あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



<   2015年 05月 ( 33 )   > この月の画像一覧


今日のビーチは特に人がいっぱいです。

インドネシアの学年終わりは6月です。
7月から新しい学年になります。
でも、全員が進級できるとは限りません。
期末試験の結果が良くないと進級できません。

バリ島での、その期末試験.....
小学校は三日前に終わりました。
そして中学校も昨日、終わったのです。

期末試験が終わって、今日は最初の日曜日。
ビーチは、朝から子供連れの家族でいっぱいでした。

バリ人のビーチでの楽しみ方....
片意地を張る人(目立とうとする人)がいなく、
控えめで、自然で、でも、それぞれにみなが自由で、
外野から見ているだけで、こちらも嬉しくなります。

さて、
そんなビーチで、びっくりした話。
次の2枚の組写真。
左が金曜日の朝に撮ったもの。
右が今朝(日曜日)に撮ったもの。
d0083068_1003773.jpg

金曜日の朝、土曜日に行うイベントのための準備をしていました。
そして、日曜日は、土曜日のイベントが終わった後片付けをしていました。

      写真右の犬の名は「パンダ」。
      誰が飼っている犬か知りません。
      朝の散歩の〈連れ〉ではありません。
      いつも勝手についてくるのです。
d0083068_102778.jpg

そうなんです。
土曜日だけのために、こんなに投資するのです。
主催は、大きなホテルではありません。
マリンスポーツ専門の小さなホテルです。
少ないお客のために、こんなに投資してやっていけるのでしょうか。
なんて、気がかり.......余計のことですよね(笑)。


あっ、そうそう、
明日の早朝、4時出発でジャワ島に行きます。
車で行くので、フェリーに乗る関係上、早起きします。

ジャワでの行動のブログ掲載。
インターネット事情が良ければ、旅行中に書きますが、
そうでなければ、帰ってきてからまとめて報告いたします。
5~6日の予定で、出かけます。
では、行ってきます。
by yosaku60 | 2015-05-31 10:06 | バリ島=その日のできごと | Comments(1)

スカルノ、吉住、市来に会いに行く予定です(その5)

d0083068_13493078.jpg続いて、市来竜夫です。
市来が戦死したのは、1949年1月3日。
戦死の模様は、
一緒に戦った広岡勇が詳しく書いている。


(広岡勇の証言)……ただし再掲載

1月3日午前4時半、全員出動準備完了し、
山野小銃隊を先頭に市来隊長、杉山と続き、
更に前川、広岡の機銃隊、
擲弾筒の林、酒井、
水冷重機の若林、
が従って35~36名の兵員数でありました。

アルジャサリ村に通ずる浅い谷を先頭が渡り始めました。
前川と広岡は進路が違うと杉山に伝えましたところ、
オランダ軍もまだアルジャサリ迄は下っていない筈であるから、
急遽アルジャサリ部落を横切り部落の東端に出ることになったということでした。

全員駆け足で部落を横切り、無事谷沿いの部落の東端に出て、
部落の端を上方目指して登って行きました。

部落の一番上の民家を過ぎると段々畑になっており、
トウモロコシの芽が10~15cm 伸び、
また畑の地肌が見える程度でした。

畦道を用心して登っていくと、部下が「敵だ!」と言うので、
良く見ると、やはり敵は村道を中心に展開し、
その右端はわが山野小銃隊から20m位離れたところに位置しておりました。


前川機銃の斜め前方40~50mにこんもり土の盛り上がった所があり、
その陰に敵兵がおりました。


前川は直ちに段々畑の端に機銃を据つけ、
いつでも射撃できる体制をとりました。

杉山重機は広岡の後にいたが、これも又、
大きな木の根を利用して重機を据つけました。

敵も既に我々に気づいている様でした。
然し、敵は身体を乗り出し中腰にならぬ限り我が方が見えず、
又、それは我が方も同じでした。


そんな緊張が極点に達している時に、
山野が我が重機前30m位の所の畦道を東側からトコトコ歩いて現れました。
敵前4~5mです。

前川も広岡も一驚しました。
已むを得ず…
「敵だ! 山野下がれ」と、怒鳴りました。


敵も驚いた様子で4~5名が身を乗り出して周囲を見廻しました。
途端に前川が「撃つぞ!」と叫ぶと共に機銃が火を吹きました。

杉山重機も直ちに撃ちだし、敵も応戦して激戦となりました。
程なく敵の擲弾筒弾が頭を越えて東の谷に落下し始め、
物凄い爆発音が谷にこだまし響いてきました。


戦闘は双方の機銃の撃ち合いとなり、
小銃音は全く聞こえず、
小銃隊兵士の姿も見えませんでした。
近接の自動火器の前では日本の38式小銃は、
無用に等しい状態でした。

前川機銃が弾の突っ込みをやって、
射撃がぴたりと止まってしまいました。
前川の機銃の口蓋を開け、
広岡がドライバーとハンマーで弾を引き出し、
すかさず前川が射撃を始めました。
この間わずか数秒であったと思います。


