あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



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家に棲みついたトッケイの赤ちゃん

3日前には、こういうところにいた。
棒でつつくと反応するトッケイの赤ちゃん。
死んでいる様で死んでいない。
が、その命、風前の灯の呈であった。
ひからびたら、ゴミ箱に捨てようと待っていた。
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が、2日前には、そこから消えていた。
で、昨日、玄関の下駄箱を動かすと、その下に隠れていた。
ここまで動いて来たということは、まだ生きていたんだ。
棒でつつくと、大きな口を開けて威嚇してくる。
口の中が真っ赤だ....気色が悪い。
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下駄箱を元の位置に戻すと、ゆっくりその下に入って行った。
その態度、堂々としていて、生意気だ。
どうも我が家の玄関付近に棲みついているようだ。
なんて、ヤだ、ヤだ。
by yosaku60 | 2016-02-29 23:18 | バリ島=その日のできごと | Comments(2)

ングラライ、Yeh Kuning に再上陸する

日本軍を襲い武器を奪うことに失敗した、ングラライ....
一旦、ジャワに渡り、
ジャワ島東部のバニュワンギからバリ島ジュンブラナ県のイエクニンに
再上陸してきたのが、1946年4月4日。
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ということは解っていた。

ングラライは、何故にジャワに渡ったのか。
バリ島での独立戦争のための、

1、援軍を頼むこと
2、武器を運ぶこと

の二つであったことも解っていた。

結果、援軍はマルカディ海軍部隊のみ成功し、
あとの援軍は、全てオランダ軍によって阻止された。

ということも解っていた。

オレが解らなかったのは、
ジャワから武器の搬入に成功したかどうかということ。
それに、
再上陸地点のyeh Kuningに記念塔があるかどうかということ。
の二つであった。

そのことが、次の新聞記事で解った。
武器の搬入に成功し、記念塔もあったのだ。

前置きは、このくらいにして、
新聞記事の出所のことを書いておきたい。

「バパ、こんな記事があったよ」
と、ワヤンが持ってきてくれたのが2か月前。

ワヤンは、毎月2回、オレの家に来る。
ってことは、この新聞記事がここ3か月以内のものであろう。
こんな写真入りの記事であった。
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記事のインドネシア語が難解でオレの手には負えない。
エヴィに読んでもらったところ、次のような内容であるとのこと。

1、先日、ングラライの上陸記念塔が再建され新しくなった。
2、その記念塔は、Air Kuning のモスクの中にある。
3、ングラライは、Air kuningに上陸した。
4、上陸するであろうことはオランダ軍にばれていた。
5、上陸して、すぐに海岸のモスクに隠れた。
6、そのモスクは、ングラライに味方してくれることは解っていた。
7、ングラライは、モスクに着くと、すぐに搬入した武器を埋めて隠した。
8、オランダ軍がモスクに来た。
9、ングラライが居るはずだ、と問い詰めて来た。
10、モスク側は、いない、と突っぱねた。
11、オランダ軍とて、神聖なモスク内を探すことはできなかった。
12、オランダ軍は、一旦あきらめて帰った。
13、ングラライは武器を掘り起こし、隙を狙って、モスクを出た。
14、で、軍を旗揚するムンドックマランに向かった。

新聞の写真ではなく、この目で見に行きたい。
でないと、自分の言葉で書けない。

ングラライの再上陸地点だが、
文献では、Yeh Kuning となっている。
が、この新聞記事は、Air Kuning となっている。
Air Kuning は、Yeh Kuning の2キロ西の海岸である。

どちらが正しいのだろうか。
現地に行って、それも確かめたい。

行きたい処が、次から次と出て来る。
オレは、欲張りだ.....どうしよう。
by yosaku60 | 2016-02-28 10:42 | バリ島での独立戦争 | Comments(2)

Bengkel Anyar への道(その5)

Bengkel Anyar への道....
現地に行くこともあるかも知れない方のために書いておきたい。

Penatahanの町の中の三叉路の交差点を南西に向かう道はすぐに分かる。
が、そこから1.2キロ走ったところに、あるはずの三叉路が見つけにくい。
三叉路で右折するのだが、
その右折の道が坂を降りるようになっており、みつけにくいからだ。

