あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



柳川宗成物語(その12; 水泳訓練)

水泳訓練だ。
水泳訓練に先立ち、柳川は次を訓示した。

明日から水泳訓練を実施する。
訓練は三日間と限る。
三日間の練習の後、一人でも泳げない者がいたら、その班の全員の責任とする。
泳げない者は、水の中を歩いてでも渡る覚悟で練習しろ。

実施の第一日目は、五メートルの跳び込み台から跳び込む訓練だった。
準備運動の後、後一列に並ばせ、順々に跳び込み台に登らせた。
先ず、柳川が跳び込んだ。 
続いて日本人教官が跳び込んだ。

生まれて初めて高飛び込みをした者がいたと思う。 
水泳の得意な者は、われ先にと飛び込んだ。
次に恐る恐る泳げる者が飛び込んだ。
第一回で飛び込めない者が約半数いた。

柳川は各教官を飛び込み台下の両側に配して台上から注意を与えた。

おい、今から飛ばぬ奴を突き落す。
よし、というまで助けないように、少々水を呑んでも死なないことを教えてやるのだ。
いいか、よし、と行ったら初めて助ける。

下で、富樫通訳が青年たちに聞こえるように大声で通訳した。
台上でふるえて泣きっ面の生徒を無理やり飛び込ませた。
泳げる者はなんとかべそをかきながら飛び込んだ。

柳川は、自力で飛び込めない者を手で突き落していった。
全く泳げない者も何人かいた。
水中でアップアップしている。
少しばたつかせておいて助け上げる。

飲んだ水を吐かせてまたすぐ飛び込ませる。
真っ青になって台に登りまた溺れる。
泳げない連中は何度もアップアップする。
適当に水を飲んでから教官に引き上げさせる。

中には、失神する者もでる。
水を吐かせ、人工呼吸をして生気づくと直ちにまた飛び込ませる。
これを三回繰り返す。

全員が飛び込めるようになった。
飛び込めるようになったので、水泳を教えた。

泳げない連中には、プールの底を這わせた。
プールの浅い処ではない、一番深いところを選んだ。
すぐにアップアップしながら、同じところを行ったり来たりする。
教官が途中で引張ったり突いたりしながら対岸まで押してゆく。

途中で気力尽きてだんだんと沈んでゆく者もいる。
しかし、なんとか対岸まで、引いたり突き飛ばしたりして辿り着かせた。
こうした訓練をして三日目、全員が二十五メートル以上泳げるようになった。

若いインドネシア人が猛訓練についてきてくれる。
彼らは真剣に日本人教官に追いつこうとしたのだ。

# by yosaku60 | 2017-04-19 07:33 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その11; 死ぬまでやる)

毎朝の点検後の体操をした後に駆け足もした。
一キロから二キロ、二キロから四キロと距離を伸ばした。
初めは、生徒どうしや教官に抱えられ、引張られて帰って来る者がいた。
が、一か月後には、全員元気で余裕を持って走れるようになった。

こうした火を吹くような訓練は、
適切で十分な給食と相まって、発育盛りの彼らの体位を急速に上昇させた。
四週間後には、全員の体重が増えた。

一方、精神面だが、独立精神を鍛えること終始した。
柳川は、彼らを次のように叱咤した。

独立は自らの力で取るものである。
与えられるものではない。
与えられたものは、すぐに奪われる。
自らの力が備われば、独立は自然にできる。
自らの力が備わるまで黙って勉強せよ。
黙々と自力を養うことだ。
そのためには、私たちは全霊全魂を捧げる。
私たちに負けるな。
私たちに負けるような力では独立はできない。
独立は諸君が私たちに如何にして勝つかにある。
一日も早く我々に優る能力を作るために全精力を体力、気力の養成に打ち込め。

柳川は、そう言って徹底的に精神力を鍛えた。
青年たちは、学科は熱心に聞いていた。
青年はたちは狭いジャワ観から一遍に世界観にまで視野を広げた。

柳川が書いている。

学科の勉強から受けた彼らの開眼は、目を見張るものがあった。
私が中野学校で受けたものの数十倍にもましての驚きであった。
当時の青年道場の合言葉は、

「死ぬまでやる(サンペ・マティ)」であった。

この合言葉が、端的に当時の教育の熾烈な状況を表している。
その「死ぬまでやる」を実践した訓練があった。

# by yosaku60 | 2017-04-18 09:17 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その10; 教育カリキュラム)

そんな青年道場の教育内容だが、
柳川は、陸軍中野学校で自分が学んだことを中心に次のように組み立てた。

一、学科
(イ)精神教育(精神訓話)
(ロ)世界事情(和蘭東印度史)
(ハ)軍事学(軍隊内務、戦史、戦術、作戦、築城、交通通信)
(二)語学(日本語)

二、特殊教育
  諜報、宣伝、謀略、防諜、統計

三、実科
  教練、体操、相撲、水泳、銃剣術

四、術科
  射撃、偵察、連絡、潜行、潜在、破壊、殺傷

五、演習、見学

六、課外
  軍歌演習、軍歌解説、号令調整、その他一般常識

柳川は、青年たちの体力と精神との両面の向上に苦心した。
なぜなら、青年たちの最初の平均体重は四六・九キロだったからだ。
強い精神は、強い身体に宿る。
柳川は、まずは体力の増強に取り組んだ。
その手段に選んだのは、相撲だった。
土俵を作りさえすれば、あとは褌一本あれば良い。
それが相撲を選んだ理由だ。

幸いにも近くに元プロがいた。
別班本部で炊事係りをしていた戦前派の米山老人である。
齢こそ六十才だが、元十両の力士だった。
彼に泊まりこみで指導してもらい立派な土俵ができた。
相撲の指導は、押し相撲一点張りとした。

最初の内は「ズボン」でとっていたが、被服の破損が激しかった。
被服交換の日本人担当から苦情も出た。
そこで軍を介して帆布を手に入れ、それを切って褌を作った。
土俵と褌がそろい、相撲は本格的になった。
行司の教官の「用意」の号令で俵に足を突っ張り構える。

「始め」で突進する。
一直線に相手につき進む。
後退とか横に飛ぶことは許さない。
うっちゃりも絶対に許さない。
前進、ただ前進のみである。
最初は、なかなかうまくいかなかった。
どちらかが、怖れるか、遅れるからだ。
ちょっとでも立ち遅れると、構えたまま後ろにつき飛ばされる。
立ち会いに気合負けする者は残し、何度でもやらせる。
苦しまぎれにうっちゃりをやった者は負けである。
押し合い、突っ張りが合いが永くなると「止め」の号令で中止。
改めてやらせる。

