あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



ハナちゃんの結婚式

バリ人なのに、どうして、ハナちゃんなのか....

8年前になろうか、
浜で働いている彼女に出逢った。
10代の溌溂とした娘さんであった。

朝の挨拶を告げると、彼女から、
「私、ハナちゃん」と、名乗ってきた。
何故に、ハナちゃんというのか、
その時も今も聞いていない。

それからのハナちゃん、いろいろとあった。
そういうのみんな乗り越え、めでたく結婚にこぎつけた。
ハナちゃん、おめでとう。
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彼が、花婿....
好感の持てる風貌をしている。
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驚いた!
いつも挨拶を交わす、浜のおばさん達...
みんなハナちゃんちの親類だったとは知らなかった。
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ハナちゃんの妹のコマンも大人っぽくなった。
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ハナちゃんの姉のワヤンは、いつも明るい。
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先日、クトッが結婚した。
それから、2週間、今度は、ハナちゃんが結婚した。
バリ島に来た頃の私の昔.....
その一時代が、終わったような気がする。
# by yosaku60 | 2016-11-25 09:47 | バリ島=人物往来 | Comments(0)

悲しく思うのは、私だけだろうか?

プナルンガンにある、ワヤンスクラとマデスクリの慰霊塔を見て来た。

ワヤンスクラ; 日本名、松井久年(福岡県)
マデスクリ;  日本名、荒木武友(長崎県)

二人は、残留日本兵である。
バリ人と共に、インドネシア独立戦争を戦った。
当然に死を覚悟しての参戦であった。
二人は、戦死したら、バリ人として葬って欲しいと....
村人に願い出ていた。

二人は、勇敢に戦った。
デンパサールのオランダ軍攻撃のあと、
松井と荒木がいる限り、バリ軍は負けない...
と神がかった噂が流れるほどであった。

1946年11月20日...
二人は、マルガラナで玉砕、戦死した。
村民は二人を神と崇め、このような慰霊塔を建立した。
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さて、こんな経緯の慰霊塔であるが、
中に入ってびっくりした。
何度も慰霊塔の中を見ているが、今回は異様であった。

荒木の写真の前が、日本式というか、仏式に飾られているのだ。
日本式なら、なんということはない。
が、仏式の法名が、飾られているのだ。
昨年までは、こんなのはなかった。
飾られて、まだ新しい。
なぜ、今になって、こんなのが置かれたのだろうか。
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法名は、仏の道に入ったことを意味する。
仏教とバリヒンドゥーは別の宗教である。
荒木は、今、バリヒンドゥ様式で神と崇められている。
そんな荒木に法名を与え、
「神」から「仏」に引きずり戻していいのだろうか。

荒木を想っての悲しみだけではない。
バリ人を想っても、悲しくなった。

バリ人は、慰霊塔を建て、二人を大事にしてくれている。
そんなバリ人への感謝を考えると申し訳なく思うのだ。

二人は、バリ人に任せるだけの方が良い。
日本人は、ここまでしてくれるバリ人に感謝すべきだ。
前に出ないで後方で、そーと祈れば良いのだ。
日本人がしゃしゃり出てはいけないと思うのだ。

松井、荒木の両氏もそう思っているのではなかろうか。
そんな風に思うオレ、間違っているだろうか???

(註) 

インドネシアには、パンチャシーラ(国是)がある。
それには、全国民が宗教を持つことを義務付けている。
無神論を唱えるものは、それだけで罪になる。
また、許されている宗教は、
イスラム教、プロテスタント、カトリック、ヒンドゥー教、仏教...
の5つのみである(最近はそれに儒教が加わり6っつになった)。
それ以外の宗教は禁じられている。

インドネシアは、それほどの宗教国家なのだ。

パンチャシーラには、唱えられていないが、
一家で二つの宗教を持つことを常識として、半ば禁じている。
ひとりが「神」と「仏」の両方を信ずることのできる日本...
を、インドネシア人は、理解しがたいのである。
# by yosaku60 | 2016-11-24 19:48 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

マルガラナ大祭に参加して想うこと

ングラライ部隊96名の鎮魂のためのマグラナ大祭....
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に参加して、いつも感銘を受けることがある。
今年も感銘をあらたにした。

それは....

バリ人が心をひとつにしてお詣りする様(さま)である。
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翻って、今の日本...
には、そうしたことがない。
国を憂い、国を想うことに、必ず横やりが入る。
何でだ!!

私は、全体主義は嫌いだ。
社会の常に甘えて、本物を見失いがちだからだ。
といって、私は、個人主義も嫌いだ。
人権という言葉を拡大解釈して甘えるからだ。

どちらも責任感不在の甘えがある。

翻って、そんな私....
考えてみれば、あれにもこれにも、甘えている。
思索と実行動が一致しない。
最近、そんな自分を持てあますことが多い。
# by yosaku60 | 2016-11-23 08:39 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

Puputan margarana Tahun 1946

11月20日は、ングラライの命日....
マルガラナで96名が玉砕した日です。
今年は、70年という節目の大祭でした。
例年より、盛大だったように思えます。
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お歴々.....
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圧巻....
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クバヤ盛装...
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私....
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青いクバヤの方は、ウイスヌ少佐(ングラライ軍NO.2)のお子さん。
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残留日本兵遺児のマデ、スラジャさん。
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# by yosaku60 | 2016-11-22 15:34 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

スラジャさんの家の神棚が完成する

インドネシア独立戦争をバリ人と共に戦った残留日本兵・・・・
その中の一人である、曽我さん・・・・・
の遺児である、マデ.スラジャさんの家の神棚が完成した。
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神棚は亡き父を祀るためスラジャさん(左から二人目)が作製。
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が、日本風の奉り方が分からず、空のまま放置されていた。
その神棚を作法どおりにお飾りしてくれたのが、自らが神道の清水さん。
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全ての神事が終わった。
スラジャさんがほっとした安堵の顔を見せる。

現在、73歳のスラジャさん。
幼かったため父を覚えていない。
が、この神事を通じ、「日本人の父」を感じたのではなかろうか。
そして.....
自分にも日本人の血が流れていることを感じ取ったのではなかろうか。

残念ながら、亡き父が日本の何処の誰かということはわかっていない。
スラジャさんにとっては、日本人として失われた70余年だった。
せめて、私だけでも・・・
バリにいる間は、同じ日本人として深い友人でありたい。
# by yosaku60 | 2016-11-21 08:13 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

残留日本兵の調査、先人のお二人バリに来る(その2)

一日遅れて、清水教博さんがバリに来られた。
現在75歳になられる人生の先輩....
同時に、インドネシア全体の残留日本兵にお詳しい、先人。

稲川さん、清水さんから、いろいろ学ばせてもらえる。
ここしばらく嬉しい日々が続くことになる。
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# by yosaku60 | 2016-11-19 08:38 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

残留日本兵の調査、先人のお二人バリに来る(その1)

