あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



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明日、日本に出発します。

d0083068_1039781.jpg一緒に写真に写りたいって?
いいヨ! オレって、
おばあちゃんに好かれるんかも。
何?.....オレより15歳も若い!
んじゃ、アンタ。 
若さを売り物に「おじいちゃん」に、
ちょっかいを出しただけかいな。
てな、今朝のサヌール海岸。
も、明日でしばらくお別れです。
オレ達夫婦、明日日本に帰るんです。
残留日本兵の記述も終りました。
これからルンルン気分で、
出発準備です。
ああ、そうです。
残留日本兵をまとめたホームページも書き終えております。
http://www3.nsknet.or.jp/~yoji-yoko/
グーグルとかヤフーで検索する場合、

残留日本兵 吉井

と、打ち込んでみて下さい。
吉井 というのは、私の苗字です。
きっと、検索エンジンが「吉井と言う名前の残留日本兵」
と、思ってくれるのでしょう.....
ありがたいことに、検索結果のトップに、これが出て来るんですよ。
d0083068_10394633.jpg

このホームページ、左上から右回りに読んで欲しいのですが、
右の角の「大東亜戦争雑感」は、飛ばさないで、ちょっと覗いてくださいね。
そこでは、私の勝手な考えですが、
戦争の敗因を大衆迎合という言葉でばっさり言い切っております。

大衆迎合と同じような意味で「寄らば大樹の陰」という諺があります。
私は、この言葉が嫌いです。
嫌いというより、世の中が多様化した現代に合わないと思うんです。
何が「大樹」なのでしょうか。
そういうのを見極める時間があれば、自分が樹木になればいいじゃないですか。

実は、このオレも生意気に樹木になりたいと思ってるんです。
生意気でしょ!
でも大樹ではありません。 
そんなのには、到底なれません。
細いほそーい樹木です。
ひとりふたりならば、休める陰がある....程度の細い樹木です。
それも一人の人が長く休める陰ではありません。
次々と休む人が変わる気休め程度の陰です。

そして、この樹木は人を休める陰を作ることに喜びを覚え、
自分は細いままで十分(足るを知る)と思う樹木なんです。

オイ! 今日はいいこといい過ぎじゃないの。
ゴメンゴメン、今日は嬉しい日だ。 舌が滑るのよ、ユルセ!

んで、んでですよ。
世界のみんながそれぞれに細い樹木になれば、
大衆迎合はなく、敗因どころか戦争そのものが起こらないんです。

またまた、いいこと言うじゃない!

と、ここで終わっとけば、良いのに、
オレって、まだまだ考えてしまうんです。
だって、ハッピーエンドなんて、オレらしくないんです。

オレって、おっちょこちょいなんです。
身の程知らずなんです。
樹木の樹木たるをわきまえられない筈です。

だから、
オレの樹木、
根っこがひょいと足に代わって、歩き出すような気がして....

んで、んで、その足で、インドネシアが終ったら、
次は、チェコかブータンか......
なんちゃって(カミさんに内緒)
by yosaku60 | 2013-09-05 10:40 | バリ島=その日のできごと | Comments(5)

バリ島の残留日本兵(松井と荒木)

d0083068_7181340.jpg右の本は、プナルンガン村の村役場の方から渡されたもの。
独立戦争の時の村の記録です。
村の人から頼まれた、この本の翻訳という.....
出発点にようやく戻ってきました。
毎年11月の村の慰霊祭には、
松井と荒木のご親族の方が村に来られるそうです。
その際に、日本語に訳したものをお渡ししたい、
とのプナルンガン村のご意向でした。
昨年の11月には、間に合いませんでした。
今年になって、ようやくです。
本を要約(笑=ダジャレ)いたします。

その前にひとつだけ強調しておきたいことがあります。
この本は、独立戦争を村がどう戦ってきたかということを書いてありますが、
その書き出しが、1943年なのです。
1943年といえば、日本軍が統治をはじめて間もない頃です。
書き出しの数ページは、日本軍の強引さに反発するために群発した、
村の周辺の地下組織について延々と書かれております。
地下組織はオランダに対してではなかったのです。
日本軍に対してだったのです。
残念ながら、それだけ日本軍がうらまれていたということです。
その日本軍が敗戦により、オランダ軍が帰ってくることになりました。
日本軍に反抗する為に起きた地下組織がそのままオランダ軍と戦う地下組織となったのです。
日本統治時代の松井と荒木は、どちらも海軍の特警隊でした。
特警隊は陸軍では憲兵隊にあたります。
日本に反発するものを激しく取り締まったものと思われます。
残留日本兵生き残りの平良定三氏は、当時すでに松井と認識がありました。
その平良氏が次のように語っております。