この戦闘で杉山重機は15回以上弾の突っ込みを起こしましたが、
それ以外は好調で撃ちまくりました。

100発に一発位の割で入れてある曳光弾が尾を引き、
昼間とはいえ美しかったことを覚えています。

部落中央道路上に位置した敵擲弾筒の弾が、
前川機銃東前方10m位の所に「すほっ」と音を立てて落ちました。
前川はすばやく機銃を引き下げ、身を伏せましたが、
弾は不発で白い煙を出したのみでした。

その後、擲弾筒の至近弾を2回も受けながら、
何れも不発であったことは幸いでした。


前川機銃は適時移動しながら射撃し、
且つ、しばしば弾の突っ込みを経験しました。

後方に我が擲弾筒部隊の林がいたので、
「源ちゃん擲弾筒は何で撃たんのか」と、怒鳴ると、
「弾を持った兵士がいなくて、弾無しだ」との返事が返ってきました。

その時、敵陣で物凄い爆発音と共に土煙が舞い上がりました。
それは山野が破甲爆雷を投げたものであったことが、
その後になって知りました。


「市来隊長はどうした」と、杉山が後ろで怒鳴りました。
「全然見ていない」と、答え、
ふと横を見ると、
山野小銃隊の兵士が軍刀を持っていることに気づきました。
「その軍刀はどうした」と、尋ねると、

「隊長は私の小銃を取り上げ、代わりに軍刀を残して、
山野小銃隊の方に行かれました」と、言いました。


戦況はいよいよ逼迫して来ました。
杉山が「市来さ~ん」と3回連呼しましたが、
返事はありませんでした。


敵軍の左翼が迂回を始め、杉山重機の包囲体制を示しました。
重機の足元にも敵弾が集中し始めました。
一方重機の手持ち弾も少なくなったということで、
東の谷を渡って退避することとし、
前川機銃がしんがり部隊として退避援護をすることに決まりました。

その時、同時に杉山重機の射手、若林が「杉山さ~ん」
と、悲鳴をあげ始めました(その時負傷、後日死亡)。
杉山は「後を頼むぞ!」と言い残して退去し始めました。


前川機銃は部落中央道路に位置している敵本陣めがけて射撃を続行しました。
敵の擲弾筒弾は方向違いに落下、破裂しておりました。
我が擲弾筒隊の林が杉山重機は後退したというので、
「擲弾筒も直ぐ退れ」と、退避させました。


前川は機銃を雨外套で巻き、
片膝を立てて機銃をその上にのせ、
射撃と移動を繰り返しながら、
我々機銃隊も後退し始めました。
広岡は樹銃弾2~300発兵士から受け取り、
兵士も先に退却させました。

深さ50~60mの谷の上まで後退してきた時に、
杉山重機は谷を下りきり、対岸の崖を登り始めている所でした。
それは丁度蟻の行列を連想させるものでした。


先に後退した杉山重機の援護の元に、
我々もスメル山中で1~2と言われる深い谷を越え、
約30cm幅の細い崖道を約60mの高所まで這うように登り終え、
ゴム林に辿り着いた時には、緊張からの開放感も伴って、
兵器も投げ出してぶっ倒れました。


大地に身体を投げ出し、高ぶった気持ちも落ち着くと、
危機を脱出した安心感と共に心にも余裕が出来て、
谷越え時によくも敵さんは出てこなかったものだと、
前川とも話し合いました。

遮蔽物の少ない谷を渡っている際、
オランダ軍が追求して来ていたら、
我がゲリラ部隊はおそらく全滅に近い被害を受けたことであったと、
思われました。


その時又敵飛行機が飛来し、
アルジャサリ部落周辺を機銃掃射している音が伝わってきました。
敵軍は我々が南方面に後退したと判断した模様でした。

広岡にとってこの戦闘は初めての経験でした。
それに引きかえ杉山、前川は共に関東軍以来のツワモノであり、
適切な戦況判断とそれに基づく判断には頭の下がる思いでした。
おそらく市来隊長といえども、
そのような戦闘駆け引きは、真似が出来なかったであろうと思われました。


その後尚谷を越え、スンバル・アゴンの本体に合流したのは、
午後1時頃になっていました。

スンバル・アゴンの部落民も
既に今朝の戦闘のあったこと報を知っていて、
我々ゲリラ隊を手厚く持て成してくれ、
早速コーヒーや食事などの準備をしてくれました。

インドネシア兵士達は手まね足まねを交えて、
戦闘状況を住民に伝えるのでした。
そして、日本人部隊と行動を共にしていれば戦闘も間違いない、
との確信を持った様子で、
日本人を全面的に信用してくれるようになりました。


さて、一応満腹したので思い思いの場所を選んで仮眠休憩しました。
しかし、午後4時半になるも市来隊長と山野の消息が一向に得られず、
案じていたところ、2時間後の6時半、市来隊長を探して、
ダンピット方面を廻ってきたという山野が帰隊しました。

山野の話によると、
市来隊長は兵士の小銃をとって小銃隊に合流した由でした。
敵味方至近距離の戦闘でしたので、
相互共に中腰に腰を浮かさねば相手が見えにくい状況であったことから、
市来隊長が敵を求めて腰を半ばあげた途端、
敵の自動短銃が火を吹き負傷されたと言うことでした。