さて、Penatahan の町から、
Bengkel Anyar への道、俄然、モニュメントが多くなる。
そのひとつひとつを紹介する。

まずは、これ....
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標識には、このように書いてある。

pada hari ini kamis tgl 5 april 1946
di tempat ini terjadi pertempuran antara pasukan pejuang
vaitu;laskar P.R.I.T.K.R dipimpin oleh;
SDR. Made Bole dan SDR. Djigreg dengan tentara NICA

要約すると、
1946年4月5日の木曜日、この場所で、
Made Bole と Djigreg の率いるバリ軍が
オランダ軍と戦った。

とある。
ングラライがジャワ島から武器を運び、
ジンブラナ県のYeh Kuning に再上陸したのが、1946年4月4日と言われている。
であれば、1946年4月5日の木曜日は、その翌日になる。
ここでの戦闘...
ングラライのバリ島再上陸を知って勢いついて起こしたものか、
それとは関係なく、この地の部落軍が単独で行ったものか、
判断に迷うところである。

それはともかく、兵隊の服装と持っている武器を見て頂きたい。
右の兵は、上半身裸だが軍靴を履いており、
手には相当に殺傷率の大きそうな銃を持っている。
左の兵は、手榴弾を持っている。
独立戦争中、ほとんどの手榴弾が投げても爆発しなかったと聞く。
この、二人の兵の服装と装備、どちらも日本軍から奪ったものでなく、
オランダ軍から奪ったものと思われる。

んで、さらにBengkel Anyar に近づくと、
こんなモニュメントがあった。
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右は、インドネシア語、左はサンスクリット語であるが、
どちらも、この地で戦闘があった、とだけ書かれている。
服装と装備を見てみよう。
右は、裸足で竹槍を持っている、典型的な民兵である。
左は、完全武装し、鉄砲を持っているが、まるっきり日本兵と同じである。
おそらく日本軍から奪った武装であり武器であろうと思われる。
など、双方のモニュメントの比較が面白い。

さて、もう少し進むと、こんなのがあった。
バンジャールの集会場の前にあるモニュメントだ。
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7名の戦死者の名が刻まれている。
独立戦争で戦死した当バンジャールの戦士全員であろう。
4番目に、I Wayan Jigreg とある。
このモニュメントは、2011年に建てられたもの。
比較的最近である。
昔、Djigreg と表記されたものを 
最近では Jigreg と書くように変わってきている。
であれば、最初のモニュメントに書かれた、
二人の指導者のうちのひとり、であるかも知れない。
にわか作りのバリ軍....
指導者である勇士は、いつも先頭に立ち、真っ先に死んでいく。
日本兵の戦死率が極端に高いのもそうした理由だ。

さて、こうしたモニュメントがいっぱいある道路...
全てが、きれいに舗装されて走りやすい。
昔の戦闘を思わせるものは何もない。
こんな棚田がある、のどかな光景である。
また、ドライブだけの目的で来ても良い。
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さて、ということで、Bengkel Anyar の村に着いた。
早速、聞き込みを始めた。
と、ングラライ軍が集結した昔を誰もが知っていた。
が、そのモニュメントがあるかどうかについては、
回答がばらばらだった。
「突き当りを左に行くとあるよ」と説明されたが、
行ってみると、それはムンドックマランに通ずる道であった。
この村にモニュメントがあるかどうか聞いているのに....
オレのインドネシア語では、正確な聞き取りに限界がある。
にしても、バリ人というのは、歴史に興味を持たない。
いろいろな人が違った意見をいう。
まあ、いつものことだけど.....
ではあるが、
何度もそれも何人にも聞くために、村の街道をうろうろしていたが、
どうも、村の突き当りのお寺の中にありそうな、
ということに、意見が集約してきた。
こんな割れ門を潜って寺の中に入った。
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寺の敷地内に入ると、若者が一人追いかけて来た。
「そこに案内する」という。
その若者に案内されたのが、これ(寺院内の小さなお寺)。
前に立つのがその若者...ありがとうね。
若者曰く、
ングラライの本部が、ここを中心に展開されたという。
そして、毎年11月20日には、ここで記念行事があるという。
11月20日と言えば、ングラライの命日だ。
間違いない。
ここがングラライの司令部だったのだ。
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さて、今日のブログの中で、
ングラライのバリ島再上陸地、Yeh Kunin のことを書いた。
実は、つい最近のことであるが、
Yeh Kunin のその記念塔が新しく建て直された。
新聞記事からの引用であるが、明日のブログでは、それを書きたい。
by yosaku60 | 2016-02-27 12:09 | バリ島での独立戦争 | Comments(1)

Bengkel Anyar への道(その4)

Bengkel Anyar への道(その1)に戻って読んでもらいたい。

そこには、Bengkel Anyar に集まった、バリ兵の数を

.....

