あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



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バリ島残留日本兵の兵士名について(補足)

一昨日のブログ、
日本敗戦後にバリ島で命を落とした日本兵46名....
について、書きました。

ご遺族の方など、
将来、私の記述を調べ直す方がおられると思います。
そういう方のため、言い足りなかったことを追記します。

Canggu Buns / Kt Sunia の標記に関して

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( Buns について)

Buns と書いてありますが、
これは、Bung の間違いです。
なぜなら、慰霊碑には、次のとおり、Bung と書かれております。
Bung の意味ですが、日本語で言えば、
「さん」 とか 「氏」 に代わる敬称です。

(後日訂正)
Bung と書いてありましたね。
老眼鏡をかけずに読んだので、Buns にみえてしまいました。
あわてものです。
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( Jianggu について )

これは、Canggu と同じです。
バリでは、昔はこのように書くこともありました。
例えば、現在、日本は、 Jepang と書かれますが、
昔は、Djepang と、書かれたものもあります。

( kt について )

これは、Ketut の意味です。
即ち、第4子か第8子ということです。
大舘のバリ名は、Nyoman Sunia です。
Nyoman とは、第3子か第7子と言うことです。
バリ人にとっては、Nyoman であるか、 Ketut であるかは、
大きな違いです。
もし間違えれば、致命的ミスになります。
こういうミスは、しないものと思われます。
Kt Sunia が大舘ではない、と私が判定した根拠でもあります。

( Sunia について )

実は、ketut Sunia によく似た名前で、
ketut Senio (クトット・スニョー)と呼ばれた残留日本兵がいます。
戦後も生き残った平良定三氏が、書き留めているのです。
平良定三氏は、戦後まもなくは大舘の名を知らなかった形跡があります。
かと言って、クトット・スニョーが大舘、ということは考えられません。
平良氏は、バリ語に精通しており(奥様がそう語る....)
Ketut と Nyoman を間違うということが考えられないからです。
いずれにしても、
大舘のバリ名である、ニョーマンスニアと、
クトットスニア や クトットスニョー は、別人と思われます。




高木米治の戦死場所について

高木米治さんには、遺児がおられます。
写真の右がお孫さん、その次が遺児のアリニさんです。
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アリニさんの家には、高木米治のことを書いたもの(日本語)がありました。
日本のご親戚の方がお調べになったものとのことです。
その調書には、高木米治の戦死場所が、ワナサリとなっていました。
ワナサリで戦死した日本兵は、ブンアリとブンマデです。
そのブンマデが高木米治である、としていたのです。
高木米治のバリ名は、マデ・プトラです。
が、マデとだけ呼ばれるのもバリではよくあることだからです。

私のブログも一時期、ワナサリで戦死したと書いたことがあります。
が、後日、高木米治は、マルガで戦死したことに修正しました。
そのように語る方が多かったからです。

でも、それを確証する証拠がなかなか見つからず困っていました。
マルガラナで戦死した5名の日本兵の中に 「マデ」 がいました。
が、マデというのは、第2子という意味、だから沢山いるのです。
高木米治と特定できないのです。
で、困っていたのですが.....、

ところが、それが見つかったのです。
大舘の調査をしている過程で見つけたのです。
これです。
マルガラナの資料館の中のこの表示です。
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この表は、チュウアナラ(Ciung Wanara)兵士を挙げたものです。
チュウアナラとは、ングラライと共にマルガで玉砕した部隊名です。
全部で96名います。
81~85の5人が、日本兵です。
85番に、はっきりと、マデ・プトラと書かれております。
高木米治です。

マルガラナで玉砕したことは、バリ人としては名誉です。
近日中に、アリニさん宅に調査結果を知らせに行きます。
きっと、喜んでいただけると思っています。
by yosaku60 | 2016-10-31 07:46 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

日本敗戦後にバリ島で命を落とした日本兵46名

日本の敗戦時....
バリ島には、何人の日本兵がいたのだろうか?