顔面青黒くなり、眼は必至の力を表し、ふらふらしながらも激突する。

「相手をオランダと思え、敵と思え」
「お前がいかねば、敵が来るぞ」

互いに心気伯仲すれば、土俵の中央で頭と頭、額と額がガッと衝突する。
両者ともにひっくり返る。
時々、両者とも、額に刃物で切ったような傷ができる。
ヨーチンをつけ繃帯をして、またすぐ始めさせる。
恐怖と苦痛で青黒くなった顔に目を血走らせて相撃つ肉弾戦は鬼気迫るほどになった。

柳川自身も土俵の鬼になった。
五十名ひとりひとりを入れ替わり立ち替わり突き飛ばした。
当初は全く赤子を扱うような有様であった。
その彼らのへっぴり腰が二十日もすると、腰もすわった。
必死の眼光に青光りする鋭気を加えて、見違えるほどになった。

# by yosaku60 | 2017-04-17 07:28 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その9; 道場開きの挨拶)

柳川は、この地に決めた。
後に「タンゲラン青年道場」と呼ばれたり、
生徒をして「タンゲラン一期生」などと呼ばれたのは、そのためである。
昭和十八年一月、青年道場の開場式があった。
開場式にあたり、生徒たちを全員いがぐり頭にした。
そのいがぐり頭にオランダ軍から押収した戦闘帽を被せた。
軍服、帯剣、編上靴も押収品であった。
ただ、脚絆だけは日本式に巻かせた。
五十名の生徒を一班と二班に分け、二列横隊に並ばせた。
国旗掲揚台には、日の丸を掲げた。

柳川は、生徒たちに向かい訓示した。

今日、只今から諸君と此処で起居を共にし、一身一体となり一緒に勉強する。
諸君は選ばれた「インドネシア青年」として一日も早く、
我々から学び取り得る全てを学び、
強く、正しく、新しい「インドネシア青年」として生まれ変わってもらいたい。
諸君自らの手で、我々と共にアジア解放に、共戦共死できるようになってもらいたい。
我々のアジアは我々の手で解放しよう。
諸君は選ばれた戦士らしく、我々と共にアジア建設の捨て石となってもらいたい。
今日、我々はアジアをアジア人の手に取り戻すために戦っている。
普通の時代ではないのだ。
我々が一日休めば敵は一日進歩し前進する。
諸君は圧政下三百四十年の遅れがある。
それを一気に最も短い期間に取り戻さなくてはならない。
これは全く無理な話である。
この無理を承知してやるのだ。
大変な覚悟が必要である。
覚悟を十分にしてもらいたい。
ここでの教育は特に厳格にし、また強度のものとする考えである。
その程度は諸君の力量と見合わせ、だんだんと強めてゆく。
勿論、我々にできることを諸君に要求するのだ。
我々も人間、諸君も同じ人間だ。
我々にできることは諸君に出来ぬことはないと思う。
私は出来ぬ者があれば、みんなが出来るまでやらせる方針である。
もし一人でだめなら二人で、それでもできなければ三人ででもやり遂げさす。 
全員、何物にも負けず努力してもらいたい。
判ったか!
本日の開場式は、これで終わる。 
今日からは私が諸君の父である。 
各班長は諸君の母と思え。
他の教官は全員が諸君の兄貴であり兄弟である。
何事でも良い、相談するように。
何事でも困ったことは申し出るように。
また終わったことは忘れてもいい。
忘れたら覚え直せ。
忘れては覚え、忘れては覚えしている間に、いつかは覚えて来る。
先ず、理屈抜きで身体で覚えるのだ。
身体で覚えたものはちょっとのことで忘れるものではない。

# by yosaku60 | 2017-04-16 07:14 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

クニンガンのワジャ(残留日本兵)

今朝はクバヤを着た女性が街にあふれております。
お盆の最後、クニンガンです。
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お盆の始めは、工藤栄さん(残留日本兵)のお墓をお詣りしました。
で、お盆の終わりは、ワジャ(残留日本兵)のお墓をお詣りしてきました。
ワジャの日本名は解っておりません。
ただ、その行動については、だいぶわかってきました。
そのうち、書きたいと思っております。
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ワジャのお墓の掃除は、地元プラグのバンジャールにお願いしております。
写真は、そのバンジャールの首長さんの奥さんと、お孫さん。
バリ人のお祈りは敬虔です。
この子たちは、きっとワジャの墓を護り継いでくれるでしょう。
工藤栄さんもそうですが、ワジャもバリ人に護られてお幸せです。
写真の中央の方は、清水さん。
インドネシアにある、残留日本兵のお墓をお詣りし続けています。
ソロでは、95歳の元ペタ(郷土防衛義勇軍)の兵士の面倒を見ておられます。
もちろん、インドネシア人の元兵士です。
が、もう目が見えなくなったそうです。
そんな方に日本人の清水さんが、今も寄り添っています。
一昨日は、マカッサルに行って三五名の日本兵のお墓をお詣りしてきています。
お付き合いさせていただいて、頭がさがります。
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同じく、残留日本兵の曽我さんをお詣りしてきました。
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遺児のマデ・スワルジャさんです。
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清水さん、七六歳、スワルジャさん七五歳、私、七一歳。
いろいろなことが、ありがたくなります。
齢をとるっていいいものですね。

# by yosaku60 | 2017-04-15 09:52 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

柳川宗成物語(その8; 青年道場を開く)

昭和十七年十二月、柳川は「特殊教育」の企画書を作成した。
それを第十六軍参謀部別班の企画として軍司令部に提出した。
当時の第十六軍の司令官は、原田熊吉中将であった。
原田は、前任の今村均ほどではなかったが、現場主義であった。
大本営の意向を越えて、インドネシアの早期独立を願っていた。
ただ、それを表面に出すことなく、軍政にあたっていた。
そんな原田にとって、柳川の企画は、目指す処のものであった。
インドネシア独立の匂いがする企画だった。
原田は、柳川の企画を讃辞し、すぐに認可を下ろした。
司令官の讃辞を知った柳川は、感謝した。

話は戦後に飛ぶが、原田は戦犯としてシンガポールで絞首刑になった。
柳川は、その英霊に向けその時の感謝を伝えている。


原田さん、義勇軍は立派に成長しました。
実を結びました。
原田あっての義勇軍、義勇軍合っての柳川と申せましょう。
このことは私が一番よくわかっております。
本当にありがとうございました。


