あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



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Pegayaman 現地調査報告(その4; 総括)

Pegayaman の日本軍が造った武器庫....
思った以上に、大掛かりなものであった。
一人二人の日本兵では、これほどのものは造れない。
武器庫を護るため、大木に見張り所も作ったという。
今は、朽ちてしまったが、Wani(ワニ)という木だそうな。
マンゴに似た実をつける大木になるそうだ。
現場付近のWaniの木を写真に収めてみた。
枝がしっかりして登りやすそうな木だ。
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さて、発見した武器保管庫....
村民に助けられたにしてもひとりふたりの日本兵では造れなかった。
結構にまとまった日本兵がいたに違いない。
当時のシンガラジャの地にインドネシア独立の志に燃え...
しかもまとまった兵員数となると、林田部隊しかいない。
隠れて武器を持っていたのも林田部隊だけである。
ということで、林田部隊の残党がここに棲みついた、と結論付けたい。

あとひとつ、証拠づけることがる。
残留日本兵の曽我さんの息子さんのスラジャさん(写真)....
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の語った話と重なるのだ。
スラジャさんは、過去、父の戦死場所を調査に歩いたことがあった。
その調査の過程で、ギギット付近で、日本兵がオランダ兵に殺された....
との情報を得たそうな。
Pegayaman の村を出て、本通りに入ったところがギギットである。
林田部隊の誰かが、オランダ兵に殺されたのだと思う。

それにしても、Pegayaman は、特殊な村であった。
なんとも子供の多い村であった。
バリ島は、どんな小さな村にも「ワルン(売店)」がある。
が、pegayamanでは、ワルンを見なかった。
村人は、何をして生計をたてているのだろうか。
コミン曰く「チンケ(Cengkeh)」が異常に多いという。
気温の低い高地にある木だ。
チンケから、ミニャックが採れる。
昔は安かったが、今は高く売れるという。
どうもそれだけでは、やってゆけないように思うが....

100%イスラムというのも特殊だ。
同行したコミンは、
「私が一緒でなければ、村に入れなかった」という。
バリ人にとっては、薄気味が悪い村のようだ。

こんな特殊な村の存在.....
ブンアリ達は、どうして知ったのだろうか。
それを考えると、またまた現地に行って調べたくなる。
もういい、もういい(笑)。
もうこの辺で調査を終わりにする.....オワリ
by yosaku60 | 2017-01-31 09:52 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

Pegayaman 現地調査報告(その3; 武器格納庫発見)

バリ島の残留日本兵を追っている私....
いつも思うことがある。

バリ人は歴史に興味を持たない。
村落間(隣村と...)の横のつながりが少ない。
村落の中でも村民相互間に情報の共有がない。
当時の文盲率は95%、文字で書き残す習慣もない。

で、調査は、現地に直接出向き....
それを知る人と直接に逢うより....方法がない。

ということで、Pegayaman の調査....
1月24日、午後一時、村に入った。
こんな処だ。
村の歴史に詳しい人を探していると告げると、
小学校の先生のムハジルさんに逢うことを勧めてくれた。
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小学校に行ってみた。
ムハジルさんは、家に帰っているとのことだった。
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若者に案内され、ムハジルさんの家に向かった。
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この人がムハジルさんだ。
会話はバリ語で行われた。
ムハジルさんは、ムスリムのハジという階級。
バリ語も尊敬語を多く使われ、コミン、少々難しいとぼやく(笑)。
そんな会話が交わされる中、次のことが解った。
1、日本人が作った武器庫が山の中に三つと川沿いにひとつある。
2、何人の日本人がいたかは知らない。
3、日本人の名前も伝わっていない。
4、山の武器庫の近くには、高い高い大きな木があった。
5、その木のてっぺんに人が登り近づく者を見張った。
6、その木は、大きすぎて、今は朽ちてしまって、もうない。
7、日本人は、住民に戦い方を教えてくれた。