山野は直ちに兵士2名に市来隊長を後送する様指示し、
自身は破甲爆雷を敵中投げ込み、
敵部隊を威嚇した後、
周囲を見回した時には、
既に部下の兵士は1名もいなかった由でした。


山野は市来隊長がすでに後退したものと思い、
自身も後退し始めたが、
途中注意するもそれらしい様子は、
見られなかったということでありました。


その後も市来隊長に関する情報を集めるも、
一向に消息は判明しなかったことから、
山野に兵士数名を配し、
ダンピット方面を再度調査してもらうことになりました。


翌日1月4日早朝、山野を長とする市来隊長捜索隊は、
スンバル・アゴンを出発しました。

捜索隊は一日半を費やし、翌5日午後帰隊したが、
報告によると市来隊長らしい消息はつかめず、
ダンピット方面で負傷手当中という噂は、
全く誤報であることが判明しました。


再度協議の結果、
翌6日アルジャサリの戦闘現場を捜索することとし、
朝の9時半、日本人と小銃隊員が捜索隊を組織し基地を出ました。
再び谷を越えてアルジャサリに到着したのは、2時間後でした。


アルジャサリ部落の上方から捜索隊は一列横隊に展開して、
部落に下がりながら戦闘現場を探すも、
市来隊長に関連あると思われる兆候は何一つ得られませんでした。


又、アルジャサリの部落民を集め情報聴取するも結果は同じでした。
丁度戦闘のあった当日は、
敵飛行機の銃撃で部落民26名が死亡したことから、
事後処理に追われ、その後まだ畑に出た者もないということでした。


丁度その時、林が駆け込んで来て、
隊長の遺体が見付かったと知らせてくれました。

其処は、小銃隊が戦った東側の谷に縁に小さな畦道がありましたが、
高い草に覆われて、且つ、谷側に遺体がずり落ちていたため、
畦道から見えなかっためでした。
林も一端そこを通り過ぎたが死臭で気づき、
発見することが出来たということでした。

市来隊長は、頭部に被弾されていることより、
即死されたものと思われますが、
隊長後送を指示された2名の兵士は、
隊長を後方に引きずった際、隊長の身体が谷にずり落ちた為、
そのまま遁走したものと思われ、
その後姿を現さず、詳細不明のままとなっていたものでした。

さて、市来隊長は谷の縁2~3m下った窪みに、
崖の斜面に背をもたされ座ったような格好で、
頭をあげておられましたが、
ご遺体はすでに腐敗し始めておられました。
住民の協力を得て、ご遺体はとりあえず現場に回教式で仮埋葬しました。

石碑代わりに約50cmの大竹を半分に割り(約15cm)、
その内側に持ち合わせた青い色鉛筆で次のとおり、
広岡が弔文を書きました。

Majar ABD,Rachaman/ Tsatsuo Ichiki
Umur 43 Tahun
Gugur: Tgl 3-1-1949 Djam:07.30
Pertempuran Ardjasari
Sumber-Putih, Dampit ,Malang

少佐 アブトラ ラハマン / 市来竜夫
年齢 43歳
戦死: 1949年1月3日 時刻:07.30
スルバル・プティ ダムピット、マラン

なお、市来隊長の致命傷は右目上の額より右耳下への銃弾の貫通によるもので、
他の一発は左耳を擦傷し、もう一発は鎖骨部を貫通しておりました。

さて、市来隊長亡きあとの特別ゲリラ隊は、
スラルディ杉山大尉を隊長として選出しました。

その後の1月16日、故市来隊長の部隊葬を行い、
村民列席のもとアルジャサリ村落近くの墓地クドスに移葬しました。

後日、独立戦争の終わった1952,1953頃、
マラン英雄墓地に再移葬の話が出ましたが、
アルジャサリ、クドス部落民から
私たちの父であり、独立戦争の戦死であるアブトラ・ラハマンの霊は
戦死されたこの地で今後私たちが守りたい、
と強く要請があり、再移葬はされませんでした。


清らかな大気の下、絶景の地スメル南麓に永眠する市来隊長も
愛して止まなかったインドネシア住民の要望に満足されていることと思います。


追って、日本人8名にインドネシア兵を配した小部隊が、
完全武装のオランダ軍1ヶ中隊を相手に1時間半激戦した事は、
イ国民からも想像以上高く評価されることになりました。

それまでは日本人に対し、半信半疑の懸念もあった様ですが、
それも一掃され、爾後は全面的に信用されるようになりました。

尚余談となりますが、
上述アルジャサリ戦闘で日本人部隊の予想以上の反撃に会ったオランダ軍は、
相当の被害を蒙ったことからも日本人部隊の戦力を1ヶ中隊以上と推定し、
マランより1ヶ中隊の増強を得たオランダ軍2ヶ中隊は、
我々日本人部隊の掃討作戦を展開しました。

