あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



<   2017年 04月 ( 27 )   > この月の画像一覧


永くなりました、バリ島での隠遁生活

昨日は、おめでたい日でした。
結婚式があり、ポトンギギがあり、オトナンが各所でありました。
ポトンギギ;野獣性を消し、本物の人間になる儀式。
      日本でいえば、成人式。
オトナン; 生まれてから6ヶ月目に行う通過儀礼。
      この日を境に、輪廻転生で生まれ変わりつつある物体が
      この世の「人」になる。
日本では、結婚式が重要な式であるが、ここバリ島では、異なる。
大事な儀式を大事なものから順序付けると....
1、葬式 2、ポトンギギ、3、オトナン...
               で、このいくつかあとに結婚式。
ただ、シンガラジャ地区では、生まれて6ヶ月目のオトナンよりも、
3ヶ月目の方を大事にします。
まあ、ということで、いろいろあって、一概に言えません。
バリ島は、儀式の格付けも場所によって、実にいろいろです。

さて、余談はこのくらいにして、今日の本題....
昨日は、知り合いから、ポトンギギの儀式に呼ばれました。

井口君、9年前のこと覚えていますか。
我々のために踊ってくれた、小学生低学年だった、フェヴィちゃん(左)。
d0083068_10100901.jpg
今、彼女は高校2年生になりました。
身長174cm、見上げてしまいます。
d0083068_10104454.jpg
同じく、兄のエサ君。
彼も小学生でした(左の手を上げている子)。
d0083068_10110930.jpg
今は、大学生です。
d0083068_10113684.jpg
ポトンギギのお祝いは、この二人です。
この日のため、サンガ(家寺)も新しく建て直していました。
d0083068_10232372.jpg
収入の5割が儀式のために使われる、バリ島.....
大変でしょうけど、みんながそれを受けいれております。
部外者から見ると、そのことが驚きです。

by yosaku60 | 2017-04-28 10:13 | バリ島=人生のかかわり方 | Comments(0)

柳川宗成物語(その19; 最終回)

戦後、ペタの卒業生が柳川に尽くした話に移る。
戦後三十余年を経て、スハルト時代になった。
インドネシア国軍のトップの多くがペタ出身だった。
そうした元生徒が、柳川をインドネシアに呼んだ。

柳川への感謝の意味だ。
老後をインドネシアで送ることを提案したのだ。

昭和三十九年、柳川はその誘いを受けた。
家族と共にインドネシアに住み始めた。
その後、インドネシア国籍も取得した。
インドネシアに住んだ柳川は教え子たちに大事にされた。

どれほど大事にされたかの実話を書きたい。

私が直接に聞いたエピソードである。
前にも書いたように、柳川は、拓殖大学出身である。
バリ島残留日本兵の私の調査に助言してくれる人がいる。
東京在住の稲川義郎さんだ。

稲川さんは現在九十歳、戦中は軍属としてバリ島に住んでおられた。
戦後、商社に就職しインドネシア各地を歩いた。
その稲川義郎さんも拓殖大学ご出身だ。
大学の後輩として稲川さんは、柳川宗成とは何度も会っている。
稲川さんから直接聞かされた、その時の体験談である。

ある日、稲川さんは柳川さんの家に遊びに行った。
朝食を終えた頃に柳川邸を訪れた。
朝の訪問は、初めてであった。

ヤッ、稲川君、
柳川さんは、いつものように快活に迎えてくれた。
どんな話をしたか覚えていない、しばらく雑談が続いた。
と、家の前に黒塗りの車が止まり中から白衣の数人が降りて来た。
聞くと、医師団一行で、毎朝来るとのこと。
柳川さんが健康で過ごせているかの健診だとのこと。
稲川さんは、驚いた。
インドネシアは、なんと柳川さんを大事にしていることかと。

