あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



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地下に潜った、パ・ジョコの徹底ぶり

8ページに及ぶ、バドゥン県、プナルンガン村の独立闘争史、
その書き出しが、パ・ジョコのことから始まる......即ち、

Jauh sebelum kemerdekaan R.I diumuumkan bahwa sebagai lelatu penderitaan masyarakat yang menyekam dada rakyat akibat keganasan yang tiada mengenal batas peri kemanusiaan dari pemerintah jepang,maka pada pertengahan tahun 1943 sudah dimulai suatu gerkan dibawah tanah selaku permulaan dibawah pimpinan I Made Wijaksuma dkk yang kemudian membentuk Markas B.L.(Banteng Liar)

意訳すると....
1943年にはすでに日本軍の強引さに反発するための組織体があった。
Banteng Liar; 野生の雄牛 と名付けられた地下組織であった。
そのリーダーは、I Made Wijaksuma であった。
と書かれている。

I Made Wijaksuma 即ち、パ・ジョコ(写真)である。
なんと、1943年から活動していたのである。
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インドネシアに独立の機運が高まって来たのは、
日本がインドネシアの独立を約束した「小磯声明」以降である。
小磯声明は1944年9月7日であった。

1943年と言えば、その一年前であり、日本がまだまだ強く、
スカルノやハッタの民族主義指導者を抑圧していた時であった。
そんな時、バリ島でパ・ジョコが地下組織を作っていたのだから驚く。

その頃のパ・ジョコは、若干20歳であった。
彼は日本の民政部が経営する「台湾畜産会社」に勤めていた。
台湾畜産会社とは....
バリのデンパサールにある缶詰工場で、
軍の要請で牛や豚を加工し缶詰にして前線に送っていた会社だ。

その台湾畜産会社に勤めていたパ・ジョコの上司に、
松川さんと言う方が居た。
戦後、その松川さん、稲川さん、パ・ジョコの3名が、
パ・ジョコの家で集まったことがある。

稲川さん曰く、その時、松川さんがパジョコに語ったのが、
「オレと一緒に仕事をしながら、そんなこともしてたのか」
「全然知らなかった」であったそうな。
その松川氏の発言に、
パ・ジョコは、笑うだけで何も言わなかったそうな。

稲川さん曰く、
松川さんは、パ・ジョコを頭が良くて仕事を任せると、
確実にこなす優秀で信頼おける人物だったと評価していた。
その信頼おける人物が会社を一歩出ると、
地下活動のリーダーであったなんて、ちっとも知らなかったのだ。

パ・ジョコ....全てを隠し通す意志の強さ...
目的に向かっって信念を貫き通すことの強さ....
それも若干20歳にして、だなんて....すごい!の一言に尽きる。
by yosaku60 | 2015-11-30 13:47 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

ヨシイの子供の名は、Shinju

バリヒンドゥーには、210日に一度、学問の神に祈る日がある。
サラスワティー(Saraswati)と呼ばれている。
学校は休校し生徒全員が神に祈る。

サラスワティーは、土曜日と決まっている。
ということは、翌日が日曜日ということ。
で、日曜日の朝、前日のお祈りの仕上げの禊ぎをする。
その禊ぎ、即ちマンディーは、
バニューピナルー(Banyu Pinaruh)と呼ばれ、
海に入って行われることが決まっている。

さて、そのバニューピナルーが、今朝....
浜に向かう道路は、バイクや車でいっぱいだったり、
山の民でしょうか...
荷台に子供をいっぱい乗せて浜に着くトラックもあったりして、
とにかく、サヌールの浜は、どこも人がいっぱい。

そんな浜を見ていると、海の方から、お呼びがかかる。
誰かと思えば、ヨシイ....
以前ブログで、私の名前と同じ、ということで掲載した女性。

「ヨシイ、私の家族が来ているから見て!」と、ヨシイが言う(笑)。
左がひとり娘で、名前が Shinju。
日本の真珠からつけた名前だそうな。
日本を慕ってくれて、ありがとう、ヨシイ(笑)。
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ヨシイは、夫と、さらにヨシイの弟の家族と一緒に来ていた。
右は、弟の子供の姪たち....
子供たちの笑顔を見ていると、気持ちが安らぎます。
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稲川さんを乗せた飛行機、もうすぐ、成田に着くころです。
稲川さん、いろいろお世話になりました。
我々夫婦、清々しい朝を迎えることができました。
by yosaku60 | 2015-11-29 09:46 | バリ島=慣習・伝統 | Comments(0)