その掃討作戦は、同年2月27日のウォノコロ戦闘で、
オランダ軍は小さな山、パンダンサリ山に拠る我がゲリラ隊を
早朝より包囲攻撃し、激戦半日、
オランダ軍中佐以下25名以上の戦死者を出して引揚げたものでした。

それに反し、イ国側戦死者は1名でありました。
しかもオランダ軍は当日全遺体を収容できず、
5~6体(内1名は女性将校)を仮埋葬して残置したことから、
翌28日早朝からウォノコロを砲撃すると共に飛行機の援護の下再度来襲、
遺体を収容していきました。
引揚げに際して途中の村々に火を放った由で、
トレンのオランダ兵舎では一週間半旗を掲げた由でした。

なお、このウォノコロ戦闘は
イ国独立戦史にも明記されていると聞いております。
by yosaku60 | 2015-05-30 13:50 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

スカルノ、吉住、市来に会いに行く予定です(その4)

d0083068_7583323.jpg吉住、市来の最後の場面を書いて、
ジャワ、出発前の話を終わりにする。

まずは、吉住留五郎。
吉住は結核を病んでいた。

その頃の吉住を
小野盛と田中年夫の両名が書いている。
二人の証言をそのまま掲載する。

(小野盛証言)

1947年10月11日、
重体の吉住氏を山野氏と共にサワンガンに移す。
爾後、市来氏は終日、吉住氏の看病にあたる。

1947年11月30日、
吉住氏小康を得、サワンガンを離れる。

1948年2月1日、  
市来氏の元に吉住氏が訪ねて来る。
本人は、病気全快というが、とてもそのように思えない。
が、一同で祝杯をあげる。
吉住氏は一泊し、情報並びに意見の交換をする。
吉住氏は状態の推移を黙視し得ず、
スカルノ大統領以下政府要人に意見具申のためジョグジャカルタに行くといい、
市来氏に同道を求める。
共にインドネシア独立のために戦う無二の親友とはいえ、
事、政治的見解については自説を固持した。
そして、このときは全く見解を異にし、大論争となるも合意に達しなかった。
その晩、一泊した吉住氏は、翌日一人で出発した。

1948年7月、
病状小康を得た吉住氏は、サワンガンよりウンギリに出て来て、
市来氏と計り、強力な遊撃戦を展開すべく、
東部、中部ジャワの日本人を集め、日本人部隊を編成、両氏が指揮をとった。
それら日本人は、各部隊に分散していたものを
司令部の許可を得て集めたもので、総員29名であった。
しかし、吉住氏は尚療養の要あり、ダルガン農園に入り、
部隊の指揮は市来氏がとった。(この月、吉住氏病死さる)


(田中年夫証言)

東部ジャワ、ケデリー市内に吉住を訪問する。
面接すると、病気の吉住は口伝で、
インドネシア独立宣言以来の政治家の活動状況を
あらゆる角度から検討してまとめている。
橋本が傍で筆記している。
肺病の吉住は、自分で書くだけの気力もないようである。
顔色も悪い。
挨拶するといきなり「刀を見せてくれ」と言う。
出した私の刀を抜いて、じっと眺めていた吉住は、
「菊一文字か、立派なものだ」と、讃めたあと、
「私のは胴田貫だ」と言って、
長く重そうな刀を抜いて見せる。
実戦用の刀である。
背の低い吉住には、似合わない長刀である。

数日後、吉住はセゴン農園に転地療養のため担架で運ばれて行く。
その途中、クリンギの日本人部隊に立ち寄った。
市来に後事を託した吉住は、私にも繰り返し握手を求めた。
氷のように冷たい手で、しっかりと握る手には、
全身の力が集中されているようである。
「早く全快されるお祈りしております」と言うと、
「ありがとう、ありがとう」と、繰り返し、かすかに微笑する。

............

ブリタル英雄墓地にある吉住留五郎の墓
d0083068_814518.jpg


...... 吉住留五郎の略歴、再掲載.......

明治44年山形県に生まれる。
オランダ統治下、すでにジャカルタにあって新聞記者として活躍。
その活躍ぶりがオランダの植民地政府にとって、
目障りなため逮捕され投獄される。

その後、日本に送還される。
戦争中はインドネシアに帰ってきて、
陸軍の宣伝班員としてジャワ派遣軍に加わり、
日本の統治に入ってからは、前田海軍少将に請われ、海軍の通訳として、
また海軍武官府にあって民族主義運動を工作する。

戦後もインドネシアに留まり、
インドネシアの独立戦争にあっては、
独立軍の軍事参謀指揮官として活躍する。

結核で血を吐きながら、
一個師団を率いて山々を転々としオランダ軍と戦うが、
昭和23年7月、ゲデリ州セゴンの山中にて病没。
by yosaku60 | 2015-05-30 07:54 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

スカルノ、吉住、市来に会いに行く予定です(その3)

さて、インドネシア初代大統領のスカルノですが、
調べれば、誰でもわかることを書きたくないんだよなあ(笑)。

んで、まったく畑違いの話。
まずは、スカルノという発音の仕方....
日本語読みでスカルノと言っても、インドネシアでは100%通じない。
読み方、アクセント、発音の全てが微妙に違うので、全体として通じないのだ。
じゃ、どういえば良いのか....
スーカルゥノ....と言えば通じますよ(面白いでしょ)。

次に、インドネシアにあっての大統領の扱われ方。
次の実例を話せば、感覚がつかめるかな....