さて、ということで、「特殊要員養成隊」が発足した。
一応、スタートラインに立った。
が、特殊要員養成隊という名を掲げることには躊躇した。
これは正式名である。
が、そうした名称から、教育内容が外に漏れるようでは拙い。
防諜名が必要だ。
柳川は、防諜名を「青年道場」とした。

そして、自分がその道場主になった。
生徒を五十名とした。
柳川子飼いの六名に加え、柳川の部下が選りすぐりを集めた。
道場をどこにするか。

ジャカルタの近辺で、いろいろ探したがなかなか見つからなかった。
やっと探し当てたのが、タンゲランの不良少年少女感化院だった。
ジャカルタから二十キロで、それほどに遠くない。
用地も縦千メートル横千五百メートルと広かった。
周囲が鉄条網で囲まれ、相当痛んでいたが、最適と思われた。

# by yosaku60 | 2017-04-14 07:19 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その7;兵補との比較)

昭和十七年九月頃より広がり始めていた「兵補」の存在だ。
ここで少々「兵補」を説明しておきたい。
日本軍はインドネシア占領後、地域を分担して軍政を敷いた。
が、インドネシアは広大だ。
全土を統治し、護るには、兵力が不足した。
そこで補助戦闘部隊として現地人を採用することにした。
それを「兵補」と呼んだのだ。

十六歳から二十五歳までの青年を対象に募集した。
募集の当初は、志願者が多く五万人ほどが集まった。
しかし、すぐに不満が出て人が集まらなくなった。
日本軍の補助要員との位置づけに不満が出たのだ。
志願者が減ったため半ば強制的に徴募するようになった。
兵補の法的身分は、準軍属であった。
軍属ではなく、準軍属だ。
軍属とは、軍に採用される民間人を言う。

関連する国際法として、ハーグ陸戦条約がある。
条約では、占領地住民を強制して軍に従わせてはならない。
軍属としての法的身分では、国際法違反になる。
で、それに「準」をつけて準軍属としたのだ。
こういう言い逃れは、姑息である。
それも半強制的に徴募するのは、明らかに国際法違反だ。
原住民から不満が出たのは、当たり前だ。
ということで、「兵補」は、原住民に不人気だった。

が、これは、後々の話だ。
柳川がインドネシア青年による特殊機関を作ろうとした時点ではそうではなかった。
設立の初期であり、まだ、インドネシア人に歓迎されていたのだ。
が、柳川には、その時すでに「兵補」が行き詰まることは見えていた。
日本軍が目指す「兵補」と自分が目指す「特殊教育」は別である。

柳川は、二つを差別化した。
「特殊教育」は、「兵補」であってはならない。
「兵補」は、日本軍のためである。
「特殊教育」は、インドネシアのためである。
が、そのことを表に出してはならない。
誰にも悟られてはならない。
特に日本軍に悟られてはならない。
インドネシア青年は、独立に向けて燃えればよい。

日本人教官もそれを全面的にサポートする。
ただ、外部に対しては「日本のため」を見せつけるのだ。
教育の現場でそれを自覚しておれば、なんとかごまかせる。
誰にも本音を悟られずに、教育できる。
柳川は、そう心にとどめ、事を進めていった。

# by yosaku60 | 2017-04-13 14:12 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

今朝のアグンサンは2色でした

その日の空気により、アグン山の表情が変わります。
今朝は、遠い山と近い山の色が分かれていました。
その中で、アグン山の位置がはっきり見とれました。
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# by yosaku60 | 2017-04-12 10:06 | バリ島=その日のできごと | Comments(0)

柳川宗成物語(その6; 若者の教練を考える)

隊に戻った柳川は、考え続けた。
老婆に会った後に、決断したことだ。
この国の人を助けることについてだ。
それはオランダから独立し自立させることに尽きる。

柳川は、知っていた。
日本軍はインドネシアに侵攻した。
アジアの独立をうたってのインドネシア侵攻であった。
が、これは建前であった。
本音は、インドネシアの石油が欲しかったからだ。
そのためには、簡単に独立してもらっては困る。
日本軍には本音と建前があったのだ。
嘘がばれれば、いずれ両国間にもめごとがおこる。
その結果、独立できなければなんにもならない。
そうならないためのことを今の内から考えておかねばならない。

それには、インドネシア民衆が自立して独立を勝ち取ることだ。
日本に頼らないように、民衆に力をつけるのだ。
民衆にそのような教育する。
それも将来のある若者を教育する。
この国の若者には光がある。
この国には、未来がある。

老婆の孫を見て、そのことを実見していた。
しかし慎重に教育しなければならい。
日本の本音は、日本のためだけである。
インドネシアのためなんて考えていない。
そうした本音に毒されないようにしなければならない。

考えた末、柳川は、まずはやってみようと決断した。
個人的に、それをやるのだ。
まずは、おおげさでなくて良い。
小さいところから始めれば良い。
柳川個人で若者を育ててみる。

その後どうなるかは、その時考えれば良い。
いわゆる走りながら考えることにしたのだ。
その頃の柳川は、軍の合同宿舎に住んでいた。
佐藤参謀、土屋中尉、富樫通訳らと一緒だった。
行動を起こすため、柳川は、その宿舎を出た。
そして、旧蘭印軍の砲兵隊長官舎に一人で移り住んだ。

柳川は、六人のインドネシア青年を選んだ。
そして、自費で手元においた。
別棟に住まわせ、柳川自らが教育を始めた。
日本語を教え、柔道、相撲、剣道、空手を教えた。
青年たちは学ぶことに純真だった。
柳川の思いを真綿に水が沁み込むように吸収した。
こうした彼らへの教育成果から、柳川は確信した。
インドネシアの青年は使える。
特殊教育機関を作れば、効果をあげることができる。
それも陸軍中野学校のような教育機関だ。
中野学校の訓練の成果は柳川自身が身に沁みて知っていた。
将来できるであろうインドネシア民衆軍に取り入れたい。
柳川は、着々と準備を始めた。
が、ひとつ障害があった。
# by yosaku60 | 2017-04-12 09:23 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その5;敵の司令官を恫喝する)

ボゴールからバンドンまでは、さらに百数十キロある。
が、山道が多く人家が少なく、比較的楽に距離を稼げた。
昭和十七年三月七日夜、三人は、バンドンの町に入った。

日本軍がジャワに上陸して、まだ六日目であった。
目指すのは、バンドンの蘭印軍司令部であった。
そこには、蘭印軍六万五千人を束ねる、司令官がいる。
ハイン・テル・ポールテン中将だ。

