あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



<   2016年 08月 ( 27 )   > この月の画像一覧


ヌサマラ村の戦いの6月2日が解せない理由(その1;ピンダ証言)

島村中尉が消息を絶ったヌサマラの戦い....
そのモニュメントの日付が、1946年6月2日と記されていることが解せない。
検証したい。
島村中尉は、ジャワ海軍のマルカディ大尉に付いてバリに来た。
ということは、マルカディ大尉の行動を探れば、それが解る。

マルカディ大尉がバリ島に上陸した期日であるが、
ングラライ軍参謀のピンダ中尉が、詳しく書いている。

.........

(ピンダ中尉証言)

我々がムンドックマランに居た時(1946年4月中旬~5月上旬)のことである。
ングラライ将軍は、ジャワ海軍の援軍を心待ちにしていた。
そんな時、ギリマヌクの近くに、
マルカディ海軍大尉が率いる陸戦隊が上陸したとの報が届いた。
将軍は、早急に迎えに行くように、ジョコルダ・ングラに指示した。
ジョコルダ・ングラは、別名、ブレオと呼ばれていた。
ブレオは、マルカディ大尉に会いに行くため、
村人に変装し、森や村を抜け、ジャングルを歩いた。
10日後、Yeh Embang 村でマルカディ大尉に逢うことができた。

 
  (註)このYeh Embang 村の位置であるが、
     ギリマヌクから50キロと遠く、ここまで進軍して来ていたのだ。
     が、同時にそこは、ヌサマラ村から5キロの至近でもあった。
     ブレオがマルカディ大尉に会えた日であるが、
     記述がないものの、4月25日~5月5日の間であったと思われる。


以後、マルカディ大尉隊は、ブレオに案内され、ムンドックマランに向かった。
が、ムンドックマランの本部がオランダ軍の襲撃を受け(5月11日)、
ングラライは本部をムンドックマランからベンケルアニャールに移動した。
マルカディ大尉がングラライに会えたのは、そのベンケルアニャールの地であった。

...........

島村中尉がマルカディ大尉隊と分かれて分隊を作ったのは、
ングラライの使者のブレオがマルカディ大尉と会った頃と思われる。
であれば、4月25日~5月5日の間であると思われる。
同時に、その地は、ヌサ村に近かった。
なのに、島村中尉分隊の戦いがあったのは、6月2日。
敵から逃げ回りながら戦うゲリラ戦にあって、
一か月以上もの間、同じ地に潜んでいたなんて、解せない。
by yosaku60 | 2016-08-31 10:58 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

ヌサマラ村の島村中尉の調査報告

ジャワ海軍のマルカディ大尉から残留の指示を受けた島村中尉隊....
を調査しに、ヌサマラ村に行って来ました。

ジェンブラナ県の Rambut Siwi 寺...
この寺は、バリ島からジャワ島に渡るために、
ギリマヌク港に至る途中にあって、道中の無事を祈る有名なお寺ですが、

そのRambut Siwi 寺を左に見て、右の田圃に入る道に行き、
それから約5キロ北上した行き止まりにある村がNusa Maraです。

そこに、こんな立派なモニュメントがありました。
まだ、ま新しいので、建て替えたのでしょう。
d0083068_10543834.jpg

村人にモニュメントの意義を聞いた処、
1、休息中にオランダ軍に襲われた。
2、襲われた場所は、ここよりもっと山に入った処であった。
3、モニュメントは、村の外れのこの位置に建てた。
とのことであった。
語られる史実どおりである。

が、戦死者はいなかったのか...の問いに、「いなかった」と言うし、
(Ngatimoという名のジャワ人兵士が戦死している筈)
ボスは日本人だった筈だが....の問いに、「知らない」と言うし、
それに戦いのあった期日であるが、1946年の4月下旬~5月上旬であるべきが、
モニュメントには、次のとおり、6月2日になっている。
d0083068_11323884.jpg