推測だが、
ムンドックマランに集結した兵は、約二千名....
旗揚げ式を終え、持ち場に帰った各地方部隊兵は、約千名....
残り千名ほどがBengkel Anyar の地に再集結....
.....

と書いている。
推測と言っても根拠がある。
ちょっと寄り道して、その根拠を書いておきたい。


ムンドックマランに司令部を置いている時期のングラライ軍...
タバナンの住民は、独立には積極的でングラライに協力的であった。
が、いつまでも、協力してくれる訳ではなかった。

タバナン付近にングラライが潜伏していると知ったオランダ軍は、
スパイを放ち、どこの村がングラライに協力しているか、調べさせた。
そして、
その村に一人でもングラライ軍に協力する者がいると解ると、
連帯責任ということで、その村を全て焼き尽くす作戦に出た。

ムンドックマラン周辺の村は、その恐怖から逃れるために、
オランダ軍に与する村が増えた。
それでもなお、秘密裏にングラライ軍に協力してくれる村はあった。
協力とは、兵隊への食料の供給であるが、

ングラライ軍が司令部に居座るだけでは、食料を賄ってくれない。
村人の前で、オランダ軍をやっつけなければ、食料をくれないのだ。

まあ、解らないでもないが(笑)。

困ったのが、ングラライ。
兵士に食料を配らねばならない。
そのためには、戦闘を起こさねばならない。
本来、ゲリラ戦というのは、身を隠しながら攻撃されれば反撃する。
そして、世論の変化を待つのがゲリラ戦である。
ングラライは、ゲリラ軍である。
ムンドックマランでの旗揚げでも、全軍にそう伝えている。
が、ングラライの場合、自分から攻撃を仕掛けねばならないのだ。
その作戦、さぞや難しかったに違いない。

ングラライは、攻撃部隊をいくつかに分け、
比較的遠くに遠征させ、オランダ軍を襲うことにした。

そのひとつが、Penebel (地図参照)の襲撃である。
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この襲撃は、Ketut (日本兵)のピストルの暴発(故意ではない)もあって、
次のとおり、不成功に終わっている。

    (Penebel l地区、オランダ軍前線硝所襲撃)

     襲撃指揮官; Pak Wisnu
     結果;     直前に敵に気付かれ、数人のオランダ兵を殺せたが、
              目的であった武器を奪うことには成功しなかった。
              味方軍からも頭部被弾一名があった。
              彼は、担架でSangketan村に運んだ。

で、襲撃されたオランダ軍は、
ングラライ軍の司令部はムンドックマランであろうと知りはじめ、
付近の村々を焼きながら、ムンドックマランを包囲し始めたのである。

そして、ついに、
ムンドックマランの激戦が始まるのである。
日本兵、高木米治の機関銃が炸裂し、
同じく、松井久年の12.7重機が火を吹くのである。

あああ、
書いていると、少なからず気持ちが高まる(笑)。
この辺の話は、日を変えて語る必要があろう。

んまあ、そんなんで、
ムンドックマランの潜伏がばれたングラライは、
司令部を移動するため、北に向かったのだが、
その移動を聞いた、外に派遣されていた別働隊の多くが、
本隊に合流すべく、ングラライの後を追ったのである。

そこのところをピンダ少尉は、次のように証言している。

(ピンダ証言)

ムンドックマランの戦いで、司令部がこの地に存在していることが敵に知られてしまった。
また、ムンドックマランには、相当数の兵が集結していることも敵に知られてしまった。
司令部を移動しなければならず、協議を重ねた結果、Bengkel Anyar 村に決めた。
司令部移動の秘密指令を外に出ている各部隊に伝達した。
Bengkei Anyar への途中に、Dalang村に寄ったが、
各硝戒所にいた兵も移動を始め、そのみながDalang村に集まることになった。
Dalang村は、武装部隊や武器を持たない部隊員で溢れてしまった。

......