簡単に、2000人以上と書かれた資料もある一方、
バリ島の有力新聞「Bali Post」によれば、
陸軍が1990人、海軍が1146人の
合計3136人の日本兵がいたとも報道されている。
が、この兵数、いつの時点のものか定かではない。
いずれにしても相当の日本兵が居たことは事実である。

さて、そんな中で、
敗戦後、何人の日本兵がバリ島の地で命をおとしたのだろうか。

     (註) ここに言うのは、敗戦後、即ち1945年8月15日以降である。
     戦中であれば、バリ沖海戦で一挙64名の死傷者が出るなど、
     戦死者が多くなる。

私が知る限りでは、46名になる。

そのうち、マルガラナに祀られている14名は、既に述べた。
念のため、再掲載する。
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で、残り、32名について以下にまとめてみる。

まずは、
バリ人に殺された日本兵10名である。
殺された理由は、戦時中の日本兵の行為への反発と、
オランダ軍の再植民地化への抵抗のため、武器を奪うこと....
いわゆる、私が言う「1945年12月13日のバリの同時テロ」....
の犠牲者だ。
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次に、日本兵に殺された日本兵7名だ。
終戦直後、兵士の落胆は激しかった。
日本をあきらめ、インドネシアの独立戦争を戦いたいと思う者がいた。
戦うには武器がいる。
その武器を奪うため、日本兵が日本兵を殺したのである。
この事件は、1946年1月2日、シンガラジャの地で起こった。
形態は変わるが、インドネシアの独立戦争が故に、
殺されたことには、変わりがない。
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次いで、
バリの独立義勇軍に入り、
バリ人と一緒に独立戦争を戦い戦死した15名の日本兵である。
14名は、マルガラナに祀られている(既に記述)。
が、この15名は、どのように戦死したかは不詳である。
不詳がゆえに語られることがない。
また、人物が重なっているかも知れない。
で、員数に関しては、不確かである。
が、いずれにしても、マルガラナの1372番に祀られるべき人達だ。

   (註) 東京の稲川義郎さんから送って頂いた「バリ日本会会報;Bali」
      の47号に、次表の8番の満留四齢氏の写真が掲載されていた。
      ここにも掲げ、ご冥福を祈りたい。
      満留四齢氏は、Baturitiの地で、オランダ軍に射殺された。
      写真を見た通り、少し幼さが残るほどに若い。
      考えさせられる写真である。
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ということで、32名を述べた。
が、これら、14+32=46名は、戦死した者達ばかりである。

生き残った兵士もいる。
次の6名だ.....少ない!
バリ島での独立戦争の激しさが解る。
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by yosaku60 | 2016-10-30 10:34 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その11; マルガラナの大舘)

慰霊碑は、その人その人の祈祷塔であって、
二人一緒になることはない.....
との、当所を20年管理するイブメイさんの言葉は重い。

であれば、
クトット・スニアの標記は、バリ的な単純ミスであり、
339番は、ブン・チャングーひとりのものと考えるべきであろう。

が、慰霊碑にも例外がある。
1372番の慰霊碑である。

独立戦争を戦い戦死した全員の分を建立するのは難しい。
情報に漏れがあるかも知れない。
そういう戦死者のために、1372番の大きな慰霊碑がある。
要するに、「その他の者の共同慰霊碑」である。

今まで、工藤栄氏と曽我氏の二人が、
この1372番の慰霊碑に祀られていると語られてきた。
私は、ここに大舘も入れたいと思う。

で、マルガラナ慰霊碑の
日本人だけをまとめると次の表の14人になる。
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が、独立戦争で戦死した日本人は、
この14名だけではない、まだいる。
マルガラナの1372番に祀られるべき日本兵が、他にまだ15名いる。

15名は、独立義勇軍として、オランダと戦った、
そして、オランダ軍に殺された(と思われる)日本兵である。

他に....
独立戦争を理由にバリ人に殺された日本兵が10名いる。
他に....
独立戦争を理由に日本人に殺された日本兵が7名いる。

これら犠牲者全員をまとめると、46名になる。
この46名のうち、
マルガラナの14名の日本兵を除くと32名になる。
明日は、この32名をまとめてみたい。

  (註) 独立戦争を戦い、生き残ったのは、6名に過ぎない。
      勿論、6名は、46名のうちにはカウントしていない。
by yosaku60 | 2016-10-28 10:08 | 帰らなかった日本兵 | Comments(2)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その10; チャングーと言う名の日本兵)

バリ名のチャングーとスニアは別人である。
イブ・メサに反発して、そう言いたい。
何故なら、
チャングーについて書かれた次の記述を見て欲しい。
チャングーは、タナアロンの戦いに参戦している。