やった!!
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若者の案内で山に向かった。
村内には、子供が多い。
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道路は迷路のように入りくんでいた。
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村はずれに出たように、思ったが....。
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まだまだ家が続いた。
子供が家の手伝いをしていた。
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昔は、小さい村だったらしい。
が、今は相当の人口があるようだ。
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やっと、村はずれに出た。
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で、記念写真。
左の若者、名前をワヤンハッサンと言う。
名前からして、バリヒンドゥーとムスリムの混在だ。
が、その彼、村民は100%ムスリムと胸をはる。
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山への上り道となった。
この時点で、少々息があがり気味。
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脇道に入った。
本格的に山に入るようだ。
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私は、ワヤンハッサンに続く2番手として山に入った。
が、前を行く、彼を見失った。
足が早すぎる。
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居た、居た!
ハーハー息をつぎながら追いついた。
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山の入り口に、こんな家があった。
これが最後の家、これから上は、家がないとのこと。
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これから上は、写真が少ない。
手があかない。
こんな段差をいくつも昇り降りするからだ。
上がる時は若者が手を引っ張ってくれ、
降りる時は、転げる体を下で受けてくれた。
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おまけに前方も見えない程の藪もある。
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で、最初に出逢ったのが、これ!
コンクリートの塊りだ。
武器庫だったとのこと。
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煉瓦造りだ。
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背後からみると、こんなんだ。
飛行機から爆撃されても壊れそうにないほど堅固だ。
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もう一つは、この藪の下にあるという。
が、足元のおぼつかない私は、崖を降りるのは無理だ。
コマンに行ってもらって、写真を撮ってもらうことにした。
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で、コマンの写してくれた写真がこれ。
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ここも相当に大きい。
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しかも発見されにくい藪の中にある。
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三つ目の武器保管庫に向かった。
そこへの道は、険しかった(で、写真がない)。
ちょっと、広い場所に出た。
で、出会った第3の武器保管庫がこれ!
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卵型の天井....日本軍のものそのものだ。
奥で右に続いた穴があるとのこと。
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それがあちら側の入り口に繋がっているとのこと。
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そう、左側にかすかに通路が見える。
これも日本軍の造りだ。
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最後に記念撮影....
横の若者、最初から最後まで私の手を引いてくれた。
名前も聞かず、名前を呼んでやることもしなかった(申し訳ない)。 
でも、ありがとう。
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pegayaman 調査の総括は、明日のブログ....
by yosaku60 | 2017-01-30 08:58 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

Pegayaman 現地調査報告(その2; イスラム教徒.....)

残留日本兵の中で、「ブン」がつく名前を名乗っているのは4名いる。
ブンアリ、ブンマデ、ブンチャング、ブンスラマットである。
ブンとは、イスラム教徒が使う呼び名である。

ブンスラマットは、マルカデ海軍大尉と共にジャワ島から来た日本兵である。
ジャワ島は、ほとんどがイスラム教徒である。
で、ブンスラマットの名乗った理由は理解できる。

が、残りの、ブンアリ、ブンマデ、ブンチャングは、バリ島に居た。
バリ島住民は、ほとんどがバリヒンドゥーで、イスラム教徒は少ない。
が、この3人は、イスラム教徒名を名乗っている。
何故なのか。

ブンアリであるが、林田隊の隊員だったことは、ほぼ解っている。
同じく、ブンマデだが、ワナサリで、ブンアリと共に戦死している。
彼は、最初から最後までブンアリと共に行動した。
で、同じく、林田隊の隊員で二人は戦友だったと思える。

ブンチャングは、途中から別の行動をとっている。
が、ングラライ軍にあって、特別小隊をひきいるほどの人物であった。
その経歴から、やはり林田隊の隊員だったと想像できる。

他に、バリ名はついていないが、気になる日本兵が4名いる。
原田、渡辺、田中軍曹、シンタロー伍長である。

この内の原田、渡辺は、1946年4月6日の「リンディキットの戦い」....
に、ブンアリと共に参戦している。
この二人も林田隊員なのだろう。

田中軍曹であるが、それから2日後の1946年4月8日、
パンクンバンカで、ひとりで8名のオランダ軍兵士を殺している。
時、場所の双方を考えると、彼も林田隊員なのだろう。