私の友人(バリ人)に、ホテルのマネージャーがいる。
先日、彼のホテルにユドヨノ前大統領が来たそうで、
もう辞めてから久しいのに、ユドヨノに逢った彼は、
心が震えたそうで、その感激を嬉しそうに私に話してくれた。

翻って、ワタシ。
安倍総理に会っても、「アッ安倍だ!」と思うだけで、
ときめきはしません.....多分。
でも、天皇陛下にお会いできれば、
大いにときめいて震えるでしょう。

インドネシア人の大統領を思う気持ちは、
きっとそれに似ているのでしょう(と思う)。
次の表を見れば、その理由がわかるかと思います。
( )は、行政の長。  《 》は、元首と行政の長を兼任。
d0083068_6303624.png

さて、初代の大統領であった、スカルノ。
今でも、インドネシア人にとっては、特別な存在です。

なぜなら、彼の娘である、メガワティ....
インドネシア人の誰もが、彼女を無能と言う。
そうは言いながら、彼女の率いる政党......
闘争民主党(PDIP)への支持者は、まだまだ多いんです。

現在のインドネシアの大統領は、ジョコウィドド。
彼もPDIPの支持があって政権を保てているんです。

インドネシア人の心の底流に、
今もスカルノへの崇敬があるってことでしょう。

さて、そんなスカルノと吉住、そして市来との関係、
彼らが互いに、どんな風に思っていたか、であるが.....

まずは、スカルノが、吉住と市来に残した言葉で、
kemerdekaan bukanlah milik suatu bangsa saja,
tetapi milik semua manusia
があります。
直訳すれば、「独立は一民族のものではなく、全人類のものである」
であるが、「日本人である貴方たちがインドネシアの独立に尽くしてくれた」
ことの感謝の言葉であると思っていいでしょう。

次に、吉住が市来に対してであるが、
インドネシアの独立への思いは同じものの、
それに向けての戦い方については、持論があり互いに譲らず....
とはいうものの、お互いに尊敬し合う友人でした。

また、吉住がスカルノに対してであるが、
政策が手ぬるいとして提言する間柄にあった。

次に、市来がスカルノに対してであるが、
「あいつは政治家だ」と、評していたことが語られている。
市来は、スカルノの手ぬるさに反発する、筋金入りの実戦家であった。
by yosaku60 | 2015-05-29 11:53 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

スカルノ、吉住、市来に会いに行く予定です(その2)

今朝の浜辺の、とあるお寺の、お祈り光景。
艶やかな神の木。
お祈りする娘さんの背中が醸し出す「日常」。
バリの朝は、どこでもこうした光景が見られる。
平和である。
d0083068_1224826.jpg

さて、突然だが、
マクロ経済という言葉がある。
マクロ経済を語らずに経済を語れない。
マクロ経済は、経験則の集大成である。
学者が好む屁理屈ではない。
屁理屈を語る頭脳がないオレ。
マクロ経済という言葉が好きである。

歴史は、全てが過去。
であれば、マクロ歴史という言葉を使っての歴史観、
があってもおかしくないのに….ない。

歴史なんて、捉え方がいっぱいある。
が、細かい部分を掘り下げすぎると本筋から離れる。
慰安婦問題など、その典型だ。
大枠を捉えてその幹を外れない枝として語られるべきだ。
その大枠が、マクロ歴史観(とオレは言いたい)だ。

……なんちゃって、
ちょっと、いい格好し過ぎ!

実は、スカルノ、吉住、市来に会いにジャワに行くオレ、
行く前に、心の整理として、
東南アジアのマクロ歴史観を語りたくなったのです。
その前置きでした。

なにから話そうか。
やはり、欧米列強の植民地政策からでしょうね~

んで、
東南アジアの植民地状況から……

第二次世界大戦の直前の東南アジアは、
インドネシアは、オランダの植民地だった。
インド周辺、マレー半島は、イギリス。
フイリッピンは、スペイン、その後アメリカ。
南シナ海沿岸それに隣接する山岳地帯は、フランスだった。
中国は全土ではないが、列強の草刈り場だった。

で、植民地でなかったのは、タイと日本の2国だけ。
両国は、王制がしっかりしていてスキがなかったからだ。

でも、そんな日本、
スキがなかっただけでなく、欧米列強に加わるべく、
台湾、韓国を手にし、中国にまで手を伸ばし始めた。

白人以外は人間でない….
と思っていた欧米の列強にとっては、
日本の台頭は、面白くない。

特にアメリカは、ヨーロッパの列強に少々乗り遅れていた。
さらに、自国内の経済も失敗しつつあった。
国内の失政を隠し、ヨーロッパの列強に追いつく格好の手段は、
日本を戦争に引き出すことであった。
それは、オレンジ計画の流れを汲むものであった。