私の残留日本兵の調査・・・・
それを導いてくださるのが、稲川義郎さん、90歳。
戦中、バリにあって、日本海軍の民生部に勤務していた。
私が調べている人の多くと遭っている、いわば生き字引.....
その稲川さんがバリに来られた。
72年前のバリ....
71年前の日本軍......
70年前の残留日本兵.....
のいろいろなことを実体験として知っている。

稲川さんを高木米治氏の遺児、アリアニさん宅にお連れした。
中央がアリアニさん、右が稲川さん。

(注) 高木米治; 日本海軍兵曹長。
    日本敗戦後、バリの女性と結婚し、バリにとどまり、
    残留日本兵として、インドネシア独立戦争を戦う。
    チュウアナラ隊、96名の一員として....
     ングラライと共にマルガナラで玉砕する。

アリアニさんのお子さん(左)から、大変興味のある話を聞かされた。
灯台下暗し、青天の霹靂.....な話であった(後日にお知らせする)。
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# by yosaku60 | 2016-11-19 08:16 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

誰か教えて!この果物の名前

シンガラジャのコミンの村に一本しかない木の実....
割った中身の見た目は、ランブータン.....
食べてみた味は、ドリアン......
の、この果物。

持ってきてくれた、コミンは名前を忘れたといい。
エヴィもお手伝いさんのカデも初めて見たという。
どなたか名前を知りませんか?
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にしても、バリは果物だらけの島だ。
# by yosaku60 | 2016-11-17 08:11 | バリ島=社会・生活 | Comments(2)

あと10日、今度はハナちゃん

今、バリ島は、結婚式ラッシュだ。
11月24日は、ハナちゃん(右)の結婚式。
花婿は、ブレレンのpenuktukan....
遠いので、とても行けないと思っていたら、
サヌールでも、結婚式をするとのこと。
ハナちゃん、行くからね。
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# by yosaku60 | 2016-11-14 11:03 | バリ島=人物往来 | Comments(0)

クトッ、新しい人生が始まる。

クトッを知ったのは、2010年、もう6年前になる。
彼女の田舎は、写真のとおり、ブドゥグルの谷を降りた処....
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そういう彼女との思い出を辿ってみたい。
まずは、2011年、一緒にアメッドで遊んだ。
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一緒に海に潜った。
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2012年、日本からの友人を一緒に迎えた。
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彼女は、トルコに出稼ぎに出た。
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一旦、帰国した彼女とロンボック島で遊んだ。
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リンジャニー山の山麓で遊んだ。
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カニヤ一家とも一緒に遊んだ。
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トルコで稼いだお金でお母さんの家に台所を建てた。
そして、次の出稼ぎ地マレーシアに旅たった。
マレーシアから一旦帰国したクトッと遊んだ。
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一緒に食事したり.....
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ボウリングしたりで、遊んだ。
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クトゥと一家と植物公園で遊んだこともあった。
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そんな彼女、40万円の資金を自前で貯め、念願のポトンギギ儀式を終えた。
そのためのマレーシア行きであった。
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そして、この度(11月9日)、結婚した。
睡眠時間5時間、あとの残りは、働き続けた。
甥に奨学金を与えたり、
売られた土地を買い戻したり、
一族に尽くし続けた末の結婚であった。
ご苦労様、クトッ!!
今後の時間は自分だけのために使ってください。
お相手は、インド系マレーシア人、結婚後はマレーシアに住む。
幸せな人生になることを祈っております。
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# by yosaku60 | 2016-11-13 09:59 | バリ島=人物往来 | Comments(0)

ブンアリの潜伏地を探せませんでした。

バリ島でインドネシア独立戦争を戦った残留日本兵....
その中でも、勇敢さについて語り継がれる、梶原某...
バリ名、ブンアリ。

1946年1月から3月まで、彼が隠れたと伝わる村、ウガヤマ....
それが何処なのか、どうしても探したいオレ...

先日、ここではないかと目星をつけた地に行ってみました。
シンガラジャに一泊しての捜索でしたが、結果として探せませんでした。
が、まだ諦めていません。
いつの日か再挑戦する意味で、調査の経緯を報告いたします。


まずは、ウガヤマと言う名の土地、あるいは村....
現在のバリ島には、そうした名は存在しません。
これは、「サムライ、バリに殉ず」の本に出ていた名です。
ということは、平良定三氏が、ブンアリ本人から聞き、
それを坂野徳隆氏(本の著者)に告げたものと思われます。

平良定三氏によって書かれた文字ではなく、
彼から耳で聞きとった名だということです。
耳から聞いたということは、聞き間違いがあります。


ウガヤマという名に似通った地名、村....
その場所がブレレン西部である....

で、探してみると、スリリットより8キロ山に入った処...
にあるウンガハン村...
此処に違いないと確信した。
で、行ってみた。
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ブンアリは、戦うための大量の武器を隠し持っていた。
山奥過ぎると運搬が大変だ。
かといって、町に近いとオランダ軍に見つかる。
ある程度の隠れ里でならねばならなかった。
ウンガハン村は、曲がりくねった山路の上の僻地にある。
ブンアリが潜んだ処として適地と思われた。

ウンガハン村に入ると、突然に大雨が降って来た。
運転するにも、道路を歩くにも不便を感ずるほどの雨であった。

尋ね尋ねて、ひとりのベテラン(旧兵士)を紹介してもらった。
が、日本軍が占領中の話ばかりをして、独立戦争の話をしない。
ングラライを知らない、ましてや、ブンアリを知らない。
(写真右の彼....左は、バリ語でインタニューするコミン)
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まあ、取材は、いつもこんな具合で始まる。
バリ人は、過去を余り語り継がない。
その当時者に会えない限り、真相を探せないのだ。
....が、当日は、雨がひどすぎた。
インタビューは、彼だけにして、ウンガハン村を後にした。
真相探索は次の機会とする。
# by yosaku60 | 2016-11-12 11:08 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ風、権威の示し方...

写真は、契約者が5000万人を超える、
インドネシアの大手通信会社のバリ支店です。
大通りの一等地の広い敷地にあります。
右は受付スタッフである、一名....
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サービスカウンターのスタッフは1名....
計2名で、この広いスペースを使っています。
ごみごみした機械室は、裏の部屋にあります。
スタッフは、時々、裏の機械室に行かねばなりません。
その時は、相当の距離を歩かねばなりません。
非効率です。
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こうした配置、そして、広さに応じたスタッフ数....
会社の権威を示すための、つまらない虚栄心にしか見えません。
こうした権威主義が、未だ通用するインドネシア....
第二の祖国と考えている私にとって、残念です。
# by yosaku60 | 2016-11-07 10:31 | バリ島=社会・生活 | Comments(0)

お祈りする時、バリ人の心得として...

バリ人は、お祈りの前に、必ずマンディーをする。
身を清めてからお祈りするのだ。
毎日のように見ているので、その敬虔さを知っている。
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が、お祈りする前だけではない。
お祈りするという行為そのものに意義がある。
昨日エヴィから、その意義を教えてもらった。
それを聞いたオレ、
「そんなバリに住んでいるんだ!」と、感銘を受けた。
その感銘を少々長く語りたい。

昔、このブログにも少々書いたことがある。
私は、人間とは何か、オレは誰か、を考え続けた時期がある。
その際、人間にとって宗教が大事であるということを学んだ。
が、そうした宗教を尊ぶ人間の方が未熟なため成熟しない人間社会も悟った。

で、現在、私は仏教徒であるが、
それは建前であって、心の中は無宗教である。
葬式宗教になりさがった仏教に共感できないのだ。

で、現在のオレ...