もっと、知りたい、詳しい人を紹介してくれ.....というと、
村人が口を揃えて言う人物がいた。
Gusti Agung Ketut Mendera である。
5キロ離れた、Desa Yeh Embang Kangin の
バンジャール Tibu Sambi に住んでいるとのこと。
会いに行って来た.....この人だ。
d0083068_11401252.jpg

現在、87歳、
シンガラジャの陸軍士官学校で日本人から教育を受けた....
独立戦争にも参加した、ベテランと呼ばれる退役軍人だ。
独立後は地域の学校の校長先生をしていたのとこと。
d0083068_11442596.jpg

彼曰く
1、Nusa Maraの戦いがあった時は、自分はまだシンガラジャにいた。
2、その後、郷里に帰って来て、独立軍に入ったので、詳しくは知らない。
3、日本人がいたこと、戦死者がいたこと、本から知るだけだ。
4、Nusa Mara でオランダ軍に駆逐された味方兵は、
  東に向けて散りじりに逃げたと聞いている。
5、その後、どうなったかは、知らない。

ということで、
島村中尉は、東に向けて逃げたものの、その後の消息は全く分からない。
どこかで殺されたのだろう。
M,Shimamura をバリ島で戦死した残留日本兵のひとりにカウントしたい。

6月2日という戦闘日が解せない理由は、明日のブログに書きたい。
by yosaku60 | 2016-08-30 11:32 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

トニッ.....は、昔も今も可愛い

バリ島に住むことの値打ち....
オレにとって一番に上げるのが、マッサージ。
マッサージ嬢が美人で、テクニックが上手く、しかもお安い。
そうした中のひとり、トニッちゃん...!!
これが、5年前、23歳。
d0083068_12194745.jpg

これが、一年前。
手前がスリーちゃん、ひとりおいて、トニッ....!!
そしてコミン、その奥がオレ。
d0083068_12211591.jpg

つい先日、家に来てくれたトニッ....!!
現在28歳、少し、大人っぽくなったかも知れない。
d0083068_12225189.jpg

by yosaku60 | 2016-08-29 12:22 | バリ島=マッサージ | Comments(0)

島村中尉とは誰で?どうなったのか?

バリ島での独立戦争....
に援軍としてジャワ海軍隊がかけつけた話は何度も書いて来た。
ジャワ海軍隊で、バリ島に上陸を成功させたのが、マルカデ大尉。
マルカデ大尉についても、過去に書いて来た。

さて、そのマルカデ大尉だが、
残留日本兵を二人連れてジャワから来たらしい。

その内のひとりは、スラッマ曹長で、、
最後までングラライと共にし、現在マルガラナの英雄墓地で祀られている。

もうひとりが、島村中尉である。
M,Simamura と呼ばれ、バリ名が伝わっていない。

マルカデ大尉は、ングラライに会うためにムンドックマランに向かった。
しかし、ジェンブラナ県でも、戦闘があった。
で、その対応に、軍を分け、一分隊を島村中尉に託した。
島村中尉隊である。

が、隊は、ジェンブラナ県の Nusa Mara で休養している時に、
スパイに密告され、敵に襲われた。
島村中尉の消息もそこで消えている。

何があったのだろう。
今朝は、Nusa Mara に調査に出発します。
by yosaku60 | 2016-08-28 08:27 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

トゥグ・アメルタユダ(モニュメントの名)

バリ島北岸にジャワ海軍部隊が上陸したのは、一度か、二度か?
それを確かめるために、Celukan Bawang の現地調査に行ったこと...

昨日のブログに書きました。
今日は、そのつづきです。

Celukan Bawang で、
ジャワ海軍部隊上陸のモニュメントを発見した後、
もうひとつ、モニュメントがあるかも知れないと、
しつこく現地調査をしていたところ...