独立軍に入った松井は、前にいじめた村の青年に、
昔のことを「どうもすまなかった」と、謝ったようです。
そうしたところ、村の青年達は、
それは過ぎたことだ。貴方は独立軍に入って私たちを援助してくれている。
前のことは忘れて、これから一緒に戦いましょう。
と、言われたということです。

まあ、そういう訳で、
これまでも何度も書いてきましたが、
日本軍全体(ということは=日本)としては、うらまれていたのです。
そういう感情を少しでもやわらげてくれたのが残留日本兵でした。

d0083068_8183593.jpg書き出したら、止まりません。
この辺で、ようやく「要約」に移ります(笑)。

右上が松井、その下が荒木。


(本の要約)

オランダが追い出され、今度は日本軍の植民地となった。 

日本は残酷であった。

それがためにバリ人は、1943年頃、
日本に隠れて日本軍に反抗するため、
d0083068_819145.jpgマデ・ウィジャクスマ達が先頭にたって、
地下組織を作り始めた。

その2年後、日本が連合国に負けた。 
インドネシアは独立を宣言した。
インドネシア共和国の青年による国民安全軍である、
TKI-PRIが設立された。

日本の敗戦の4ヵ月後の1945年12月13日、
プナルンガン村では、このTKR-PRIの下で、
バハにいる日本軍隊を攻める計画をたてた。

バリ人は、十分に銃を持たず、竹やりや山刀しか持っていなかった。
しかし勇気は持っていた。 
戦いの目的は日本軍の武器を奪うためである。
が、夜の10時に日本軍隊を攻める計画が先にばれてしまい成功しなかった。

1946年1月12日、プナルンガン村に新たな組織、W基地が設立された。

そのW基地の指示により、
当時クリーニング屋をしていたスランド氏の下に若者が集結した。
スランド氏と若者たちは、鳥や果物を売っている商売人の装いをして、
日本の軍人を騙して、ひとつの銃と一本の日本刀を奪うことに成功した。

奪うと彼らはすぐに逃げた。
それを「バハ(村の名前)」の人々が助けたので、
彼らはW基地まで無事に逃げ切ることができた。 

日本の軍人は必死に彼等を探した。 
タンクまで使って巡検した。
プナルンガンの村の人達 も疑われ、家の中までチェックされた。
が、彼らを探すことができなかった。

1945年2月20日の朝、プナルンガンの村人が、
銃を持ってうろうろしている二人の日本軍人を見かけた。 
この情報は村人からすぐにグスティ・マンク・プセに伝えられた。  
伝えを聞いたグスティ は、組織上の上役のパ・リクスに伝えた。 
パ・リクスは、その二人の日本軍人を捕まえるようにとグスティに命令した。 
さらに生きたままで捕まえて、銃を奪うようにとも付け加えた。

命令を受けたグスティ 達が現場に戻ると、
その二人の日本軍人は、田んぼの中にある小さな小屋の中に入って座っていた。 
銃は彼らの直ぐ横の壁に立てかけられていた。 
グスティは、やさしく話しかけた。
「喉がかわいたでしょう、蜜柑をたべませんか」
二人は両方の手を使って蜜柑を受け取った。
手が空いたことがチャンスであった。
その瞬間、グスティ達は、立てかけてあった銃を奪った。

グスティ 達は二人を捕らえて、パ・りクス のところに運んだ。
パ・リクスが二人に事情を聞くと、
インドネシア軍に入ってオランダと戦いたいとうことであった。

二人は、日本名、松井武友と荒木久年であった。
松井には、ワヤン・スクラ というバリ人の名前がつけられた。
バリ語では金曜日をスクラ というが、その日が金曜日だったからである。
荒木には、マデ・スクリ というバリ人名がつけられた。
松井は1915年生まれで、日本ですでに結婚しているということであった。
荒木は、1920年生まれで、結婚をしていないということであった。

しばらくして、松井と荒木はすぐに村人に溶け込み仲良くなった。
積極的にインドネシア語とバリ語を勉強した。

松井と荒木は、1946年3月、
プナルンガン村の村民になりたいと言い出した。
であれば、ということで村民のリーダーは、
松井と荒木に日本軍に手紙を書くことを要求した。

我々と一緒にインドネシア軍に味方した行動をとろう、
との呼びかけの手紙である。
呼びかけは不成功に終ったが、それでもその呼びかけをきっかけに、
「機銃」を手に入れることに成功した。 

プナルンガンの村人は、彼等二人を受け入れることに賛成であったが、
W基地のリーダはまだまだ不安であった。 
二人が本当にインドネシア側で戦う気があるかどうか試すことを考えた。 