みせかけの宗教心なんて心が貧しい。
オレは、オレを考えると、反省だらけ、まだまだ心が貧しい。
で、ホンモノの宗教心を持つには、未熟だ。
神仏の前に立ってお祈りできるまでには成れていない。

で、現在の日本....

さしたる宗教心もないのに、習慣としてお寺参りしたり....
その意味たるを深く考えずに、宗教行事に並ぶ輩....
最たるは、すぐに....というか、
しごく簡単に神仏にお願いをする現代の日本人...
に、内心、すごく反発している。
世間体がよくなく外に出せない反発であるが、
私としては相当に強い反発である。
まあ、心が狭い、駄々っ子でもある。

私は、神仏にお願いをしたことは、70年の生涯、一度しかない。
この一度は、いずれ書くことになろうが、今はまだ伏せて置く。
神仏は、感謝するものであって、
お願いをするものではないと思っているのだ。
いや、思う...という程度ではない。
かたくなに、そうと確信している。

んで、昨日....

そんな、こりかたまったオレの心に、
エヴィが教えてくれた、バリ人の祈りの心得がドスンと入ってきた!
のだ。
次の写真、右がエヴィ、左はカミさん。
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エヴィは、自分がお祈りする時は、こうである。
と、次を語ってくれた。
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両親とトラブって腹が立ってる時にはお祈りをしない。
腹を立てたままで神様の前に立つことは神様に失礼だからです。

神さまにお願いをすることはない。
お父様、お母様もそうしている。
また、お願いしてはならないことをお父様から強く言われている。
(エヴィのお父様は、バドゥンの王様の弟君です)

神様の前で涙を流してはいけません。
ですから、悲しくて涙が出そうな時は、お祈りしません。

神様の前でお祈りできるのは、嬉しい時だけです。
ですから、いつも嬉しく思うように自分を仕向けて生きて行くのです。

みなさん、どう思いますか。
昨日のオレ、エヴィの話を聞いて、
これぞ神に接する心構えだ、と感銘を受けたのです。

エヴィ!!! ありがとうね。
# by yosaku60 | 2016-11-06 09:17 | バリ島=慣習・伝統 | Comments(0)

バリ風、火傷の手当て

プスケスマスに通うが、なかなか火傷が治らない。

昨日、庭の手入れに友人のワヤンが来てくれた。
d0083068_10139.jpgそのワヤン、
足首に包帯を巻いているオレを見て、
「どうしたんですか」と聞く、その後の会話...

火傷をしたんだ。
「マドゥを塗ったか」
マドゥってなんだ。
「添加なしの自然のマドゥが一番だ」

とかなんとか、話がかみ合わない。
傍にお手伝いのカデが居たので聞いてみた。

マドゥって何だ。
「食べ物です」

なに、食べるものを患部に塗るってどういうことだ。
話がかみ合わない。

ワヤン、いずれにしても、マドゥとやらを買ってきてくれ。
てんで、ワヤンに頼んで買ってきてもらったのが写真の瓶。

瓶のラベルに蜂の写真がある。
なんだ、蜂蜜か!
まあ、いい、試しに塗ってみよう。

で、オレは昨日一日、包帯を外して蜂蜜だけを塗って過ごした。
その結果、一週間、患部が渇かなかったのが、少し乾いて来た。

まあまあ、効果があるようだ。
でも、プスケスマスの治療以外を取り入れるなんて、
可愛い看護婦さん達に悪い気がして....
今朝ほど、プスケスマスに行き正直に話した。


あのー ノナ (娘さんという意味)...
実は、余り長いあいだ治らないので、
昨日は、包帯を外して、マドゥを塗って過ごしてみました。
勝手なことして、スミマセン。

と、看護婦さん....
可愛く笑って、「いいんですよ、それで」と、言う。
で、いつもどおり、丁寧に患部を処置してくれた。

んが、家に帰ったオレ....
その包帯をすぐに外して、マドゥを塗りたくったとさ。
今はスケベ心よりも、治りたい心が勝っておりますようで....
スミマセン、今朝の可愛い看護婦さん!
# by yosaku60 | 2016-11-05 11:21 | バリ島=慣習・伝統 | Comments(0)

ナンカの実を取るのは大変です

英語では、ジャックフルーツ....
インドネシア語では、ナンカ.....

甘すぎず、噛み応えがあり、
バリ島の果物の中では、私が最も好きな果物です。
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エヴィの家には、ナンカの木があります。
で、いつも、エヴィから食べれるようになったものを頂きます。
が、先日は、コミンがナンカそのものを持ってきてくれました。
実を取りだすのが少々大変です。
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これは、コミンとカミさんの手...
二人そろっても数分かかりました。
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おまけに包丁が粘っこくなって、すぐに切れなくなります。
なんでも自分でやらなくちゃわかりません。
# by yosaku60 | 2016-11-04 18:57 | バリ島=ちょっとびっくり | Comments(0)

私は病気になると「村の診療所」に行きます。

日本人がバリ島に永住するスタイルは、いろいろです。
私は、できるだけ現地に溶け込むことにしています。

その証が医療です。
バリ島に住む日本人の多くは、病気になると病院に行きます。

が、私は、違います。
治療の質には、それほどのこだわりがありません。
そもそも質と言っても、素人にはわかりません。
で、地元の「村の診療所」に行きます。
プスケスマスと言います。

バリ人でも、少しお金がある人は、プスケスマスに行きません。
お金に余裕のない人たちが行くところです。

でも、内科、外科、歯科、小児科、
全部、そろっていて便利です。

私は、現在、火傷の治療に通っておりますが、
毎回、250円で済みます。
薬が出ても同じ料金です。
安価です。

それに、特に言いたいこと....
一般の病院に行くと、医者や看護婦が威張ります。
でも、プスケスマスの医者や看護婦は、みんな親切です。

そして、必ず女医さんです。
で、私は、プスケスマスに、いそいそと通うのです。
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# by yosaku60 | 2016-11-03 08:53 | バリ島=社会・生活 | Comments(0)

お手伝いさんには、直立不動で接しています。

d0083068_8555238.jpg私は、自慢じゃないが、
花....どんな花も一緒に見える。
魚....どんな魚も一緒に見える。
で、花と魚の名は、全く知らない。
いい加減な男だ。

そんな私だから、
次のような馬鹿な会話、解って欲しい。

で、

家の庭に花が咲いていた....
この花、何という花?

お手伝いさんのカデに聞いてみた。
(右は気付かれないように隠し撮りしたカデ)

「ジュプン・ジパンです」
あまり自信ないけど、と注釈をつけ教えてくれた。

じゃ、これは何?
ヤジローベーのように横に拡がったのを指さした。
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「それは、実です」

ええ、花に実があるのか....
食べれるの?

