになった。

 (註) Dalang村; 本部のあるムンドックマランからsawahに向けての
     北側2キロの地点である。
     ということは、出発してすぐのアクシデントであった。

 (註) 緑ヘビ; 細い小さなヘビであるが、猛毒を持っている。

勿論、このヘビは足を噛む前に振り払われて殺されてしまった。
が、大舘は、これは良くない兆候だと感じたのであろう。

「私は必ず死ぬ」...と真顔で言った。

友人たちは、
「バカな、そんなことはありゃしないよ」と慰めた。

しばらくすると、今度は、 I Kadek が
「サソリに噛まれた」と、わめきだした。
昨夜から、彼の靴の中に入っていたらしい。

こんなことがあり、この分隊の者は、重苦しく押し黙ってしまった。

次に、I Sukarta が穴の中に滑り落ちた。
と、この分隊は日ごろおしゃべりする連中だが更に押し黙ってしまった。

暫くして...
Sugianyar大尉は、
Pondok Sawahに派遣されていた、Sarja小隊と出逢った。

  (註) Pondok Sawa ; Sawah 村に近い処にある。

Sugianyar 大尉は、
Sarja 小隊に 敵のいる方向に進軍するよう指示をした。
我々(ピンダ小隊)も Sarja小隊と同じ方向に進軍した。

敵所在の場所に、ほぼ近づいたと思われる時、
B・Bの若者たちが道を指さして、
「敵は、まだ2キロ先です」と言った。

  (註) B・B ; ピンダはこのように書いているが、
      その意味がわからない。
      が、多分、地元民兵の組織名であろうと思われる。

それで、Sarja中尉は、部隊を止め、
敵を包囲するように、二つの分隊に分けた。
その分隊のひとつ、Sumandhi分隊は、北の方角に迂回することになった。

この陣形で戦闘を展開すべく歩き始めたが、
数十歩も行かない内に、突然に、
ものすごい自動小銃の一斉攻撃の音が響き渡り、
それと同時に恐ろしいうめき声や叫び声が聞こえて来た。

少なくとも、18名が被弾し、そして地面に倒れた。
その18名のうち、ある者は戦死し、ある者は負傷した。

生き残った者は、恐ろしさでパニックになった。
慌てふためいて、走り回り、谷底に飛び込んだ者もいた。
部隊は、めちゃくちゃで、指揮もとれなくなってしまった。

オランダ兵達は、勝った勢いで全員立ちあがり、
あわてふためいている若者たちに銃弾を浴びせた。

この自動小銃の一斉射撃で被弾した者達は、
一番前を進んでいた、Sumandhi分隊であった。
その分隊の中の何人かが気を取り直し応戦した。
その応戦があったため、オランダ軍も退却して行った。

この戦闘で戦死した分隊員は、
大舘(I sunia)、I,Kadek 、 I Rinteng、
そして、3人のB・Bの若者だった。


負傷したのは、衛生兵一名と11名のB・Bの若者達、
他にSumandhi、 I Swetja、 I Bakir も負傷した。

部隊員全員は、畑の中に伏せていたが、
負傷者の傷は、それほど重くなく、各人が自力で這って、
敵から遠ざかって行った。

Sumandhiは、腹に何発かの弾を受け、畑に横たわっていたが、
ちょうどそのとき、I Gereh が彼を見つけ、近づいて来て...

「Pak Alit Made、 まだ生きているかい」と囁いた。

  (註) Pak Alit Made; Sumandhi の呼び名

Sumandhi は、勿論応えることができなかった。
が、I Gereh は、彼がまだ息があるのをみて担いで走って逃げた。

この悲しい事件は、
1946年5月23日午前9時のことであった。
# by yosaku60 | 2016-10-21 10:27 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その4; Wana Giri の戦い=序文)

バリ島における独立闘争の調査において、
私が参考にしているのは、
「Genpilan Perjuangan Induk Ngurah Rai」という表題の本である。
著者は、I Gusti Ngurah Pinda (いわゆる、ピンダ中尉)
で、ングラライ軍では、大砲隊を率いていた。

  (註) 大砲と言っても、電柱を切って作った自家製の大砲、
      砲弾だけは、日本軍が残したものを使用。

ングラライの側近で、時には参謀の役をこなしていた人物である。
戦後も生き残り、バリ州の副知事まで務めた。

この 「Genpilan Perjuangan Induk Ngurah Rai」....
理路整然とし、誇張を控えた著述だが、原文は309ぺージにも及ぶ長編である。

この長編の全てを翻訳したのが、東京在住の稲川義郎さん。
縁あって、親しくお付き合いさせていただいている。
この翻訳だが、
「バリ日本会」の要請を受け、2か月で翻訳したという。
翻訳本は、439ぺージにも及んでいる。
「おかげで一気に老眼が進んだ」と稲川さんは笑いながら言う。

ということで、
私は、稲川さん翻訳のピンダ中尉の「従軍記」を主たる参考書として、
このブログを書いている(稲川さん、ありがとうございます)。

が、ピンダ中尉の記述にも時々ミスがある。
内容のミスは、解りようがないが、地名のミスである。

で、私の現地調査....

ピンダ中尉の記述(地名)に誤りがないかどうかが主である。
それに、現地に佇むことで、
当時の戦いに思いを馳せることを付加価値としている。

さて、
大舘の戦死であるが、
ピンダの記述では、「Sawah」となっているが、
現地に行ったところ、戦死したのは、sawah から 2キロ北の、
「Wana Giri」であることが、解った。

今後の私の記述も、
大舘は、Wana Giri の戦いで戦死した、ということで語り継ぎたい。
# by yosaku60 | 2016-10-20 09:50 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その3; 大舘はどこの誰か)

独立戦争後も生き残った平良定三は、
大舘の存在について、
「オオタテ....漢字は不明....三警出身と思われる」と書き残している。

が、当時三警に居た、月森省三海軍大尉が調査公表した、
三警離脱者の中には、大舘の名が含まれていない。

大舘は、三警(第三警備隊)には所属していないのだ。
軍属、しかも、海軍の軍属だったようだ。

軍属とは...
軍人以外で軍隊に所属する文官及び雑役を言う。

軍人ならば、組織の中であり、調べようがある。
が、軍属となると、どこの誰か調べようがない。

バリ島で、独立戦争を戦った日本人は、約20名居る。
その中で「軍属」だったのは、次の3名だ。

1、曽我  ; 海軍民政部所属と思われる?
2、ワジャ ; 海軍施設部所属と思われる?
3、大舘  ; 海軍軍属と思われる?

3名とも、名前の全てが解らず、日本の故郷を探すことができない。
中でも、大舘は、軍属は軍属でも、どんな仕事をしていたかも分からない。


  (註) 曽我が民政部であり、ワジャが施設部であった、
      との記述は、月森省三氏の筆跡で書き残されている。
      月森氏は、調査にあたって昔の戦友に聞いている。
      曽我が民政部であり、ワジャが施設部ではなかったか、
      というのは、そうした調査の結果であろうと思われる。
      それに比べて、大舘については、何も語られて居ない。
      当時の調査では、知る者がいなかったからであろう。

では、何故に、オオタテ という名が伝わっているのだろうか。
クロボカンの独立軍に本名が残っていたとは思いにくい。

  (註) バリ人が残した記述はどれもが後日談である。

独立軍として、ムンドックマランに集合した際、
日本人どうしが初めて出会って、お互いに本名を名乗った...
ことがあったのではなかろうか。
いずれにしても、よく解らない。

大舘という名は、本当かどうか?
大舘とは、どこの誰だろうか?