こんな話もしてくれた。
インドネシアは、柳川宗成にインドネシア名を名乗ってくれるように懇願してきた。
将来とも柳川さんの恩に報いるためインドネシアにお墓を建てたかったからだ。
日本名のままでは、宗教上お墓が造れないそうな。
が、柳川宗成は、それを拒んだ。
親からもらった名前をそんなに簡単に変えれるか、と最後まで拒んだ。
と、稲川さんは、男としての生き方を通した柳川宗成を語ってくれた。

日本が敗戦した後にインドネシア独立戦争が起こった。
敗戦しても日本に帰らず、現地人と共に独立戦争を戦った日本兵が一千余名いた。
いわゆる残留日本兵だ。

戦後、残留日本兵が集まって「福祉友の会」を作った。
ジャカルタにいた柳川は、「福祉友の会」を陰ながら応援、援助した。
が、「福祉友の会」には入会しなかった。

柳川は、インドネシア兵として独立戦争を戦いたかった。
が、連合軍に収監され、戦いに参加できなかった。
そのことを生涯悔やんだ。
インドネシアのために戦えなかったことを恥とした。
そのため「福祉友の会」の会員たる資格がないとして入会しなかった。
柳川宗成....
昭和六十年十月七日、ジャカルタの自宅で逝去、享年七十一歳。
死の直前まで豪胆に生きた。

by yosaku60 | 2017-04-27 08:01 | インドネシア独立戦争 | Comments(2)

柳川宗成物語(その18: 日本人の島国根性)

ペタでは、七百人ほどの日本人指導官がいて、インドネシア人青年を指導した。
両者の間には、当時の占領者と被占領者の関係を越えた深い人間関係が築かれていた。
それなのに、そういう風潮が何故に日本軍全体に広まらなかったのか。

私は、義勇軍指導部の山崎大尉の次の言葉に共感する。
山崎大尉は第十六軍から出向という形で義勇軍教育隊に関わっていた。
柳川の上官であった。
上官であったが、柳川を信頼し全てを任せる、という人格者であった。

戦後、その彼が言った。

我々は、英軍兵士のインドネシア人将校に対する態度をまざまざと見せつけられた。
英軍兵士のインド人将校に対する敬礼の厳粛さよ。
この時こそ《我敗れたり》と、しみじみ感じさせれずにおられなかった。

どういうことかというと、戦時中、日本軍にも内務規定というのがあった。
その規定には、日本軍の下士官・兵は、義勇軍上級幹部に敬礼すべし、とあった。
ところが日本軍の誰もがそれを守らなかった。
山崎は、日本軍の《さもしさ》を嘆いたのだ。
山崎は、その日本人の意識を掘り下げ、さらに書いている。

明治開国以来、列強に俉してゆくために当時の政府がとった教育政策、
すなわちアジア諸民族を低くみることによって、
相対的に自民族が優れたものであると認識させる.......
誤った優越感を持たせることにある。 
日本人には、多民族の言語、風俗、習慣を異なるものとし、自国の方が良いとする。
極端にいえば、相手を認めたがらない、島国根性がある。

私は、今バリ島に住んでいる。
住んでもう十年になる。
バリ島には三千人の日本人が定住している。
今も山崎大尉の言う日本人の島国根性が周囲に散見する。
いや、私自身が時にそうなる。
思い当たることが多い。
なんと恥ずかしいことか。
自分への警鐘として聞いておきたい。

by yosaku60 | 2017-04-26 08:39 | インドネシア独立戦争 | Comments(3)

柳川宗成物語(その17; スハルト語る)

自らもペタの中団長であった経験を持つ大統領は、こう答えた。

インドネシアが独立宣言をしたのは一九四五年八月十七日である。
一方、日本軍によってペタの解散が行われたのは、その後の八月一九日である。
独立にあたり日本軍から譲り受けた軍事力は何一つ存在しない。
独立戦争に参加したペタの将兵たちは、
インドネシア共和国の人民治安本部の招集に参加したのであって義勇軍として参加したわけではない。
当時の日本軍はファシストの軍隊であった。
インドネシアがその創造物であるかのごとき見解は認められないし、断じてそのようなことはない。
インドネシアは日本に独立を与えられたのではない。
しかしながら、精神鍛錬の基礎、これこそが実際は、我々の闘争の最高の資本となった。
我々に国家と民族のために全てを犠牲にする覚悟を目覚めさせた。
そこから人民治安軍が組織され、遂にはインドネシア国軍となった。
我々がペタから受け継がねばならないのは、その精神と気迫である。