「食べれません!!!!」

冗談と思ったのだろうか、私を睨みながら強く言うカデ....
カデには冗談が通じません。

私の家に来て2年になりますが、昔も今も同じです。
仕事は、真面目、スキがありません。
だから、直立不動で話しかけるようにしています(ホントです)。
# by yosaku60 | 2016-11-02 08:28 | バリ島=人物往来 | Comments(0)

ご懐妊、おめでとうございます。

プロのカメラマンに撮られる妊婦さん....
砂浜では夫がそれを見守っている.....
今朝のムルタサリビーチ。

その夫に、
スラマハンビル! と声をかけた。
「ご懐妊、おめでとう」 と言ったつもりだ。

通じたようだ。
「ありがとう」の答えが返ってきた。

写真とってもいいですか?
「どうぞ、どうぞ」と、嬉しそうに答えてくれた。

日本では、赤の他人のこんな写真は撮れない...
が、ここはバリ島だ!
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# by yosaku60 | 2016-11-01 08:12 | バリ島=その日のできごと | Comments(0)

バリ島残留日本兵の兵士名について(補足)

一昨日のブログ、
日本敗戦後にバリ島で命を落とした日本兵46名....
について、書きました。

ご遺族の方など、
将来、私の記述を調べ直す方がおられると思います。
そういう方のため、言い足りなかったことを追記します。

Canggu Buns / Kt Sunia の標記に関して

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( Buns について)

Buns と書いてありますが、
これは、Bung の間違いです。
なぜなら、慰霊碑には、次のとおり、Bung と書かれております。
Bung の意味ですが、日本語で言えば、
「さん」 とか 「氏」 に代わる敬称です。

(後日訂正)
Bung と書いてありましたね。
老眼鏡をかけずに読んだので、Buns にみえてしまいました。
あわてものです。
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( Jianggu について )

これは、Canggu と同じです。
バリでは、昔はこのように書くこともありました。
例えば、現在、日本は、 Jepang と書かれますが、
昔は、Djepang と、書かれたものもあります。

( kt について )

これは、Ketut の意味です。
即ち、第4子か第8子ということです。
大舘のバリ名は、Nyoman Sunia です。
Nyoman とは、第3子か第7子と言うことです。
バリ人にとっては、Nyoman であるか、 Ketut であるかは、
大きな違いです。
もし間違えれば、致命的ミスになります。
こういうミスは、しないものと思われます。
Kt Sunia が大舘ではない、と私が判定した根拠でもあります。

( Sunia について )

実は、ketut Sunia によく似た名前で、
ketut Senio (クトット・スニョー)と呼ばれた残留日本兵がいます。
戦後も生き残った平良定三氏が、書き留めているのです。
平良定三氏は、戦後まもなくは大舘の名を知らなかった形跡があります。
かと言って、クトット・スニョーが大舘、ということは考えられません。
平良氏は、バリ語に精通しており(奥様がそう語る....)
Ketut と Nyoman を間違うということが考えられないからです。
いずれにしても、
大舘のバリ名である、ニョーマンスニアと、
クトットスニア や クトットスニョー は、別人と思われます。




高木米治の戦死場所について

高木米治さんには、遺児がおられます。
写真の右がお孫さん、その次が遺児のアリニさんです。
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アリニさんの家には、高木米治のことを書いたもの(日本語)がありました。
日本のご親戚の方がお調べになったものとのことです。
その調書には、高木米治の戦死場所が、ワナサリとなっていました。
ワナサリで戦死した日本兵は、ブンアリとブンマデです。
そのブンマデが高木米治である、としていたのです。
高木米治のバリ名は、マデ・プトラです。
が、マデとだけ呼ばれるのもバリではよくあることだからです。

私のブログも一時期、ワナサリで戦死したと書いたことがあります。
が、後日、高木米治は、マルガで戦死したことに修正しました。
そのように語る方が多かったからです。

でも、それを確証する証拠がなかなか見つからず困っていました。
マルガラナで戦死した5名の日本兵の中に 「マデ」 がいました。
が、マデというのは、第2子という意味、だから沢山いるのです。
高木米治と特定できないのです。
で、困っていたのですが.....、

ところが、それが見つかったのです。
大舘の調査をしている過程で見つけたのです。
これです。
マルガラナの資料館の中のこの表示です。
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この表は、チュウアナラ(Ciung Wanara)兵士を挙げたものです。
チュウアナラとは、ングラライと共にマルガで玉砕した部隊名です。
全部で96名います。
81~85の5人が、日本兵です。
85番に、はっきりと、マデ・プトラと書かれております。
高木米治です。

マルガラナで玉砕したことは、バリ人としては名誉です。
近日中に、アリニさん宅に調査結果を知らせに行きます。
きっと、喜んでいただけると思っています。
# by yosaku60 | 2016-10-31 07:46 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

日本敗戦後にバリ島で命を落とした日本兵46名

日本の敗戦時....
バリ島には、何人の日本兵がいたのだろうか?

簡単に、2000人以上と書かれた資料もある一方、
バリ島の有力新聞「Bali Post」によれば、
陸軍が1990人、海軍が1146人の
合計3136人の日本兵がいたとも報道されている。
が、この兵数、いつの時点のものか定かではない。
いずれにしても相当の日本兵が居たことは事実である。

さて、そんな中で、
敗戦後、何人の日本兵がバリ島の地で命をおとしたのだろうか。

     (註) ここに言うのは、敗戦後、即ち1945年8月15日以降である。
     戦中であれば、バリ沖海戦で一挙64名の死傷者が出るなど、
     戦死者が多くなる。

私が知る限りでは、46名になる。

そのうち、マルガラナに祀られている14名は、既に述べた。
念のため、再掲載する。
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で、残り、32名について以下にまとめてみる。

まずは、
バリ人に殺された日本兵10名である。
殺された理由は、戦時中の日本兵の行為への反発と、
オランダ軍の再植民地化への抵抗のため、武器を奪うこと....
いわゆる、私が言う「1945年12月13日のバリの同時テロ」....
の犠牲者だ。
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次に、日本兵に殺された日本兵7名だ。
終戦直後、兵士の落胆は激しかった。
日本をあきらめ、インドネシアの独立戦争を戦いたいと思う者がいた。
戦うには武器がいる。
その武器を奪うため、日本兵が日本兵を殺したのである。
この事件は、1946年1月2日、シンガラジャの地で起こった。
形態は変わるが、インドネシアの独立戦争が故に、
殺されたことには、変わりがない。
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次いで、
バリの独立義勇軍に入り、
バリ人と一緒に独立戦争を戦い戦死した15名の日本兵である。
14名は、マルガラナに祀られている(既に記述)。
が、この15名は、どのように戦死したかは不詳である。
不詳がゆえに語られることがない。
また、人物が重なっているかも知れない。
で、員数に関しては、不確かである。
が、いずれにしても、マルガラナの1372番に祀られるべき人達だ。