この溢れた部隊員の全員がBengkel Anyar の地に向かったのである。
で、その数、約千名と書いたのである。
そうそう、
ジャワからの援軍、あのマルカディ海軍部隊もBengkel Anyarで合流している。
その海軍部隊には、日本人のスラマット曹長もいた。

そして、そして、この海軍部隊だが、
あとあとのマルガラナの玉砕には、加わっていない(以前の私の説はミス)。
その少し前にジャワに戻り、また、独立戦争を戦っている(稲川義郎氏調査)。
うん、もっと調べれば、マルカディ大尉だけ書いても物語になりそうだ。
ほんに、バリでの独立戦争には、傑出した人材が豊富に居たもんだ。

Bengkel Anyar への道と題しながら、
ちっとも村に着きませんね。 
今日は雑談に終始しました、ごめんなさい。 
明日こそ、Bengkel Anyar を書きます。
by yosaku60 | 2016-02-26 12:04 | バリ島での独立戦争 | Comments(1)

Bengkel Anyar への道(その3)

オランダ軍に全焼させられた町、Wongaya Gede....
町に入ってみたが、その昔を思わせるものは何もなかった。
簡単に建つ、バリの家....
既に70年前も経っている、当然と言えば当然だろう。

Wongaya Gede から3キロ登ると、
私が6大寺院の一つに入れたバトゥカル寺院がある。

行ってみた。

当日は、クニンガンの日。
多くのバリ人が参拝に訪れていた。
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奥の寺院は7重の塔であった。
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格式からして11重の塔が最高、それから9重、7重と下がる。
同じタバナン地区でも、ウルン タヌ ブラタン寺院は、11重である。
バトゥカル寺院を6大寺院の一つに入れたのは、
世界遺産の範疇に入る、ブヤン湖、タンブリンガン湖の守り神....
であることを理由にした。
確かに、ウルン タヌ ブラタン寺院は、11重の塔である。
が、ブラタン湖は、世界遺産の範疇に入っていないのだ。
ってことで、まあ、6大寺院を見直すまでもないかなあ~

バリ島で二番目に高い山、バトゥカル山...
の麓の寺院らしく、別院は、奥深さが感じられた。
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ネット情報どおり、観光客は欧米人ばかり。
試しに若者の一団に訊ねると、フランス人だった。
どうでも、良いことだけど...
日本人と欧米人、何が違ってこうなるのだろうか。
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さて、70年前のングラライ軍。
このバトゥカル寺院の西方至近を抜けて、山越えをする。
雨の残る5月の頃のこと...
ほとんどが20代の若者ながら....
山中での野宿は、夜露に濡れ凍えて眠れなかったそうな。
by yosaku60 | 2016-02-25 07:54 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

Bengkel Anyar への道(その2)

Mengesta 村に寄る理由は、
山道を通り Wongaya Gede に行きたかったから....
であるが、実はもう一つ理由があった。
病に悩んでいる知り合いがMengesta村にいて、
その人を見舞うためもあったのだ。

その家には、中学3年生の男の子(Putuという名)がいる。
Putu とこんな話をした。

ここからWongaya Gedeに行けるよね?
「うん行けるよ」
Wongaya Gedeって、戦争で焼かれた町だよ!
「うん、知ってる」

   そうなんだ、中学生でも知ってるってことは、
   それも5キロ離れた隣村の中学生...
   が知ってるってことは、誰もが知ってるってこと。
   4に挙げた調査...
   どのように言い伝えれているかは、調査完了。
   後は、現地を見るだけ.....簡単だ。

Bengkel Anyar に戦争のモニュメントがないかなあ?
「知らない」

   それはそうだろう。
   無理な質問だ。

Putuとそんな話をした頃、そろそろ12時になりかけていた。
少々、早いが腹が空いた。
昼食をどこで食べようか。
そういえば、温泉の前にワルンがあったなあ~
確か数軒あった筈だ。

てんで、
Putuに、あとでもういちど来るので、
Wongaya Gede町の途中まで、
道案内してくれるように頼み、温泉に行ってみた。

その温泉....
地図帳には、Hot Spring Belulang と書いているが、
そういう名は、地元では通じない。
単に Air Panas (温泉) と言った方が通ずる。
Mengesta 村 より車で10分で行ける。
こんな棚田に囲まれた風光明媚な処にある温泉だ。
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最初に、ここに来たのは7年前。
その頃は、近くの村の人しか、知らなかったし、来なかった。
それが.....見て!
今やこんなに多くの人が....
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温泉の温度は、38度ぐらいではなかろうか。
日本人にとっては、少々ぬるい。
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にしても、バリ人.....
7年前と人々の遊び方が変わってきている。
こんな光景を見ると、
少しづつ豊かになってきている。
と、つくづくに感ずる。