このスハルトの談話を要約するとこうなる。

ペタは日本軍が作った組織だ。
独立戦争に貢献したのは、ペタではない。
人民治安本部だ。
人民治安本部にペタの卒業生が多かっただけだ。
ペタの卒業生は、鍛錬から得た戦う強い精神力を持っていた。
その気迫が、独立に貢献した。
と、語っている。

要するに、語りの最後でペタの貢献を認めているのだ。
スハルトの日本軍政感は、必ずしも日本や日本人に好意的ではなかった。

日本軍のインドネシア占領はアジアの解放ではなく日本自身のためだった。
と、明言している。

が、ペタの日本人指導官につては好意的に見ている。
スハルトは、「私の履歴書」という自伝を残している。
その中で、次を書いている。

日本軍のインドネシア占領は、日本自身のためだった。
我々がそんな日本軍に協力したのは、独立のためだった。
ペタの日本人指導官は、それを解って、我々を指導してくれた。
ペタの訓練は想像を絶していた。
朝の五時半から夜遅くまで軍事教練、理論、精神教育が続き、
仲間の一人がたるんでいると全員が夜中まで正座させられた。
相撲もやった。
五回勝つまでやめられず、きゃしゃな私は辛い思いをした。
《駆けろ、駆けろ》の朝の走行訓練での指導官の掛け声は今も耳に残っている。
私が当時を語る時の用語は、今も日本語である。
私の指導教官だった土屋競大尉も上官の柳川宗成も厳しい軍人精神の持ち主だったが、
彼らは、独立に向ける我々の気持ちを汲んでくれていた。

by yosaku60 | 2017-04-25 07:24 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その16; サンペ・マティ)

ペタ解散直後一か月ほどして起こったスラバヤ戦争についても紹介したい。
ペタが解散しているということは、勿論、日本の敗戦後の話だ。
これがインドネシア独立戦争の奔りにもなった。
ペタが中心のインドネシア軍に対し連合軍側は英国軍であった。
一九四五年九月下旬、英国軍はスラバヤに上陸してきた。
旧宗主国であった同盟国のオランダから聞かされていた。

インドネシア人は極めて従順な種族である。
日本軍が降伏してしまった現在、我々が上陸すれば、彼らはただちに元どおり従順になる。

しかし、インドネシア軍はもはや従順ではなかった。
日本軍によって訓練されていたのだ。
インドネシアの民衆軍(ペタ)に強襲され、たちまち一個師団が全滅してしまった。
英国軍がかくも簡単に負けたのは、ペタの戦う気持ちが強かったからである。

が、他にも原因があった。
英国軍は自国の植民地のインドから兵隊を連れて来ていた。
このインド兵が、インドネシア兵を見て驚いたのだ。
おなじアジア人だ。
なのにインドネシア兵は強い。
それに独立に一生懸命だ。
インドネシアが羨ましい。
我々もインドに帰って自国の独立のために戦いたい。
インド兵は、真剣にインドネシア兵と戦う気が失せてしまった。
鉄砲を空に向けて撃ったとの話も残っている。
驚いたのが英国兵だ。
インド兵はまともに動いてくれない。
考えてみれば、我々はオランダが来るまでのつなぎ役だ。
それなのに、旅団長のマラビー准将までも射殺された。
死傷者もすでに千三百七十七名出ている。

スラバヤ戦争に嫌気がさし始めた。
結局、英軍はスラバヤの市街地を占領するのに百日間も費やした。
それも、一応形だけ整えた占領だった。
形を整えると、英軍はすぐに軍事制圧を断念し和平交渉に転じた。
で、一九四六年、軍隊を撤退させた。