   (註) 東京の稲川義郎さんから送って頂いた「バリ日本会会報;Bali」
      の47号に、次表の8番の満留四齢氏の写真が掲載されていた。
      ここにも掲げ、ご冥福を祈りたい。
      満留四齢氏は、Baturitiの地で、オランダ軍に射殺された。
      写真を見た通り、少し幼さが残るほどに若い。
      考えさせられる写真である。
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ということで、32名を述べた。
が、これら、14+32=46名は、戦死した者達ばかりである。

生き残った兵士もいる。
次の6名だ.....少ない!
バリ島での独立戦争の激しさが解る。
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# by yosaku60 | 2016-10-30 10:34 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その11; マルガラナの大舘)

慰霊碑は、その人その人の祈祷塔であって、
二人一緒になることはない.....
との、当所を20年管理するイブメイさんの言葉は重い。

であれば、
クトット・スニアの標記は、バリ的な単純ミスであり、
339番は、ブン・チャングーひとりのものと考えるべきであろう。

が、慰霊碑にも例外がある。
1372番の慰霊碑である。

独立戦争を戦い戦死した全員の分を建立するのは難しい。
情報に漏れがあるかも知れない。
そういう戦死者のために、1372番の大きな慰霊碑がある。
要するに、「その他の者の共同慰霊碑」である。

今まで、工藤栄氏と曽我氏の二人が、
この1372番の慰霊碑に祀られていると語られてきた。
私は、ここに大舘も入れたいと思う。

で、マルガラナ慰霊碑の
日本人だけをまとめると次の表の14人になる。
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が、独立戦争で戦死した日本人は、
この14名だけではない、まだいる。
マルガラナの1372番に祀られるべき日本兵が、他にまだ15名いる。

15名は、独立義勇軍として、オランダと戦った、
そして、オランダ軍に殺された(と思われる)日本兵である。

他に....
独立戦争を理由にバリ人に殺された日本兵が10名いる。
他に....
独立戦争を理由に日本人に殺された日本兵が7名いる。

これら犠牲者全員をまとめると、46名になる。
この46名のうち、
マルガラナの14名の日本兵を除くと32名になる。
明日は、この32名をまとめてみたい。

  (註) 独立戦争を戦い、生き残ったのは、6名に過ぎない。
      勿論、6名は、46名のうちにはカウントしていない。
# by yosaku60 | 2016-10-28 10:08 | 帰らなかった日本兵 | Comments(2)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その10; チャングーと言う名の日本兵)

バリ名のチャングーとスニアは別人である。
イブ・メサに反発して、そう言いたい。
何故なら、
チャングーについて書かれた次の記述を見て欲しい。
チャングーは、タナアロンの戦いに参戦している。

大舘が戦死したとされる、ワナギリの戦いは、1946年5月22日。
チャングーが参戦した、タナアロンの戦いは、1946年7月5日。
戦死した大舘がタナアロンの戦いに参戦できる訳がない。

ということで、
チャングーとスニアは別人と思うのだ。


(原文)

Hingga kini nama asli I Canggu belum diketahui. Dalam sejarah dicatat bahwa beliau menggantungkan diri dengan pemuda pejuang di daerah Buleleng. Namun yang jelas beliau adalah orang Jepang yang pada waktu Jepang kalah melawan Sekutu, tidak kembali ke negeri Jepang. Faktor apa yang mendorong beliau menggabungkan diri dengan pemuda pejuang?. ini tidaklah dapat dijawab dengan pasti. Apakah karena terpaksa atau faktor lainnya. Namun kenyataannya beliau rela menyerahkan jiwa raganya untuk ibu pertiwi Indonesia yang tercinta.

Menurut penjelasan I Ceku, salah seorang’ Veteran RI yang berasal dari daerah Ubud, bahwa yang dikenal dengan nama I Canggu dalam pertempuran di Tanah Aron khususnya, sangat berani menyerang musuh. Bahkan sering tembakannya mengena sasaran. Ganasnya tidak dapat diragukan. Setelah terjadinya pertempuran Tanah Aron, I Ceku tidak lagi berjumpa dengan I Canggu. Itu menurutnya disebabkan oleh setelah terjadi perang besar di Tanah Aron di pegunungan Karangasem, Netherlands Indies Civil Administration (NICA) terus rnengepung pasukan pejuang, sehingga beliau terpisah dengan I Canggu.

I Mangku salah seorang Veteran RI dari Buleleng pernah menuturkan bahwa selain bergabung dengan pejuang Bali khususnya di daerah Buleleng, nama I Canggu tidak pernah tercemar, dalam arti beliau selalu setia terhadap pasukan pejuang. Orangnya dikatakan penurut dan bila ada musuh beliau pasti paling berani dan ganasnya seperti harimau akan menyergap mangsanya. Khusus kepada I Gusti Ngurah Rai yang merupakan pimpinan tertinggi pejuang Bali saat itu, beliau sangat tunduk. Secara umum dikatakan bahwa I Gusti Ngurah Rai sangat akrab kepada para pejuang Jepang yang tergabung dengan pejuang Bali, tentunya termasuk I Canggu.


(意訳)

彼は日本人であるということはわかっているが、
本当の名前はなんと言うのか何もわかっていない。
連合国に日本が負けたときに日本に戻らなかった。
彼はインドネシアのために命を棄てることを惜しまないと言っていた。
彼はタナ・アロンの戦闘に参戦した。
ウブドからこの闘いに参加したある兵士は、
この時のチャングーの戦い方がとても勇敢であったと語っている。
敵に攻撃するときは、凶暴と思われるほどの戦い方であった。
射撃が上手く、狙ったものを外すことがなかった。
彼はタナアロンでの戦闘のあと、カナガッサムでも戦闘にも参戦した。
その戦いで彼は敵を深追いしたのか戦闘が終わっても帰って来なかった。
ブレレンの退役軍人であるイ・マンクーもチャングーのことを語っている。
それは、ブレレンでの戦闘であった。
チャングーは率先して前線で戦い、前に進むのみで決して逃げなかった。
それは虎が獲物を待ち伏せするような大胆で激しい戦い方であった。
ングラ・ライは、彼の戦いぶりを賞賛していた。



話を元に戻す.....

マルガラナ入口の表示板には、
チャングーとスニアの二つの名を書いている。
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では、
表示先の慰霊碑(写真は慰霊碑群)....
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の、339番は、どう書かれているか、
であるが....
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そう! 
チャングーだけしか書かれていない。
スニアの名が書かれていないのだ。

これをどう考えたら良いのだろうか。

今回の調査の結論でもある。
明日のブログでまとめたい。
# by yosaku60 | 2016-10-26 11:24 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その9; マルガラナの謎)

大舘の調査....
やはり何かものたりない。
次の日、私は、
さらなる調査のため、 マルガラナに行ってみた。
何度も来ているが、今回は大舘への絞りこみ調査だ。
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  (註)  日本では、「マルガラナ英雄墓地」と呼ばれているが、
       前にも書いたが、日本語として誤訳である。
       墓地ではない。
       慰霊碑群である。
       何故なら...
       英雄墓地は、タバナン、シンガラジャ、ギャニアール、ヌガラにある。
       独立戦争を戦い生き残った戦士が、戦後死亡した場合は、
       こうした英雄墓地に祀られる(埋められる)。
       が、マルガラナ慰霊碑群は、独立戦争時に戦死した兵士のみを
       祀っている。 墓ではなく、一人一人の祈祷塔である。
     