シンタロー伍長であるが、1946年6月19日、
パンクンバンカで、オランダ軍のトラックを襲い粉砕している。
場所から、想定して彼も林田隊員だったのではなかろうか。

ということは、名前が残っているだけで、
6名の林田隊員がいることになる。
一個分隊に近い兵員数だ。
死を覚悟した兵隊が、これだけおれば何でもできる。

で、かれらの潜伏地だが、
戦闘をおこした、パンクンバンカ付近だったのではなかろうか。
その潜伏地が、イスラム教徒の村であれば、なおさらに有力だ。

パンクンバンカというのは、古い地名で今は使われていない。
が、土地の者に聞くと、ギギットからワナギリの間という。
で、その間の村を調べてみる。
ギギットに近いところに、Pegayaman がある。

私の家のお手伝いさんのカデの実家は、
この近くのpegadungan 村である。
一キロ離れた隣の村がPegayamanである。

で、カデに聞いてみた。
pegayamanて、どういうところ?
....と、「イスラム教徒の村です」
「怖くて近寄らないので知りません」

一キロしか離れていないのに、知らないとは...んん!!
これなら、スパイの目からも逃れることができる。

当時は、独立派、独立阻止派の二つに分かれて、
バリ島中にマタマタ(スパイ)が暗躍していた。
で、秘密裏に潜伏するのは、大変だった。

ここだ!
林田隊員が数名まとまって、潜伏した地だ!
その地に、大量の武器を隠したに違いない。
ということで、Pegayaman の調査、即ち、

何人もの日本人が潜伏していたこと....
大量の武器を隠れ持っていたこと....

の痕跡があるかどうか、調べに行ったのです。
by yosaku60 | 2017-01-29 11:48 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

Pegayaman 現地調査報告(その1; 調査理由)

1月24日のPegayaman の調査....
思った通りのものが発見できた。
成功であった。

その報告だが、余りにも嬉しいので、勿体ぶりたい(笑)。
何回かに分けて報告したい。

で、今日のブログは、
何故に、この調査を重視したかの理由である。


私は、バリ島の残留日本兵を追跡調査している。
当然に、バリ島での独立戦争をも調査することになる。
同じく、ングラライ軍のゲリラ活動をも調査することになる。

ゲリラ活動には、1=人 2=お金 3=武器が必要である。
人は余るほど集まった。
お金は、日本軍から盗んだものがあり十分だった。
問題は、武器の確保であった。

ングラライは、ジャワ島から武器を持ち込もうとした。
が、武器を積んだ船のほとんどがオランダ軍によって海に沈められた。

武器をバリ人に渡すなという命令が出ていたにもかかわらず、
その命令をかいくぐって、バリ人に秘密裏に武器を流す日本兵がいた。
が、組織だっての譲渡ではなかったため、少量であった。

ングラライ軍の悩みは、武器不足だったのだ。

そんな中で、武器弾薬を確保していたのが、ブレレン隊だった。
ブレレン隊は、何故にそれほどの武器弾薬を持っていたのか。
そこで思いつくのがスンバワ島から来た林田隊である。

1946年1月2日、シンガラジャの兵舎より林田隊の数名が脱走した。
兵舎を護る福江中隊の兵士数名を射殺して、武器を奪い脱走したのだ。

なんと!
日本軍兵士が日本軍兵士を殺したのだ。
しかも、機関銃を乱射したとのこと、無差別殺人じゃないか!

写真は、その事件の現場....
今は、インドネシア軍の兵舎になっている。
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カミさんと一緒にいるのは、稲川義郎さん。
この写真の左側に建物がある。
事件のあった当日、稲川さんは、その建物の中で就寝していた。
機関銃の音で稲川さんは、飛び起きた! などなど...
稲川さんから、当時の生々しい話を直接聞いている。
が、痛ましい話、ここでは、余り多く語りたくない。

いずれにしても、
その時奪った武器がブレレンのどこかに隠されのだ。
それが、pengayaman の地であったように思ったのだ。

それを確かめるのが、pengayaman の調査だった。
なぜに、pengayaman と思ったのか....
明日は、それを書きたい。
by yosaku60 | 2017-01-28 11:28 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

カフェテラス、EMPUNA

先日のシンガラジャ行きだが、
想像していた通りのものを発見した。
現在、その写真をまとめている。
で、発見報は明日書くことにして、今日は、食べる話をば...

