あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



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ジュンブラナ県、日本兵11名の墓の真相(その4)

日本バり会、会誌「Bali」31号 寄稿 

ジャワからバリへふたたび  内村三俊


昭和60年1月から2月にかけて第四回目のインドネシア旅行を試みた。
過去3回は、集団のツアーに参加の形だったので、
単なる観光目的でない私にとっては、せいぜい現地4~5泊では、
行きたい所も行けず、会いたい人にも会えず、
その度に満ち足りない気持であったが、
今度はたっぷり3週間、
相変わらず毎朝インシュリンの打ちながらも、
日本語なしの気ままな一人旅であった。(中略)

1月26日、ジャカルタのハリム空港に降り立つ。
元バリ州知事ステジャ氏の双生児の長男ベニー宅に4泊、
次男ビル宅に2泊の滞在を終え、
2月1日、ステジャ氏の妻君のメイ夫人の運転する車で、
彼女の娘とビルの妻君のユリも同乗し、国内空港のクマヨランへ。


ここは、昭和21年春バリから移送されて22年春復員するまでの一年間、
飛行場の片隅に竹の柱に滑走路補修用の広い帯状の資材で屋根を葺き
黒々と葡いつくばったようなキャンプを作って、
英印軍や蘭軍の下で毎日の重労働に忍従の汗を流した忘れられない場所である。
今はすっかり近代的な空港設備で往時の面影は求むべくもいない。
正午すぎ彼女らに見送られ、スマラン行きのガルーダー機に。


約50分のフライトで中部ジャワ北海岸のスマランに着く。

ここは、昭和17年3月1日、
ここから東北地方のレンバン付近の海岸に敵前上陸し、
わずか一週間で蘭軍が降伏した後、
スラバヤ、マランを経て、はじめて駐留したい出の街である。 
それから一か月のマディウン駐留を経て、
年末に不毛の地、チムールに渡るまで約8か月、
私たちはこの街ではじめて、
インドネシアのエキゾシズムを満喫したのであった。(中略)


2月2日夕方、スラバヤ空港着。
スラバヤ在住のステジャ氏の八男マホとその許嫁、
そして末娘の夫が出迎えてくれる。(中略)


2月3日、二人の青年に見送られてバリに向かう。

急ぐ旅でもなし、前からの計画であった汽車旅行を試みる。
ジャワ東端、一衣帯水のギリマヌ海峡を隔てて
バリ島のバニュワンギまで、約7時間、
車内は思ったよりも清潔で、
はじめての東部ジャワの田園風景や雨に煙った山の景色を
車窓に眺めながらの素朴な旅であった(中略)。


2月3日、ネガラ着。
到着の夜はとりあえず市内のホテルに一泊したが、
ジャカルタのベニーから母親のステジャ夫人への添書もあり、
翌日からプリアグン(王宮)へ移ることにする。
はじめはやはり遠慮するつもりだったが、
末娘のアミー母子や召使たちも大勢同居しているし、
好意に甘えて世話になることにする。

ネガラは私にとって第二の故郷とも思うインドネシアの中でも
やはり最も愛着のある町である。 

先ずチャンデクスマの戦跡訪問。
ステジャ夫人の紹介してくれた案内人のバイクに乗って、
2月8日、10日の2回に亘って、チャンデクスマとサリク二ンに行く。

チャンデクスマはネガラから西へ15キロ、
当時はここからジャワに向かって海底電線が入っていた。


忘れもしない昭和20年12月24日、
バリ各地で住民が決起した夜、
前からここに出していた将校以下13名の分硝が
黒山のような群衆に焼き討ちされ、
命からがら生還した2名以外は、
あるいは現場であるいは本隊へ逃げる途中で
全員虐殺された悲痛極まりない事件であった。



私は今、40年近い歳月を隔てて、
ジャワを望む美しく静かな砂浜に、
寄せては返す波の音を聞きながら、
線香を立て花を撒いて、
悲惨な死を遂げた戦友たちの霊に瞑目合掌したのであった。