ムンドックマランに堀内大尉の写真があった。

1945年8月、インドネシアは独立宣言をした。
1946年3月、日本が帰った後、オランダが乗り込んできた。
それにバリ人が立ち向かった。
ングラライ軍である。
1946年4月のことである。
その旗揚げ式の地が「ムンドックマラン」である。
約2000名のバリ人が集まった。
多くの残留日本兵もそれに加わった。
そんなムンドックマランの地に稲川さんをご案内した。
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稲川さんの後ろの像は、堀内大尉である。
残留日本兵の中では、最も階級が高く、
ングラライ軍では「参謀」として名を連ねていた。
戦後生き残った堀内大尉と稲川さんは日本で面識があった。
稲川さんがその思い出を語ってくれた。
その中のひとつ、
堀内さんは「オレは何もしなかったよ」と、稲川さんに語ったそうな。
稲川さんもおっしゃるが、それは謙遜であろう。
堀内大尉を慕うバリ兵の記述が残っている。

さて、そんな堀内大尉ですが、
その写真がムンドックマランの展示室に掲げられていたんですよ。
何度もムンドックマランに来ているが、
展示室に入ることができたのは、今回が初めてだったんです。
ですから、知りませんでした。
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この写真を見て稲川さん曰く「まあ本人と似ている」....とのことでした。
by yosaku60 | 2015-11-28 10:25 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ史から抜けている空白の4年間(その2)

欠落している歴史の理由、
言い換えれば、語られない歴史の理由だが、
誰も知らない訳ではない。
知る人ぞ知る....のである。
が、知る人の多くは部分的に知るだけ。
自分に関連した部分だけを知っている。
まとめて全部語れる人がいない。
かといえば、そうではない。
一人だけいる。
それが、パ・ジョコ(写真)だ。

       (註) パ・ジョコというのは、バリ名ではない。
      地下組織では、他から知れないように、偽名を使った。
      バリ名は、I Made Wijakusuma である。

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が、パ・ジョコは、何も語らない。
何故に語らないのか。
① 語らないことで押し通して来た過去の闘争歴
② 語ることにより争いが拡がることの回避
の二つの理由がある。

何故に語らないで押し通して来たのか....

ングラライ軍は、ゲリラ隊であった。
ゲリラ隊であるから隠れながら行動する。
隠れるゲリラ隊、言い換えれば地下に潜るゲリラ隊、
それよりもさらに地下の深いところの闘争部隊があった。
秘密のベールに囲まれた地下組織であった。
ある時は、地上のングラライ軍を助け、
ある時は、地下からングラライの行軍の指導をした。
その地下組織のリーダーがパ.ジョコだった。

彼の秘密への徹底ぶりは、ある例があるので後日語りたい。

もうひとつの、
語ることにより争いが拡がることの回避.....

ングラライが戦死した後の戦いの後日談、その手柄話、
いろいろの人がいろいろに語りはじめた。
自分の知らないことまで語りはじめた。
その数々の語りがいろいろな方向に拡がった。
当然に、それぞれが、つじつまが合わない。
そのうちに語りの主導権あらそいが起こった。
それらの者は、全部を知るのはパ・ジョコだと知っていた。
何故なら、ングラライ後のゲリラ軍のリーダーは、パ・ジョコだったからだ。
残った将校たちの話し合いの末、彼がリーダーに選ばれた。
彼の長い闘争歴から誰もがパ・ジョコの性格を熟知していた。

で、パ・ジョコは、何も語らないだろうことも分かっていた。
パ・ジョコも語ることにより、争いが拡がることを避けた。
ということで、
つじつまの合わない部分的な手柄話があるが、
信頼される真実である、まとまった歴史が抜けたのである。

彼の表に出ない行動の徹底ぶりは、ある例があるので後日語りたい。
by yosaku60 | 2015-11-28 07:38 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

バリ史から抜けている空白の4年間(その1)

ングラライがマルガで戦死したのは1946年11月20日。
この日で、バリの歴史が消える。
その後のことが書かれたものは何もない。
見つかっても個人的見解の域を出ない。
再び語られ始めるのが1950年の末。
その間、4年間の歴史を語るものがバリにない。