んと、まあ、この辺はどうでも良い。
戦後いろいろ言訳が繰り返されて曖昧になっている。

次の事実だけを見て考えて欲しい。
日本敗戦後の事実である。
東南アジアの植民地がどうなったかである。

戦後も植民地政策を続行しようとした。
例えば、インドネシア….
オランダが再度植民地化しようと企んだ。

これ、どう思いますか。

東京裁判で「平和を乱した罪」とかなんとかで、
日本だけを悪者にして、
自分たちの植民地政策の歴史に蓋をしたのです。

で、一旦、蓋をしておいてですよ。
日本を悪者にすることに成功したら、
すぐに、また、
蓋をまくって....同じことをやりだしたのです。
これって、平和を乱す罪ではないのですかね~
なんともはや、自分勝手です。

但し、
一旦、日本人のような、小さなアジア人でも
欧米の列強に勝てるということを学んだアジア諸国は、
再度の植民地化は、簡単に許さなかった。
そうした抵抗が、徐々に広がり、
東南アジアの国々は次々と独立した。

と相成ったのですが、

さて、ここでマクロ歴史観として、
何を言いたいかと言うと、
欧米列強の植民地政策が今も世界に残る弊害、
そして、そのことが何処からも糾弾されない不公平さ、
を言いたいのです。

東南アジアだけではない。
例えば、アフリカ。
民族同士の争いが絶えない。
しかし、その殆どが植民地だった時の
権力の線引きがことの起こりである。
中東は、言うに及ばず、当たり前すぎるので割愛。
新しいところでは、ミャンマーのロヒンギャ族の難民問題。
仏教とイスラム教という宗教問題のように捉えられているが、
昔は、それほどに紛争がなく、平和裏に棲み分けができていた。
差別の始まりは、
イギリスが植民地政策を押し付けて来たことに起因する。
語られてしかるべきなのに、語られない。

オレは言いたい。
東南アジアをマクロ歴史観から語る時、
欧米の植民地政策を離れては、語れない。

……………

さて、次に、
やはり、マクロ歴史観的見方として、
オレ風に中国と韓国の最近の反日状況につき語りたい。

急激に発展した両国に共通したものがある。
日本からの援助金を梃に、だけでは、ない。
それは、「賄賂の効用」だ。

賄賂は、良くないことは当たり前だが、
新しい計画の発進、推進には、
スピード感を出すものとして、効能抜群である。
理屈なんて、どうでも良いからだ。

中国の賄賂は、今更言うに及ばない。
目立たないものの韓国もそうである。
大統領を辞めたあと、必ず捕まることが物語っている。
数少ない財閥だけが伸びるのは、
金銭でないが特別扱いという賄賂をもらうからだ。

問題は、急激に発展した後、
その賄賂体質からなかなか抜け出れないことだ。

オレは、現在の両国の反日運動は、
賄賂体質から抜け出れないことの「いらだち」だと思っている。
これが、両国に関するオレのマクロ歴史観だ。

長々と、理屈っぽく書いた。
スミマセン。

明日は、脱線することなく、
スカルノ、吉住、市来の話を書こっと.....(笑)。
by yosaku60 | 2015-05-28 12:24 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

100人に一人のマッサージ師のその後

デンパサールの食品スーパー「テアラデワタ」
の店内を歩いていると、突然に、
「ボス!」 と呼ばれる。
振り向くと、アディだ。

2013年10月17日のブログで、
100人に一人のマッサージ師と誉めちぎった男だ。
相変わらず、痩せている。
が、マッサージの揉む力はすごい。

どうしたんだ?
「店が変わったんだ」
どこ?
で、案内されたのが、子供の遊び場の近くにある店。
店の名は、前と同じで「Dewata」。

「マッサージしていかないか」と言う。
今日マッサージすれば、一昨日、昨日、
とマッサージの3連チャンになる。

が、久々の再会だ。
誘われて断るには、気が重すぎる。
OK Ok の二つ返事で、店内に入る。
d0083068_17303011.jpg

マッサージが始まると、すぐに思い出した。
素早く細かな手の動き、上手い! やっぱり上手い。
100人に一人のマッサージ師と書いた過去に偽りなしだ。

足のマッサージ40分、
背中、首、手のマッサージ20分の計一時間、
のマッサージで、料金550円....高くはない。

夜は、9時半まで店を開いてるとのこと。
マッサージは睡眠前が最も気持ちが良い。
通うことになるかも。
by yosaku60 | 2015-05-27 17:37 | バリ島=マッサージ | Comments(0)

windows 8 は、欠陥があるのかも.....

windows 8 を使いだして、約半年。
昨日、突然にレジストリが壊れてしまった。
動きが悪い....を通り越して、ほとんど動かない。

原因が表示される。
Group Policy Client が正常に動かない....んだそうな。
Group Policy Client とは、何者?
素人のオレ、そんなのわかるわけがない。

同じ事故を起こした例がないか調べると...あった!
レジストりに新しいファイルを作り、
その中に文字や数字を書き込み仕上げると....
Group policy Client が動き出した(実行中になった)。
で、パソコンは正常に動き出した。