それから案内人の話で、
ここから更に間道を東北へ約10キロに入ったサリクニンの山の中に
兵隊の墓があることを聞きそこに赴くことにした。

先ずよく事情を知っているという司祭の家に行き、
邸内の祭壇で、彼らの作った日本兵の泥人形、
(それは何故か片腕のない人形だった)を拝みながら、
一緒に祈祷を行った。 
途中で、この老齢の司祭が神がかりの状態になり
泣きながら私にとりすがり、
分からない言葉でかきくどく
のを私は慄然としながらも、
数十年間誰も来てくれなかった戦友への恨みを受け止めて
素直に反省せざるを得なかった。

案内人の言によれば、最初の頃はこの司祭の祈祷の時、
一言もするはずのない日本語を口にする
ことがあったという。

この日はもう黄昏近く雨も降りだしそうなので、
そのままひきとり、翌々日出直して、
司祭の家から更に山路と畦道を歩いて、埋葬場所まで行った。

田圃に落ち込むなだらかな斜面の椰子の林の中にその墓はあった。
囲いを廻らした思ったより立派な墓で、
ここの住民が丁寧に埋葬して墓を作り、
時々お祭りをしてくれるのだという。

お供え物を持って集まってくれた十数人の村人と共に、
私は恐らくはじめての日本人として、
無量の感慨を持って、
淋しかったであろう、戦友の墓前に合掌したのであった。

昔この墓の主を殺したのは、
あるいはこの村人の縁者だったのかも知れない。 
しかしよしんばそうであっても、
今訪れる同胞や戦友もいない一人の日本兵の霊を鎮め慰めるために、
墓を作り折々の祭祀を行ってくれている住民たちに対し、
私は同胞や戦友を代表するつもりで、
恩讐を超えて感謝のスピーチを行った次第である。

後日、帰国後関係者に照会し、
この兵隊が前田久一上等兵であり、
当時の騒乱状況の中で
彼の行方の確認や遺体の収容が困難
であったことを知った(中略)。

ネガラを去る前日の2月11日には、
ステジャ夫人の配慮で、
特に私の帰国の旅の安全を祈願するスンバヤンを執り行ってくれた。
広いプリの一角にある寺院で一族と共に、
私もお祭りの衣裳をまとい感謝をこめて
バリヒンズーの神に敬虔な祈りを捧げたのであった(後略)。
by yosaku60 | 2015-10-31 14:13 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

クラチさん、今後ともよろしくお願いします。

プラガのワジャの墓....
長い間、日本に帰っていたので訪れていません。
で、昨日、行って来ました。
思った通り、相当に汚れていました。
掃除をしていると、通りかかったバリ人が手伝ってくれました。
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その人の名....
Dewa Gede Kelaci (写真)と言います。
そのクラチさん、
「時々、掃除する」と、約束してくれました。

地元のバンジャールに、お墓のお護りをお願いしています。
が、残念ながら行き届いているように思えません。

今回、お墓のお護りしてくれる人が具体的に見つかりました。
これからは大丈夫です。
ワジャも寂しくないことでしょう、うれしいことです。
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私がワジャのお墓を気にする理由ですが....
日本人だと、明確にわかっているのに、
1、日本名が解らず、
2、ご遺族も探せず、
3、日本人の誰もがお詣りしないから、
が一連の理由ですが、私の個人的な想いもあります。
それは、ワジャの性格です。
バリ人の戦友曰く、彼は”馬鹿正直的に純粋であった”由です。
戦死した経緯を知ると、それが良くわかるのです。
私も世間知らず的馬鹿(笑)なので、共感を覚えるのです。

なんとか日本名を知りたいものです。
その手がかりですが、
ワジャと一緒に戦死したバリ人、その名前がわかったのです。
キンタマニー出身のSang Putu Tilem (カミさんがお詣りするお墓の主)です。
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ワジャと一緒に戦死したというだけの関係ですが、
Sang Putu Tilem の家族は、今もキンタマニーに住んでいます。
もしかしたら、そのお家族のルートから、ワジャの日本名が解るかもしれない、
と淡い望みを抱いております。
by yosaku60 | 2015-10-31 10:41 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