ということは、大舘は、マルガラナに祀られていなければならない。
それが、どうもおかしいのである。
祀られていないのかも知れない。

何故なら....
大舘、バリ名;ニョマン・スニアであるが、
マルガラナの入り口にある、掲示板には、こんな風に書かれている。
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339番目の碑標には、出身地を jepang(日本) として、
ブン・チャングー と クトット・スニアの二つが書いてある。

これには、二つの疑問がある。

1、クトットスニアとニョマンスニアは、同一人物(大舘)だろうか。
2、ブンチャング と クトットスニアは、呼び名が二つあるだけで、同一人物なのか。

この二つの疑問を解きたくて、
マルガラナの管理人さん(イブ・メサ)を訪ねた。
メサさんは、展示館(写真).....
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の、ドアーを特別に開けてくれて...
説明してくれた。

「これ、見て下さい」
と、メサさんは指さして言う。
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この人、私の祖父です。
祖父の名ですが、
Nyoman Rupit が正しいのに、Nyoman Rapit と書かれています。
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こんな間違いは、残念ながら、よくあります。

クトット・スニアもニョマン・スニアもそんな間違いの一つだと思います。
ふたつは、同一人物です。

それに、チャングーとスニアがあります。
スラッシュを挟んで、二つの名前を書いているのは、
「又の名は、こうとも言う」という、いわゆる別名という意味です。
ですから、ブンチャングとクトットスニアは、同一人物です。
クトットスニアはクロボカン出身と聞いています。
クロボカンとチャングーは隣町です。
出身がチャングーに近いからチャングーとも呼ばれたのではないかしら。

メサさんは、確信ありげに言う。
日本人の碑は、11基、11人が祀られております。

20年もマルガラナの管理人をしているメサさん...
は、確信をもって、こう言い切る。

が、
メサさんに悪いが、私は、それを信じない。

その理由だが、
私の調査では、チャングーとスニアは別人である。
同一人物なんかでない。
証拠をあげながら、明日、それを書きたい。
# by yosaku60 | 2016-10-25 11:04 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その8; タバナン英雄墓地というが)

Sawah の墓地に日本人が埋められていたのですか?
バグスさんに、聞いてみた。
「ああ、日本人が埋められていた」

何という名の日本人ですか?
大舘と言わずに聞いてみた。
「思いだせない」
「カド.....だったかも知れない」

大舘という名を出してみた。
思いだせませんか?
「........」、返事がなかった。

どうして、Sawah に埋められたのですか?
「戦闘のあったのは、Wana Giri の方だった」
「死体をSawah に運んできて埋めたのだ」
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どうして、大舘だけがSawahに運ばれたのだろうか。
これは聞かなくとも想像できた。
大舘を除く5人は、タバナン県かバドン県出身である。
どちらにしても、Wana Giri から、それほど遠くない。
遺族が遺体受け取りに来たに違いない。
受け取り手のない大舘だけがSawahに運ばれたのだろう。

以下、
バグスさんが話してくれたことを箇条書きにしてみる。

1、戦死した日本人は、金の指輪をしていた。
  オランダ軍は、彼の指を切り取って持って行った。

2、私は、ングラライ軍にあって30人ほどの部下がいた。
  年齢は、20才台だった。

  ということは、現在、90~95歳と思われる。
  100歳以上と言うのは、ほぼ冗談(笑)。

3、ダルマは私の戦友で、戦後も時々ここに来てくれた。

  ダルマ氏...稲川さんを通じ奥様にはお会いしている。
  私も彼を間接的に知っているというと、喜んでくれた。

4、1970年、大舘の死体は、Sawahの墓地から掘り返され、
  タバナン英雄墓地に移された。

ということであった。
タバナン英雄墓地には、これまで何度も行っている。
あそこにいる日本人は、ブンアリとブンマデの二人だけだ。
ただ、七つの無名戦士の墓があって、その全部が日本人だ。

  (註) 弊ブログ 2014年5月25日
      「バリ島残留日本兵の足跡;7つの無名の墓」

死体の行方を探るのは、もう難しい。
が、埋めた上におかれた「石柱」も、一緒に移されたかも知れない。
石柱は朽ちない。
過去はそれを知らなかったので、見つけられなかっただけかも。

で、我々は、バグスさんにおいとまをし、タバナン英雄墓地に向かった。
こんな.....
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マルガラナも英雄墓地と呼ばれているが日本語訳が間違っている。
あれは、慰霊碑群だ。
が、ここ、タバナンは、ほんものの英雄墓地だ。
こんな....
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墓守さんを訪ね、しつこくお聞きした。
1970年頃、Sawah から移された、大舘の遺体があるはずだ。
過去帳を拡げ、墓守さんは丁寧に探してくれた。
が、記録にはない。

じゃ、どこかに、「ohtate」と書かれた石柱がないだろうか。
それを探しに墓地内を歩き回った。
が、見つからない。
で、墓守さん、そして我々が出した結論。

7名の無名の墓...そのひとつが大舘であろう。
例えば、これ....
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なお、余談になるが、
弊ブログ;2016年8月30日「ヌサ村の島村中尉の調査報告」
で、書いた、島村中尉もタバナン地区で戦死した可能性が高い。
で、私は、
7つの無名の日本人墓のひとつが、島村中尉のものであろうと思っている。    
# by yosaku60 | 2016-10-24 09:17 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その7; 埋葬場所を探す)

大舘は...
本当に Wana Giri で、戦死したのだろうか?
案内してくれた男に聞いたみた。

....と、
「ここで戦死した、墓もある」と言う。
これには、驚いた。
もし墓に出逢えば、大発見だ。

本当か、墓があるのか?   「そうだ、日本人の墓だ」
大舘と言う名の日本人か?  「そうだ、確か大舘と言う名だった」
墓を見たい!          「解った、案内する」

で、行ったのが、Sawah村のもっとも北...
で、村の墓地がある場所...
の、入り口で、こんな処。
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どんな墓だ!       「埋めた上に石を置いてある」
どんな石だ!       「30㎝ほどの高さの石柱だ」
どうして大舘と解る?   「石柱にohtateと書いてある」
.....この男、どうも胡散臭い。
が、ここだと場所を特定して、石柱を探し出す。
あながち嘘とも思えない。
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....が探せない。
男は言う。
「ここは、村の墓地だ「ら、時々草刈りが行われる」
「草を刈る時、石柱が邪魔になるから、捨てたのも知れない」
てなことを聞いても、オレはあきらめれなかった。
もしかしたら、遺体が埋められた場所の上を踏んでいるかも知れない。
であれば、「申し訳ない」と思いながら、石柱とやらを探し続けた。
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....が、やっぱり探せれなかった。
となれば、本当にここに大舘が埋葬されていたかどうか、
村人に聞きまわる以外にない。