なぜ、レジストリが壊れたのだろうか。
思い当たることがひとつある。

windows 8 のバッテリーは、長持ちする。
夜寝るときに、パソコンでユーチューブなんぞ見て、
そのまま寝てしまうことがある。

朝方、バッテリーがなくなり、パソコンは止まっている。
そうした場合、電源につないでも起動しないのだ。
どうも「休止」になって、固まってしまうようだ。
しようがないので、
電源ボタンを長押しして強制終了させたあと、起動させる。

過去に、そうしたことが何度かあった。
その時に、レジストリが壊れたのではなかろうか。

ネット上に事故例が書かれているということは、
勿論、他にも同じ人がいたということ。

ウィンドウズ95、98、xp、7  と使ってきたが、
レジストリが破損するなんて経験は初めてだ。
wainows 8 は、欠陥品ではなかろうか。
by yosaku60 | 2015-05-26 18:25 | バリ島=その日のできごと | Comments(4)

幸せなことが続きます。

一昨日は、若者が確実に前に進んでいるのを知った。
昨日も、そうしたことがあった。

一年半前、サヌールを去るということで、
我が家で送別会をした、ディアンさん。
彼女は、幼稚園の先生になるのが夢だった。

で、すぐに、幼稚園で働くことができたが、
そこは生徒よりも先生の数が多くて、すぐに辞めた。
そして、地元に新しい幼稚園が建設されるのを待った。

待つこと一年。
このたび、新しい幼稚園への就職が決まった。
こんどの幼稚園は、先生が二人だけだそうな。
ディアンの実家は、サヌールから2時間の山の中。
そんな遠くから、幼稚園の先生の服装をして、
オレに見せに来てくれた(写真)。
d0083068_950697.jpg

彼女には、もうひとつ嬉しいことがある。
5か月後には結婚も予定しているのだ。
彼氏は、新設の幼稚園と同じ敷地にある専門高校の先生。
「職場が近いので旦那の浮気を監視できる」と冗談をいうディアン。
二人の交際は長ーい。 そんな心配はない。
やっと、ディアンも幸せに向けて歩き出せた。
おめでとう、ディアン。

........

わが家の庭を面倒見てくれてるワヤンに第一子が誕生した。
ワヤン曰く、
「へその緒がとれるまで奥さんの元にいなければならない」らしく、
彼は現在、奥さんの実家のギャニアールに居る。
で、誕生して一週間の一昨日、
アリエフの送別会の当日のお昼ということになるが、
誕生祝を持って、ギャニアールの奥さんの家に行って来た。
母子ともに健康で、ワヤンもほっとしているようであった。
ワヤン、おめでとう。

.........

新しいニュースが入って来た。
私のところに挨拶に来て、マレーシア行きの準備を始めた、デア。
もうマレーシアで働き始めたそうな。
同じ場所で働くバリ娘は、クトゥ、デクニック、リンダ、デアの4名になった。
全員で仲良く働いてるそうだ.....これも嬉しい。

.........

バリの若者の苦労は、
日本人には想像しがたいほど大変に見える。
そんな中を.....明るく、そして確実に、
前に進んでいる若者を見ると、オレは嬉しい。

インドネシアに住んで、
そういう若者に触れ合える現在のオレ、
そんなオレを、オレは幸せに思えてならない。
by yosaku60 | 2015-05-26 10:27 | バリ島=人物往来 | Comments(2)

アリエフ、ご苦労様、次も頑張れよ!

アリエフが家庭の事情でオーストラリアに出稼ぎに行くことになった。
昨晩は、その送別会.....

お金は全部オレが払う。
参加する人は何人いても良い。
アリエフの連れて来たい人は全部連れて来て良い。

とカッコイイ見栄を切っていたが、
アリエフは遠慮したようだ。
私も知っている人のみに限定して呼んだようだ。
んで、集まったのは、次の16名。
d0083068_11475379.png

みんな、日本語を勉強している若者。
理由は、日本を好きだから.....
オレにとっては、ありがたい話だ。
みんな、可愛い!

全員を紹介しよう。

まずは、アリエフ(下の写真の左の男性)。
アリエフと知り合ったのはいつだったろうか。
彼が大学生の時だったから、5年ほど前になるだろうか。
日本語学部に学ぶアリエフの卒論は「漢字の伝来」であった。
初めて聞く日本語の意味を質問され、
応えれない自分の学のなさに愕然としたことを思い出す。

右の女性は、ヤチさん。
日本の老人ホームで働いていたヤチさん。
つい2か月前にバリに戻ってきたばかりだそうな。
アリエフと同じ頃に知り合った古い友人だ。
私とは4年ぶりの再会.....突然の再会でオレもびっくり。
すっかり、大人の女性になった。
今後は、日本で再度働くか、
中部ジャワの「ソロ」に向かうか、迷っているそうな。
頑張れ!ヤチ。
d0083068_1213541.jpg

右の女性は、エヴィ。
最近のオレ.....エヴィがいなければ困る。
バリ島での残留日本兵の調査、
来月予定しているジャワ島での日本兵の調査、
言葉の壁があって、全てにエヴィがいなければ計画できない。
エヴィ、今後ともよろしくね。