ジュンブラナ県、日本兵11名の墓の真相(その3)

「日本バリ会」で年一回発行される会報であるが、
内村三俊氏の寄稿が掲載されたのは、
1986年(31号)、1987年(32号)、1988年(33号)の3回に亘る。

  ということは、「日本バリ会」が発足したのは、1955年.....
  即ち、大東亜終戦の10年後、
  インドネシアの独立戦争が終わって5年後である。 
  
  なんと、早くから活動していたのだろう。
  
  設立当初は、300名ほどの会員がいたらしい。
  戦前、戦時中にバリにいて、
  バリを第二の故郷と思っておられる方々である。
  終戦直後、ムグイの日本人収容所には、
  2000人以上いたのだから、理解できる数値である。

  にしても、なんと沢山の方がいたのだろう。

       話は飛ぶが、このムグイの収容所、
       その所在を随分と探したが、建物跡も見当たらない。
       稲川さんに、そのことをお聞きしたら、
       稲川さんも探したが見つからないという。
       稲川さんは、収容所にも入っておられた経験がある。
       その稲川さんが探しても見つからないのだから、
       現在は、建物も壊され、跡形もなくなったのだろう。

  で、現在の日本バリ会であるが、
  残念ながら、ほとんど閉会状態に近い。
  若い人の入会があったが、余り歓迎されなかった。
  知己を得るため、即ち、自分の商売のために入会する者が多く、
  日本バリ会の設立趣旨に沿わない者が多かったからだそうな。
  残念である。
  現在の日本バリ会であるが、閉会状態ながらも、
  稲川義郎さんが、意志を継ぎ役を担っておられるとのことである。


さて、
本題の内村三俊氏のことであるが、
私が日本(石川県)の郷里にいる間、稲川さんからお手紙が届いた。
活字がはびこる中、直筆の手紙を受け取るというのは、なんとうれしいことか。
丁寧な字体にお人柄がわかる、そのお手紙だが...
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つぎのように書かれている。
内村三俊氏に関して書かれたところ、
また、11名の戦死者に関するところは、ゴシック体にする。

吉井さん、お帰りなさい。
遅まきながらご挨拶申し上げます。
さて、昨日も電話でお話ししたごとく、
チャンディクスマに於ける悲惨な事件の慰霊に関する
内村三俊氏の記述3通同封申し上げますのでご一読下さい。
内村三俊氏は、
陸軍大尉で事件当時はネガラ地区の警備隊長
をつとめて居られました。
戦後は、東京都庁の地方公務員で
東京の木場の貯木場の確か場長をされていたと聞いています。
又バリ会の幹事でもあったので、バリ会総会や幹事会では、
しばしば私も同氏と親しくお会いしていたのですが、
残念ながら、当時はこのチャンディクスマでの事件について、
詳しい話は聞いていませんでした。
サリークニンに祀られている墓の主の前田久一上等兵は、
チャンディクスマで亡くなられた11名の一人で、
当時10名の遺体は収容したが、
一名だけは、どうしても収容できなかった由で、
その一名が前田久一氏だった
のだそうです。
事件は終戦後の事であり、
日本兵の側はバリ人に発砲もできずバリ人側は只々武器を奪う目的だったが、
遂には竹槍で日本兵を殺すはめになってしまったという悲惨な事件になってしまった。
何ともやりきれない気持ちの事件でした。
内村氏はバリ人との交流も多かった人で、
特にネガラの王様、ステジャ一家と親しかった様です。
ステジャ氏は、スカルノ大統領時代最後のバリ州知事だったのですが、
あの反乱事件の時に行方不明となってしまった方で(多分惨殺されてしまったのでしょう)、
内村さん等と共にサリークニンのお墓にお参りして下さったステジャ夫人とは、
この亡くなった州知事の奥さんです。
まあ、とにかく、内村氏記述をお読みください。
10月19日、お待ちしております。          早々、 稲川義郎拝