我々は、男と離れ、独自に村人への聞き取りに向かった。
何人に聞いただろうか。
ほぼ全員が「埋葬されていたのは事実だ」という。
埋葬されていたのは日本人か? と聞くと。
半数は「知らない」、半数は「そうだ」と言う。

もっと見識のある人に聞いてみたい。
で、村長さんの家に行ってみた。
村長さんは留守だったが、村長さんの奥さまがいた。
奥様が電話で連絡してくれた。
「埋葬されていたのは、日本人だった」
との過去形の返事が返ってきた。

じゃ、その遺体、今はどうなったのか?
なんとか、聞き込みを続けたく、村長夫人に頼んでみた。
と、まだご存命のベテランがひとりいるという。
こちらで、ベテランと言うのは、独立戦争を戦った元兵士をいう。
「その方にお会いしたら」と言う。

是非に話を聞きたいと、家を紹介してもらった。
で、逢えたのが、この人、Bapa Kutut Bagusu さん、
の、ちょっと昔のお写真。
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で、現在はというと....
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バグスさん、おいくつですか? と聞くと....
「ええ?」 と言う。
介添えの人が 「耳が遠いので」 と、教えてくれた。
大きな声で聞いてみた、おいくつですか?
「オレか、100歳以上だよ」

以下、
バグスさんとの話は、次回とする。
# by yosaku60 | 2016-10-23 09:35 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その6; モニュメントの謎)

ピンダ中尉の証言では、Sawah での戦闘と書かれていた。
戦闘のあったところには、必ずモニュメントが建てられている。
それを探しに行ってみた。
bajera からSawah に向かって伸びる細い道...
全体に舗装されていて、まずまず走りやすい。
所々に棚田が拡がる。
7キロほど走るとSawah 村に着いた。
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大概が村の北の外れ(アグン山の方向)...
にモニュメントが建てられる。
村の外れに来るも、それが見つからない。

村人に尋ねると、
「ここからはまだ遠い」という。
案内してもらった。
sawah 村を外れると、急に悪路になった。
穴に落ちないように、ハンドルを切り切り、北に2キロ....
Wana Giri の村まで行き着いた。
そこにあったのが、このモニュメント...
手前が案内してくれたおじさん。
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次のように書かれている。
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戦闘があった日を1946年5月22日としている。
ピンダ証言では、5月23日となっていた。
一日の違いだ...
バリ島では、こんなのミスに入らない(笑)...
これだ!

戦死者の記録を見てみよう。
ピンダは、次のように記述していた。


この戦闘で戦死した分隊員は、
大舘(I sunia)、I Kadek 、 I Rinteng、
そして、3人のB・Bの若者だった。



ひとりづつ見てみたい。

1、  I Ketut Ritteb (Wane Giri)

    Wana Giri出身だ。
    ピンダが言う、地元民3名の内のひとりなのだろう。

2、  I Nyoman Degeg (Wana Giri)

     この男も地元民3名のうちのひとりだ。

5、  I Made Rinoh (Pandak)

    Pondok Sawah 出身であろう。
    同じく地元民3名のうちのひとりと思われる。

3、  I Made Sukada (Badung)

    Made を Kadek とも言う。
    バリ島では、同じ名前だ。
    ピンダが戦死者に上げている、I Kadek と思われる。

4、  I Wayan Rinteng (Badung)

    あった!
    ピンダ記述の I Rinteng だ。

間違いない。
これが、Sawah の.....いや、Wana Giri の戦いの記録だ。

......

うん? 大舘の名が欠けているじゃないか!
大舘は、ここでは戦死していないのかも...

で、我々(私、カミさん、エヴィ、藤沢女史)...
の次の調査は、大舘探しに移っていった。
# by yosaku60 | 2016-10-22 08:52 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その5; Wana Giri の戦い)

ということで、Wana Giri の戦い....
のピンダ中尉の記述を語りたい。

(ピンダ中尉証言)

dalang 村を出て、数十歩も歩いていない時、
Sumandhi分隊の隊員の一人である、大舘(バリ名=I Sunia)が、
緑ヘビに足を噛まれそうになった。

 (註) Dalang村; 本部のあるムンドックマランからsawahに向けての
     北側2キロの地点である。
     ということは、出発してすぐのアクシデントであった。

 (註) 緑ヘビ; 細い小さなヘビであるが、猛毒を持っている。

勿論、このヘビは足を噛む前に振り払われて殺されてしまった。
が、大舘は、これは良くない兆候だと感じたのであろう。

「私は必ず死ぬ」...と真顔で言った。

友人たちは、
「バカな、そんなことはありゃしないよ」と慰めた。

しばらくすると、今度は、 I Kadek が
「サソリに噛まれた」と、わめきだした。
昨夜から、彼の靴の中に入っていたらしい。

こんなことがあり、この分隊の者は、重苦しく押し黙ってしまった。

次に、I Sukarta が穴の中に滑り落ちた。
と、この分隊は日ごろおしゃべりする連中だが更に押し黙ってしまった。

暫くして...
Sugianyar大尉は、
Pondok Sawahに派遣されていた、Sarja小隊と出逢った。

  (註) Pondok Sawa ; Sawah 村に近い処にある。

Sugianyar 大尉は、
Sarja 小隊に 敵のいる方向に進軍するよう指示をした。
我々(ピンダ小隊)も Sarja小隊と同じ方向に進軍した。

敵所在の場所に、ほぼ近づいたと思われる時、
B・Bの若者たちが道を指さして、
「敵は、まだ2キロ先です」と言った。

  (註) B・B ; ピンダはこのように書いているが、
      その意味がわからない。
      が、多分、地元民兵の組織名であろうと思われる。

それで、Sarja中尉は、部隊を止め、
敵を包囲するように、二つの分隊に分けた。
その分隊のひとつ、Sumandhi分隊は、北の方角に迂回することになった。

この陣形で戦闘を展開すべく歩き始めたが、
数十歩も行かない内に、突然に、
ものすごい自動小銃の一斉攻撃の音が響き渡り、
それと同時に恐ろしいうめき声や叫び声が聞こえて来た。

少なくとも、18名が被弾し、そして地面に倒れた。
その18名のうち、ある者は戦死し、ある者は負傷した。

生き残った者は、恐ろしさでパニックになった。
慌てふためいて、走り回り、谷底に飛び込んだ者もいた。
部隊は、めちゃくちゃで、指揮もとれなくなってしまった。

オランダ兵達は、勝った勢いで全員立ちあがり、
あわてふためいている若者たちに銃弾を浴びせた。

この自動小銃の一斉射撃で被弾した者達は、
一番前を進んでいた、Sumandhi分隊であった。
その分隊の中の何人かが気を取り直し応戦した。
その応戦があったため、オランダ軍も退却して行った。

この戦闘で戦死した分隊員は、
大舘(I sunia)、I,Kadek 、 I Rinteng、
そして、3人のB・Bの若者だった。


負傷したのは、衛生兵一名と11名のB・Bの若者達、
他にSumandhi、 I Swetja、 I Bakir も負傷した。

部隊員全員は、畑の中に伏せていたが、
負傷者の傷は、それほど重くなく、各人が自力で這って、
敵から遠ざかって行った。

Sumandhiは、腹に何発かの弾を受け、畑に横たわっていたが、
ちょうどそのとき、I Gereh が彼を見つけ、近づいて来て...