大舘が戦死したとされる、ワナギリの戦いは、1946年5月22日。
チャングーが参戦した、タナアロンの戦いは、1946年7月5日。
戦死した大舘がタナアロンの戦いに参戦できる訳がない。

ということで、
チャングーとスニアは別人と思うのだ。


(原文)

Hingga kini nama asli I Canggu belum diketahui. Dalam sejarah dicatat bahwa beliau menggantungkan diri dengan pemuda pejuang di daerah Buleleng. Namun yang jelas beliau adalah orang Jepang yang pada waktu Jepang kalah melawan Sekutu, tidak kembali ke negeri Jepang. Faktor apa yang mendorong beliau menggabungkan diri dengan pemuda pejuang?. ini tidaklah dapat dijawab dengan pasti. Apakah karena terpaksa atau faktor lainnya. Namun kenyataannya beliau rela menyerahkan jiwa raganya untuk ibu pertiwi Indonesia yang tercinta.

Menurut penjelasan I Ceku, salah seorang’ Veteran RI yang berasal dari daerah Ubud, bahwa yang dikenal dengan nama I Canggu dalam pertempuran di Tanah Aron khususnya, sangat berani menyerang musuh. Bahkan sering tembakannya mengena sasaran. Ganasnya tidak dapat diragukan. Setelah terjadinya pertempuran Tanah Aron, I Ceku tidak lagi berjumpa dengan I Canggu. Itu menurutnya disebabkan oleh setelah terjadi perang besar di Tanah Aron di pegunungan Karangasem, Netherlands Indies Civil Administration (NICA) terus rnengepung pasukan pejuang, sehingga beliau terpisah dengan I Canggu.

I Mangku salah seorang Veteran RI dari Buleleng pernah menuturkan bahwa selain bergabung dengan pejuang Bali khususnya di daerah Buleleng, nama I Canggu tidak pernah tercemar, dalam arti beliau selalu setia terhadap pasukan pejuang. Orangnya dikatakan penurut dan bila ada musuh beliau pasti paling berani dan ganasnya seperti harimau akan menyergap mangsanya. Khusus kepada I Gusti Ngurah Rai yang merupakan pimpinan tertinggi pejuang Bali saat itu, beliau sangat tunduk. Secara umum dikatakan bahwa I Gusti Ngurah Rai sangat akrab kepada para pejuang Jepang yang tergabung dengan pejuang Bali, tentunya termasuk I Canggu.


(意訳)

彼は日本人であるということはわかっているが、
本当の名前はなんと言うのか何もわかっていない。
連合国に日本が負けたときに日本に戻らなかった。
彼はインドネシアのために命を棄てることを惜しまないと言っていた。
彼はタナ・アロンの戦闘に参戦した。
ウブドからこの闘いに参加したある兵士は、
この時のチャングーの戦い方がとても勇敢であったと語っている。
敵に攻撃するときは、凶暴と思われるほどの戦い方であった。
射撃が上手く、狙ったものを外すことがなかった。
彼はタナアロンでの戦闘のあと、カナガッサムでも戦闘にも参戦した。
その戦いで彼は敵を深追いしたのか戦闘が終わっても帰って来なかった。
ブレレンの退役軍人であるイ・マンクーもチャングーのことを語っている。
それは、ブレレンでの戦闘であった。
チャングーは率先して前線で戦い、前に進むのみで決して逃げなかった。
それは虎が獲物を待ち伏せするような大胆で激しい戦い方であった。
ングラ・ライは、彼の戦いぶりを賞賛していた。



話を元に戻す.....

マルガラナ入口の表示板には、
チャングーとスニアの二つの名を書いている。
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では、
表示先の慰霊碑(写真は慰霊碑群)....
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の、339番は、どう書かれているか、
であるが....
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そう! 
チャングーだけしか書かれていない。
スニアの名が書かれていないのだ。

これをどう考えたら良いのだろうか。

今回の調査の結論でもある。
明日のブログでまとめたい。
by yosaku60 | 2016-10-26 11:24 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その9; マルガラナの謎)