この稲川さんのお手紙で、内村三俊氏のことがお分かりかと思います。
明日は、その内村氏の寄稿文を掲載することにします。
by yosaku60 | 2015-10-30 11:47 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

ジュンブラナ県、日本兵11名の墓の真相(その2)

殺された11名の中に、
内村三俊 東京都
がいることになっているのは、間違いでした。

内村氏は戦後日本に戻り、1993年4月8日、
75歳でお亡くなりになっておられます。

では何故に慰霊碑に名前を刻んでいるのか?

慰霊碑に名が刻まれたのは、1995年です。
内村氏が死亡して2年後のことです。
内村氏は、自分の名が刻印されたことを知らないのです。

慰霊碑建立に尽力したのは、清水与平氏と尾崎末広氏です。
両名とも戦後の日本で内村氏と面識があります。
一緒にバリ島に墓参にも来ているのです。

それなのに、何故に慰霊碑に内村氏の名を刻んだのか?

解りません。
今は解りませんが、
事情を知る人がきっと現れると思います。
それまでは、私の推測で書きたいと思います。

なお、
以前の記述が間違いだったとした、次の赤字の真相ですが、

日本兵がこの地に逃げ込んだ

日本兵がサリークニンの地に逃げ込んだんだのは確かですが、
この地に逃げ込んだのは、前田久一上等兵だけでした。
そして、彼は、この地で殺されたのです。

全員バリ人に殺された。

全員ではなく、二人生き残った人がいました。
そのうちのひとりが、慰霊碑を建立した、尾崎末広氏なのです。

お祈りに来た人は同じ小隊の戦友だった。

小隊ではなく、山砲兵第48連隊の戦友でした。

これらのことは、
内村氏が「日本バリ会」の会報に書いておられるので解りました。
明日は、その会報から抜粋して真相を書くことにします。
by yosaku60 | 2015-10-29 10:25 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

ジュンブラナ県、日本兵11名の墓の真相(その1)

お会いした稲川義郎さんから頂いた資料から、
私のブログ、今年の9月2~3日に掲載した.....
ジュンブラナ県、日本兵11名の墓の(その4、その5)に、
誤りがあることが解った。

再度掲載し、誤りのあった部分を赤字で示す。
その赤字部分の真相を明日からのブログで書きたい。


2015年9月2日のブログ

それは、日本兵のお墓であった。
写真を載せながら、説明する。

まずは、全景。
入口に割れ門もある立派な造り。
傘が比較的新しい。
時々、誰かがお詣りするのだろう。

右がカミさん、次が田中彩芽さん。
彼女は、ウダヤナ大学の国費留学生。
インドネシアの独立戦争の跡を駆けずり回っている。
私に頼らず、独自で調査する。
バイクを駆り立て、どんな山の中でも独りで行く。
ただ、今回はあまりにも遠方なのでお誘いした。
左は、知らないお爺さん。
最後まで誰だか解らなかった。
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卒塔婆が2本あったが、字が消えていて読めない。
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この地で殺された11名の名が彫られている。
(日本兵士之碑)
後藤  知   熊本県
永井精作   新潟県
迫 貞雄    鹿児島県
前田久一   愛媛県
川畑松義   宮崎県
窪田昌平   福岡県
宮永  清   大分県
村野  穣   長崎県
前田英司   宮崎県
池田初雄   佐賀県
内村三俊   東京都
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裏面には、次のように彫ってある。
清水与平   宇和島市
尾崎末広   高知県
1995年 建之
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これだけを確認し、坂の上の一軒家に戻った。
お墓のことをもっと詳しく聞くためだ。



2015年9月3日のブログ

お墓にもっとも近い家の坂の上の一軒家、
そこの主人(写真の左の人)が語ってくれた言葉を要約する....