このことをバリ人はどう思っているのだろうか。
私は不思議に思って何人にも聞いた。
誰も知らない。
というより、そういうことを気にしない。
また、ングラライが戦死して、すぐに独立したと思っている人が多い。
先日なぞ、その後の戦いを尋ねると、
そんなものはなかったと、
私に食ってっかってくる、バリ人の自称「歴史家」がいたほどだ。

バリ人でも若い者は、
独立宣言の日、即ち1945年8月17日に、インドネシアは独立し、
その後オランダとの間に独立戦争があったことすら知らない。

その歴史上空白の時期を語ったものは皆無ではない。
その時期を戦った残留日本兵の平良定三の言葉が次のとおり残っている。
大雑把に拾ってみる。

1、ングラライが戦死した後も我々はゲリラ戦を続けた。
2、1948年8月、多くのバリ兵がバリの王様に説得され山を降りた。
3、が、我々は山を降りず、戦いを続けた。
4、1949年独立戦争が終焉した。
5、が、それはジャワ島の話であって、バリはまだ戦闘が続いていた。
6、1950年後半、ジャワから来たユスフ大尉(後に元帥)に説得され山を降りた。
7、が、インドネシアは独立して「インドネシア共和国」になった。
8、でも、バリはその中に入らず「インドネシア連合共和国」であった。
9、それに反発し、山から降りても戦い続けた。
10、それが罪で捕まり、その後3年間、刑務所に入れられた。
11、無罪放免で刑務所から出されたが、当時のバリは、まだ不穏であった。
12、共産党弾圧事件があったからだ。
13、結局、1960年まで、常時狙われ、家で寝たことはなかった。

この話の後半は、調べれば資料が見つかるだろう。
が、前半は、全く資料がない。
欠落しているのだ。

さて、長々と書いて来たが、
その長年の私の疑問.......
稲川さんと一緒に訪問した、ある家で解決したのだ!
抜けている歴史が分かったのではない。
抜けている理由がわかったのだ。

その家は、パ・ジョコの息子さん;レオ(写真)の家だ。
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つづきは、明日にする。
もったいぶっている訳ではない。
まもなく、稲川さんと会う予定になっている。
時間がないのだ。
昨日は、稲川さんをプラガのワジャのお墓に案内した。
今日は、ムンドゥクマラン(ングラライ軍の旗揚げ地)に案内することになっている。
デンパサール郊外の交通の混雑を避け、朝の内に出発したいのだ。
稲川さんは、明日、日本に旅発つ。
今日がご案内できるラストの日。
89歳のお身体が心配であるが、「行きたい」と言われるので「行く」ことに。
大変なガタガタ道である。
運転に注意したい。
では、行ってきます。
by yosaku60 | 2015-11-27 08:48 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

独立戦争の女戦士

日本軍がバリに居た頃の生き字引である稲川さん...
から、いろいろな方を紹介いただき、お話をお聞きした。
お聞きしたお話は、私の中では、みんなつながっている。
が、読者のみなさんには、つなげて読むことは難しいと思う。

で、これから、お聞きした話を書くが、
一つ一つの話、つなげながら書くことにする。
少々、長くなりまどろっこしくなると思うが、
そういう趣旨なので、ご理解いただきたい。


ということで、話は、
昨日の「ムグイ集結所」から書きだすことにする....

ムグイ集結所に、マルガの戦闘で戦死した96名が
運ばれ、首実検をした事実を書いた。

その首実検にオランダ側が
ムグイ集結所に連れて来て立ち合わせたのが、
残留日本兵の立場から堀内大尉、
バリ兵の立場からピンダ中尉であった。

堀内大尉.....

バリ名、ニョマン・サヤン。
ングラライが旗揚げしたムンドックマランでは、
軍の参謀のひとりとして、堀内大尉の像(写真右)がある。
銘板には、Horiuti ではなく、Herauti と刻まれている。
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堀内大尉は、バリの独立軍の中では、
ングラライと同じ階級の中佐であり、バリ兵からも尊敬されていた。

独立戦争時は、堀内は常時ングラライと行動を共にしていた。
1946年7月23日、ングラライ軍はシンガラジャの地で解散した。

その後、ングラライと別れた堀内は、
5名の部下と共にバドゥンに向かって南下したが、
足を負傷し、その治療中にムグイのDesa Andunganで、
スパイに通報され、オランダ軍に捉えられた。
後日、堀内本人が稲川さんに語ったことによれば、
「逃げたが川の畔で捉えられた」とのこと。

で、マルガの戦闘のあった、11月20日は、
デンパサールのオランダ軍収容所に居たことになる。
その収容所から、首実検のためにムグイ集結所に連れてこられたのだ。

戦後、日本に帰った堀内は、
稲川さんに首実検に連れてこられた話をしている。

稲川さんと堀内さんの関係....
終戦5年後に発足した「日本バリ会」への入会に、
堀内さんを誘ったのが稲川さんである(入会;1999年1月)。


ピンダ中尉.....