いろいろ解らないバリ島残留日本兵の中で、
解明が難しく、将来共に謎として残ることのひとつである。
# by yosaku60 | 2016-10-19 10:41 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その2; 戦死場所のsawahについて)

大舘は、タバナンの sawah で戦死した(後日談あり)。
何故、sawah に行ったのだろうか....
であるが、
ングラライの独立戦争闘争軍.....
当初は、小スンダ・ゲリラ軍と言っていたが、
その軍の旗揚げに参加したからである。

旗揚げ地は、munduk malan であった。
大舘は、クロボカンの地元の兵と共に、その地に結集したのだ。

その Munduk Malan であるが、
何故に、旗揚げ地として選ばれたのか....
「Bali Berjuang」に、その理由をつぎのように書いている。

1、バリ島の西側に近く、ジャワ島からの援軍を受けやすい地であった。
2、オランダ軍の拠点である、タバナンやデンパサールにも近かった。
3、住民の協力を得られる(予想)地であった。

ということで、
Munduku Malan(下図のほぼ真ん中) の地に、闘争本部を置いたのだ。
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緑の円は、棚田群....
Munduk Malan から、Sawah までは、直線距離で 5キロ ある。
図の右を見て欲しい。
Penabel という地がある。
以前、このブログに「Penabelの戦い」として書いた処だ。
Munduk Malan から、Penabel までは、直線距離で 7キロ ある。
7キロは、闘争軍にとって、軍の派遣範囲内であったのだ。
当然に、5キロの Sawah も 軍の派遣範囲であった。

大館は、Sawah でどのように戦ったかは、後にして、
先ずは、 Sawah は、どんな土地であったかであるが、
ひとことで言えば、棚田が素晴らしい!

以前のブログで、
バリ島で、最もきれいな棚田は、Belimbing にある、と書いた。
近年、観光地化された、ジャティールイよりも、自然に富んでいる。
Belimbing の棚田を再掲載してみる。
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sawah あるが、そのBelimbing の東方至近に在る。
独断で棚田がきれいなところを処を緑色の丸で囲んでみたが、
その円の範囲内に在る。
当然に、きれいな棚田が拡がる。
が、棚田を遠望するのではない。
手の触れる処に棚田が拡がっている。
こんな...
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それに、ここからは、バトゥカル山が見える。
バトゥカル山がきれいな富士山のように見える場所は、限られている。
こんな....
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ということで、
大舘が戦死したSawah(田圃)....
は、名のとおり風光明媚な処であった。
# by yosaku60 | 2016-10-18 08:18 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その1;まえがき)

残留日本兵・大舘が戦死した「sawah」に調査に行って来ました。
新しく判ったこともありますが、謎も残りました。
シリーズで報告いたします。

バリ島残留日本兵; 大館....
クロボカンに銅像が建っています。
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まずは、バリ人の戦友が語る「大舘」についてです。

(原文)

Seperti diketahui, bahwa bangsa Jepang menjajah Indonesia selama 3,5 tahun. Di Bali, pendaratan serdadu Jepang dimulai di Padanggalak sanur, Denpasar. Pada tanggal 17 Agustus 1945, oleh Presiden RI ditunjuk Mr. I Gusti Ketut Pudja sebagai Gubernur Sunda Kecil dan Ida Bagus Putra Manuaba sebagai Ketua Komite Nasional Indonesia Sunda Kecil. Disamping pemerintah Indonesia, di Sunda Kecil pemerintah bala tentara pendudukan Jepang masih tetap berkuasa, meskipun teah menyatakan menyerah kepada sekutu pada tanggal 14 Agustus 1945. Pada tanggal 8 oktober 1945 kekuasaan pemerintahan untuk provinsi Sunda kecil oleh Cho Kang diserahkan kepada Gubernur Sunda Kecil.
Pada tanggal 13 Desember 1945 pasukan Pemuda di Bali merencanakan mengadakan serangan umum terhadap bala tentara Jepang di Bali. Serangan ini mengalami kegagalan,kemudian pasukan pemuda melanjutkan perang gerilya. Pada tanggal 2 Maret 1946 serdadu Gajah Merah ini, salah seorang bala tentara Jepang yang bertugas di Tuban yang bernama Otate melarikan diri menuju kearah utara. Sebagai latar belakang pelariannya itu tiada lain untuk menggabungkan diri dengan pasukan pemuda, khusunya para pemuda pejuang yang berada di desa Kerobokan (badung). Di samping itu, karena beliau telah menyadari bahwa Negara mereka telah kawah melawan tentara sekutu.
Perlu juga diketahui bahwa pelarian Otate ini pada malam hari. Banjar yang dituju dalam pelarian tersebut adalah banjar Jambe. Kebetulan pada saat itu di Banjar Jambe di warung I Made Kecrungan beberapa pemuda pejuang desa Kerobokan sedang “Meceki”. Otate mendengar ada suara para pemuda sekitar jam 23.00 di warung tersebut, akhirnya beliau menggendor pintu sambil berkata “minta air, minta air”. Mendengar kata-kata demikian salah satu diantara pemuda yang ada di warung tersebut, yaitu I Gede Durna Ary Tenaya siap-siap mengambil sebuah alat pemarut kelapa untuk menjaga kemungkinan-kemungkinan yang terjadi. Setelah pintu warung dibuka ternyata orang yang menggedor pintu adalah salah seorang bala tentara Jepang.
Saat itu orang Jepang itu menunduk, akhirnya para pemuda yang ada disana melakukan penangkapan terhadapnya dan akhirnya dibawa ke Banjar Pelihatan, karena pada saat itu Markas “K” (Kerobokan) berada disana. Otate kemudian diserahkan kepada I Gede Deger Usadha selaku pimpinan Markas”K”.
Setelah diusut beberapa hari di desa Kerobokan, akhirnya tokoh-tokoh desa Kerobokan sepakat untuk mengganti nama Otate dengan nama Indonesia yakni ganti dengan nama I Nyoman Sunia. Menurut penjelasan I Made Patra, I Nyoman Gangsir dan I Gede Durna Ary Tenaya, Otate dinamakan I Nyoman Sunia karena datangnya pada saat malam hari yang sangat sunyi. Selanjutnya tokoh-tokoh desa Kerobokan mengangkat I Nyoma Sunia sebagai pelatih yang pada saat itu berpusat di Banjar Klicung. Oleh karena desa Kerobokan selalu dikurung oleh Netherlands Indies Civil Administration (NICA), akhirnya I Nyoman Sunia menyingkir ke beberapa desa di daerah Tabanan. Akhirnya dalam pertempuran sengit di Munduk Sawah pada tanggal 22 Mei 1946, I Nyoman Sunia gugur dalam upaya ikut mempertahankan Proklamasi Kernerdekaan Indonesia, walaupun beliau bangsa Jepang dan pernah menjajah Indonesia. Oleh karena itu patutlah para pejuang desa Kerobokan membuat
patungnya pada Monumen Perjuangan Wira Dharma Negara yang telah diresmikan oleh Gubernur Bali Ida Bagus Oka pada tanggal 6 October 1994.