1、日本兵がこの地に逃げ込んできた。
2、全員、バリ人に殺された。
3、日本人が来て、お墓を作った。
4、沢山の日本人がバスに乗って、ここに来た。
5、日本人は、お祈りに来た。
6、お祈りに来た者は、墓前で泣いていた。
7、その後、お墓はバリ人の手で整備された。
8、現在、お墓はバリ人がお護りしている。
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そうだったのか、
ここが、「Candikusuma事件」の地だったのだ。

Candikusuma事件については、
当時、バリに住んでいた稲川義郎さんは、
「1945年12月Candikusumaにおいて、日本兵一個分隊が殺される」
とメモ書きしている。
一個分隊は、8~12名で構成される。
11名の死亡は、稲川メモと一致する。
Candikusumaは、海岸である。
海岸を警備していた、一個小隊(30~60名)がいた。
殺された一個分隊は、この小隊の一分隊だったのだろう。
だから、お祈りに来た人々は、同じ小隊の戦友だったのだ。

Candikusuma事件については、
マルガラナ小冊にも、次のように記述されている。

walaupun gerakan melucuti senjata jepang secara serentak di seluruh bali mengalami kegagalan total, gerakan tersebut berhasil menewaskan beberapa orang serdadu jepang dan merebut senjata mereka. seperti misalnya kejadian di candikusuma, kabupaten jembrana, rakyat berhasil menewaskan satu regu serdadu jepang di sebuah pos penjagaan pantai dan semua senjata dapat dirampas. di tengah kota negara,ibu kota jembrana,rakyat berhasil menyergap dua orang serdadu jepang yang sedang meronda,tetapi jatuh pula korban di pihak pejuang.

要約すると、
ジュンブラナのCandikusumaの地において、
日本兵を殺し、武器を奪うことに成功した…..と書かれている。

この時期、インドネシア各地において、
オランダ軍との戦いに備えるために日本軍から武器を奪おうと、
インドネシア人が日本軍を襲う事件が起こった。
Candikusuma事件もそのひとつである。

インドネシアでの日本兵の戦死者は、大東亜戦争時よりも、
敗戦直後の1945年9月~12月に多い。
即ち、連合国側よりもインドネシア人に殺された者の方が多いのだ。
が、それを責めることはできない。
ただ、言えることは、戦争は人間の理性を麻痺させるということだ。

もっと、悲惨なこともあった。
日本の敗戦後、日本兵が日本兵を殺す事件も起きた。
終戦を迎えて日本帰還直前に同じ日本人に殺されたのだ。

ここ、バリでも、そうした事件があった。
で、殺した本人が、日本に帰還している。
そうした事件は、ここには書かない。
悲惨すぎて、書く気にならない。
とにかく、
そういうことが起こりうるのが戦争なのだ。

できるならば、戦争は避けなければならない。
戦争は、他の者との間に起きる。
それぞれの価値観があって、
理屈や理性が通じない場合が当然にある。
きれい事だけじゃすまない。
戦争の未然防止のために、
抑止力は確固として持たねばならない。
最近の日本人!
それが分かっているのだろうか。
世界を見ろ!甘えすぎだろう!

話が持論に飛んだ(笑)

話を前に戻し、日本の敗戦直後、
インドネシア人が日本軍を襲う図式を
当時、そのことに直面し、
理不尽さに悩んだ残留日本兵の証言から紹介したい。
証言者は、独立戦争を生き残り、スラバヤにおいて、
従業員数8000人(計6社)を雇い、事業に成功する、
石井正治氏である。

(石井正治の証言)

日本は、戦争に負けた。
インドネシア人も戦勝国の人間として扱われるので、
彼らに対し、武器の使用は厳禁されていた。
彼らは、日本人が手出しをできないことを知っており、
それをいいことにして、日本兵から兵器を略奪せんと企てるのだ。
一方、我々は、インドネシア人に兵器を渡すような事があれば、
本人は勿論、その所属長をも処刑されると厳命を受けている。
こんな矛盾した話はないが、やはり勝てば官軍、無法も法なのだ。
…….