撤退の起因するところ、やはりペタの存在だった。
ペタがいたからこその勝利であった。
青年道場の合言葉はペタの合言葉にも引き継がれていた。
「死ぬまでやる(サンペ・マティ)」
それがあったからこその勝利であった。

以後、ペタは、インドネシア独立戦争にどっぷり入ってゆく。
そのインドネシア側軍隊としての中心的存在がペタであった。

が、ペタであったが、ペタではなかった。
なぜなら、日本敗戦とほぼ同時にペタは解散していたからだ。

解散し存在しないペタが独立戦争を戦えるはずがない。
それを発言したのが、第二代大統領のスハルトだ。
一九八七年、元ペタの将校が集まって、スハルト大統領と会談した。

元ペタの将校たちは、大統領に要望した。

ペタこそが、かって独立戦争の中軸となって戦った。
その後のインドネシア国軍の母体を築いたのもペタである。
このことを認めて欲しい。

と、大統領に迫ったのだ。

by yosaku60 | 2017-04-24 09:36 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

シダカリヤ地区のムラステー

今朝の浜、すごい人だかり...
シダカリヤ地区のムラスティーという。
ムラスティーとは.....
ニュピの前に浜に繰り出してするお祈り、
と思っていたが、そうとも限らないとのこと。
そういえば、セセタン通りに大きな寺がある。
その寺に関係するムラスティーではなかろうか。
ガルンガン、クニンガンの大きな行事が終わったばかりのバリ。
今朝もこんな大きなお祈り....
バリ人は、大変だ!
d0083068_10045797.jpg
生贄....羊一匹、鶏2羽、アヒル1羽

d0083068_10061651.jpg
行列が来た。
d0083068_10065313.jpg
d0083068_10074680.jpg
d0083068_10090966.jpg
d0083068_10093872.jpg
d0083068_10100568.jpg
d0083068_10102826.jpg

by yosaku60 | 2017-04-23 10:10 | バリ島=慣習・伝統 | Comments(0)

柳川宗成物語(その15; ペタがあったからこそ独立がなった)

約五百名の大団の中に七名ほどの日本人指導者を置いたが、それは脇役であった。
軍の幹部も生徒も全てインドネシア人による構成だ。
但し、幹部になるために最初の教育だけは、日本軍が担当した。

「ジャワ郷土防衛義勇軍幹部錬成隊」である。
地元で義勇軍を育てるための教官を育てる機関だ。
ペタ促進のために、背中を押してやる役だ。

昭和十八年十月のこの錬成隊には四つの中隊があった。
その中で最も重要な中隊は、
ジャカルタ州、バンテン州、ブスキ州、バニュマス州を管轄する第三中隊であった。
第三中隊の生徒は小団長要員二百名であった。

柳川は、その中隊の隊長を勤めながら錬成隊全体に目を配った。
が、中隊を受け持ちながら全体を見るのは少し無理があった。
柳川は「錬成隊」を「教育隊」と改名し、若干の組織替えをした。
そして、その「教育隊」の隊長の任についた。

正式な役職名は、ジャワ防衛義勇軍幹部教育隊長である。
教育隊で学んだ幹部が次々と地元に帰り、ペタを広げていった。
ペタの開設から解散までの期間は約二年間であった。

その二年間の内にペタの軍勢は、六十六大団、三万六千人に膨れた。
柳川が目論んだとおりであった。

そんなペタも解散の日が来た。
一九四五年八月一五日、日本軍が敗戦した。
その二日後の八月一七日、スカルノらによるインドネシア独立宣言があった。
さらに、その二日後、ペタは解散した。

ペタが解散した後に、インドネシア独立戦争が始まった。
独立戦争には、ペタが大きく貢献した。
その証言は、今も多くが語り継がれている。

そのうちのいくつかを紹介したい。

まずは、柳川の教え子、後のジャティクス陸軍中将の弁である。
「もし、我々(ペタ)がいなかったら独立宣言もただ一枚の紙だった」
すごい自信である。
五年を超える困難な独立戦争を戦ってきた自負があったのだろう。

by yosaku60 | 2017-04-23 07:56 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その14; ペタの創成)