大舘の調査....
やはり何かものたりない。
次の日、私は、
さらなる調査のため、 マルガラナに行ってみた。
何度も来ているが、今回は大舘への絞りこみ調査だ。
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  (註)  日本では、「マルガラナ英雄墓地」と呼ばれているが、
       前にも書いたが、日本語として誤訳である。
       墓地ではない。
       慰霊碑群である。
       何故なら...
       英雄墓地は、タバナン、シンガラジャ、ギャニアール、ヌガラにある。
       独立戦争を戦い生き残った戦士が、戦後死亡した場合は、
       こうした英雄墓地に祀られる(埋められる)。
       が、マルガラナ慰霊碑群は、独立戦争時に戦死した兵士のみを
       祀っている。 墓ではなく、一人一人の祈祷塔である。
     

ということは、大舘は、マルガラナに祀られていなければならない。
それが、どうもおかしいのである。
祀られていないのかも知れない。

何故なら....
大舘、バリ名;ニョマン・スニアであるが、
マルガラナの入り口にある、掲示板には、こんな風に書かれている。
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339番目の碑標には、出身地を jepang(日本) として、
ブン・チャングー と クトット・スニアの二つが書いてある。

これには、二つの疑問がある。

1、クトットスニアとニョマンスニアは、同一人物(大舘)だろうか。
2、ブンチャング と クトットスニアは、呼び名が二つあるだけで、同一人物なのか。

この二つの疑問を解きたくて、
マルガラナの管理人さん(イブ・メサ)を訪ねた。
メサさんは、展示館(写真).....
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の、ドアーを特別に開けてくれて...
説明してくれた。

「これ、見て下さい」
と、メサさんは指さして言う。
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この人、私の祖父です。
祖父の名ですが、
Nyoman Rupit が正しいのに、Nyoman Rapit と書かれています。
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こんな間違いは、残念ながら、よくあります。

クトット・スニアもニョマン・スニアもそんな間違いの一つだと思います。
ふたつは、同一人物です。

それに、チャングーとスニアがあります。
スラッシュを挟んで、二つの名前を書いているのは、
「又の名は、こうとも言う」という、いわゆる別名という意味です。
ですから、ブンチャングとクトットスニアは、同一人物です。
クトットスニアはクロボカン出身と聞いています。
クロボカンとチャングーは隣町です。
出身がチャングーに近いからチャングーとも呼ばれたのではないかしら。

メサさんは、確信ありげに言う。
日本人の碑は、11基、11人が祀られております。

20年もマルガラナの管理人をしているメサさん...
は、確信をもって、こう言い切る。

が、
メサさんに悪いが、私は、それを信じない。

その理由だが、
私の調査では、チャングーとスニアは別人である。
同一人物なんかでない。
証拠をあげながら、明日、それを書きたい。
by yosaku60 | 2016-10-25 11:04 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その8; タバナン英雄墓地というが)

Sawah の墓地に日本人が埋められていたのですか?
バグスさんに、聞いてみた。
「ああ、日本人が埋められていた」

何という名の日本人ですか?
大舘と言わずに聞いてみた。
「思いだせない」
「カド.....だったかも知れない」

大舘という名を出してみた。
思いだせませんか?
「........」、返事がなかった。

どうして、Sawah に埋められたのですか?
「戦闘のあったのは、Wana Giri の方だった」
「死体をSawah に運んできて埋めたのだ」
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どうして、大舘だけがSawahに運ばれたのだろうか。
これは聞かなくとも想像できた。
大舘を除く5人は、タバナン県かバドン県出身である。
どちらにしても、Wana Giri から、それほど遠くない。
遺族が遺体受け取りに来たに違いない。
受け取り手のない大舘だけがSawahに運ばれたのだろう。

以下、
バグスさんが話してくれたことを箇条書きにしてみる。

1、戦死した日本人は、金の指輪をしていた。
  オランダ軍は、彼の指を切り取って持って行った。

2、私は、ングラライ軍にあって30人ほどの部下がいた。
  年齢は、20才台だった。

  ということは、現在、90~95歳と思われる。
  100歳以上と言うのは、ほぼ冗談(笑)。

3、ダルマは私の戦友で、戦後も時々ここに来てくれた。

  ダルマ氏...稲川さんを通じ奥様にはお会いしている。
  私も彼を間接的に知っているというと、喜んでくれた。

4、1970年、大舘の死体は、Sawahの墓地から掘り返され、
  タバナン英雄墓地に移された。

ということであった。
タバナン英雄墓地には、これまで何度も行っている。
あそこにいる日本人は、ブンアリとブンマデの二人だけだ。
ただ、七つの無名戦士の墓があって、その全部が日本人だ。