私の過去のブログにも何度か登場している。
独立ゲリラ軍にあって、参謀的存在でングラライから信頼されていた人物だ。
手製の大砲を持つ、大砲小隊の隊長でもあった。

堀内と同じく、1946年7月23日のングラライ軍解散で、
ングラライと別れ、故郷のデンパサールの近くで潜伏し、
負傷し化膿した足を治療しているとき(1946年10月)に、
スパイに通報されオランダ軍に捉えられ、
デンパサール刑務所(本人曰く)に入れられた。
その刑務所から、首実検のためにムグイ集結所に連れてこられたのだ。


さて、上に「日本バリ会」のことを少々書いた。
戦時中、バリに居た2000名余の日本人、
そのうち300名ばかりが中心になって作った「会」である。
「日本バリ会」であるから、会員は時々バリを訪れる。
そうした日本人を迎え、歓迎してくれたバリ人がいる。
I Made Dhama MBA MM(写真)という人物である。
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彼が中心になって、日本の「日本バリ会」に呼応して、
バリに「バリ日本会」が作られた。

そして、このMade Dhama なる人物だが、
上述のピンダ大砲小隊にあって、
大砲の弾(日本製)の管理役をしていた戦士である。

そして、そして....
Made Dhama は、既にお亡くなりになったが、
その奥様は今もご健在(写真)で、
しかも、しかも....
その奥様も独立戦争で戦った戦士(看護を担当)なんだそうです。
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やっと、今日のブログの主題の「女戦士」に辿り着きました(笑)。

ということで、日本バリ会の稲川さんと、
バリ日本会のMade Dhama さんとは、長いお付き合い。
そのお付き合いの中に私も入れてもらい、ありがたいことです。
写真のバックの肖像画は、Made Dhama 氏と奥様です。
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写真の右を見て下さい。
日本のお雛様が飾られています。
一家して、日本通なのです。
また女戦士であったのだから、ご気性もはっきりしています。
「守るも攻めるも.....」と、日本の軍艦マーチを歌いだすのです。
戦後、ご夫婦で頑張って来られたのでしょう。
事業が成功し、今は大きなお屋敷に住んでおられます。
稲川さんと我々夫婦、お昼もごちそうになりました。
ご馳走様でした。
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by yosaku60 | 2015-11-26 11:18 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

バッハ収容所ではなく「ムグイ集結所」と呼ぶことに

終戦時、日本人が2000名も居た「バッハ収容所」
の名称、誰が言い始めたのだろうか。
ネーミングが適当でなかったのが見つけれなかった理由でもある。

当時そこに住んでいた稲川さん曰く、
バッハ収容所と言わず、ムグイ収容所と言っていたとのこと。
さらに、それは収容所の呈ではなかったとのこと。
収容されるという受け身の処ではなかったということだ。

稲川さん曰く、
終戦を迎え、日本人が自発的に集結したんだそうな。
で、集結した日本人をまとめたのは、
連合軍ではなく、日本人自らの意志だったそうな......

集結所の周囲は、有刺鉄線が張られていた。
が、これは外部からの侵入を制限するためで、
中に居た者は自由に出入りできたそうな........

であれば、
これは収容所ではない、単なる集結所だ。
ネーミングが正確でないと、誤解が生まれる。

ということで、今回、見つけた、この地、
今後は、「ムグイ集結所」と呼ぶことにしたい。

さて、そのムグイ集結所の中に入ってみた。
現在は、椰子畑になっており、その中に数軒の家があった。
その一軒に寄って、話を聞いた。
左が稲川さん。
右がこの地を発見し我々を案内してくれたムグイ在住の林さん。
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中央のお爺さんが言うには、
1、この地は約16ヘクタールある。
2、日本人が集結する以前は、6家族10人が住んでいた。
3、日本人に出て行くように言われ、他の地に引越した。
4、日本人が日本に帰った後、この地に戻って来た。
5、日本人が住んでいた長屋は、簡易な造りですぐに取り壊した。
6、日本人のトップが住んでいた家だけは石造りで今も残っている。
    それが、お爺さんの敷地内にある、この建物。
    今は、倉庫として使っている。
    屋根は、あとで瓦葺に葺き替えたとのこと。
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続けて、お爺さんは言う。
7、マルガラナで戦死したバリ兵は一端ここに全遺体が運ばれた。
8、ここで、死体の確認(首実検)が行われ、遺族の元に返された。