木登りだけではない。
教育全般について生徒の母親から感謝の手紙が届いた。

息子は以前は全く弟たちの世話をしませんでした。
それが、先日帰って来た時は、良く世話するようになっていました。 
どんな教育をされたか判りませんが、丈夫になり、
見違えるような青年になり本当にありがとうございます。

ということで、柳川の「青年道場」は、その成果著しいものがあった。
昭和十八年六月、第一期生五十名の教育を完了した。

柳川は書いている。

タンゲランで、第一期生と涙の別れをしました。
また逢えると思っていても心血を注いだ生徒たちとの別れは本当に辛かったものです。
生徒たちには、預金していたお金を小遣いとして持たせました。
生徒たちには半年ぶりの帰省でした。
但し、第二期生の新規募集も含めての帰省でした。

というこで、応募を終え、翌月には、もう第二期生の教育を開始した。
そうした教育を始めて二か月ほどした頃であった。
日本側とインドネシア側の双方から同時にある要望がなされた。
インドネシアの民族軍が必要である、との要望だ。

但し、双方の思惑は、異なっていた。
日本側は、不人気になりつつある「兵補」に代わるものを求めた。
インドネシア側は、日本抜きの自立した「民族軍」を求めた。
目的は違っていたが、作りたいものは同じであった。

柳川は、それを聞きつけて動いた。
柳川が思い描いたのは、「兵補」の延長ではない。
「インドネシア民族隊」の創立だ。

胸の中には、かねてからの構想があった。
青年道場を開設して以来、腹案として持っていたのだ。
で、立案は簡単だった。

団、分団と分けた。
一個大団を五百名とし、一個大団の中に四個中隊、一個中隊に三個小団とした。

第一期生は、「青年道場」から横滑りさせ骨格を作れば良い。
そんな柳川の案が通った。

多分に、原田熊吉司令官の後押しがあったのだろう。
昭和十八年十月二十六日、インドネシア民族軍ができた。
名称は、柳川の案どおりに「郷土防衛義勇軍(ペタ)」と名付けた。

柳川が苦心したのは、日本名を使わぬことであった。
「兵補」は、日本語である。
インドネシア人にも「ヘイホ」と呼ばせた。
これではいけない。
インドネシア人をして、日本に加担するためとなってしまう。
要するに、押しつけになってしまう。
郷土防衛義勇軍は、そうであってはならない。
郷土防衛義勇軍は、インドネシア軍である。
インドネシアの呼び方をすべきだ。
柳川は、頭文字をとり「PETA(ペタ)」と呼ばせた。

by yosaku60 | 2017-04-22 07:39 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その13; 木登り訓練)

柳川は、述懐している。

インドネシア人は真面目で粘り強い。
こんなにも優れた面を持つ人々をたとえ間接統治とはいえ、
三百四十年もの長きにわたり抑え続けて骨抜きにしたオランダ人に新たな怒りを感じた。

青年道場の敷地には、数百本の椰子の木があった。
毎日の相撲の後で自由に椰子の実をとって良いとしていた。
水を飲み、中のま白い果肉に塩を加えて喰った。
相撲で疲れた乾ききった咽喉を潤すには絶好であった。
相撲が終わると駆け足で道場南の椰子畑に行って実をとって食べた。
各班で木登りの得意な者を選んで椰子の実をとっている。
いつも同じ生徒が木登りに当たっている。

柳川は、それを見ていて思いついた。
これも訓練のひとつに加えよう。
自分の飲む分は自分で取って来るように仕向けるのだ。
全員が椰子の木に登れるように訓練するのだ。
それにはまず自分自身が木登りができないといけない。
柳川は、みんなが寝静まった真夜中に木登りの練習を始めた。
両手で引っ張り、両足で突っ張る「エテ公」式の登り方を習得した。
登るのは簡単で一晩で習得できたが、降りるのが大変であった。
こっそり練習を初めて四日目でなんとか登り降りできるようになった。