  (註) 弊ブログ 2014年5月25日
      「バリ島残留日本兵の足跡;7つの無名の墓」

死体の行方を探るのは、もう難しい。
が、埋めた上におかれた「石柱」も、一緒に移されたかも知れない。
石柱は朽ちない。
過去はそれを知らなかったので、見つけられなかっただけかも。

で、我々は、バグスさんにおいとまをし、タバナン英雄墓地に向かった。
こんな.....
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マルガラナも英雄墓地と呼ばれているが日本語訳が間違っている。
あれは、慰霊碑群だ。
が、ここ、タバナンは、ほんものの英雄墓地だ。
こんな....
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墓守さんを訪ね、しつこくお聞きした。
1970年頃、Sawah から移された、大舘の遺体があるはずだ。
過去帳を拡げ、墓守さんは丁寧に探してくれた。
が、記録にはない。

じゃ、どこかに、「ohtate」と書かれた石柱がないだろうか。
それを探しに墓地内を歩き回った。
が、見つからない。
で、墓守さん、そして我々が出した結論。

7名の無名の墓...そのひとつが大舘であろう。
例えば、これ....
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なお、余談になるが、
弊ブログ;2016年8月30日「ヌサ村の島村中尉の調査報告」
で、書いた、島村中尉もタバナン地区で戦死した可能性が高い。
で、私は、
7つの無名の日本人墓のひとつが、島村中尉のものであろうと思っている。    
by yosaku60 | 2016-10-24 09:17 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その7; 埋葬場所を探す)

大舘は...
本当に Wana Giri で、戦死したのだろうか?
案内してくれた男に聞いたみた。

....と、
「ここで戦死した、墓もある」と言う。
これには、驚いた。
もし墓に出逢えば、大発見だ。

本当か、墓があるのか?   「そうだ、日本人の墓だ」
大舘と言う名の日本人か?  「そうだ、確か大舘と言う名だった」
墓を見たい!          「解った、案内する」

で、行ったのが、Sawah村のもっとも北...
で、村の墓地がある場所...
の、入り口で、こんな処。
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どんな墓だ!       「埋めた上に石を置いてある」
どんな石だ!       「30㎝ほどの高さの石柱だ」
どうして大舘と解る?   「石柱にohtateと書いてある」
.....この男、どうも胡散臭い。
が、ここだと場所を特定して、石柱を探し出す。
あながち嘘とも思えない。
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....が探せない。
男は言う。
「ここは、村の墓地だ「ら、時々草刈りが行われる」
「草を刈る時、石柱が邪魔になるから、捨てたのも知れない」
てなことを聞いても、オレはあきらめれなかった。
もしかしたら、遺体が埋められた場所の上を踏んでいるかも知れない。
であれば、「申し訳ない」と思いながら、石柱とやらを探し続けた。
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....が、やっぱり探せれなかった。
となれば、本当にここに大舘が埋葬されていたかどうか、
村人に聞きまわる以外にない。

我々は、男と離れ、独自に村人への聞き取りに向かった。
何人に聞いただろうか。
ほぼ全員が「埋葬されていたのは事実だ」という。
埋葬されていたのは日本人か? と聞くと。
半数は「知らない」、半数は「そうだ」と言う。

もっと見識のある人に聞いてみたい。
で、村長さんの家に行ってみた。
村長さんは留守だったが、村長さんの奥さまがいた。
奥様が電話で連絡してくれた。
「埋葬されていたのは、日本人だった」
との過去形の返事が返ってきた。

じゃ、その遺体、今はどうなったのか?
なんとか、聞き込みを続けたく、村長夫人に頼んでみた。
と、まだご存命のベテランがひとりいるという。
こちらで、ベテランと言うのは、独立戦争を戦った元兵士をいう。
「その方にお会いしたら」と言う。

是非に話を聞きたいと、家を紹介してもらった。
で、逢えたのが、この人、Bapa Kutut Bagusu さん、
の、ちょっと昔のお写真。
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で、現在はというと....
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バグスさん、おいくつですか? と聞くと....
「ええ?」 と言う。
介添えの人が 「耳が遠いので」 と、教えてくれた。
大きな声で聞いてみた、おいくつですか?
「オレか、100歳以上だよ」