(意訳)

バリ名をnyoman senia 日本名は大館(otate)であった。
クダのトゥバンに日本軍の駐留本部があった。
彼は、その軍に所属していたが、ある夜、そこを脱出した。

バンジャール・ジャンベェに着いたのは、夜の23時であった。
彼は、ワルンで若者がトランプをしているのを見つけた。
彼は、近寄り「水をくれ」と頼んだ。
若者達は彼が日本人であったので驚き、その場で彼を逮捕した。
若者達は、彼をクロボカンの本部に連行した。
クロボカンの村の指導者は、数日調査したあと、
彼のバリ軍に入る意志を確認した。
そして彼の名をNyoman Sunia とした。
静か(スニー)な夜に現れたので、そう名づけたのである。

彼はバリ軍兵士の訓練を指導した。
1946年5月、クロボカン村はオランダ軍に包囲された。
彼の率いる軍は、タバナンの地に逃げた。
が、ムンドゥク・サワでは激しい戦いとなった。
彼はこの戦いで戦死した。
1994年10月6日、大館の銅像がクロボカンの地に建立された。
# by yosaku60 | 2016-10-17 09:57 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

派手な!結婚式案内状の写真

バリ島では、結婚式の案内状....
に載せる新郎新婦の写真が派手である。
ラクダ公園で、こんな二人に出逢った。
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# by yosaku60 | 2016-10-16 09:35 | バリ島=社会・生活 | Comments(0)

村落相互信用金庫の月掛貯金

バリ島には1000年前からバンジャール(村落共同体)という組織がある。
バリヒンドゥー教の行事ごとをとりしきるための組織である。
が、宗教行事が全てに優先するバリ島....であるから、
バリ人の生活に深く関与する組織ともなっている。
生活に関与するためには、まずはお金が重要である。
で、各バンジャールは、それぞれに「金融機関」を持っている。
村民は、それを「コプラシー」と呼んでいる。
まあ、日本でいえば、頼母子講的な金融機関である。
漢字で表せば、「村落共同信用金庫」だろうか。
この字を見れば、その役割がわかっていただけると思う。
んで、日本でも頼母子講には、税金がかからない。
同じく、コプラシーの預け金には税金がかからない。

さて、今日、紹介するのは、
このコプラシーが運用している「月掛預金」である。
引きださないで掛け続ける月数が多いほど利回りがよくなっている。

たとえば、毎月1000円の月掛けをすると、
1年という約束で満期になると.....
12000円の元金が12565円になって返ってくる。
約2500円の金利だ。

で、10年という約束で満期になると...
10年後、12万円の元金が204845円になって返ってくる。
約8万5千円の金利だ。

じゃ、20年という約束で満期になるとだが...
20年後、24万円の元金が759370円になって返ってくる。
約52万円の金利だ。

であれば、毎月一万円月掛けすれば....
と思うだろうが、これはできない。
毎月かける金額の上限が4000円だからだ。

じゃ、4000円を20年掛け続けたとするとだが....
96万円の元金が304万円になって返ってくる。
208万円の金利だ。

208万円あれば....
田舎の山の中で、小さな小屋が建つ(指パッチン)!
ということは、20年後に金利だけで...
要するに無料....そう、無料で山に別荘を持てるなんて(指パッチン2回)!
....が、そんなに生きれないよ、オレ(笑)
# by yosaku60 | 2016-10-12 11:27 | バリ島=社会・生活 | Comments(0)

倒木の季節がやってきた

夜中に大雨が降り、
夕方になると、東から大風が吹く。
と、弱い木は倒れてしまう。
倒木の季節がやってきたようだ。
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が、これもあれも、毎年のこと...
誰もそれほどに気にしない。
バリ島は、相も変わらず「バリ島」でいる。
# by yosaku60 | 2016-10-11 11:02 | バリ島=社会・生活 | Comments(0)

やっと地獄から抜け出れました。

私は、ひとつのことしかできない。
ひとつのことにのめり込むと他に気が向かなくなる。

良く言えば、一点集中....
上手く言えば、不器用....
正直に言えば、バカ....

実は、8月から昨日までの3か月間、
その自分自身の性癖に翻弄されていた。

理由は、趣味の囲碁....
私の実力は、5段の少々高いところ辺...
だったのが、8月に入って、何を血迷ったのか連勝が続き、
6段になれた.....んでんで、それで止まらず、さらに勝ち進み、
6段でも高位置につきだしたんです。

そうなると、人間、欲が出る。
オレは、人一倍欲張りなんで、その傾向が助長する。
もしかしたら、7段にまで昇れるかも.....
なんて、大胆に思ってしまっちゃって、それが、9月初め、
それから、一か月、なんとか7段になろうと、必死にもがいた。

毎日、囲碁の事ばかり考え...
一日に何番もこなし....
目が疲れると、頭も疲れる。

そうすると、負けが込み....
悔しくて、挑戦すると、また負ける。

そのうちに、目が疲れて、碁盤がかすむようになり...
目薬をさしながら、また碁盤に向かう日々。

そのうち、目がすっきりと見えると、勝ちが進むことを見つけ....
カミさんに目の縁をマッサージしてもらいながら....
毎日、対局するようになる。

この辺に来ると...
寝ても覚めても囲碁漬けの毎日...
その生産性のなさに、自分自身が嫌になっちゃって...

なんとか、囲碁漬けの日常から抜け出たい!
と真剣に思うようになって.....
であれば、7段になった達成感を得て....
それで囲碁を止めれば良い...
と思いつく。

   私が入会している「インターネット対局囲碁」。
   1000人ほどの会員がいる。
   都度、その会員の中から相手を選び対局する。
   一回勝つと10点増える。
   一回負けると10点減る。
   で、4~6段までは、280点勝ち越すと昇段できる。
   が、6段から7段の昇段は、420点勝ち越さないと昇段できない。
   7段以上は、格上に設定されているのだ。
   その7段になりたいというのだから、もともとちょっと無理な話!

自分の性格は自分が一番知っている。
一応やりとげた形を作らないと、次に進めない。
同じ意味で7段になれないと囲碁地獄からも抜け出れない私...
なんです。

まあ、という訳で、それからの私....
7段にならんがためだけに日々を過ごして来たんです。

そして、昨日、とうとう!!!!

その7段になれたのです。
次のグラフを見て下さい。
7段(薄い紫色)の域にちょっと入ってるでしょう。
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8月からの対局数と勝敗は、つぎのとおり。

8月;  79勝47敗
9月;  81勝66敗
10月; 17勝10敗

9月の対局数は、147回にもなります。
囲碁ができなかった日もあります。
囲碁ができた日だけでみると、一日7局以上やっています。
これじゃ、目も悪くなってしまします...よね。

囲碁は、昨日で、止めました(中止の意)。
ようやく囲碁地獄から抜けれました。

7段になったら、お祝いをしよう...
と、カミさんに約束していました。

んで、昨晩は、ビーチのレストランでカミさんと乾杯。
酒のアテは、特別に頼んだ、ハマチの刺身。

バンザイ!!! とうとう、オレは「オレ」から解放された。
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# by yosaku60 | 2016-10-10 14:45 | バリ島=その日のできごと | Comments(2)

はばたく! コマンの店とコミンの店

バリ島に住んで幸せだと思うこと....
その一番は、若者と普通につき合えること。

日本にいたら、こんなお爺ちゃん....
若者は相手にしてくれない。

が、ここバリ島では、こんなジジイが
若者の生活にどこどかと入って行っても叱られない。
むしろ、喜んでくれる。

今、そんな関係にあるのが、コマンとコミン...
コマン28歳、コミン27歳の頑張っている若い夫婦...