「Pak Alit Made、 まだ生きているかい」と囁いた。

  (註) Pak Alit Made; Sumandhi の呼び名

Sumandhi は、勿論応えることができなかった。
が、I Gereh は、彼がまだ息があるのをみて担いで走って逃げた。

この悲しい事件は、
1946年5月23日午前9時のことであった。
# by yosaku60 | 2016-10-21 10:27 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その4; Wana Giri の戦い=序文)

バリ島における独立闘争の調査において、
私が参考にしているのは、
「Genpilan Perjuangan Induk Ngurah Rai」という表題の本である。
著者は、I Gusti Ngurah Pinda (いわゆる、ピンダ中尉)
で、ングラライ軍では、大砲隊を率いていた。

  (註) 大砲と言っても、電柱を切って作った自家製の大砲、
      砲弾だけは、日本軍が残したものを使用。

ングラライの側近で、時には参謀の役をこなしていた人物である。
戦後も生き残り、バリ州の副知事まで務めた。

この 「Genpilan Perjuangan Induk Ngurah Rai」....
理路整然とし、誇張を控えた著述だが、原文は309ぺージにも及ぶ長編である。

この長編の全てを翻訳したのが、東京在住の稲川義郎さん。
縁あって、親しくお付き合いさせていただいている。
この翻訳だが、
「バリ日本会」の要請を受け、2か月で翻訳したという。
翻訳本は、439ぺージにも及んでいる。
「おかげで一気に老眼が進んだ」と稲川さんは笑いながら言う。

ということで、
私は、稲川さん翻訳のピンダ中尉の「従軍記」を主たる参考書として、
このブログを書いている(稲川さん、ありがとうございます)。

が、ピンダ中尉の記述にも時々ミスがある。
内容のミスは、解りようがないが、地名のミスである。

で、私の現地調査....

ピンダ中尉の記述(地名)に誤りがないかどうかが主である。
それに、現地に佇むことで、
当時の戦いに思いを馳せることを付加価値としている。

さて、
大舘の戦死であるが、
ピンダの記述では、「Sawah」となっているが、
現地に行ったところ、戦死したのは、sawah から 2キロ北の、
「Wana Giri」であることが、解った。

今後の私の記述も、
大舘は、Wana Giri の戦いで戦死した、ということで語り継ぎたい。
# by yosaku60 | 2016-10-20 09:50 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その3; 大舘はどこの誰か)

独立戦争後も生き残った平良定三は、
大舘の存在について、
「オオタテ....漢字は不明....三警出身と思われる」と書き残している。

が、当時三警に居た、月森省三海軍大尉が調査公表した、
三警離脱者の中には、大舘の名が含まれていない。

大舘は、三警(第三警備隊)には所属していないのだ。
軍属、しかも、海軍の軍属だったようだ。

軍属とは...
軍人以外で軍隊に所属する文官及び雑役を言う。

軍人ならば、組織の中であり、調べようがある。
が、軍属となると、どこの誰か調べようがない。

バリ島で、独立戦争を戦った日本人は、約20名居る。
その中で「軍属」だったのは、次の3名だ。

1、曽我  ; 海軍民政部所属と思われる?
2、ワジャ ; 海軍施設部所属と思われる?
3、大舘  ; 海軍軍属と思われる?

3名とも、名前の全てが解らず、日本の故郷を探すことができない。
中でも、大舘は、軍属は軍属でも、どんな仕事をしていたかも分からない。


  (註) 曽我が民政部であり、ワジャが施設部であった、
      との記述は、月森省三氏の筆跡で書き残されている。
      月森氏は、調査にあたって昔の戦友に聞いている。
      曽我が民政部であり、ワジャが施設部ではなかったか、
      というのは、そうした調査の結果であろうと思われる。
      それに比べて、大舘については、何も語られて居ない。
      当時の調査では、知る者がいなかったからであろう。

では、何故に、オオタテ という名が伝わっているのだろうか。
クロボカンの独立軍に本名が残っていたとは思いにくい。

  (註) バリ人が残した記述はどれもが後日談である。

独立軍として、ムンドックマランに集合した際、
日本人どうしが初めて出会って、お互いに本名を名乗った...
ことがあったのではなかろうか。
いずれにしても、よく解らない。

大舘という名は、本当かどうか?
大舘とは、どこの誰だろうか?

いろいろ解らないバリ島残留日本兵の中で、
解明が難しく、将来共に謎として残ることのひとつである。
# by yosaku60 | 2016-10-19 10:41 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その2; 戦死場所のsawahについて)

大舘は、タバナンの sawah で戦死した(後日談あり)。
何故、sawah に行ったのだろうか....
であるが、
ングラライの独立戦争闘争軍.....
当初は、小スンダ・ゲリラ軍と言っていたが、
その軍の旗揚げに参加したからである。

旗揚げ地は、munduk malan であった。
大舘は、クロボカンの地元の兵と共に、その地に結集したのだ。

その Munduk Malan であるが、
何故に、旗揚げ地として選ばれたのか....
「Bali Berjuang」に、その理由をつぎのように書いている。

1、バリ島の西側に近く、ジャワ島からの援軍を受けやすい地であった。
2、オランダ軍の拠点である、タバナンやデンパサールにも近かった。
3、住民の協力を得られる(予想)地であった。

ということで、
Munduku Malan(下図のほぼ真ん中) の地に、闘争本部を置いたのだ。
d0083068_829832.jpg

緑の円は、棚田群....
Munduk Malan から、Sawah までは、直線距離で 5キロ ある。
図の右を見て欲しい。
Penabel という地がある。
以前、このブログに「Penabelの戦い」として書いた処だ。
Munduk Malan から、Penabel までは、直線距離で 7キロ ある。
7キロは、闘争軍にとって、軍の派遣範囲内であったのだ。
当然に、5キロの Sawah も 軍の派遣範囲であった。

大館は、Sawah でどのように戦ったかは、後にして、
先ずは、 Sawah は、どんな土地であったかであるが、
ひとことで言えば、棚田が素晴らしい!

以前のブログで、
バリ島で、最もきれいな棚田は、Belimbing にある、と書いた。
近年、観光地化された、ジャティールイよりも、自然に富んでいる。
Belimbing の棚田を再掲載してみる。
d0083068_848110.jpg

sawah あるが、そのBelimbing の東方至近に在る。
独断で棚田がきれいなところを処を緑色の丸で囲んでみたが、
その円の範囲内に在る。
当然に、きれいな棚田が拡がる。
が、棚田を遠望するのではない。
手の触れる処に棚田が拡がっている。
こんな...
d0083068_93618.jpg

それに、ここからは、バトゥカル山が見える。
バトゥカル山がきれいな富士山のように見える場所は、限られている。
こんな....
d0083068_961229.jpg

ということで、
大舘が戦死したSawah(田圃)....
は、名のとおり風光明媚な処であった。
# by yosaku60 | 2016-10-18 08:18 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)


常時ほろ酔い候
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