以下、
バグスさんとの話は、次回とする。
by yosaku60 | 2016-10-23 09:35 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その6; モニュメントの謎)

ピンダ中尉の証言では、Sawah での戦闘と書かれていた。
戦闘のあったところには、必ずモニュメントが建てられている。
それを探しに行ってみた。
bajera からSawah に向かって伸びる細い道...
全体に舗装されていて、まずまず走りやすい。
所々に棚田が拡がる。
7キロほど走るとSawah 村に着いた。
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大概が村の北の外れ(アグン山の方向)...
にモニュメントが建てられる。
村の外れに来るも、それが見つからない。

村人に尋ねると、
「ここからはまだ遠い」という。
案内してもらった。
sawah 村を外れると、急に悪路になった。
穴に落ちないように、ハンドルを切り切り、北に2キロ....
Wana Giri の村まで行き着いた。
そこにあったのが、このモニュメント...
手前が案内してくれたおじさん。
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次のように書かれている。
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戦闘があった日を1946年5月22日としている。
ピンダ証言では、5月23日となっていた。
一日の違いだ...
バリ島では、こんなのミスに入らない(笑)...
これだ!

戦死者の記録を見てみよう。
ピンダは、次のように記述していた。


この戦闘で戦死した分隊員は、
大舘(I sunia)、I Kadek 、 I Rinteng、
そして、3人のB・Bの若者だった。



ひとりづつ見てみたい。

1、  I Ketut Ritteb (Wane Giri)

    Wana Giri出身だ。
    ピンダが言う、地元民3名の内のひとりなのだろう。

2、  I Nyoman Degeg (Wana Giri)

     この男も地元民3名のうちのひとりだ。

5、  I Made Rinoh (Pandak)

    Pondok Sawah 出身であろう。
    同じく地元民3名のうちのひとりと思われる。

3、  I Made Sukada (Badung)

    Made を Kadek とも言う。
    バリ島では、同じ名前だ。
    ピンダが戦死者に上げている、I Kadek と思われる。

4、  I Wayan Rinteng (Badung)

    あった!
    ピンダ記述の I Rinteng だ。

間違いない。
これが、Sawah の.....いや、Wana Giri の戦いの記録だ。

......

うん? 大舘の名が欠けているじゃないか!
大舘は、ここでは戦死していないのかも...

で、我々(私、カミさん、エヴィ、藤沢女史)...
の次の調査は、大舘探しに移っていった。
by yosaku60 | 2016-10-22 08:52 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その5; Wana Giri の戦い)

ということで、Wana Giri の戦い....
のピンダ中尉の記述を語りたい。

(ピンダ中尉証言)

dalang 村を出て、数十歩も歩いていない時、
Sumandhi分隊の隊員の一人である、大舘(バリ名=I Sunia)が、
緑ヘビに足を噛まれそうになった。

 (註) Dalang村; 本部のあるムンドックマランからsawahに向けての
     北側2キロの地点である。
     ということは、出発してすぐのアクシデントであった。

 (註) 緑ヘビ; 細い小さなヘビであるが、猛毒を持っている。

勿論、このヘビは足を噛む前に振り払われて殺されてしまった。
が、大舘は、これは良くない兆候だと感じたのであろう。

「私は必ず死ぬ」...と真顔で言った。

友人たちは、
「バカな、そんなことはありゃしないよ」と慰めた。

しばらくすると、今度は、 I Kadek が
「サソリに噛まれた」と、わめきだした。
昨夜から、彼の靴の中に入っていたらしい。

こんなことがあり、この分隊の者は、重苦しく押し黙ってしまった。

次に、I Sukarta が穴の中に滑り落ちた。
と、この分隊は日ごろおしゃべりする連中だが更に押し黙ってしまった。

暫くして...
Sugianyar大尉は、
Pondok Sawahに派遣されていた、Sarja小隊と出逢った。

  (註) Pondok Sawa ; Sawah 村に近い処にある。

Sugianyar 大尉は、
Sarja 小隊に 敵のいる方向に進軍するよう指示をした。
我々(ピンダ小隊)も Sarja小隊と同じ方向に進軍した。

敵所在の場所に、ほぼ近づいたと思われる時、
B・Bの若者たちが道を指さして、
「敵は、まだ2キロ先です」と言った。

  (註) B・B ; ピンダはこのように書いているが、
      その意味がわからない。
      が、多分、地元民兵の組織名であろうと思われる。

それで、Sarja中尉は、部隊を止め、
敵を包囲するように、二つの分隊に分けた。
その分隊のひとつ、Sumandhi分隊は、北の方角に迂回することになった。

この陣形で戦闘を展開すべく歩き始めたが、
数十歩も行かない内に、突然に、
ものすごい自動小銃の一斉攻撃の音が響き渡り、
それと同時に恐ろしいうめき声や叫び声が聞こえて来た。