さて、この後、
Putu に途中まで案内させて、Wongaya Gede に向かう。
by yosaku60 | 2016-02-24 10:21 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

ラクダ公園(仮称)で食事をしてみた

「お父さん、薬飲んだ」
エヴィが家に来ると、開口一番、こういう。
血圧の薬のことだ。
ああ、そうか....エヴィに言われた時だけ飲む。
良くなるとかの自覚症状がないものを飲んでもしようがない。

午前11時。
そんないつもの口調でエヴィが現れた。

エヴィ、来てくれてありがとう...
昼メシ、どこに行こうか...
エヴィの行ったことのない店にしよう...

とかで、
思いついたのが、ラクダ公園のレストラン。
が、食事の他に公園入場料が200円かかる。
「バリ人的には入場料が高すぎる」
「もったいない」と、エヴィが言う。

エヴィ、大丈夫だ、オレからはお金とらない....

確かにオレは無料で入れている。
が、それは、早朝のこと。
昼の一般客が来る時に顔パスが効くかどうか自信がない。

そうだ、エヴィ...
無料で入れたら、そこで食事をしよう.....

と、決めて、ラクダ公園に行った。
運のいいことに、受付に顔見知りがいる。
それもカデ(経営者)が。

勿論、無料だろうな!

でないと入らないぞ、と言わんばかりに高飛車に聞いてみた。
エヴィの手前もあって、ちょっと威張ってみたかったのだ。
カデ自らが「ボレボレ(どうぞどうぞ)」と応えてくれる。
ということで、いいかっこできたとさ(笑)。

まあ、そんな訳で、始まった昼食。
が、メニューを見てびっくり、ビール大瓶400円。
ローカル価格ではない。
ビールを止めてアクアにしよう。

今、オレはほとんどバリ人。
そんなオレにとって、ここはオミット!
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by yosaku60 | 2016-02-23 10:25 | バリ島=レストラン | Comments(5)

Bengkel Anyar への道(その1)

Bengkel Anyar に行きたい、と思い始めて半年、
先日、ついに実現した。

何故にBengkel Anyar なのか...を先に書く。

ムンドックマランで独立闘争への旗揚げ式を行ったングラライ....
そのムンドックマランで、オランダ軍との戦闘があった....
ゲリラ戦法をとるため、見つかれば、移動しなければならない.....
その移動先(司令部)が、Bengkel Anyar だった.....

推測だが、
ムンドックマランに集結した兵は、約二千名....
旗揚げ式を終え、持ち場に帰った各地方部隊兵は、約千名....
残り千名ほどがBengkel Anyar の地に再集結....

      (註) この後のバドゥカル山越えの兵はもっと減るが、
          Bengkel Anyar の司令部 への
          集結の初期は、千名ほどがいたと想像する。

Bengkel Anyar への司令部移動に際し、
Kukul Batu, Ketima, Sangketan などの地を経由している....
どこも司令部を置くに、安住の地ではなかった......
山へ山へ逃げるようにして行き着いた先がBengkel Anyar....
ングラライは、そこに司令部を置いた....

Bengkel Anyar に司令部を置くことができたングラライ....
ということは、その地の村人がングラライに協力的であったということ....


さて、
ということで、

1、Bengkel Anyar に、しばし安住できた理由のひとつに、
  地勢的なものがあれば、それをこの身で感じたい。
2、それから、70年過ぎた今日、
  今、村人は、昔の事をどのていど認識しているだろうか。
3、司令部があった名残が、今も残っているだろうか。

こうしたことが知りたいための
Bengkel Anyar だったのだ。

そのBengkel Anyar への道であるが、
ダイレクトに行くのではなく、バドゥカル寺院経由で行きたいと思った。
なぜなら、寺院の麓の町に、Wongaya Gede という町がある。

この Wongaya Gede。
ングラライ軍の司令部移動を阻むオランダ軍が、
みせしめに町全体を全焼した町である。
比較的大きな町なのに、それを全焼する....なんて、
その全焼につき.....