「ある....」

との聞き込みをしたのです。
でも、海岸ではなく、山の方の、Desa Paras という処。
んで、行ってみました。
で、二度と来れないような路地に入り、山に向かったところで、
見つけたのが、これ!
d0083068_102116.jpg

Tug Amerta Yuda という名のモニュメントとのこと。
管理しているのが、同じ敷地に住む、Hasanudinさん(写真)
d0083068_10332248.jpg

次は、Hasanudinさんが語ってくれた話。
1、私の父は、この地の有力者だった。
2、父を頼りに来た、3人の若者がいた。
3、Gusti Membe と Nadie と Jubad の3人だった。
4、3人は、インドネシア独立のために地下活動をしていた。
5、その3人の活動をオランダ軍に密告した村人がいた。
6、Madesitran という名の村人である。
7、ある日、オランダ軍が、どかどかと、この地に入って来た。
8、父が止めるのも聞かず、オランダ兵は、寝ている3人を銃殺した。
9、その後、父は、この他に匿っていないか折檻された。
10、その折檻の場には、Hasanudinさんもいた。
11、当時、Hasanudinさんは、5歳ほどだったそうで、今でも覚えているとのこと。
12、父は、オランダ軍に連れていかれて、山の中でさらなる折檻を受けたとのこと。
13、山から帰ってきた父のげっそり細った姿を今でも覚えて居るとのこと。
14、このモニュメントは、バリ兵のベテラン(戦友会)が作ったもの。
15、独立記念日は、このモニュメントの前で盛大なセレモニーが行われる。
16、密告した村人の家族は、この地に住めなくなって、どこかに消えた。
d0083068_10593825.jpg

ところで、
Celukan Bawang のジャワ軍上陸と、
このモニュメントは、何か関係がありますか....と聞いたところ、
16、それは、ない。 
17、此処では、戦いがあったのではなく、一方的に殺されただけだ。

Celukan Bawang のジャワ軍上陸は、一度ですか、二度ですか....
とも聞いてみたが、
18、一度だけでした。....と、明言した。

日本軍統治時代のこと、覚えていますか...とも聞いてみた。
19、父を通してよく覚えている。
20、村人に橋をかける作業をさせられた時、「丈夫でない」と何度も作り直された。
21、父は、日本人は厳しすぎると、いつも苦情を漏らしていた。
by yosaku60 | 2016-08-27 10:38 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

バリにも自然薯があるそうな

知り合いさんから自然薯を分けて頂きました。
日本から株を持ってきて、こちらで育てた自然薯だとのこと。
夕べ、食した処、粘りがあって、美味しく頂けました。
d0083068_942136.jpg

で、バリ島にも、
ブドグルの山の方に自然薯らしきものがあるとのこと。
バリ語では、ウビクラディ(Ubi Keladi)....
インドネシア語では、Telas というそうな。
今度、ブドグルに行ったら、探してみよっと !
by yosaku60 | 2016-08-27 09:49 | バリ島=社会・生活 | Comments(0)

リンデキットの戦いの現地調査

リンディキットで、オランダ軍と戦ったジャワ海軍隊....
のバリ島北海岸への上陸について語った、私の以前のブログ....

2016年7月22日の
リンディキットの戦い(その3;ジャワ海軍がバリ島に来た経緯)

で、次のように書いておいた。
再掲する。

.........

(Ⅰ説)

1946年3月3日、ワロカ海軍部隊一ヶ中隊が、
囮部隊としてバリ島北海岸のCelukan Bawang に上陸した。
そこでオランダ軍と戦い、敵兵8名を殺した。
その後、ジャワに戻り本隊に合流し、
ジャワ島西海岸から上陸しようとしたが、
敵側の警戒が厳しく、上陸できるスキがなかった。
で、バリ島北部に至り、
4月6日、Yeh Biu の地点からの上陸を敢行した。

(Ⅱ説)

4月6日、囮部隊として、バリ島北海岸のYeh Biu に上陸を敢行した。
(即ち、3月3日のCelukan Bawang 上陸は、なかったという説)

私は、どちらかというと(Ⅱ説)を指示している。
(Ⅰ説は、Ⅱ説と混同し、2度書きしている)

........