少なくとも、18名が被弾し、そして地面に倒れた。
その18名のうち、ある者は戦死し、ある者は負傷した。

生き残った者は、恐ろしさでパニックになった。
慌てふためいて、走り回り、谷底に飛び込んだ者もいた。
部隊は、めちゃくちゃで、指揮もとれなくなってしまった。

オランダ兵達は、勝った勢いで全員立ちあがり、
あわてふためいている若者たちに銃弾を浴びせた。

この自動小銃の一斉射撃で被弾した者達は、
一番前を進んでいた、Sumandhi分隊であった。
その分隊の中の何人かが気を取り直し応戦した。
その応戦があったため、オランダ軍も退却して行った。

この戦闘で戦死した分隊員は、
大舘(I sunia)、I,Kadek 、 I Rinteng、
そして、3人のB・Bの若者だった。


負傷したのは、衛生兵一名と11名のB・Bの若者達、
他にSumandhi、 I Swetja、 I Bakir も負傷した。

部隊員全員は、畑の中に伏せていたが、
負傷者の傷は、それほど重くなく、各人が自力で這って、
敵から遠ざかって行った。

Sumandhiは、腹に何発かの弾を受け、畑に横たわっていたが、
ちょうどそのとき、I Gereh が彼を見つけ、近づいて来て...

「Pak Alit Made、 まだ生きているかい」と囁いた。

  (註) Pak Alit Made; Sumandhi の呼び名

Sumandhi は、勿論応えることができなかった。
が、I Gereh は、彼がまだ息があるのをみて担いで走って逃げた。

この悲しい事件は、
1946年5月23日午前9時のことであった。
by yosaku60 | 2016-10-21 10:27 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島残留日本兵・大舘の謎に迫る(その4; Wana Giri の戦い=序文)

バリ島における独立闘争の調査において、
私が参考にしているのは、
「Genpilan Perjuangan Induk Ngurah Rai」という表題の本である。
著者は、I Gusti Ngurah Pinda (いわゆる、ピンダ中尉)
で、ングラライ軍では、大砲隊を率いていた。

  (註) 大砲と言っても、電柱を切って作った自家製の大砲、
      砲弾だけは、日本軍が残したものを使用。

ングラライの側近で、時には参謀の役をこなしていた人物である。
戦後も生き残り、バリ州の副知事まで務めた。

この 「Genpilan Perjuangan Induk Ngurah Rai」....
理路整然とし、誇張を控えた著述だが、原文は309ぺージにも及ぶ長編である。

この長編の全てを翻訳したのが、東京在住の稲川義郎さん。
縁あって、親しくお付き合いさせていただいている。
この翻訳だが、
「バリ日本会」の要請を受け、2か月で翻訳したという。
翻訳本は、439ぺージにも及んでいる。
「おかげで一気に老眼が進んだ」と稲川さんは笑いながら言う。

ということで、
私は、稲川さん翻訳のピンダ中尉の「従軍記」を主たる参考書として、
このブログを書いている(稲川さん、ありがとうございます)。

が、ピンダ中尉の記述にも時々ミスがある。
内容のミスは、解りようがないが、地名のミスである。

で、私の現地調査....

ピンダ中尉の記述(地名)に誤りがないかどうかが主である。
それに、現地に佇むことで、
当時の戦いに思いを馳せることを付加価値としている。

さて、
大舘の戦死であるが、
ピンダの記述では、「Sawah」となっているが、
現地に行ったところ、戦死したのは、sawah から 2キロ北の、
「Wana Giri」であることが、解った。

今後の私の記述も、
大舘は、Wana Giri の戦いで戦死した、ということで語り継ぎたい。
by yosaku60 | 2016-10-20 09:50 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)


常時ほろ酔い候
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