4、地元ではどの程度に語り継がれているだろうか。


ということで、Bengkel Anyar への道.....
目的とした 1~4 を知るためのルートとして、
次の各点経由を選んだ。

Tabanan
Biaung
Penebel
Mengesta
Wongaya Gede
Panatahan
Songketan
Bengkel Anyar
 
   (註)Sangketan の前の道路を「モニュメント通り」としているが、
      これは、私だけの思いで、つけたもので、正式名ではない。
      モニュメントが二つあったので、その二つのモニュメントに、
      どんな関連性があるか調べたく、その間の便宜的な呼称。
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by yosaku60 | 2016-02-22 09:04 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

今日はマニスクニンガンです

今日は、マニスクニンガンです。
ガルンガン(2月10日)から始まり、
クニンガン(2月20日)の11日間で終わる、バリのお盆....

と思われているが、正確に言えば、
スギアンジャワ(2月4日)から始まり、
マニスクニンガン(2月21日で終わる、
即ち、18日間も続いた、バリのお盆行事......

今日で全て終わった訳だ。
前にも書いたが、私は、マニスクニンガンの朝が好きである。

バリ人の全員が明るいのである。
全員に肩の荷がおりた安ど感が見て取れる。

早朝、いつものワルンに行った。
沢山のバリ人がにこやかに集まっている。

珍しい人と出会った。
左の中年女性、ワヤンである。
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友人(バリ人男性=名前はワヤン)のお姉さんである。
10人兄弟の長女でもあるから、名前は、やはりワヤン。
このワヤンにワヤン(弟)の近況を訊ねた。

「ワヤン、ワヤンはどうしてる?」
ワヤンを2回繰り返しているが、これで通ずるのだから、面白い。

面白いと言えば、
最近知り合った、ワルンの女将(右)と、左のワヤン....
二人は、親類(サウダラ)だそうな。
兄弟も親類も、みんなサウダラ....
で済ませれる、便利なバリ。
どれほど、近い親類かしらないが、
みんなで助け合うバリが丸見えで.....面白い。

面白いと言えば、まだある。
昨日のブログで書いた、ラクダ公園....
「地元では、どう呼んでいるのですか」と聞いてみた。

ワンティラン・デサ....と言うとのこと。
うそつけ!
いくらオレでも、ワンティランはバリ語。
デサは、インドネシア語だってことは解る。
ワンティラン・デサだなんて、オレへの説明用に即席に出た名なのだろう。
バリ人と話す場合、こういうことは良くある。

例えば、写真の魚の取り方....
なんと呼んでるか聞いてみた。
ちなみに日本では「まわし網」と呼ばれる。
と、スラット....と言うと教えてくれた。
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これも本当かどうかわからない。
というより、オレの質問が本当に通じているかどうか疑問なのだ。

話が、いろいろ飛んでとりとめもないことを書いている。
いずれにしても、
マニスクニンガンの朝.....
のバリをゆったりと楽しんで帰ってきた。

帰り際、朝飯代とコーヒ2杯代を払おうとしたら、
カミさんがいないオレを可哀想てんで
顔見知りのバリ人がおごってくれた。

カミさんがいないならいないで良いこともある。
ご馳走様! バリの友人たち。
by yosaku60 | 2016-02-21 10:19 | バリ島=慣習・伝統 | Comments(0)

ラクダ公園(仮称)のラクダ達

このところ毎日会いに行っているラクダ。
人懐っこいのだろう、近づくと、顔を寄せて来る。
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このラクダのいる場所....
以前ブログに書いたので省くが、
その名前、正式にどう命名されたのか知らない。
オレは、自分勝手に「ラクダ公園」と呼んでいる。
左が海、右がマングローブの砂州の上にある。
中央の小屋にラクダがいる。
この砂州...
多分、マングローブを守るための人口の砂州であろう。
であれば、この場所を借り切るには、
バリ州に相当の顔がなければ借りれないだろうに...
どうなっているのだろうか、
その辺のところの情報は、まだ得ていない。
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顔を摺り寄せて来るラクダ。
舐められても、意外に臭いがない。
それに牛の舌のように痛くない。
この写真、実は自撮り...
ラクダの顔を抑えながら撮るのが難しかった。
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隣に馬小屋があって、
馬たちと身体がすれ違うほどの近くで生活している。
草食動物どおしだからだろう、争うことがないようだ。
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ところで、このラクダ公園....
昼に来たことがなく、お客が入っているかどうか知らない。
聞くと、お客は中国人が多いとのこと...団体さんなのだろうか。
一度、昼に来てみよう。
ちなみに、ラクダ試乗料金、公園内一周で1000円だそうな。
by yosaku60 | 2016-02-20 08:24 | バリ島=その日のできごと | Comments(2)


常時ほろ酔い候
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