翌、三月八日未明、柳川は蘭印軍司令部陸軍省に乗りこんだ。
中野学校で訓練していた柳川にとっては造作もないことであった。

柳川は、寝ていた、ボールテンを叩き起こして迫った。
「日本軍は既にバンドンを三方から取り囲んでいる。」
事実、三月六日より日本軍はジャワ西部の中心部に進軍していた。
柳川のハッタリであったが、ポールテンはそれを信じた。

柳川は、ポールテンを睨みつけた。
当時の日本軍には、共通の教訓があった。
銃や剣がなければ、腕で相手を絞め殺せ。
腕がなければ、歯で相手を噛み殺せ。
腕も歯も使えなければ、眼で相手を睨み殺せ、との教訓だ。
陸軍中野学校では、実際にそのような訓練もした。
柳川は、訓練で得た眼光の強さには自信があった。
その眼光でポールテンを睨んだ。

しばらくおいて、低い声で言った。
「あなたの部下や兵を傷つけないためにも、一刻も早く降伏願いたい。」

柳川は、それだけ伝えて、その場から消えた。
同日、蘭印軍は、降伏した。
降伏の交渉は三月八日十六時より、カリヂャチィで行われた。

# by yosaku60 | 2017-04-11 07:52 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その4; 老婆に出会う)

老婆がひとりでいた。
老婆は、目を大きく開いて三人を見た。
そして、柳川に視線を止めた。
と、突然に柳川の足元にひれ伏した。
両手を柳川の足の甲に押しつけて礼拝をした。
そして、柳川に向かって言う。


「待っておりました。よくぞ来ていただけました。
昔からの言い伝えがあります。
いつの日か、東から黄色い肌をした人が来ます。
そして、オランダを追っ払って自分たちを開放してくれるのです。
貴方は、その黄色い肌の人です。
ありがとうございます。
よく来ていただけました。」


富樫の通訳で、その全てを理解した柳川は、感動した。
これほどまでにインドネシア人に必要とされていたのか。
柳川は、腹の底からふつふつと湧く闘志を感じた。

老婆は、粗末ながらも十分な量の食料を三人の前に並べた。
粗末な竹造りの家に住む、貧しい老婆の好意だ。
これほどまでの食料を並べて、この後の老婆は困るはずだ。
そういうことを微塵にも感じさせない歓待だ。
柳川は、感激し、心に誓った。
「いつの日か、このお礼をする」
「必ずあなたたちを助ける」

老婆の家で十分に休息し腹をも満たした三人は、老婆に頼んだ。
ボゴールまで行きたい。
老婆は承知し自分の息子を呼び案内役につけてくれた。
若い孫二人が水と食料を持ち同伴してくれた。
二人の孫の動作は、特に機敏であった。

それを見て、柳川は思った。
「若い者は役に立つ」
ジャワ上陸以来、現地人を観察していた。
誰もが覇気のないように見受けた。
オランダ人に骨の髄までしゃぶられたのだろう。
が、こうして近くで見ると、光るものがある。
「若いものは役に立つ」
「恩返しは、若者の教育にしよう」

柳川は、その決意を胸にしまい案内役三人の後を追った。
彼らは、間道、裏道だけを通ってボゴールまで案内してくれた。
そこで、案内役の三人を返した。
目指す先は、バンドンであった。

# by yosaku60 | 2017-04-10 12:56 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その3;後方錯乱の命を受ける)

その那須支隊がジャワ島上陸を果たしたのは、昭和十七年三月一日だ。
上陸地点は、西部ジャワのメラク海岸であった。
柳川が配属になって、十日もしない内だ。
当然に部隊はまだ上陸直後の警戒態勢にあった。

そんな中、隊長から命令が下った。
敵軍の情報収集をなし、敵の後方攪乱をせよ。
柳川ひとりに下せられた命令であった。
敵軍の情報収集なら解る。
敵の後方攪乱をせよ、とは何をするのか。
具体的な指示はされない。

陸軍中野学校出身を理由に方法や手段も含め柳川に一任された命令であった。
敵の後方攪乱とは、敵に戦う意欲をなくさすことだ。

柳川は、それを考えた。
それほど迷うことなく、決意した。

バンドンに潜行するのだ。
メラクからバンドンまでは、三百数十キロある。
そのバンドンには、蘭印軍司令部がある。
そこで何をするかは、胸の奥にしまいこんだ。
その目的を果たすためには、言葉が必要だった。
柳川は、大学で南洋語を勉強している。
簡単なインドネシア語を話せた。
が、目的遂行には十分ではない。

柳川は、隊長に通訳の同行を願い出た。
それが許可された。
二人の通訳、富樫武臣と永田秀夫が同行することになった。
三人は、早速に出発した。

まずはボゴールを目指した。
ボゴールはバンドンまでの中間点で百五十キロ先にある。
柳川は、中野学校で潜入術を学んでいる。
簡単に現地人に変装し得た。
が、通訳二人は、素人である。
どうしても目立ってしまう。
周りの全てが敵であった。
柳川は、単独行の何倍もの神経を使った。
潜行は、難渋を極めた。
バンドンはおろか、ボゴールまでをも辿りつけないように思えた。

三月五日の夜だった。
三人は、食事を摂らず歩きとおしていた。
林道を歩く三人の前方に一軒の竹造りの粗末な家があった。
三人ともほぼ体力の限界であった。
その家で、食事を無心することにした。
襲って奪うのは、通報されて危険だ。
あくまでも無心するのだ。
が、オランダ軍側の家だったら困る。
インドネシア独立を願う人の住まいであってほしい。
三人は藁をも掴む気持ちで、その家に足を入れた。
# by yosaku60 | 2017-04-09 18:48 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その2;出生)

柳川宗成は、大正三年七月六日、徳島市佐那河内に生まれた。
昭和九年、拓殖大学専門部(商科南洋語組)に入学。
同校を卒業した後、同十三年一月に福岡県大刀洗陸軍飛行四連隊に入営する。
昭和十四年十月、陸軍少尉に任官。
昭和十五年一月、陸軍中野学校に入校し、
諜報、謀略、宣伝、防諜戦要員としての教育を受ける。

昭和十六年一月、陸軍中野学校卒業と同時に参謀本部付き将校となる。
昭和十六年十一月、陸軍中尉に任官し、大分県別府市にて結婚。

昭和十七年一月、出征。
ベトナムのカムラン湾に集結。 
昭和十七年二月十八日、ジャワ上陸作戦のため、
第十六軍傘下の仙台第二師団那須支隊に配属される。
# by yosaku60 | 2017-04-08 10:25 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その1; まえがき)