こんな風に買いたオレ、結局は逃げているのだ。
納得できない。
で、上陸地点を現地調査に行って来た。

上陸のモニュメントが二つあれば、Ⅰ説が正しい。
一つであれば、Ⅱ説が正しい確率が高くなる。

と言うことだ。
んで、コミンとコミンの息子のグデを連れて現地調査した結果....

Celukan Bawang の街とYeh Biu  の街の、
二つの街の距離が、陸上では、4キロ離れているが、
海上では、Kapur Point を隔ててとなり合った至近にあることが解った。

要するに、Celukan Bawang と書こうが、
Yeh Biu と書こうが、同じ場所であるということだ。

現地の写真で説明しよう。
ここが、Celukan Bawang の港(桟橋)....
で、桟橋の左側が、Yeh Biu である。
d0083068_1044457.jpg

そして、ジャワ海軍上陸を記念するモニュメントだが、
Celukan Bawang の港の東端の地点にあった。
立派なモニュメントだ。
d0083068_10464746.jpg

コミンの息子のグデと一緒に....
d0083068_10503318.jpg

んで、調査結果だが、住民の聞き込み結果も含めると、
Ⅱ説...即ち、ジャワ海軍が一度きりの上陸であった可能性が高い。
以後、私の書き物は、それで統一させることにする。
by yosaku60 | 2016-08-26 10:48 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

バツカーン村の戦い(その2;現地調査)

「バツカーン村の戦い」の現地調査に行って来た。
次のとおり、わかったこと、わからないこと、いろいろあった。

1、 その地は、バツカーン村、ではなかった。

バツカーン村への道だが、
プラガ村の大橋を真っ直ぐ北上すると、ランプ村に突き当たる。
その突き当りを右に曲がり、キンタマニー方面に向かうが、
1.5キロ進むと、右に折れる細い道があるので、そこに入る。
で、再び南下すること、4キロでバツカーン村に着く。
が、戦いのあったのは、そこではなかった。
そこから、更に3キロ南下した処がムンガニ村....
そこから、更に3キロ南下したムンガニ村の南の果て....
が、戦闘があった場所であった。

で、巷間「バツカーン村の戦い」と呼ばれているのを
今後は「ムンガニ村の戦い」と修正して呼びたい。

なぜに、こういう間違いをしたかだが、現地に行けば理解できる。
バツカーン村の方がムンガニ村より、村落が大きい。
ムンガニ村も含めて、そのあたり全てをバツカーン村と思ったのだろう。
グーグルアースで、ムンガニ村のモニュメントの位置を確認したい。
左の線は県境である。
線の左は、バドン県、右がバンリ県である。
中央の白い線がムンガニ村に届く道。
途中で切れているのは、ここで行きどまりだからだ。
その行き止まりの点から、更に少々南下すると赤い丸印がある。
ここが、モニュメントの位置である。
右も左も前も谷であること、お分かりいただけると思う。
d0083068_11264337.jpg

2、空から狙い撃ちされて当然。

丘陵の頂点にあるムンガニ村、
こんなところに500名もの兵隊がうごめいておれば、
空から簡単に発見されること、でグーグルアースの地図を見て、
お分かりいただけると思う。
マデダルマの証言通り、味方兵の右往左往が目に見える様だ。

3、現地の人は、何も知らない。

ムンガニ村のモニュメントを見て欲しい。
お詣りのチャナンが、新旧入り乱れておいてあった。
村の人が、モニュメントの存在を大事にしていることがうかがえる。
が、がである。
「このモニュメントの意味知っていますか」
と何人もの村人に聞いたのに、誰もがその意義を応えれなかった。
二人のバリ兵が、ここで戦死したことなんぞ、語り継がれてもいない。
日本では、考えれないほど、のんびりしている(笑)。
でも、日本では考えれないほど、大事に扱われているのも確かだ。