この証言をどう読むか。
これには、書かれていないこともある。
終戦直後、連合軍側もすぐに各国の事情に対応できない。
インドネシアの治安の維持に困った連合軍側は、
暫くは、日本軍に武器の所有を認め(武装解除を遅らし)、
それをもって、インドネシアの治安維持の役目を負わせたのだ。

要するに、
武器を持つことを許すが、それを使うことを許さないのだ。
襲われたら、逃げろ….
武器を使うな….
武器を奪われたら、全員処刑だ….
武器を持ったまま、逃げ続けろ….
ということになる。
石井正治は、これを矛盾している、と言っているのだ。

さて、11名の日本兵....
小隊が駐留したCandikesumaから
殺されたSari kuing Tulung Agunまでは5キロある。
バリ人に襲われたが、抵抗することが禁じられている。
武器を持って、ただ逃げるだけ....
山の方に逃げて、川のほとりで休んでいるところを
襲われて、殺されたのではなかろうか。
もしかしたら、一発も撃つことなく....

さて、今日のブログの前段で、
インドネシア人に殺されたことを責めることはできない。
と書いた。
「ご遺族の方にとっては、とんでもないことだ」
「他人事で無責任すぎる」
と思う人がいるかも知れない。

が、私は、あえて確信げに否定して書いた。
日本人にとって終戦であっても、
インドネシア人にとっては、これから突入する戦争であり、
やはり、しようがないことと思うのだ。

多分、私だけでない。
ご遺族の方それに戦友もそう思っているはずだ。
それが証拠の11名の日本兵のお墓である。

お墓の建之には、バリ人も協力したことが刻まれている。
24名の戦友のお詣りもバリ人がお世話している。
さらに、次の写真を見て欲しい。
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2006年1月7日と刻まれている。
割れ門のある、お寺として、お墓全体を祀ったのは、
つい最近(9年前)である。
日本人が誰も訪れなくなっても、バリ人だけで、
護りとおしているのである。

この日本兵11名のお墓…..

バリ人; 殺したことは事実、申し訳なかった、許して欲しい。
日本人; しようがなかったものね、いいよ。
と、語っているように思えるのだ。

この地で尊い命を落とされた11名の方々、
私たちは、あなた方のことを語り継いでゆきます。
どうぞ安らかにお眠りください。
by yosaku60 | 2015-10-28 13:12 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

稲川義郎さんにお会いできました。

バリから日本へは、関空経由でした。
日本からバリへは、羽田経由にしました。
羽田発の便を選んだのは、日本出発前に、
東京ご在住の稲川義郎さんをお訪ねするためでした。
戦時中、稲川さんは、民政部(バリ島)で働いておられました。
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島内で隋一の高級車、クライスラーを運転するご担当だったそうです。
その経験談....
何を聞いてもびっくりすることだらけです。

お話をお聞きすると、
場所、年月、当事者の姓名など、
全てについて、記憶しておられます。
そのご記憶の正確さにもびっくりします。

稲川さんが戦中戦後、実際にお会いした人ですが、
三浦穣、松井久年、鈴木政平、堀内秀雄...など、
バリ史にとって著名な方々がいっぱいおられます。
まさに生き字引です。

それに、終戦直後、吉住留五郎がバリに来たとき、
ギリマヌクまで迎えに行き、デンパサールまで案内しています。
あの吉住がバリに来ていたなんて、びっくりです。

明日は、稲川さんから頂いた資料を基に、
ヌガラで日本兵11名が殺された話の真相に迫りたいと思います。
by yosaku60 | 2015-10-27 13:29 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