インドネシアの独立戦争に貢献した日本人....
を5人あげろと言えば、私は次の5人をあげます。

1、今村均
2、前田精
3、柳川宗成
4、吉住留五郎
5、市来龍夫

今村均、前田精、吉住留五郎、市来龍夫については、
このブログで、書いてきました。
が、柳川宗成については、まだ書いていません。
で、柳川宗成を書くことにします。

みなさん、「郷土防衛義勇軍」という軍隊、知ってますか。
インドネシア人だけで構成された軍隊です。
インドネシアでは、PETA(ペタ)という略称で呼ばれます。
年配のインドネシア人であれば、誰もが知っているはずです。
ペタなくして、インドネシアの独立戦争はできませんでした。
オランダと戦った勇士は、みなペタ出身者です。
スハルト元大統領もペタの小隊長でした。
ペタの兵士は、独立に熱い思いを持っていました。
その思いを植え付けたのが、柳川宗成です。
「ペタの父」と呼ばれています。

そしてね、このバリ島にもペタはあったのですよ。
ペタは、ジャワ島、マドラ島、バリ島にしかありませんでした。
バリ島には、三つの大団がありました。
ヌガラ、タバナン、クルンクンの三つです。

バリ島における独立戦争は、
インドネシアの中でも、特に激しかったのですよ。
余り知られていませんけど....
スラバヤが激しかったといわれますが、
バリ島は、それ以上だったと思います。

ああ、そうそう、
日本軍がジャワに上陸し、
わずか8日間でオランダ軍を追い出しました。

柳川宗成が、ひとりで、
オランダ軍の司令官の寝所に忍び込むのです。
殺したりしません。
寝ている司令官の枕元に立ち、
降参しろ、さもなくば...
と脅かしてスーと消えるのです。
殺してしまうと、兵士が逆上して、戦争が大きくなります。
驚かすだけで生かしておいた方がいいのです。
震えあがった司令官は、降伏を覚悟しました。
陸軍中野学校出身の柳川宗成だからできた神業です。
と、前書きは、このくらいにして、
明日からの連載をお楽しみください。

# by yosaku60 | 2017-04-07 10:16 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

今日はマニスガルンガンです。

昨日は、ガルンガン、今日は、マニスガルンガン。
外に出て、楽しく遊ぶ日....んで、今朝のビーチ。
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これは、姉弟。
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客を待つ、おじいちゃん、
ピンクのスキー帽子で、やる気十分。
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こんな中でも、
カミさん(白い帽子)は、食べるのに夢中でした。
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# by yosaku60 | 2017-04-06 09:42 | バリ島=慣習・伝統 | Comments(0)

ガルンガンの工藤栄さん

今日はガルンガン...日本でいえば「お盆」。
バリ人は、先祖のお詣りをします。
70年前、インドネシア独立戦争に貢献し、
この地で死んだ残留日本兵が二十六名います。
その中の一人、工藤栄さん。
タンジュンブノアの地で今もバリ人に大事にされています。
これは、今朝の写真。
チャナン(お供物)が、いっぱいありました。
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写真を撮っている間にもお詣りする人が絶えません。
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ありがとうございます。
同じ日本人として感謝いたします。
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# by yosaku60 | 2017-04-05 10:22 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

嬉しいことが続きます

嬉しいことがあるとビーチで夕食をとります。
昨日は、庭師が来て庭の木や草をきれいに刈ってくれました。
自分が働いたわけではありませんが....嬉しいのです。
それに、パソコンのゴミを削除し、リニューアルしました。
この二つ.....
それだけで「やった!」と嬉しくなるのです。
が、本当はちょっとだけ違うんです。
てな理由をつけて、
自分とカミさんに納得させて、
ビーチでビールを飲むのが嬉しいのです。
「やったァー!!!」
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# by yosaku60 | 2017-04-04 07:45 | バリ島=その日のできごと | Comments(0)

71歳になりました

私、71歳になりました。
結構に長く生きてきました。
おかげさまで、まだまだ元気です。
おかげさまというと、そらぞらしいでしょうが、
本当にそう思っております。
全ての方に感謝です。
昨夜は、カミさんと写真のお二人が祝ってくれました。
で、見てください。
赤い矢印。
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これ、ピーナッツです。
実が5個入っています。
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5個入っているのを見つけると、ビールが一本もらえるのです。
上の写真のビールは、そうしていただいたビール.....うれしい!
てな、ここは、レストラン「ムティアラ」....
輝く(たぶん)71歳は、ムティアラから始まりました。

# by yosaku60 | 2017-04-02 07:58 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(4)

日本ならば女子高生

この娘さんたち、女子高生・・・・・・と思うでしょ!
んんにゃ、中学生・・・・・それも中学二年生。
バリっ娘は、日本の娘さんより、ふたつみっつ早熟!
にしても.....みんな髪が長い!
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# by yosaku60 | 2017-03-30 08:54 | バリ島=その日のできごと | Comments(0)

ニュピ明けの朝のビーチ風景

昨日は、ニュピ(静寂の日)でした。
バリ風に言えば、今日が元旦.....
元旦の朝をヌンバグニというそうです。
ヌンバグニ....初めて聞きました。
本当の名称かどうか解りません。
「マニスニュピ」と言えばいいのでしょうかね。
いずれにしても、そんなヌンバグニの朝の7時....
に撮ってきたホヤホヤ湯気の出る写真です。
まずは、絵に描けそうな、バリらしい光景から、
d0083068_1047426.jpg

もう、こんなに人が出ていました。
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家族連れではなく、親類連れです。
親類はいつも一緒(特に女性)....これもバリらしい。
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子供が好きそうな....
いいですね、これぞ、元旦の朝。
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アンジェリーにも新年の挨拶を...
木漏れ陽が元旦の朝らしいでしょ!
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今朝のラクダ公園はお休み.....
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飼育員がまだ寝ているのか、誰もいない。
淋しいのか、私にすり寄ってくる。
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# by yosaku60 | 2017-03-29 11:00 | バリ島=社会・生活 | Comments(0)

バリ島の蝸牛は不可解なり

バリ島のカタツムリ。
歩いた跡が残っっている。
その足跡?だが、
5センチごとに濡れている。
5センチごとにオシッコするのだろうか。
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# by yosaku60 | 2017-03-28 10:23 | バリ島=その日のできごと | Comments(0)

ドミニカからの密航者(その22; 追加解説)