二人の生活の取り決めが面白い。
家賃約2万円は、コマン、コミン、それぞれが折半。
とだけ決め、あとの生活費は、その時その時の持ってる者払い。
まあ、言ってみれば、いい加減である。
が、喧嘩をすることがない。

まずは、コマンの稼ぎ....
パソコン、携帯電話の修理店を営んでいる。
その店...
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店の裏が作業スペースになっている。
忙しい時は、アルバイト(右の男)を雇っている。
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一方、コミンの稼ぎは、出張マッサージ。
でも、それだけじゃ折半分を払うほど稼げない。
てんで、ワルンを始めた。
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ワルンの材料購入に早朝4時半に起き、5時にはパサールに行くという。
大変だ!
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コマンとコミン...
助け合って将来に向かって、はばたいている。
そんな二人を見ていることが嬉しい。
バリ島に来なければ、味わえなかった幸せである。
# by yosaku60 | 2016-10-09 09:48 | バリ島=人物往来 | Comments(0)

自分のこと(その9; ひゅうすとん丸・その1)

社会に出て3年目の昭和43年、
会社より、ひゅうすとん丸乗船の指示を受ける。
その時のオレ....
やった、ひゅうすとん丸だ! 
と喜んだことを覚えている。

その頃のオレ....
上昇志向に燃えていた。
粋がりだけの、つまらない男だ。
今思ったら恥ずかしいほどである。

は、ともかく....
何故に、ひゅうすとん丸を喜んだのか。

その頃の会社の航海士への格付けであるが、
先ずは、三等航海士として、東南アジア航路で勉強する。
十分に慣れたと判断された時、アメリカ航路の船に乗る。
で、ベテランになって、ヨーロッパ航路の船に乗る。
という順序になっていた。

それを一巡すると、二等航海士に昇進し、
また東南アジア航路の船に乗り、次いで、アメリカ航路、
次いで、ヨーロッパ航路の船に就労する。
で、その就労成績が認められれば、一等航海士に昇進する。

てな、具合であった。
であるから、
アメリカ航路に従事する、ひゅうすとん丸乗船ということは、
三等航海士として、一人前になったと認識されたということなのだ。

んで、
上昇志向の強いオレ、「やった!」と、喜んだのだ(バカだね)。

さて、
そんな、ひゅうすとん丸だが、
18ノットの高速船であった。
当時、日本沿岸には、18ノットで走る船が少なかった。
ほとんどの船を追い抜けるので、操船が面白かった。
これが、その、ひゅうすとん丸。
どうお、速そうに見えるでしょう!
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ひゅうすとん丸の航路は、アメリカ南岸....
の、タンパ港、モビル港、ニューオリンズ港、バトンルージュ港、
ガルベストン港、ヒューストン港、フリーポート港、であった。

さて、当時は、日本はまだまだ発展途上...
アメリカとの国力の差は大きかった。
その差を物語るのが、当時のアメリカで買う「お土産」である。
次回は、それを書いてみたい。

「ベトナム戦争」「米国航空機墜落」の話は、さらに延期(笑)。
# by yosaku60 | 2016-10-08 09:48 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(0)

ムルタサリビーチ・ドゥルー

バリ人が集まるムルタサリービーチ。
最近の私は、ムルタサリビーチ・バルー(新)ばかり行っていた。
久しぶりに、ムルタサリビーチ・ドゥルー(旧)に行ってみた。
人の出は、昔と変わらなかった。
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今もって観光客に汚されていない。
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現地人だけのビーチである。
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# by yosaku60 | 2016-10-04 09:44 | バリ島=地方・景勝地 | Comments(0)

曽我さん探し、絶望的か

ブログで公表していた、曽我さん探しであるが、

 (註) 曽我さん....
     バリ島マルガラナの英雄墓地(1372番)に祀られる、
     インドネシア独立戦争で戦死したバリ島の英雄。

その曽我さんの遺児が、マデ・スラジャさん。
父親がオランダ軍に殺されたのは、スラジャさんが3歳の時。
それから70年、未だ日本の父親(曽我)を探せないでいる。

なんとか探せないか、
私は、ある新聞社とテレビ局に投書した。
新聞社の方からは探してみるとの返事があった。
それから随分と経ったが次の音沙汰がない。
テレビ局の方からは、なんの返事もない。

曽我という苗字だけで探すのは、難しいのだろう。
スラジャさんには、シンガラジャにお姉さんがいた。
もうお亡くなりになっている。
が、お子さんに何らかのデータを残していないだろうか。

を確かめたくて、
先日、もういちどスラジャさんに会いに行って来た。

が、お姉さんには、お子さんがいないということが解った。
さらにお姉さんとスラジャさんは、ひとつ違いの姉弟。
それほど記憶に差があるわけでない。
スラジャさんのお姉さんのルートからの捜索はあきらめざるを得ない。

ただ、新たに次のことが分かった。

1、スラジャさんが語るには、曽我さんは、1942年、バリに来たらしい。
2、曽我さんが殺されたのは、ブレレンのギギットの辺り。
3、母親と曽我さんが出逢ったのは、シンガラジャ。
4、母親がシンガラジャで商い(行商)をしていた時に出逢う。
5、出逢って、すぐに結婚したことになる。
6、今は亡き、平良定三(ニョマンブレレン)も日本の曽我さんを探したことがある。
7、探せなかったが、郷里は沖縄ではなかろうかと言い残しているらしい。
8、沖縄出身かも知れないというのは、私の予測と合致している。

サンゲのレストラン「サワ」で、曽我さんご家族と昼食をとる。
左から、カミさん、オレ、スラジャさんの奥さん、スラジャさん、お孫さん。
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曽我さん探し....
難しいが、ひとつだけ望みがある。

スラジャさんは、曽我さんとお顔が似ているとこと。
曽我さんの奥さん(スラジャさんのお母さん)がそう語っている。
ただ、もう少し、痩せていて背が高かったとのこと。

この11月に、スラジャさんと東京の稲川さんが逢う機会があると思う。
当時、稲川さんは、海軍の民政部勤務でシンガラジャにおられた。
シンガラジャの兵舎で曽我さんと会っている可能性がある。
70数年前のことであるが、
稲川さんが、スラジャさんを見て、「ああ、あの時の」
なんて、思いだすことがあるかも知れない。  
今は、それを期待したい。
# by yosaku60 | 2016-10-03 10:05 | 帰らなかった日本兵 | Comments(5)

バリ島の海員学校

デンパサールにある海員学校...
客船のウエイター、ウエイトレスを育てる学校だ。
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就学期間; 一年。
生徒数; 25名クラスX9=225名。
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「世界のどこに行ってみたい?」と聞くと、多くが、イタリアと言う。
「日本じゃないのか?」と聞くと、苦笑いする。
客船にとっては、地中海、カリブ海がメッカ....
ってことで、まあ、しようがないか。
# by yosaku60 | 2016-10-02 10:00 | バリ島=社会・生活 | Comments(0)

自分のこと(その8; 船舶衛生管理者講習)

昭和43年当時、外国航路定期船には、約35名の乗組員がいた。
が、経済的観点から乗組員の員数を縮小する傾向が現われた。
まず、真っ先に減員を検討されたのが、「船医」であった。
「船医」になりてがない、当時の世情もそれに拍車をかけた。

で、船医の代わりに、
特定の乗組員に医学的な知識を持たせ、船医の代わりをさせることとなった。
特定の乗組員とは、まだ頭の固くない、ヤングオフサー(若い航海士)を言う。