ええ、そうなんだ。
マルガから、ここまでは13キロもある。
96遺体の全部を運んだとなると、相当の行列だったろうな。

さて、お爺さんと稲川さんの話の中で、
稲川さんがポツリポツリと話したのをまとめると、、
1、全く昔の面影がない。
2、賄い部があり自炊していた。
3、アンぺラ造りの長屋であった。
4、同じ方向に枕を並べて寝た。
5、ひとりのスペースは70センチほどであった。
6、全員になると、2000名以上は居たと思う。
7、生活は安全であり安定していた。
.......であった。

その後、林さんの計らいで、
当時、ムグイ集結所に来ていた、おばあちゃんに合わせてもらった。
このおばあちゃん、母親が頭に果物籠を載せ、集結所に売りに来ていた。
その母親に手を引かれ、何度も集結所に来たことがあるとのこと。
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おばあちゃんに聞いてみた。
日本人は、優しかったですか?
「うん、道で出会うと、集結所まで車に乗せてくれたよ」
と、稲川さんが言う。
「私もその頃、車を運転していた」
「村人を何度も乗せたことがあるヨ」
ということは、その頃子供であった、このおばあちゃんも乗せたのかも....

日本人と村の娘のロマンスはなかったですか?
「あったよ、沢山、結婚したのも一組あったよ」.....と、
取材の最後は、ほんのりした話題で締めくくれました。
おばあちゃん、ありがとう。
それにこの日の全てを段取りしてくれた林さん、ありがとうございます。
by yosaku60 | 2015-11-25 11:57 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

ついに見つけた!バッハ収容所跡

バッハ収容所とは.....

1、日本敗戦時、バリには軍人・民間人、多くの日本人がいた。
2、約2000人と語られている、それらの日本人が一カ所に集められた処。
3、収容所はバッハにあったので巷間「バッハ収容所」と呼ばれている。

バリ人と共にインドネシア独立戦争を戦った日本兵の
松井久年、荒木武友、高木米治も一時この収容所に居た。

2000人もいたなんて、本当だろうか。
なんとか、その跡地を見つけ、取材したいと何度「バッハ」の地を探したことか。
が、見つけることができなかった。

それが今回、見つけることができたのだ。
ここだ!
このこんもり茂った椰子畑、これ全体が収容所だった。
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今回は、実際に収容所に住んでいた稲川義郎さんと一緒に来た。
当時の思い出話を現地で聞くことができる。
めったにない機会である。
バリの残留日本兵を調べに来ている中央大学の二人...
斎藤さん(右)、添川君(左)も同伴した。
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その場所は、タマンアユン寺院から北北東一キロの至近にあった。
by yosaku60 | 2015-11-24 07:41 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

大阪W選、維新勝利にエールを送る

大阪W戦、府知事も市長も維新となった。
5月に住民投票で敗れた都構想、再出発の芽が出て来た。
嬉しいことだ。

オレが、都構想に執着する理由だが、
大げさだが、日本への憂国である。
愛国ではない、憂国だ。

何を憂うかというと...
日本の財政、千兆円の借金のことだ。
少しでも借金を減らしてゆかねばならない。

そのために考えること。
道州制しかないと思うのだ。

現在の国から県、県から市町村へと流れるお金...
その流れの中に「陳情制度」がはびこる。
当然に自我がや無駄が蔓延る。
人間って、もらったお金は雑に使うが、
自分で稼いだお金は大事に使う.....ってこと。

道州制にし、国から道への交付金は極限まで絞る。
そして、それぞれの「道」が自活する。
日本全体、税金の使われ方の流れが変わる。

平たく言えば、
子供はいつまでもお父さんのお金をせびってはならない。
そのせびり方の巧さで子供の価値が決まったり(国とのパイプ)、
あげる代わりに代償を求めたり(天下り)、
してはならないと思うのだ。