「ドミニカからの密航者」をお読みくださってありがとうございます。
言葉足らずで、説明不足だったことを捕捉します。

ドミニカからの密航者(その19)です。

(15) 逃亡防止策 再確認
.....に、
足かせが余りにも苛酷過ぎてやめるとあります。
何故に過酷と思ったのか、書き忘れました。
足かせの鉄のバンドと足の間には、クッションとして布を押し込んでいました。
押し込んでいても、重みがあるので、足かせが動くのでしょう。
布と足の皮膚がいつも擦れるのです。
そうすると、足の皮(黒い皮膚)が剥けて、薄皮の下の白い皮膚というか、
肉がむき出しになるのです。
多分、痛かったと思います(二人は痛いとはいいませんでした)。
その剥き出た皮膚の下の肉を見て、「過酷」と思ったのです。

同じく、
ドミニカからの密航者(その19)です。

(解説)の人夫がドアーの前にいる;
.....に、
煙草をくれたのは、リオン曰く、きれいな女性という。
と書きました。
何故に船の中に女性がいるのか、
おかしいと思う方がいると思います。
説明します。
いわゆる売春婦です。
ただ、前にも書きましたが、
貧しい国の売春婦には、悪い人はいません。
頑張って生きている人が多いのです。
船長によっては、売春婦の乗船を禁止します。
ですが、私は、船内(船員たち)にルールを作って、
そのルール内で自由にしていました。
ルールとは、乗組員に浮気を禁止したのです。
一人の彼女を選んだら、その港にいる間は、
その娘さんを大事にするというルールです。
浮気した場合の罰金額も決めていました。
乗組員は、自分たちの食事を削り、
売春婦たちに食事を与え、優遇していました。
売春婦のグループと港のマフィアとは、底辺でつながっています。
彼女たちが、「あの船は良い船だ」というと、マフィアも忖度します。
反対に、「あの船は冷たい、私たちを馬鹿にする」との噂がたつと、
マフィアから狙われやすくなるのです。
売春婦につらくあたる船で、その様な目にあった船を実際に見ています。
そうした場合、船の船長も会社側も理由は解らないのです。
でも、彼女たちから「......だから」と、理由を聞かされます。
変な話を書きましたが、これが実態です。
# by yosaku60 | 2017-03-27 09:42 | 日本=船員・船長時代 | Comments(0)

ドミニカからの密航者(その21; 最終回)

11月5日。
商船三井担当者殿の自宅に電話。
続いてサントドミンゴ代理店と電話する。
サントドミンゴの電話でリオンのレジスターが整い、
2日前東京、サントス、サンパウロに送られていることを知る。
確認のためサンパウロに電話する。
昼食中でいない。
サントスに電話する。
確かに受け取ってること及びサントスから送還すべくワーク中であることを知る。
送還準備として密航者に新品の服と靴を買い求めるよう依頼される。
後は優秀なサントス代理店に任そう。
.....(経費として代理店からの電話代発生)
......(密航者の服靴購入代、買い物のための交通費経費として発生)

(17)  送還

11月10日 サントス入港。
FEDERAL POLICE に密航2名の身柄を渡す。
......(経費として送還費用カウンテイング開始


........

(解説)

当時は、国際電話をかける携帯電話などなかったことを
知らないと、こうした行為が理解できないと思う。
いずれにしても、代理店の事務所に電話をかけるために出向いた。
出向く際は、まだ、レジスターが出来、送還手続きが開始されて
いるとは、知らなかった。
そのため、市内にある代理店オフイスには、リオンを連れて行った。
リオンにリオンの恋人に電話させ、父親の説得に当たらすためだ。
ただ、リオンはパスポートもなく上陸許可証もない。
港の外に出ることができない。
また、逃げられても困る。
それで、私は、船長の服装を着て、リオンの手と私の手をロープで
つないで外に出た。
船長の肩章は、軍隊で言えば「大尉」に相当する。
権威があるので、ポリスも捕まえないだろうと思ったからだ。
d0083068_91716.jpg

代理店に行って、電話をかけたら、
上記のようにレジスターができ、送還手続きが始まっていることを知る。
リオンを連れて来る必要がなかったのだ。
それはそうとして、レジスターができたことは嬉しかった。
リオンが恋人と話したいと言うので、許可した。
恋人の声を聞いたリオンは、「帰りたい」と言いだした。
無理もない。
代理店のオフイスを出て、商店街に行き、リオンとペドロの服と靴を買った。
私もリオンも上機嫌であった。
タクシーで港に戻った。
ゲートを入ったところをポリスに捕まった。
上陸証明証を見せろと言う。
「ない」と言うと、二人繋がったまま、引っ張っていかれた。
牢屋に入れられ、鍵までかけられた。
私は、慌てなかった。
このポリスは多分新人だ。
外国船の船長というのは偉い、ということを知らない。
私はポリスに大声で怒鳴った。
「ポリスの責任者を連れて来い」
「連れて来たら、お前の無礼さを訴える」
「お前はポリスを辞めることになる」
その恫喝に恐れて、ポリスは牢屋の鍵を開けてくれた。
但し、このことは恥ずかしい(捕まったので)ことなので、
会社の報告書には、書かなかった。


サントスでの送還手続きは、報告書に書いていない。
なぜなら、サントスの代理店が報告するであろうから、
私が特段に報告する必要がないと思ったからだ。


以上で、サントドミンゴからの密航者を終わります。
報告書を転記しながら、若かったなあ、と改めて思いだしました。
# by yosaku60 | 2017-03-26 09:18 | 日本=船員・船長時代 | Comments(4)

ドミニカからの密航者(その20; フォルタレッサ港 停泊)

(16) フォルタレツサ港 停泊

11月4日 07時25分 フォルタレッサ入港。
この日も日曜日。
今回の密航者の件に関しては、密航者発見、マナウス港も
フォルタレッサ港と全て日曜日。
連絡類取りにくい。
しかし、幸い出港は11月5日 20時00分の予定。
明朝各所に電話をかけられる。
弟のリオンのレジスター作れず、
送還手続きに支障をきたしているからである。
ペドロはそうでもないが、リオンは父にも嫌われているようである。
リオンが帰って来ないほうが良いと思っているのかも知れない。
そうすると父は本当のことを言わないだろう。
なにしろペドロとリオンは生れた所が随分離れているらしい。
リオンにこのことを正直に話す
ただし父が嫌っているかもしれないことは省く。
でもリオンは気付いた模様である。
先に恋人に電話し、彼女から父を説得させる方法を提案して来る。
代理店に明朝 密航者と共に会社に電話をかけに行くことの手配を依頼する。


.........