そのための法整備も整えられた。
「船舶衛生管理者(国家資格)」の資格を持った乗組員がおれば、
船医が乗船していなくとも良い....ということになったのだ。

昭和43年、奈良山丸を下船し、郷里に帰っていた私に、
会社より「船舶衛生管理者としての資格をとるように」との指示があった。

受験のための講習は、一か月。
場所は、神戸掖済会病院という。
宿泊は会社の寮、食事代は会社払い、であった。

船乗りにとって、あこがれの港である神戸....
に、費用は会社払いで、堂々と一か月過ごせるのである。

この一か月..
あの場面、この場面、と何を思いだしても懐かしいことばかり...
その内容をここで語ると、「淡さ」 が 「泡」 になって消えてしまう!
んので、書きません(笑)。

ただ、この船舶衛生管理者の講習会。
もともと、人間の生理的構造に興味があった私は、
勉強に精進した記憶が残っています(ホントですよ)。

まあ、とかなんとかで、
昭和43年の春の一か月、
あこがれの港町、神戸でいっぱいの思い出を作りました。

で、無事に国家試験を取得し、
次に乗船したのが、ひゅうすとん丸....
「ベトナム戦争」、「米国航空機墜落」を経験した船です。
ゆっくり語りたく、次の機会にまわします。
# by yosaku60 | 2016-10-01 10:33 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(0)

クスマサリビーチの今朝の360度

先日書いたドゥユンビーチ...
のお隣のクスマサリビーチの今朝の光景。
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ここは、ダイビング客の集合所だ。
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ダイビング会社のバリ人スタッフ。
右から二人目の男....コマンという名のバリ人。
職業柄英語はペラペラ、日本語も少々話せる。
「女を泣かすなよ!」...
私から彼への‘いつもの朝の挨拶だ。
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そこから、10m...
ボートの船頭たちがたむろする。
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そんな男どもを相手するのがプトゥちゃん。
お金がなく中学に行かず、ここで働き始めた。
そんな彼女も、もう20歳になった筈だ。
先日、「彼氏ができた」と打ち明けてくれた。
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プトゥちゃんのワルンの前は、ジュクンだらけ...
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ビーチを降りて右を見ると...
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左を見ると....
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クスマサリビーチ....
今朝も人がいっぱいです。
# by yosaku60 | 2016-09-30 10:30 | バリ島=地方・景勝地 | Comments(0)

自分のこと(その8)

昭和42年、多分、3月頃だったと思う。
3隻目の船として、奈良山丸(7千トン)に乗船した。
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商船三井という会社は、
当時は、大阪商船三井船舶という長い名の会社であった。
何故にこんな長い名前であったかと言うと、
大阪商船という住友系の会社と
三井船舶という三井系の会社が合併してできたからである。
住友と三井...どちらも大手である。
どちらも大手としてプライドがある。
この二つが合併したのだから、名前をくっつけるしかなかったのだ。

   (註) 現在、三井住友銀行ができている。
   この大銀行の合併は、商船三井の例が礎になっているのだろう。

という話は、ともかく...
当時、大阪商船の船は、ありぞな丸とかあふりか丸とか
ひらがな表示であった。
に比べ、三井船舶の船は、〇〇山丸と、山の名がついていた。

ということで、奈良山丸は、旧三井船舶の船であった。
しかも、重量物運搬船という特殊な船であった。
ただ、重量物と言っても、150トンの貨物まで(詳しくは忘れた)、
ということで、まあ、小振りの重量物船というところであろうか。

航路は、主として、東南アジアであった。

タイ国; バンコック港、プーケット港、
マレーシア国; クアンタン港、ポートディクソン港、ペナン港、
インド国; ボンベイ港、ビサカパタン港、カルカッタ港、ゴア港、マドラス港、
東パキスタン(現バングラデッシュ)国; チッタゴン港、
に寄港したのを覚えている。
当然に、香港、シンガポールにも寄港した筈だが、記憶が薄れている。

が、そんな中、明確に記憶しているのが、
プーケット港への寄港である。

今でこそ、プーケット島は、観光地として有名になったが、
当時は、貧しい村であった。
日本から持って行った100トンほどの重量物を卸すためであった。
その大きな貨物を卸し、運搬するときだが、
大きすぎて、村の空中の電線を全部、切らねば運べなかった。
停電にできるのは、電灯をつけない昼だけ....
てんで、真昼に重量物を一個卸すと、その日の仕事はそれで終り。
岸壁に着いていて、仕事がないなんて、
船乗りには、めったにない話...
なんともはや、嬉しい「プーケット島」であった。

ところで、重量物を陸から船に移し、船から陸に戻す時....
であるが、ワイヤーを巻きあげたり、巻き下ろしたりしてはできない。
重量物を吊る力が、瞬間に移動するのは、危険だからである。
そんなことをすると、
船がぐらっと動いて、貨物や岸壁や船を破損することがあるからだ。
では、どうするかと言うと..
貨物の卸す時でいえば、貨物の着地直前にワイヤー吊りをストップし、
その後は、船を傾けることで、ゆっくりと着地させるのだ。
重量物船は、そのためのバラストタンクを両舷に持っている。
下の図では、右のタンクから左のタンクへバラスト水を移動する。
と、船が左に傾く、その傾きを増しながら、貨物をゆっくり着地させるのだ。
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どうお、面白いでしょ!

そうだ! もうひとつ思い出した。
プケット島を離れる時、代理店から通知がもたらされた。
近くの海岸で、船が火災で燃えている。
助けに行ってやって欲しい、ということであった。

船というもの、火災になると、できるだけ沈まさないため、
浜辺に座礁させて、その後、乗組員が避難するのが「船員の常務」である。
そんな船が近くの海岸にいる、というのである。

その海岸に行き、その船に近づいた時の光景が今もはっきり脳裏に残っている。
外板のペンキがみんな燃えて、真っ赤な赤さびだらけの船であった。
その船の周囲に、救命ボートを卸し、乗組員が救助を待っていた。
イスラエルの船で、乗組員も全員イスラエル人であった。

沖に着いた奈良山丸に救命ボートが近づいて来た。
縄はしごをニコニコ顔で登って来るイスラエル人乗組員。
切迫感のある救助ではなかったが、
全員がニコニコ顔であったことは、今も脳裏に残っている。
# by yosaku60 | 2016-09-28 12:22 | バリ島=人生のかかわり方 | Comments(0)

あけっぴろげのヤンティさん

今朝のムルタサリビーチ。
いつものワルンはお休み.....
バリ人は、ウバチャラ(お祀りごと)ごとに休む。
こんな時...
お隣のヤンティさんのワルンに立ち寄る。
彼女は、東部ジャワ人(Situbondo)。
バリヒンドゥーのウバチャラに休むことがない。
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ヤンティさん。
顔見知りだが、ゆっくり話すのが今日が初めて。
と、話す、話す!!!
たっぷり自分を語るヤンティさん。
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年齢、家族構成、故郷の両親の状況、故郷の言葉...
職歴、男性遍歴...
家賃、睡眠、入浴、帰省代金、電気代、水道代....