日本では携帯電話の使用に失敗しました。

日本滞在中に困ったことは、
携帯電話の使用に失敗したことだった。
公衆電話がほとんど姿を消した昨今、
携帯電話がないと不便が多い。

携帯電話の使用に失敗した原因は次にあった。

インドネシアで使用していた携帯電話が日本で使えなかったこと。
日本では臨時に使用できる電話番号を取得できなかったこと。


これらは携帯電話使用システムが、
インドネシアと日本で違うことに起因する。

システムの違い....
まずは料金の支払いシステムであるが、
日本では「後払い」なのにインドネシアでは「先払い」にある。

日本では、電話会社と契約書を交わした後、
契約に基づき発生ベースの後払いになる。

   インドネシアでもこうした支払い方法がないわけではない。
   事実、私はこうした支払い方法をとっているが稀なケースだ。
   通常は、全て先払いなのだ。

昨年の日本での帰省時、
私はインドネシアの電話会社(indosat)に、
使用している携帯電話を日本で使用できるように国際使用を申し出た。

インドネシアの電話会社と日本の電話会社は協定を結んでいる。
日本で使用した電話料をインドネシアの会社が払えるようになっている。
その申請の際に、ついでということで5千円を前払いしておいた。
で、昨年は、インドネシアで使用している携帯電話を日本でも使えた。

が、今年の日本帰省時....
一度、国際使用を申し出た電話番号は、永久に国際使用できる。
ということを知ってたオレ、今年は申し出せずに日本に向かった。

それはそれで良かったのだが、

オレのインドネシアでの電話会社との契約....
即ち、後払いが認められることになっている契約...
その契約が日本にいる間は適用されないというのだ。
要するに契約無効になるのだ。
ということは、先払い金のない携帯電話は日本では使えないのだ。

知らなかった。
が、考えてみれば、当然のルールだ。
「先払い」が面倒なので「後払い」の契約をしていたオレ。
このことが裏目に出たのだ。

さて、こうした「先払い」であるが、
インドネシアの先払いの方法は、簡単だ。
街の中のあちこちに「プルサあります」の看板がある。
そうした店に行き、前払いすれば良いのだ。
金額も50円以上、その時の財布の中身によって自由に選べる。
もっと言えば、新しい電話番号なんぞ、すぐに買える。
50円払えば、新しい電話番号を買うことができる。

オレ、実は、こうした携帯電話の臨時使用.......
インドネシアでできるのだから、
先進国の日本ではもっと簡単にできると思っていた。
例えば、空港での携帯電話の貸し出制度などを見ても、
それが簡単にできる証拠.....と思っていた。

もうひとつ言えば、「後払い」が裏目に出て、
オレのインドネシアの携帯電話が使用できなかったことも、
日本に帰った当初、それほど気にしていなかった。

というのは、カミさんが日本でスマートホンを買う予定になっていたからだ。
そのスマートホンに臨時の電話番号を入れれば良いと思っていたのだ。

そして、スマートホンを購入した。
で、期間使用の電話番号を購入しようとした。
が、インドネシアでは、簡単にできるのに、
先進国の日本では、できないのだ。

どこをどう探してもそういうのがない。
携帯電話の期間使用に関しては八方塞がりとなった。

が、よくよく考えてみると、
これも「先払い」「後払い」のシステムの違いから来ている。

もっと、言えば、
使用者の支払いに、信用できるかできないかの違いから来ている。
日本とインドネシアの顧客の信用度の違いは当然にある。
しよがないことのようだ。

まあ、そんな訳で、
携帯電話のない日本でのオレ、
いろいろな方に迷惑をかけました。
お許しください。

....

さて、この話。
インドネシアに戻ってからも後日談がある。
カミさんが購入したスマートホンに入れるSIMについて、
面倒なので、カミさんの使用料も私の銀行口座から送金する、
という「後払い」で契約しようとしたのです。

が、妻の使用料を亭主が払うって、ほんとかいな?
いや、ほんとに二人は夫婦なのか?
なんて、全てを懐疑心で見るお国柄.....だから、
その契約の難しいこと、ややこしいこと!