(解説)

レジスター;

本人であるとの証明書、
これが’ないと送還手続きの書類を作れない。

正直に話す;

ペドロのレジスターは作れたが、あんたのは作れない。
ということを話した。
# by yosaku60 | 2017-03-25 07:42 | 日本=船員・船長時代 | Comments(0)

ドミニカからの密航者(その19; ビラデコンデ港停泊)

(14) ビラデコンデ港 停泊

マナウス出港以降、
密航者にご飯を与えるのも風呂に入れるのも煙草を吸わせるのも、
全て私自身が携わることとした。
コ三ユ二ケーションを良くするためと、
これ以上失敗できないからである。 
二人とも従順になって来ており、
密航することよりもサントドミンゴに帰りたくなってきている。
一時期より安心してみておれる。

11月2日 08時25分 ビラデコンデ入港。
町も何もない。
代理店員もスピードボートに乗ってベレンから1時間かけて来るところ。
明朝7時の出港予定である。
あしかせつけ、それにツイストロックをぶらさげ、
ドアーには大きな錠前をつけ、
ダンパーは鉄板に変更していたので安心していた。

夜中の12時。  
甲板手、密航者のデッキからコトコト音がした様に思え、確かめに行く。
人夫がドアーの前にいる
近づくと逃げる。 
アッパーデッキに通ずるアイアンドアー開きぱなしであった。
鍵の蝶番をこじ開けようとした跡がある。
覗き穴から密航者を見る。
どうも様子が不審。
通報を受けた二航士ドアー前に見張りを立てさせる。

船長 2時に様子を見に降りて来て、この事実を知る。
直ぐに密航者を点検する。
部屋に入って電気を点けてみると
ツイストロックを繋いでいたチエーンが切られている。
部屋に煙草がある。
ライターがある。
危ないところであった。

ブラジルの下層階級は自分自身悪いことをしながら、
貧しい者を可哀想だと思ったりするところがある。
直ぐに他人に同情する
同病相憐れむの心境なのであろう。
生活苦から来た防衛本能が醸成するこのような性格、
ファミリー思想の豊かな国に多い。

本船フイリピンクルーもそうである。
自分も十分でないのに可哀想な人に涙を流してものを与える。
核家族化した日本人には、理解できない”思いやり精神”である。
いずれにしても外部から密航を助ける輩がいることに驚く。
今後各港共注意すべきである。
乗組員1名停泊中常時ワッチさせることとする。

(15) 逃亡防止策 再確認

ビラデコンデの経験から,
外部からも開けれないような錠前をパイプとバーで作りドアーにつけた。
同時に窓のワイヤークリップを溶接する。
(当初チエーンであったが一部切られたためワイヤーに変えた)
ダンパーの代わりに入れた鉄板を止めてあるアイボルトも溶接する。
足かせのアイアンベルトはそのまま、
但しツイストロックの重りは余りにも過酷過ぎるとしてやめる。
これら対策を施しながら考える。
いつも逃亡企てている者がいる場合。
その者の人権を守りながら、長期間拘留するような場所は、
船内では作りえないのではなかろうか。
鉄と鉄をこすればどんな道具でもできる。
道具があれば何とでもなる。
鉄のない部屋で頑丈な所なんて船にない。
時間さえかければなんだってできる。
だから船でできる手段は[逃亡す気をなくすること]の方が重要なのであろう。


............

(解説)


私自身が携わる;

航海中の3度の食事は、リオンとペドロと一緒に食べた。
食べる場所は、部屋ではなく、甲板上とした。
船橋で当直する乗組員は、我々3人が食べるのを監視していた。
青空の下、みんなが見ている中で、
3人が車座になって食事したということだ。

ツイストロック;

重りに使用した鉄の塊りの名前


人夫がドアーの前にいる;

ドアーの前にいたのは男だった。
が、煙草をくれたのは、リオン曰く、きれいな女性という。
女性は「可哀想!可哀想!」と涙を流したらしい。
何人か共同して、密航者を逃がそうとしたようだ。

他人に同情する;

極端に言えば、泥棒にまで同情する。
例えば、リオデジャネイロの貧民街は貧しくて危険。
事情知らずに近寄るのは危険とされる。
だが、人々の優しさが溢れる処でもある。
私がブラジルに住みたいと思った原点(多種多様)である。
海外移住をブラジルにしたかったが、
カミさんに反対され、結局はバリ島に来てしまった(笑)。

全体説明;

この時の二人、自分からすすんで逃げるのではなく、
逃がそうとしてくれる外部侵入者が居たので、
その誘いに呼応して行動を起こしたように思えた。
二人を責める気にはなれなかった。
なんと甘いのだろうと、自分を責めた。
# by yosaku60 | 2017-03-24 08:06 | 日本=船員・船長時代 | Comments(0)

ドミニカからの密航者(その18; マナウス出港)

(13)  足かせを。 マナウス出港。

朝、代理店が出勤する時間を狙ってすぐに密航者を捕まえた事実を知らせる。
出港手配を出来るだけ早く依頼する。
パイロットその他どれだけ早くても10時になるという。
....DIMMERRAGE 計算 17時間
9時 ポリスオフィス仕事開始。
9時30分密航者二名本船に来る。
朝早くから準備し作っていた足かせをポリスの見ている前で彼らにつけ溶接する。
もう泳がれる心配はない。
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写真は、重りの紐を持っている、左;ペドロ、右;リオン。

..........


(解説)

dimmerrage;

スケジュールの遅延による損金を言う。
船は経済活動をしており、時間が遅れるとそれだけ損失する。
密航者の処理のため、17時間スケジュールが狂った。
それすべて、船長責任である。

あしかせ;

早朝から、機関部に指示し、作らせておいた。
鉄の輪にチェーンをつけて、
そのチェーンの先に鉄の重りをつけて、
その重りに紐をつけた構造である。
その鉄の輪は、半分に切っておいて、
足にはめたあと、両端を溶接する。
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歩くときは、紐で重りを吊って歩く。
鉄の輪と足の皮膚の触れる処は痛いので、
間に布を押し込んでクッションにした。
# by yosaku60 | 2017-03-23 09:49 | 日本=船員・船長時代 | Comments(0)

ドミニカからの密航者(その17; 逃亡Bの8)