1946年3月3日、W基地のリーダーは、
松井と荒木に、「ツカ」にあるNICAを攻めるようにと命令した。 
松井と荒木は、次の14人の軍人(村人)と一緒に「ツカ」に出撃した。

1. I Made Mardia, sebagai pimpinan Komando,
2. I Made Gendera,
3. I Gst. Ag. Rai Budhita
4. IMadeJojol
5. IMadeGdeKardi
6. 1 Wayan Mudera
7. Sdr. Tohir
8. Sdr. Supangkat
9. I Wayan Regug
10. Ida Nyoman Rai
11. I Nyoman Jegeg
12. IMadeKat
13. Ida KetutRai
14. I Gst. Ag. Kt. Tantra

13時に現場に着いた。
松井と荒木の指示で、Nica のトラックを目指して突撃した。
トラックには銃が積んであり、それを奪うためである。
しかし、その突撃は成功しなかった。 
手持ちの武器が不十分であったからだ。 
しかし、この戦いで荒木と松井のインドネシア軍としての気持は、
本物であると理解された。

その後、地元の軍人たちの訓練を松井と荒木に任せることになった。 
そのトレーニングには、W基地の者だけでなく、
新しく組織化された、WXVIのリーダー達も参加した。


1946年11月20日、マルガにて、グラライ の軍とオランダ軍の戦闘があった。
ププタン・マルガラナ戦闘である。

グラライの軍は96名であった。 
その中に荒木と松井もいた。
オランダ軍は降伏を勧告してきた。
グラライ は、「自由か死か」の二つしかないとの返答をし、
勧告を拒否し、果敢に戦い玉砕(ププタン)した。 
荒木も松井も同様に玉砕した。

この戦争後、プナルンガン村はオランダ軍の統制下に入った。
オランダ軍への反抗を疑われた者は捕らえられ、ベ・アニに移された。
そういう訳で、プナルンガン村の戦いは終りそうにもなかった。
by yosaku60 | 2013-09-04 08:51 | 帰らなかった日本兵 | Comments(3)

バリ島の残留日本兵(今後の調査)

残留日本兵の松井と荒木は、プナルンガン村で今も大事に祀られている。
プナルンガン村には、私も4、5度、訪れている。
何度目だったろうか、村役場の担当者から村に残る独立戦争の時の日誌を渡された。
松井と荒木の日本の親族に見せたいので、日本語に訳してくれというのである。
独立戦争当時に使われた呼び名や略語が多く、
いい加減に訳しても文章としてつながらない、厄介な長文であった。
読解不能は、独立戦争当時の村の人々の考えが理解できないためでもあった。
これではいけない。 到底に訳すなんてできない。
インドネシア語ができる、できないの問題ではない。
まずは、その当時のバリの人々の心境を知らねばならない。
ということで、オランダの植民地時代から独立戦争までのインドネシアを勉強した。
その勉強をブログに書きつづけてきたわけだが、
今の私は、独立戦争当時のバリ人の心境を或る程度理解できるようになっている。
で、冒頭のプナルンガン村の独立戦争日誌も分らない行間を埋めて訳すことができた。
この訳文は、明日のブログで書く。
もともと、これが発端で残留日本兵を調べたのだから、
明日のブログで、残留日本兵の記事は終わりと、いうことになる。

ここ最近、残留日本兵の話を急いで書きつづって来たのは、実は自分勝手な理由もある。
というのは、9月6日から一ヶ月、日本に帰る予定なのだ。
日本滞在中は、ネットもつながずに忙しく飛び回ることになる。
で、それを前に、区切りよく終っておきたかったのだ(スミマセン)。

10月、日本からバリに戻ってからのことであるが、
多分、来年になるだろうが、バリの残留日本兵を追っかけてみたいと思っている。
今日は、その「追っかけ」の事前予告の意味で、私が知りたいこと見たいことをあげてみたい。


1、写真は、稲川義郎氏。
d0083068_9594149.jpg
  バリの残留日本兵を知る唯一ご健在の人。 
  写真は、昨年、レストランムティアラ」に、
  来られた際に、店のマスターが撮ったもの。
  「元気ならば来年も来る」と言われた由。 
  今年こそは是非にお会いしお話を聞きたい。
  氏は「日本バリ会」に所属しバリ島に残る、
  日本の痕跡を大切に守ってきた人である。