サヌールを10時頃に出発すると、
ブラタン湖を過ぎたあたりで12時になる。
大体がいつもそうである。
で、毎回、昼食のために寄るレストランがある。
場所的には、廣済堂ゴルフコースのほぼ向かえになる。
右の看板を見て欲しい。
あけましておめでとうございます...
と、書いてある。
そう、日本人の経営するレストランだ。
が、経営している方とお会いしたことがない。
親子丼とかがあって、お味もまあまあ、お値段もまあまあ、である。
スタッフがよく教育されており、店内の清掃が行き届いている。
清潔な上に、ゆったり食べれるのが良い。
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by yosaku60 | 2017-01-27 10:20 | バリ島=レストラン | Comments(0)

自分のこと(その10; ひゅうすとん丸・その4)

米軍機は、ひゅうすとん丸の左後方至近の海上に墜落した。
それを見て、船長(藤瀬紫郎さん)は、右いっぱいに舵を切った。
ひゅうすとん丸は、右回頭を始めた。
大きな船がぐるっとひと廻りするには少なくとも10分はかかる。
その間、私は米軍機を見張り続けた。
黒い煙に包まれた中ほどに赤い炎もあった。
飛行機も燃えるのだ!
燃料に引火したからであろうが、その時は、そうは思わず、
なんともはや、不思議に思えたことを覚えている。
ぐるっとひと廻りし終えた時、
ひゅうすとん丸は、墜落地点から遠く離れてしまった。
肉眼では、よく見えない距離にまでなった。
そう....ひと廻りすると、距離も遠くなるのだ。
船長は、エンジンをフルアヘッド(全速前進)にした。
少しでも早く、墜落地点に行こうとしたのだ。
船は、徐々に速力をあげていった。
米軍機の黒い煙は、幾分と少なくなっていた。
煙の下から、黒いものが見えた。
が、それが何であるか、
波の間に間に見え隠れするので、解らない。
墜落地点の近くまで来て、やっと解った。
それは、タイヤであった。
タイヤはゴムでできているので浮いているのだ。
ということは、機体がばらばらになったということだ。
船は、速度をもったまま、墜落地点に到着した。
と、黒い大きなタイヤの横に赤いものが見えた。
救命胴衣である。
赤い点滅灯も見えた。
その上に小さな頭が見えた。
人だ!
人がいる。
と、頭が動いた。
こちらを見て居る。
生きて居るのだ。
顔を見た。
煙にやられたのか、どすぐろい。
が、ひゅうすとん丸は、助けることができなかった。
まさか、人が生存しているとは思わなかった。
全速力で現場に来たのだ。
大きな船は、突然に止まることができない。
で、「人、発見」の電報を付近の船に打電した。
当時は、船舶間に通じ合える電話がなかった。
全て、無線電報を使ったのだ。
ひゅうすとん丸に続いて、墜落地点に向かって来る船があった。
結局は、その船が、救命胴衣の男を救助した。
そのアメリカ人からの情報が付近の船に伝わった。
飛行機には、12名の乗員がいたという情報だ。
ということは、残り11名を探さなければならない。
墜落事故を聞きつけて、フイリッピンから別の飛行機が飛んで来た。
その飛行機から、次から次と指令(依頼)が届いた。
こうした連携しての捜索では、まずは司令船を決めるとのこと。
その司令船は、最初に現場に到達した船が担うとのこと。
今回の場合は、ひゅうすとん丸が司令船になる。
米軍機からの指令は、まずは、ひゅうすとん丸になされる。
それを受け、ひゅうすとん丸から付近の全船に指令を出すということになる。
その指令だが、
捜索に参加する全船がそれぞれに決められた、
一定の地点から一定の針路で進むことで、見落としなく全海面をチェックし、
そのチェックの範囲を徐々に拡大するといった指令だ。
そんな、捜索が一日続いた。
何も発見できなかった。
11名は、飛行機と一緒に海底に沈んでしまったのだろう。
その後、米軍機から「捜索解除」の指令が来て、おひらきになった。
11名もの犠牲者が出たのに、捜索をはやくあきらめすぎだ。
米軍って、なんと淡白なのだろう、なんと潔いのだろう....と、私は思った。
私の米軍に対する感想、この時の思いが今も尾を引いている。
by yosaku60 | 2017-01-26 09:56 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(2)