これだけ話して、最後は、
「生きてくのって、大変」 と、締めくくる。

んで、朝の30分で、ヤンティさんの殆どを知る(笑)。
まあ、これがインドネシア人の普通かもね~
にしても、ほとんど見ず知らずのオレ...
に、そんなにバラしていいのかい、ヤンティさん!
# by yosaku60 | 2016-09-27 09:51 | バリ島=人物往来 | Comments(0)

ケロール(実)鍋を食べる

日本で話題になっているモリンガ(現地名;ケロール)....
は、通常は「葉」を食べる、が、実も食べられるらしい。
で、コミンに作ってもらった。
彼女の前の鍋がそのケロール鍋。
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ピリッと辛いカレー味だったからだろうか、
オレは、「葉」よりも「実」の方が美味しくいただけた。
# by yosaku60 | 2016-09-26 09:38 | バリ島=社会・生活 | Comments(0)

ドゥユンビーチの今朝の360度

今日は日曜日、朝から雨...
が止んだのが、8時半...
8時を過ぎるとビーチの喧騒度が増す。
が、まあいいや、てんで、ビーチに行った....
のが、サヌールビーチのほぼ中央のドゥユンビーチ....
ってのが、こんなところ。
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まずは、モーニングコーヒーと朝食....
が、二人分合わせて、140円。
左がカミさん、右の背中がおばちゃん。。
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この店、本来ならば、ここで営業しなければならない。
が、こんなに奥まった所には、客が寄り付かない....てんで
海岸沿いの道路に出て来て営業している。
でも、いずれ、ひっこむことにことになるだろう。
それまでの仮店舗だ。
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店の前のビーチでは、孫娘のプトリーちゃん(左)が遊んでいた。
こういうところで、遊べる子供たちは幸せだ。
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おばちゃんの仮店舗の横に男どもがたむろしていた。
日曜日のビーチ遊びの客を待って張り切っている。
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その張り切り男どもの横のレストランでは、女どもが朝の掃除をしている。
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その女どものレストランの前の浜に降りてみた。
そして、ぐるりと360度、カメラを廻してみた。
まずは、胸まで海に浸かる釣り人達。
水平線に見えるのが、ヌサペニダ島。
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手前の海辺に家族連れあり。
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全体的には、こんな光景。
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右に目を転じると...
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ビーチから、浜通りを見上げると、彩色鮮やかなジュクン群。
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スピードボートが日曜の客を待ち...
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空飛ぶゴムボートも出番待ち...
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遊びから帰って来る客に冷たいビールをと、準備し待ち受けるレストラン出店...
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既にお客が集まり始めた。
ビーチ遊びには、ほど遠い体形のへんな外人さんだったり、
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朝から騒々しく喋る中国人だったり、
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今朝のドゥユンビーチは、ほんにマチャマチャでした。
# by yosaku60 | 2016-09-25 11:12 | バリ島=社会・生活 | Comments(0)

ハナちゃんからの嬉しい話

今朝のビーチ....
ハナちゃん(写真)と出逢った。
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ハナちゃんから嬉しい話があった。
2か月後の結婚が決まった....とのこと。

良かった。

つくづくそう思う。
つくづくだなんて....
何故にバリ人に、そんなに心を傾けるのか。

その理由を少しほざきたい(笑)。

そもそも私の人生だが、たいした努力をして来なかった。
なのに、今、幸せである。
が、それは運が良かっただけだ。
日本人として生まれた運もあった。
と思っている。

私は、たいした努力をして来なかった....
のに比べ、多くのバリ人は、とても努力している。
なのに、なかなか幸せになれない。

  (註)言っとくけど、ここで、「幸せ」とは何か?
     なんて、理屈はどうでも良い(笑)。

オレは、
頑張っている人を見ると、ついつい尊敬してしまう。
自分が頑張れる人間でないことの裏かえしだ。
ここ、バリには、頑張っている人がいっぱいいる。
オレからとれば、尊敬する人だらけだ。
その人が若ければ、援助したくなる。

ハナちゃんもそういう中のひとりなのだ。
ハナちゃんの苦労を少々語りたい。
知り合ってから、もう7年ほどになる。

ハナチャンの家...少々貧しい。
小学生の時から仕事をして家計を助けていた。
成人になって、朝も昼も夜も仕事をしていた。
が、ある日、仕事ができなくなった。
身体を壊したのである。
その壊し方が尋常ではなかった。
オレは、気になった。
「ハナちゃん、一回身体を調べてみたら」
てんで、オレは検査機関に引率した。
で、その結果だが、「異状なし」だった。
で、ハナちゃんの話を聞くうち、オレははたと思いついた。
精神の病、恋煩いではなかろうかと....
当時、ハナちゃんは、つき合っている彼氏がいた。
その彼氏、男前でとても女性にもてるらしい。
で、ハナちゃんは、いつも三角関係に悩んでいた。
てな、恋煩いである。
オレは、ハナちゃんと話した。
ハナちゃん、結婚したいのか.....「したい」
結婚しても、同じ悩みを持つだろう....「そう思う」
じゃ、なぜ、悩み多い道を選ぶのだ...「.......」
男は顔じゃない、ハートだ!....「そう思う」
今の彼、やめてしまえ、次をさがせ...「そうする」
てんで、ハナちゃんは、その男とおさらばした。
そして、だんだんと健康を取り戻していった。
それから2年、新しい恋人ができた。
その彼と交際し出して2年、このほど結婚が決まった。
今朝のハナちゃん、つくづくとオレに言う。
「私、幸せです」
そうか、そうか、おめでとうハナちゃん!!
結婚式は、11月半ば...
彼の故郷のkaja Kanginで行われる。
アグン山の北の海岸で、サヌールから3時間はかかる。
できるならば、参加してあげたい。
# by yosaku60 | 2016-09-23 10:03 | バリ島=人物往来 | Comments(0)

バリ人に感謝する(つづき)

昨日のブログを読み、ほんの少し知ってる日本人(変な言い方)から、
知り合いのバリ人を参加させたいが、いかがかとの問い合わせがあった。
本人にも返答したが、ここでも返答したい。

止めた方が良い(笑)

昨日も書いたが、生徒は毎回変わる。
で、その日集まった生徒の程度を見て、その日その日、授業内容を変えている。
行ってみれば、ゆきあたりばったりの無茶苦茶なのだ。
無茶苦茶なので、聞くべき価値がない(笑)。

ということを前提に、授業を少々説明すると、
日本語初級、中級、上級の全てが混在することを念頭に
一時間半の時間を30分づつに区切って組み立てている。

最初の30分は、初級者のため....
私が勝手にべらべら喋る。
目的は、日本語を耳に慣らすため。
通訳してくれるエヴィが来た時に限られるが....
地球の話、気象の話、世界の国々、バリの独立戦争などなど、
自分の得意分野を喋る。

次の30分は、中級者のため....
私が話せるインドネシア語の範囲内で、
簡単な日本語を勉強する。

次の30分は、上級者のため.....
漢字や漢字の用法を勉強する。
これには、毎回自家製のプリントを配布する。

ということであるが、人が入れ替わっても、
一回勉強したことを繰り返すことがない。
毎回、新しいことを勉強することにしている。
正直言って、少々しんどい。

なぜ、毎回、新しいことを勉強するのか....
であるが、
写真の中央の黒いシャツの男性、
バグスと言う名の28歳のバリ人だが、
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彼だけは、一年前から、毎回参加している。
彼のために、同じ話を二度できないのだ。
ついでに書くが、昨日書いた...
何故、日本語を勉強するのですか?
のバグスの答えが「なんとなく」だったのです。
いろいろありますが、
こんなつまらない授業に一年以上通い続けてくれるバグス....
ありがたいことです。
# by yosaku60 | 2016-09-21 11:55 | バリ島=人生のかかわり方 | Comments(0)