12-5  リオン逃亡経路

左舷側より川に飛び込んだ。
少し泳ぎ、息を整え一気に潜る。
桟橋の下まで約25メートル。
前に隠れたことがあるので構造は分かっている。
入れば見つからない。
それほど疲れず船の船首に近い桟橋下に行き着く。
そのまますぐに上に這い上がり、桟橋デッキのビーム裏の真っ黒な所に入る。
身を屈め捜索員が近くを通っても動かず。
6時間待つ。
人の声が上で聞こえたり捜索員も通るので退屈しない。
19時00分陽も沈み辺りがすっかり暗くなる。行動を開始する。
仰向けになり鼻と口のみ水面に出し、
足は動かさず手のみゆっくり動かし、波を立てぬようゆっくり泳ぐ。
桟橋の上から見張り員がこちらを見ている。
見ていても見えていない筈だ。
川の色は自分の肌と同じ色だ。
おまけに真っ暗闇だ。
船の右舷側から左舷側と泳ぐ。
さらに泳いで沖のブイに着く。
少し休む。
上に登ろうとするが足を掛ける場所がなく諦める。
付近をボートが通る。
前はボートの乗組員に見つかった。
いやな予感がする。
すぐに川に身を沈める。
夜だというのに案外小舟が通る。
その度に潜る。
アマゾン河には人を食べるピラニアがいることを知っていたが、
この時はそれを忘れて泳ぐ。
桟橋付近に人影がなくなるのを待つ。
d0083068_6523946.jpg

その後、彼は300m~500mの行動範囲を行ったり来たり5時間30分泳ぎ続ける。
桟橋の近くは乗組員が見張っているので近づけなかった。
乗組員がいなくなるのを待つもその傾向がなかった。

川をわたりきり対岸に逃げれば良かったのにと聞くと。
「灯りがついてなかったから」と言う。
少し泳げば上陸して逃げおおせる暗い場所がいくらでもあったのに、
と現場を知るものには疑問が残る。
結局 桟橋の近くの「薄暗い所」を選んで上陸し見つけられた訳であるが、
まだ16才一人で5時間も暗夜に泳いだ彼の心細さの心理状態を垣間見る。

疲れて泳ぎ着いた岸辺にポリスがいて捕まった。
10月29日 00時40分であった。
捕捉したリオンをその夜は港内のポリスの詰め所に預かってもらう。
ポリス詰め所での彼は結構おとなしい。
すぐに食事とジュースを与えられたからである。
厳しさと優しさを交互に出しいれするポリスに、その道のプロを感じる。
2人共ポリスに預けた。
安心だ。 
後は今朝の出港手配を出来るだけ早くすることのみである。
その時の時間、02時30分。
# by yosaku60 | 2017-03-22 06:54 | 日本=船員・船長時代 | Comments(0)

可哀想に!年寄りラクダ

無理して食べさせているのは獣医さん。
腹の後ろがペコっと凹んでいるのが解るだろうか。
食べ物や水が腹に入ると、ここが膨らむ。
食べても、ここに入っていかない。
それよりも食べなくなった....老衰かも、可哀想だ。
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# by yosaku60 | 2017-03-20 09:51 | バリ島=その日のできごと | Comments(0)

ドミニカからの密航者(その16 逃亡Bの7)

12-4   リオン捕捉

日が変わり、10月29日 00時45分、
乗組員Aグループが桟橋の各所定位置で動くものを見張っていたとき、
だれかが歓声を挙げる。
桟橋と陸上にかけられた橋の上を5人のポリスに囲まれて、
服を濡らしたリオンが連行されて来る。 

前日の夕方はポリスなんら動かず。
深夜になって乗組員がまだ捜索を続けているので、
その熱心さにほだされて動き出す。
たまたま前日の捜査で仲よくなっていたポリスがいた。
そのことも幸いし協力的であった。

00時頃より2名のポリス桟橋下に入り、
3~4名のポリス、ここはと思われる上陸地点で待ち構える作戦をとった。

桟橋近くは乗り組員10名の目がみている。
こういう監視下の中、ポリスが張っている岸辺に、
泳ぎ疲れたリオンが上がって来て捕まったのである。
.........(経費としてポリスへの感謝品贈答費用発生)

.........

(解説)

リオンを捕まえた時、ホッとした。
同時に、もう逃がさない....と自分に誓った。
# by yosaku60 | 2017-03-20 09:32 | 日本=船員・船長時代 | Comments(0)

ドミニカからの密航者(その15; 逃亡Bの6)

12-3  ペドロ再度拘置所へ

話溯る。
14時00分いったん拘置所に入れられていたペドロ本船にやって来る。
事務室前の小トイレの中に入れる。
水があり、トイレができ、事務室に近くいつも見張れるからあである。
ペドロ暴れる。
ポリス手錠をすることをアドバイスする。
ブラジルでは20歳未満の者には手錠をかけれない。
が彼の17歳は嘘、25歳であった。
まして本船はパナマである。
やるのは日本人、やられるのはドミニカン。
緊急の拘束安全面重視で許される筈。
ポリスより手錠100USDで買う。.........(経費手錠購入代発生)

18時00分。
ペドロ暴れ出し手錠いとも簡単に切る
このとき手錠が食い込み手首を傷つける。
再度ドアーのダンパーを壊そうと試みる。  
船長 一航士 ドアーの前で見張ることにする。
中で時々暴れる。
途中で代理店が来る。
この様子を見て再度ポリスに預けたらどうかとアドバイスしてくれる。
リオンの捜索に加わりたいので、できるものならそう願いたいと返答する。
このポリスが来るまで3時間あった。
その間ペドロと最初は互いに文句の言い合いをしていたが、
ある時点、ペドロが自分のこの先がどうなるか尋ね、
それに優しく返答してやった時点からペドロの態度、急に従順になる。

父がどれだけ心配しているか話すと涙ぐむようである。
お金があることのみが幸せでないこと、
世界にはまだ貧しい国があること、
の話にも心から納得するように頷く。

この経験で密航者にも、ある程度情をもって見てやる必要のあること。
わたし自身勉強する。
吉村昭の「破獄」に書かれているとおりである。

以後密航者には決められたルールの中での自由を許した。
22時30分ポリスの銃下の元、ペドロ拘置所に向かう。
脅えるペドロに明日迎えに行くから心配するなと声かける。
.........(経費としてポリス手配、拘置所拘留費用発生)


........

手錠いとも簡単に切る;

どんな風にして、切ったのかとやらせてみると、
両手首を捩じって(交差させて)それを戻すだけ。
痛いとか、手首がちぎれる、とかの感覚を通りこせば、
こんなに力がでるのかと、びっくり。
ただ、ペドロの手首の皮が剥けて、肉がはみでていた。
写真は、私(髭も真っ黒、まだ若い)。
d0083068_7505312.jpg

# by yosaku60 | 2017-03-19 07:51 | 日本=船員・船長時代 | Comments(1)


常時ほろ酔い候
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