私とカミさんがホンモノの夫婦で、
お互いが責任を持ち合う関係にあることをいろいろ聞かれるのです。

窓口でハグでもすれば、もっと簡単だったかも(笑)。

その少々ややこしい契約というか、
ジャカルタの担当者との電話での確認を助けてくれたのが
INDOSAT KUTA の窓口のアグンさん(写真)。
一年前の手続きからの顔見知りです。
シンガラジャ出身、学生時代、日本語を勉強したそうで、
日本語ぺらぺらの才媛。
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アグンさん、ありがとう。
おかげでうまく契約できました。
現在、カミさんは、スマートホン勉強中です。
by yosaku60 | 2015-10-26 14:29 | バリ島=その日のできごと | Comments(2)

ムティアラの料理で助かっております。

日本に帰り、美味しい日本の食事をいっぱい頂いた。
そんな我々夫婦.....
バリに戻り、全面的にインドネシア料理に移行しようとすると、
少なからずストレスがかかる。
そんな時、助けてくれるのが「レストラン・ムティアラ」の料理。
美味しいばかりでなく安価なので、気遣わずに何度も来れる。
私がバリにいない間に新しいメニュー(掲示板)がスタートしていた。
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その中のひとつ、ネギトロ丼はトロの量が多く圧巻である。
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活けハマグリ...
なんと大きいんだろう。
しかも、美味。
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今までは、週に2回来ていたが、
身体がバリ仕様に戻るまで、当分は週3度にしたい。
by yosaku60 | 2015-10-25 14:27 | バリ島=レストラン | Comments(0)

たったの400円で丁寧な洗車

日本に行く直前に洗車しておいたのに、
バリに戻ったら、車はばたばたで汚れ放題....

青空駐車とはいえ、カバーをかけておいたのに、
カバーを通して車が汚れるのだから、あきれる。

その原因、まあ、深く考えないことにして洗車に出す。
その洗車たるや、すごーいんですよ。

まずは、圧力水で泥を落として、シャボンをつけスポンジ洗い。
そのシャボンを圧力水で飛ばした後、車の底をオイルコーティング。
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エンジン部分も清掃。
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足マットのゴミの取り方だが、
柱に何度もマットをぶっつけて、毛足の中のゴミまで飛ばす。
d0083068_12444249.jpg

車内の掃除。
ブラシと二組の雑巾を持って、掃いたり、拭いたり、磨いたり。
d0083068_12471024.jpg

タイヤのゴムの部分は、オイルをつけながらふき取る。
d0083068_12495445.jpg

最後は、ボス(左の人)の点検を受ける。
そのボス、小さい傷を見つけて、それを補修する。
d0083068_12524747.jpg

これで、〆て、400円。
3人がかりで所要時間1時間。
人件費の安いバリならではの価格だ。
by yosaku60 | 2015-10-24 12:53 | バリ島=その日のできごと | Comments(0)

軌道に乗らないバリ島での生活再開

バリに戻って、4日目、
まだ生活のリズムが完全に戻らない。

1年ぶりに日本に帰っても日本の生活にはすぐに戻れる。
が、1か月ぶりにバリに戻っても、生活がすぐに戻れない。

日本とバリのこうした違いは、何故なのか?
その違い、自分でわかっているが、
いろいろありすぎて、書く気になれない。

何故に、書く気にならないのか?
バリの生活を楽しむには、全てを前向きにとらえることが大事だ。
こまかなことはどうでも良いのである。
が、バリに戻ってしばらくは、
どうでも良いことでも解決せねばならないのだ。

例えば、
室内にはびこるカビの処理など...
留守中もお手伝いさんに清掃してもらっているが、
引き出しの中までは、指示していないのだ。

まあ、こういうこまかなことを
書くだけでも気分が滅入る。
毎回のごとく、淡々と処理するだけ....
ブログに書いて、騒ぎたくないのだ。

さて、ということで、
今もって、バリ島での生活再開途上です。

そんな中、
すぐに戻れたのは、コミンちゃんのマッサージ(写真)。
バリに到着した日に家に来てもらって、
機内姿勢で血行不良になった足をほぐしてもらいました。
ありがたい。
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by yosaku60 | 2015-10-23 11:22 | バリ島=その日のできごと | Comments(0)


常時ほろ酔い候
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