それぞれが自活するべく、道州制にするってことは、
即ち、お父さんにせびらなくなることを意味する。
子供は成長する、甘えもなくなる。

道州制の区割りだが、どの「道」も日本海と太平洋があるようにすべきだ。
それぞれの「道」が、東西だけでなく、南北にも経済網を走らせるのだ。
とすれば、中央の山の開発、資源の活用も進むのではなかろうか。
漠然と、そういうことを考えている。

道州制にすれば、費用が節減され、経済が活性化する....
かどうかは、都構想が実現して走りだせば、結論が出るように思うのだ。
都構想は、道州制のミニ版であるように思うのだ。

廃藩置県ならぬ廃県置道。
道州制なんて、夢物語のように思える。
が、国の借金を減らし、日本がいつまでも健全な国でありつづけるには、
是非に挑戦すべきだ.....と憂国のオレは思っている。

大坂のW選の維新の勝利....
それに向かっての、小さな一歩であってほしい。
by yosaku60 | 2015-11-23 08:32 | 日本=その日のできごと | Comments(0)

バンリの王宮に招かれました

11月20日は、バンリ県の英雄、
Anak Agung Gede Anom Mudita(ムディタ) 少尉の戦死した日である。
写真は、ムディタ。
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名前が示す通り、ムディタは、王様の家系である。
バリには8つの王国がある。
その王国の領域がそのまま今の「県」になっている。
ムディタは、8つの中のひとつ、バンリの王様の家系である。
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さて、
11月20日は、ングラライが戦死した日でもある。
が、ングラライは1946年の11月、
ムディタは、1947年の11月である。
ングラライの後、一年戦って、同じ日に戦死した。
戦死したのは、実家より5キロと至近のプンリプランの地であった。
指導者亡き後の一年間、ムディタはどのように戦ったのだろうか。
私は、なんとか調べたかった。

それもあったので、
11月20日、プンリプランの地に向かった。

当日は、8時から慰霊祭が始まった。
なのに、勘違いして9時から始まると思っていたオレ、
式典に間に合わなかった、馬鹿だね、オレって(笑)。
着いた時は、参加の子供たちが帰るのに出会っただけ...
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しようがないので、会場に入った。
まだ、ベテラン(独立戦争に生き残った兵士)が着席しており、
その写真撮影は、なんとか間に合った。
手前の髭のじいさんは、ムディタの弟さんであるが、
写真を撮った時は知らなかった。
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遅ればせながら、慰霊碑に参拝した。
床いっぱいに花びらが撒いてあった。
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このままでは帰れない。
ムディタに関する情報を知ろうと、
残っている、あるグループに話しかけた。
下の写真の人達である。
と、何を聞いても、スラスラと応えてくれる。
当たり前であった。
この人達は、ムディタのご家族だった(後方は、オレとカミさん)。
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ご家族から、いろいろ教えられた。
驚くことに、ムディタの奥さんがまだご存命でいらっしゃるとのこと。
さらに、弟さんもいて子供さんもいて、ここに来ているとのこと。
左から、ムディタの息子さんのスルジョンさん(70歳)。
カミさん、ムディタの奥さま(年齢聞き忘れる)、オレ...
そして、ムディタの弟さんのAnak agun Gde Bagus Ardana さん(84歳)。
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この王家の人々、
「このあと、是非にプリ(宮殿)にいらっしゃいな」と、誘ってくれる。
嬉しい申し出.....勿論、行って来ました、宮殿に。

宮殿に着くと、アルデナさんがいろいろと教えてくれました。
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その話の中で、びっくりしたのが、ングラライの軍勢の多さ!
アグン山の麓に隠れてゲリラ活動をしていた人数です。
私は、いろいろな書物から、300人と書いて来ました。

が、それは、部隊を分けた後の話であって、
それ以前には、800人いた、とのことです。

その800人の食料をこの宮殿に集め....、
ここから、オランダ側に見つからないように....
夕方出発して、朝方に潜伏先に着く道程....
それも毎日、それも頭に載せての人力運搬....

考えてみても、大変なことです。

その運搬を指揮したのが、当時のバンリの王様(写真)。
王様だからこそ、できたのでしょう。
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ムディタの息子さんより父君のことが書かれた資料も頂いた。
難解な昔のインドネシア語で書かれた資料のようだ。
読み解けたら、このブログで発表する。

ムディタの慰霊祭への参加は、成功だった。
行動すれば、何か得るものがあると、あらためて思う。
by yosaku60 | 2015-11-22 11:36 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)


常時ほろ酔い候
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