バリ人に感謝する

知らないバリ人から、オハヨウとかゲンキとか
話しかけられることが多くある。
これって、日本に、あるいは日本人に、
親しみを持ってくれているから、だと思う。
って、オレ、単純なのだ(笑)
は、ともかく、
日本に興味を持ってくれる人が多いこと、
ほんにありがたいことである。

私は、ボランティアで週に一回、日本語を教えている。
先日、生徒たちに、
何故、日本語を勉強しようと思ったの?
との質問を投げかけてみた。
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その返答...
多かった順に理由を上げてみると。

1、日本で働きたい
2、日本に留学したい
3、日本に観光に行きたい
4、アニメから日本語に興味をもった。
5、日本の文化を学びたい
6、なんとなく

であった。
理由がどうであれ、
日本語を学ぼうとする彼ら彼女らに感謝している。
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私のクラスは、私もボランティアだが、
生徒たちも授業料をおさめなくとも良いクラスである。
要するに無料のお試しクラスなのだ。
で、毎回、生徒たちが違う。
入れ替わり立ち替わり初めての人が来るのだ。
日本語を少し話せる人、初めて日本語に接する人、
ひらがなを読める人読めない人、
毎回、ばらばらである。
で、教えるなんてできない。
私が一方的に日本語をべらべらしゃべるだけだ。
よく、こんないいかげんな授業に生徒が来てくれるのだろう。
これもありがたい! 
# by yosaku60 | 2016-09-20 10:02 | バリ島=人生のかかわり方 | Comments(0)

本日は、マニスクニンガン

本日は、マニスクニンガン。
お盆が終わったことを祝って、楽しく語らう日だ。
本日をもって、いわゆる日本の「お盆」は、全て終了する。
輪廻転生のバリヒンドゥーにとっては、「お盆」は重要である。
朝のお祈りにも全てが終わった安ど感がみてとれる。
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バリの宗教行事は、全て曜日で決まっている。
マニスクニンガンは、必ず日曜日である。
公の店、そして学校も休日...
人々は早朝からビーチに繰り出し、語らう。
写真は、今朝の7時のマルタサリビーチ。
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日本のお盆に相当する、ガルンガン&クニンガン....
その祝い事全体の曜日を書き出してみる。

スギアンジャワ(木曜日);  先祖(先祖がジャワ人の場合)が家に帰って来る日。
スギアンバリ(金曜日);    先祖(先祖がバリ人の場合)が家に帰って来る日。
プニャジャアン(月曜日);   お菓子を作る日。
プナンパハン(火曜日);    豚を殺して料理する日。

ガルンガン(水曜日);    ガルンガン祭礼の日。

マニスガルンガン(木曜日); ガルンガンの余韻を楽しむ日。
ウイハンジャワ(日曜日);   祖先(ジャワ人の場合)の霊が天に帰る日。
ウイハンバリ(火曜日);    祖先(バリ人の場合)の霊が天に帰る日。
プナンパハンクニンガン(金曜日);  クニンガンの食べ物を準備する日。

クニンガン(土曜日);    クニンガン祭礼の日。

マニスクニンガン(日曜日)  お喋りして楽しむ日。   
       

ということで、バリ島...
神様、ご先祖様のおかげで、今日も平和です。
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# by yosaku60 | 2016-09-18 10:02 | バリ島=慣習・伝統 | Comments(0)

本日はクニンガン

本日は、クニンガン。
日本で言えば「お盆」.....の最終日。
お手伝いさんのカデさん。
クバヤを着て、おしゃれして来てくれました。
カデさんは真面目です。
私の家で働き始めて、2年。
カデさんの笑った顔の写真、初めて撮れました。
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# by yosaku60 | 2016-09-17 17:47 | バリ島=慣習・伝統 | Comments(0)

自分のこと(その7; 奈良山丸)

昨日、あふりか丸乗船の話をしたが、書き忘れたことがある。
ある上司から将来を左右するような教えを受けたことだ。
事実、その後の私の人生を変えてくれた。

教えてくれたのは、二等航海士(秋光正健さん)だ。

私は三等航海士、秋光さんは二等航海士。
部屋が隣だった。
沖待ちで仕事がなかった、ある日...
私は、二等航海士の部屋を覗いた。
秋光さんは、机に向かい何やら仕事をしていた。
挨拶しながら、近づいて見ると,
貨物の積み付けプランをたてていた。

貨物の積み付けプランとは、....

会社より、
1、どこの港で
2、どこの港行きの、
3、どんな貨物が、
4、何トンある
との情報がどんどん来る。

その情報を集めて、
1、どの場所に、
2、どれほどのスペースを使って、
3、どういう風な積み付けかたをするか、
の最適なプランを練ることである。

貨物、船舶、港を全て熟知しないとプランを練れない。
で、経験の多い、一等航海士の仕事である。
が、二等航海士の秋光さんが、それをしている。

「セコンドオフサー(二等航海士のこと)」
「なぜ、そんな仕事をしているのですか」

私は、秋光さんに聞いてみた。
その時の秋光さんの言葉に私は衝撃を受けた。

サードオフサー(私のこと)!
仕事というものは、与えられてするものではない!
与えられた仕事をするだけでは、それは「仕事する」なんて言えない!
「仕事をこなしている」だけだ!
それではいけない!
仕事というのは、自分で見つけてくるものだ!

今朝、私は、一等航海士のところに行き、
「私は余力がいっぱいあります」
「何か仕事をください」
と言ったら、
「積み付けプランをたてて欲しい」
と、頼まれたのだ。
で、喜んで引き受けたんだヨ!

これを聞いて、
今日は、ヒマで嬉しい...
何をして遊ぼうか....
などと考えていたオレ...
恥ずかしくなった。

その後の私。
自分で仕事を求める方向に変わったんです。
昔の私を知っている方、そんな訳なのです。

秋光正健さん!
マーロンブランドのような風貌の方でした。
その後も重ねてお世話になりました。
今頃、どうされているのだろうか。
くしゃみしておられるかも...
# by yosaku60 | 2016-09-16 09:58 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(0)

自分のこと(その6; あふりか丸)

時々、昔の自分を振り返り、
「自分のこと」と題して書くことを宣言してきた。
前回の「自分のこと(その5)」は、今年の1月に書いた。
8か月も開いての「自分のこと」である。
前回は、4等航海士を終えるまでを書いている。
今日は、そのつづきである。

昭和41年10月、私は3等航海士に昇格した。
会社より指示を受けたのは、「あふりか丸」乗船である。

あふりか丸、約一万トン.....
貨客船に分類される、いわゆる「移民船」であった。
次の絵は、志賀源吾さんが描いた昭和33年当時のあふりか丸である。
志賀さんは、商船三井の船乗りであったが、後に画家に転向した人で面識がある。
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移民船の時は、約700名のお客を乗せていた。
が、私が乗船した時は、移民船としての使命をほぼ終え、
アフリカ東岸定期航路船として就航していた。

日本での寄港地は、
横浜、清水、名古屋、神戸....
途中で、香港、シンガポールに寄り、
アフリカ東岸の諸港を目指すという航路であった。

アフリカ東岸とは、
ケニア国; モンバサ港
タンザニア国; ダレスサレム港、ザンジバル港、タンガ港、ムトワラ港、
モザンピーク国; ベイラ港、ローレンソマルケス(現在のマプート)港、
南アフリカ国; ケープタウン港、ポートエリザベス港、イーストロンドン港、ダーバン港、
であった。

アフリカ西岸航路に比べ、寄港が少なく、
スケジュールもゆったりしていて、労働者(黒人)の性格もおとなしく、
船乗り生活を満喫した思い出がある。

そんな思い出の中から、いくつかひろって見る....