以下、現地取材の状況を写真で紹介する。

バツカーン村からムンガニ村に至る途中の道。
奥の林の向こう側は、崖になっていて降りれない。
d0083068_11292924.jpg

ムンガニ村に着いた。
戦闘の記念モニュメントがどこか、聞くと、
車も入れない、お寺の横のこんな道を行くように教えれた。
d0083068_11311263.jpg

前を歩くのは、コミン。
バリ語を話せる彼女は強い。
目星がついたのだろうか...
オレをさしおいて、どんどん前に行く。
d0083068_11314274.jpg

こんなところに出て来た。
ああ、突き当りに何かありそうだ!
d0083068_11323546.jpg

あった、これだ!
まさに、左右前方の全てが谷に通ずる、行き止まりの地であった。
このあたりで、二人が殺されたに違いない。
d0083068_1135899.jpg

探し当てれたことに感激しているオレ。
d0083068_11392017.jpg

by yosaku60 | 2016-08-25 11:52 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

バツカーン村の戦い(その1;Made Dhamaの証言)

Batu Kaang で戦いのあったことを書いているのは、Made Dhama である。
戦後、日本にも来て、靖国神社をお詣りしてくれたバリ人である。
ご本人は、10年前にお亡くなりになっているが、
奥様(写真)は今だご健在であり、私も何度かお会いしている。
d0083068_1085534.jpg

奥様も従軍看護婦として、独立戦争を戦っている。
Made Dhama は、バドン大隊擲弾筒分隊の分隊長であった。
当時の記憶を辿る戦記、間違った記録も多い。
で、記憶を語る場合、何人か戦友に事実を確認してもらうことになっている。
これから語る、Made Dhama の証言は、次の4氏が事実確認している。
1, Ketut Dangga ; バドン大隊中尉 指揮官 
2, Nyoman Sarja Udaya ; バドン大隊中尉 機関銃射手
3, Gusti Made Oka ; バドン大隊中尉
4, Gusti ketut Gede Oka ; バドン大隊 擲弾筒班 助手

(Made Dhama の証言)

Batu Kaang 村で初めてオランダ軍の放った照明弾を経験した。
夜だというのに空は光り輝き、その明るさを利用して、
オランダ軍は、雨あられと我々を撃ってきたので、
部隊は大混乱になってしまった。
目標もなく右に左に逃げ回るばかりとなった。
敵と味方の距離も20メートルほどで、
そんな至近距離から撃たれたらたまらない。
味方の Dewanli と Made Geh の二人が弾に当たってしまった。
そのあとに、部隊に西の方角に退去するよう命令が届いた。
空にはもう照明弾を撃ちあげてこなかった。
我々は、朝まで休息をとることにした。
翌早朝の5時頃、外はまだ薄暗い光の中、
谷間の方から敵とおぼしきイギリスの鉄兜を被った人物が、
こちらに歩いて来るのが見えた。
私は、指揮官のピンダ大尉に、
「擲弾筒を一発打ち込んでやりましょう」と話したところ、彼から、
「だめだ、弾は高価なんどぞ」と断られてしまった。
日も昇り空も完全に明るくなったので、あたりを見まわしたら、
オランダ軍は全員去った後で、例のイギリスの鉄兜人物がいた。
よく見たら、それは味方のSugianyar大尉であった。
by yosaku60 | 2016-08-24 12:57 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

ワジャのお墓に行って来ました。

「バツカーンの戦い」の現地取材に行く途中、
プラガ村のワジャのお墓に行って来ました。

好き嫌いでものを考えてはいけないのですが、
インドネシア独立戦争に与したを残留日本兵の中で、
私は、ワジャがもっとも好きなのです。

大男で口数が少なく、とにかく勇敢でした。
地元バンジャールにお墓の清掃を頼んでおりますが、
すこしづつ汚れて来ており気になります。

コミンが掃除してくれました。
d0083068_81573.jpg

持参したチャナンを添え、お詣りしました。
d0083068_823981.jpg

by yosaku60 | 2016-08-24 08:04 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)


常時ほろ酔い候
カテゴリ
画像一覧
以前の記事
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月