自分のこと(その10; ひゅうすとん丸・その3)

台湾とフイリッピンの間の海をバシー海峡と言う。
昭和43年、日本を出てバシー海峡に入らんとする時であった。
「材木船沈没、救助頼む」の救援要請電報が舞い込んだ。
日本の船であった。
セオル号ではないが、材木船の沈没事故はよくあることだ。
材木は軽いため、甲板上に高く積み上げる。
その材木が荷崩れすると、沈没しやすいのだ。
人命救助は、海洋国際法上、絶対的遵守義務がある。
針路を右に変え、現場に向かった。
遭難後、一日経過の現場であった。
付近には、救助に駆けつけた、日本船が10隻ほどいた。
十数人が既に救助され、十数人が未だ行方不明であった。
現場付近には、積み荷の材木が散々としていた。
材木をスクリューに巻き込んではならない。
材木を発見するたびに、それをかわし、行方不明者の捜索にあたった。
その捜索にあたった次の日であった。
フイリッピンから米軍の飛行機が現場に来てくれた。
我々の救助活動をサポートしてくれるのだ。
船からは見えないが、上空の飛行機からは良く見える。
「どこどこに残骸が浮いている」との情報をくれるのだ。
その情報だが、発光信号で送られてくる。
モールス信号を受けるのは、無線士の役目であるが、
発光信号を受けるのは、航海士の役目である。
上空を飛ぶ飛行機から発せられる光を目で追いながら、
一字一字読み取るのは、大変だ。
幸いに、私の当直中には、一度だけであった。
それも簡単な英文だったので、無能がばれずに済んだ。
さて、そんな捜索中であった。
私は、船橋の左ウイングにあって、前方海上を見張っていた。
前方から米軍機が飛んで来た。
そして、私のすぐ横、100mほどだろうか、を通過した。
操縦士の顔が見えるほどに近い! そして、 低い!
飛行機は本船の後部を通りすぎた。
私は、その陰影を目で追っていた。
と、飛行機は、そのまま海に飛び込んでいくではないか。
何が起こったか、瞬間的に判断がつかなかった。
そして、多分、10秒ほどだろうか、
ぼっと火が付き飛行機が燃え出した。
墜落事故だ! 始めて気付いた。
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今日は、シンガラジャに行く日、
その出発時間がせまって来て、書く時間がありません。
つづきは、シンガラジャ(一泊どまり)から帰ってきてからにします。
by yosaku60 | 2017-01-24 09:25 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(0)

自分のこと(その10; ひゅうすとん丸・その2)

50年前のアメリカに行った場合の、
日本へのお土産の有名な3っつといえば、
1、キスチョコ
2、ミルク
3、お人形
でした。 
信じられないでしょう。
お人形....って、何故?
とにかくアメリカのお人形は、でっかい!
ので、日本では珍しかったのです。
当時は、一ドル=360円。
アメリカには、1ドル弁当というのがありました。
船に来る労働者が持参する、その弁当....
なんとも豪華で、さすがアメリカ...と思ったものでした。
まあ、それが50年前、
で、55年前(昭和35年頃)になると、びっくりするお土産が、
当時、私は、まだ高校生。
で、後日、船乗りから聞いた話なのですが、
なんと、船乗り仲間では、「背広」が、大受けだったそうです。
アメリカで、中古の背広を安く買って、
繕いを外して、ばらばらにして、生地を裏返して、縫い直すのです。
それをアメリカから日本へ帰る航海中にやるそうです。
日本に着くころには、新品の背広ができるそうです。
話しだけで、私は縫い直したものを見たことがありません。
が、「日本人、すごい!」と思ったものです。

ついでに、雑談....
50年前の他の国からのお土産事情。

中南米では、ワニの剥製。
一メートルほどのワニが5ドル。

西アフリカ(主にナイジェリア)からは、
黒檀の彫り物(当時で5000円~一万円の価値)。
お金ではなく、物々交換。
日本から持参するものは、「半袖ワイシャツ」
神戸のダイエーで、半袖シャツ、1000円((確か...)
東アフリカ、モンバサからは、
象牙、一万円(後日持ち込み禁止に...)