という具合にエヴィの存在感は特別だ。
そんなエヴィから離れずに助言を求めるのが左の男性、アストロ。
大学の英語学科を卒業し、近所の子に英語を教えている....が
本来は日本語を勉強したい....といいながら、オレとも4年来の知り合い。
が、その頃から、日本語が上達しないように見受ける。
アストロ、もっと、頑張れよ!
d0083068_12531880.jpg

大学の日本語科に学ぶ、アプリちゃん(右)
まだ大学の一年生、アルバイトしながら自活している、一応....苦学生。
左は、アユ、 アプリの同級生。
アリエフとはかねてより知り合いだが、オレとは、この日が初めて。
d0083068_12272748.jpg

左がアユ(と言う名は多い)、右がデゥイ。
二人とも、ウダヤナ大学の学生。
d0083068_12305145.jpg

カラガッサムで日本語を教える先生、アステ(左)
アリエフに代わって教える、マルタ(右).....の二人の先生。
やはり、ちょっと大人っぽい。
d0083068_12355520.jpg

手前の男性はマンダラ、ホテルの顧客担当をしている。 
その左は、いつも明るい、ダディ。
d0083068_12464712.jpg

さて、次は、可愛い二人。
左がアスタリちゃん、まだ高校生、この中では最も若い。
アスタリにくっつく右がチェニン。
今春、高校を卒業し、ウブドのホテルで働き始めた。
頑張れ、チェニン、アンタの頑張りを応援してるよ!
d0083068_132293.jpg

左がヤサ....なかなかの男前、話し方も静かだ。
彼は、わが「ヨシイ学校」の生徒。
ヨシイ学校と言ったって、なんの行動もしない(笑)。
もし、日本語の勉強で困った時、最後にオレがいる。
オレを頼りにしろよ....てんで、宣言して集めた若者たち...
現在生徒は6人だけ、但し開設以来、まだ誰も相談に来ない。
いわば、あってないような、幽霊学校....だけど。
そういえば、ジュリタ(右の女性)、アンタもヨシイ学校の生徒だったよな。
だけど、ジュリタは、オレに相談しなくともやってゆけるほど優秀だ。
今春、ガジャマダ大学の日本語学科に入学が決まった。
ガジャマダの入学は難しい....ジュリタ、頑張ったなあ、おめでとう。

だけど、ジュリタ。
ガジャマダ大学で日本人に日本語を習っても、オレを忘れるなよ。
オレには、お年寄り、という武器がある。
若い先生に、ないものがあるよ(かな?)。
d0083068_1335936.jpg

ところで、アリエフ....
ここのほとんどがアリエフ経由で知り合った若者だ。
付き合いを広げさせてもらって、感謝している。

それに、アリエフ独自のインドネシア人のための、
インドネシア語で教える、日本語の文法........
日本人のオレがついていけないほどの緻密さがある。
その頑張りも、日本人として、オレは感謝しているヨ。

オーストラリアはメルボルンで働くことが決まっているアリエフ。
メルボルンは意外に寒いんだよ....知っているか。
交通事故で足を痛め、寒くなると、足が疼くアリエフ。
力仕事には、きつい筈......それが心配だ。
何かあったら、また相談に乗るからな~ 元気でな!!!

・・・・・・・・・・・

都合があって、ここに来れなかった、デディ君。
彼の夢は、看護士になって、日本で働くことだった。
そんな彼、スマランの看護大学に合格したそうな。

みんな、一歩一歩、前に進んでるようで、嬉しい。
by yosaku60 | 2015-05-25 12:48 | バリ島=人物往来 | Comments(2)

スカルノ、吉住、市来に会いに行く予定です(その1)

来月の初旬、東部ジャワに行ってきます。
目的は、
1、スカルノ(インドネシア初代大統領)のお墓参り
2、吉住留五郎のお墓探し
3、市来龍夫のお墓探し.....の三つです。

この3者は関係があります。
次は、東京の青松寺にある顕彰碑です。

インドネシアの独立に尽くしてくれた二人が
民間人と言うことで靖国神社にも入れていないことを知って、
スカルノが建立したものです。
d0083068_13401385.png

スカルノのお墓は、Biltar にあります。
吉住が死んだのは、スンゴン農園です。
市来が死んだのは、ポンチョコスモです。
d0083068_14113789.jpg

これら三者は、150キロ圏内にあります。
住吉は、ブリタル陸軍基地に埋葬されているとの情報があるものの、
市来については、ポンチョコスモでの戦死した場所に仮埋葬され、
その後、どうなったかの情報がありません。

市来龍夫は、
私が、インドネシアの独立に寄与した日本人3傑にあげた人物です。
なんとかその後の情報を得て来たいと思っております。

..........


情報整理の意味もあり、出発前に
2~3回の予定で、三者を語ることにする。
一部繰り返しになるがお許しいただきたい。
by yosaku60 | 2015-05-24 14:01 | バリ島での独立戦争 | Comments(2)


常時ほろ酔い候
カテゴリ
画像一覧
以前の記事
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月