1、 モンバサ港での象牙

当時、象牙は自由に日本に持ちこめた。
一本、一万円であった。
できるだけ、まっすぐなものを見つけて購入し、
航海中、それを磨き、日本に着いた時は、
多少磨いてない場所を残した上で、税関に申告する。
そうすると、「自分用」ということで、無税で陸揚げできた。
今なら一本20万円するだろうに、良い時代だった。

ところで、私だが、
象牙を買わず、猿を一匹買った。
いくらで買ったか、値段は忘れた。
その猿は長生きし、珍しい猿だったらしく、
死後、石川県小松市の芦城公園で剥製にされた。

2、ローレンソマルケスでの柔道の道場開き

ポルトガル人の経営する「道場開き」に招かれ、
乗組員の中に有段者がいたので、彼を連れ参加した。
(柔道主のポルトガル人は一級だった。)
私は、唐手の演武を披露した。
唐手を初めて見たからだろう、拍手喝采(本当ダヨ)だった。

3、ケープタウン港での伊勢海老捕獲

近くの岸壁で、伊勢海老が捕れた。
風呂桶でボイルするほどに、いっぱい獲れた。
2~3匹食べると腹が膨れるほどの大きさの海老だった。
あれほどの食贅沢をした経験は、未だにない。
# by yosaku60 | 2016-09-15 10:30 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(0)

ワナサリの戦いのブンアリ(梶原)中尉

日本の敗戦が決まっても、バリ島に残り、
インドネシア独立戦争を戦った約20名の残留日本兵....
その中でも特に著名な兵士を選べば....

1、最後まで戦い抜いて生き残った平良定三
2、ングラライ将軍と同位の中佐で日本軍をまとめた堀内秀雄
3、マルガラナで玉砕し神格化された松井久年
4、松井と行動を共にし神格化された荒木武友
5、数々の戦いで勇名を轟かしたブンアリ(梶原)

の5人があげられる。

そう....
ブンアリだけが、日本名が解っていない。
そのブンアリだが、独立戦争を戦った元兵士に、
「日本兵の誰を知っている?」
と聞くと、真っ先に挙げられるのが「ブンアリ」である。

それに数々あるバリ島の独立戦争史には、
必ず、ブンアリの名がある...それほどに著名である。

そのブンアリであるが、ワナサリの戦いで戦死している。
部下を殺され怒ったブンアリが阿修羅のように敵に突撃して行った!
と語り継がれている。

   (訂正)
   過去の私のブログで、ブンアリと一緒に戦死した日本兵(ブンマデ)
   の日本名を「高木米治」としたが、間違いであった。
   高木米治は、マデプトラという名であり、マルガラナで戦死している。
   ブンアリと同じくワナサリの戦いで戦死したブンマデの
   日本名は「原田」もしくは「渡辺」と思われるが....わからない。

ブンアリのこと、まだまだ全部調べ切れていない。
ブレレンの山間の小さな村で、バリ人に戦い方を教えたはずだが、
私は、まだその村に辿り着けていない。

その村がどこか解ってから、ブンアリをまとめて書きたい...
が、書けるだろうか?
ブンアリを語るには、気構えが必要である。
山あり谷ありの物語が多すぎるのだ。

まあ、ということで、今日は、
先日、カミさんと一緒に探しに行って来た....
ワナサリの戦いのモニュメントを紹介する。
村の最北端のお寺の境内にそのモニュメントがあった。
d0083068_11353986.jpg

1946年10月5日の...
d0083068_1136614.jpg

ワナサリの戦いでは、16名の独立軍兵士が戦死している。
その中に、ブンアリとブンマデが名が刻まれている。
d0083068_11381098.jpg

# by yosaku60 | 2016-09-14 11:38 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バビグリンの話...

バリの食名物、バビグリン(Babi Guling)...
日本風に言えば、豚の丸焼きのこと。

もともと、それほど美味しいものではないが...

昔、昔、フイリッピン人と4年間、一緒に船に乗っていた。
お祝いごとがあったとき、フイリッピン人は、豚の丸焼きを食べたがる。
いや、食べたがるのではなく....作りたがる。
豚の丸焼きは、作るのが楽しいのだ。

その作り方....
腹を割いて内臓を取りだし切口を縫う。
口からお尻の穴に鉄棒を通す。
縦割に半分にしたドラム缶を横に置き両端に受けを作る。
その受けに鉄棒を置く。
その鉄棒を回転させながら豚を焼く。

が、火で焼いてはならない。
火を遠ざけて、熱で焼くのだ。
でないと、こんがりと焼けない。

6時間ほどかけて、ゆっくり焦がす。
時々、豚に水をかける。
水をかけると、水蒸気があがる。
熱くなりすぎるのを防ぐための水かけだと思うが、
水かけの本当の意味は知らない。

まあ、そんなんで...
その焼きあげる時間が楽しいのだ。
豚をくるくるとゆっくり廻すのも少々疲れる。
時々、人が交代する。
その人の中にギターを持ってきて歌う人が現れる。
特性のドラムを叩く人もいる。
豚の周りに人が集う。
てんで...
ストレスから解放された乗組員達がいる、
のを見て、船長として、嬉しかったものだ。

彼らに言わすと、豚は子豚ほど美味しいという。
食料を仕入れるのも船長の仕事...
で、オレは、赤ちゃん豚を仕入れるようにしていた。
当時(30年前)世界のどこでも、
一匹100~200ドルで、仕入れてたように記憶する。

ああ、そうそう、豚の丸焼き...
バリでは、「バビグリン(Babi Guling)」と言うが、
フイリッピンは、豚の丸焼きを「レチョン」と言う。

さて、
今日は、なんで、豚の丸焼きの話をしたかと言うと、
昨日、カミさんと、バビグリンを食べに行ったからだ。
それも本場、タバナンのバビグリンを.....

こんな店の、
d0083068_10485078.jpg

こんな豚の、
d0083068_105025100.jpg

一人分400円のこんな料理。
d0083068_10512970.jpg

世間じゃ、花より団子...と言う。
はぐれ者のオレは、団子より???
d0083068_10523430.jpg

# by yosaku60 | 2016-09-13 10:53 | バリ島=社会・生活 | Comments(0)

成長するプトリーちゃん

ヨチヨチ歩きの頃から知ってるプトリーちゃん...
この写真は、多分、2年前(だったかな?)
d0083068_945549.jpg

プトリーのお母さん、お父さんとは会ったことがない。
事情があるのだろう、一緒に住んでいない。
何故、一緒でないか聞いたことがない。
よくあるケースだからだ。
昔も今もおばあちゃん、おじいちゃんと一緒に暮らしている。
だからだろか、彼女はほとんど笑わない。
シャイなのか、無口である。
それが、先日、初めてプトリーから喋ってきた。

「何を食べる?」
「何を飲む?」

で、注文すると、それを運んできた。
おばあちゃんの手伝いができるようになったのだ。

その時、撮った、次の写真....
一応、箒を持っている。
掃除を手伝っているつもりなのだろう。
d0083068_9532385.jpg

時々、大人っぽく見えるプトリーちゃん。
将来は、美人になって、男どもを悩ませるのだろうなぁ~
# by yosaku60 | 2016-09-12 09:55 | バリ島=人物往来 | Comments(0)


常時ほろ酔い候
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