インドからは、九官鳥。
シンガポールからは、オーム(これは、後日持ち込み禁止に...)
南米からは、蝶の羽根の飾り物(これも、後日持ち込み禁止に....)

ヨーロッパ(主としてドイツ)からは、羽毛布団。

一方、日本から後進国へ持って行くお土産で、
もっとも喜ばれたものは、自動巻き腕時計....
自動巻き腕時計は、腕を振ると反動でゼンマイが巻かれるもので、
現在は、もう販売されていませんが、当時の価格は、約一万円、
どの国に行っても大受けで、誰もが欲しがりました。

などなどでしたが、
私は、いつもお金にピーピーしていたので、
最小限のお土産しか買いませんでした。
by yosaku60 | 2017-01-23 10:51 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(0)

本日はバニューピナロの日です。

バリヒンドゥー......の

昨日は、学問の女神に感謝する、サラスワティーの日。
本を読んでは、ならない日なので、学校もお休み....
というか、学校に集まって、お祈りするだけの日。

そんなサラスワティーが明けた今日....
をバニューピロナという。
身を清めるため、海で沐浴する。
んで、海は人がいっぱい。
現在、午前8時、
私も海から帰って来たばかり....

が、普段なら5分の距離なのに、
なんと、30分もかかってしまう。

昔は、バイクばっかりだったのに、
車が増えちゃって.......もう大変!

バリ島の道路は、随分と良くなっている。
が、車が増えて、道路事情がそれに追いつかない。
バリ島....だんだんと住み辛くなるようだ。
by yosaku60 | 2017-01-22 09:57 | バリ島=慣習・伝統 | Comments(0)

前回のシンガラジャ調査の報告

前回のシンガラジャ調査....
出発前にその目的をブログに、次のように書きました。

........

もうひとつ探しものがあります。
Padang Bulia と Nagasepaha と Sari Makar....
の三角地帯の真ん中辺に、なにやらモニュメントがあるらしいのです。
もしかしたら...
ングラライ軍の解散の地ではなかろうか?
であれば、解散を嘆き、松井が涙を流した処です。

   (註) 本によれば、閑散の地は、sukasada となっている。
       が、sukasada とは、スカサダ郡のこと、
       シンガラジャ市の少し山手~ブドグルの全域がスカサダ郡だ。
       その範囲が広すぎて、特定することが難しい。

確かめに行ってまいります。

........

その報告です。
モニュメントは、下図のNagasepahaの街の中にありました。
d0083068_7472216.jpg

が、ングラライ軍の解散のモニュメントではありませんでした。
d0083068_7355425.jpg

1947年11月7日ということは、
ングラライ死後、一年を経過しての戦いです。
その戦いで、地元のこの二人が戦死したのです。
d0083068_7363730.jpg

この地で戦いがあったのでしょうか。
それを確かめるべく、聞き込みしました。
写真は、その聞き込みをした、近所のお爺ちゃん(103歳)です。
本も読めるというが、高齢すぎて、ほとんどの会話がなりたたない。
ただ、モニュメントにある戦いは、panji(上の地図参照)だったということが解る。
d0083068_7474125.jpg

panji といえば....
平良定三さんが、70人ほどのバリ人を率いて立て篭もった処だ。
立て篭もった時期も、この戦いがあった頃で、合致する。
戦死した二人は、平良部隊の隊員だったのではなかろうか....
などと思ってみたが、それを確かめることの価値が見いだせない。
nagasepaha の調査、残念ながら不発。
by yosaku60 | 2017-01-21 07:37 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)


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