柳川は、生徒に申し渡した。

今日からは自分で食う椰子の実は、各人が登って取るようにしろ。
自分で取らぬ者は食うことならん。
日本人班長も同じである。
よしかかれ。
どれをとってもいい。
甘いものをとれ。

降りる時が難しかった。 
途中で力つきずり落ち、顔から胸まで擦りむいた者がいた。
残り二メートルを残し落下し気絶する者もいた。
が、そのうちに全員が登り降りできるようになった。

後日、こんな木登りについて、当時の生徒のひとりが思い出を語っている。
後に香港総領事となる、ブリアツナ准将だ。

私は生まれて初めて柳川隊長より椰子の木登りをやらされた。 
私はバンテン州バンデグラン県の県長の息子でした。 
椰子の実が欲しいと言えば使用人にすぐに取らせる地位にありました。 
自分で椰子の木に触ることもなかったし、
ましてや自分で椰子の木に登ることなど思ってもいませんでした。
それが生まれて初めて登らされたのであります。
大変な擦り傷をしましたが登れるという自信は大変なもので、
この点でも私自身独立戦争中に偵察に攻撃に自分で登って部下を驚かせました。
柳川隊長のおかげであります。

by yosaku60 | 2017-04-21 07:37 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その12; 水泳訓練)

水泳訓練だ。
水泳訓練に先立ち、柳川は次を訓示した。

明日から水泳訓練を実施する。
訓練は三日間と限る。
三日間の練習の後、一人でも泳げない者がいたら、その班の全員の責任とする。
泳げない者は、水の中を歩いてでも渡る覚悟で練習しろ。

実施の第一日目は、五メートルの跳び込み台から跳び込む訓練だった。
準備運動の後、後一列に並ばせ、順々に跳び込み台に登らせた。
先ず、柳川が跳び込んだ。 
続いて日本人教官が跳び込んだ。

生まれて初めて高飛び込みをした者がいたと思う。 
水泳の得意な者は、われ先にと飛び込んだ。
次に恐る恐る泳げる者が飛び込んだ。
第一回で飛び込めない者が約半数いた。

柳川は各教官を飛び込み台下の両側に配して台上から注意を与えた。

おい、今から飛ばぬ奴を突き落す。
よし、というまで助けないように、少々水を呑んでも死なないことを教えてやるのだ。
いいか、よし、と行ったら初めて助ける。

下で、富樫通訳が青年たちに聞こえるように大声で通訳した。
台上でふるえて泣きっ面の生徒を無理やり飛び込ませた。
泳げる者はなんとかべそをかきながら飛び込んだ。

柳川は、自力で飛び込めない者を手で突き落していった。
全く泳げない者も何人かいた。
水中でアップアップしている。
少しばたつかせておいて助け上げる。

飲んだ水を吐かせてまたすぐ飛び込ませる。
真っ青になって台に登りまた溺れる。
泳げない連中は何度もアップアップする。
適当に水を飲んでから教官に引き上げさせる。

中には、失神する者もでる。
水を吐かせ、人工呼吸をして生気づくと直ちにまた飛び込ませる。
これを三回繰り返す。

全員が飛び込めるようになった。
飛び込めるようになったので、水泳を教えた。

泳げない連中には、プールの底を這わせた。
プールの浅い処ではない、一番深いところを選んだ。
すぐにアップアップしながら、同じところを行ったり来たりする。
教官が途中で引張ったり突いたりしながら対岸まで押してゆく。

途中で気力尽きてだんだんと沈んでゆく者もいる。
しかし、なんとか対岸まで、引いたり突き飛ばしたりして辿り着かせた。
こうした訓練をして三日目、全員が二十五メートル以上泳げるようになった。

若いインドネシア人が猛訓練についてきてくれる。
彼らは真剣に日本人教官に追いつこうとしたのだ。

by yosaku60 | 2017-04-19 07:33 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)


常時ほろ酔い候
カテゴリ
画像一覧
以前の記事
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月