  
2、表の20番の堀内秀雄。

  福祉友の会で掲げる903名の残留日本兵の日本軍時代の階級であるが、
  903名の内のトップである尉官は14名居る。
  この14名のうち、大尉は1名、中尉は4名、少尉は9名である。
  この1名の大尉、即ち903名の内の階級トップが堀内秀雄である。
  堀内は第3海軍警備隊の主計大尉としてデンパサールで勤務していたが、
  オランダ軍進駐を前に警備隊を離隊し、郊外の友人宅に隠れた。
  そこの父子が独立運動に参加していたことから、グラライの軍隊との接触があり、
  ゲリラ戦に参加することになった。 
  ある時は対空砲器でオランダ軍の飛行機を落したこともある。
  タバナンでの行軍中にオランダ軍に襲われた。
  丁度刈りいれ中であった農民の群れに紛れ込んで一命をとりとめた。
  が、その際に足を怪我し、その治療のため、そこに一ヶ月ととどまる。
  その留まっている間に、グラライがマルガラナで玉砕する。
  もし、怪我をしていなければ、堀内もマルガラナで戦死していたことになる。
  堀内は、結局は潜伏中にオランダ軍に見つけられ、刑務所に入れられる。
  その後、罪状調査のためスラウェシ島のマッカサルに移され拘留される。
  さらに、日本に強制送還されることになるが、その時期が昭和22年であった。
  独立戦争の早い時期に日本に送還されたので、
  バリ島の残留日本兵としては、見逃されがちである。
  堀内が一ヶ月治療したのは、タバナンの何処であるか、
  その場所に滞在の痕跡が今もあるだろうか、
  今後の調査項目のひとつにしたい。


3、表の2番、墓標300番の高木米冶。
  
  高木は日本海軍特警隊出身である。
  日本軍時代は、バリ人反乱事件の容疑者逮捕および取調べを担当していた。
  バリ人からも恨まれることが多かったものと思われる。
  1946年2月、高木はバハの日本人収容所で警備を担当していた。
  村の市場へ出かけた折だった。
  菓子や果物を売る小さなワルンをやっていたクトゥット・クリティと出会った。
  やがて二人はマルガー郡ブラユー村のクリティの実家祠前で、
  ささやかなバリ式の結婚儀式をし夫婦となった。
  その後マルガーの闘いでグラライと共に玉砕するが、
  夫婦の間には、娘さんが授かっており、今もご健在のはずである。
  であれば、私とはそれほど違わないご年齢だ。
  お会いしてお母様から聞かされている話などお聞きしたいものである。


4、表の4番、墓標339の大館。
  
  日本敗戦後に海軍を離隊した大館は、
  クロボカンでインドネシア独立軍の新兵教育にあたっていた。
  が、インドネシア人のオランダ側密偵に通報され、
  オランダ軍に追われる身となり、ジャンベ部落へ逃避した。
  以降、村々を移動しながら密かに地元独立運動の指揮をとった。
  当時、スマンディ分隊の一員として、大館部隊を率いていた。
  戦いのなかでは常に先頭に立ち、怖さを知らぬ男だったと語り継がれる。

  5月22日、サワー村のリーダーが
  「村がオランダ軍に包囲されている」とグラライに支援を求めた。
  グラライは、部下のスギアニャールに出動を命じた。
  その頃、大館部隊はオランダ軍に追われサワー村に休んでいた。
  そこに現れたのが、グラライの指令で来た、  
d0083068_1145155.jpg  スギアニャールの部隊である。
  両部隊は一緒に行動することとなった。
  翌日(昭和21年5月23日)午前9時、
  行軍中の大館部隊・スギアニャール部隊に対して、
  突然、一斉射撃の銃声が鳴り響いた。
  両部隊はオランダ軍の奇襲攻撃を受けたのであった。
  この銃撃で少なくとも18名が敵弾を受け、
  大館部隊・スギアニャール部隊は、
  散り散りになって敗走した。
  そして、大館を含む3名の兵士が戦死した。

  右上は、クロボカンにある大館の銅像である。
  もう3年前になるだろうか、私も銅像を見に訪れている。
  が、写真が残っていない。(掲載写真はネットからの借り物)
  もう一度現地を訪れ、写真をとり調べなおしたい。


5、表の14番の土屋道義。

  土屋氏については、ワヤン・グヌンとの現地名のみが知られており、
  日本名が誰なのかは、つい最近まで分らなかった。
  が、前述の稲川氏の調査で宮崎県宮崎市出身の土屋氏と判明した経緯がある。
  土屋氏も第三警備隊で、月森部隊に所属していた。
  彼は、独立戦争中、バリ島からジャワへ向かった船で生き残り、
  東部ジャワのブリタル市で暮らしたという。
  独立戦争では、存分に暴れたらしいがその記述に接したい。


6、表の3番、墓標の320番の松井久年。

  私がプナルンガン村を訪れて、直接聞いたところ、
  荒木・松井には、現地で結婚したなどの話はなかった。
  が、松井には現地に家族がいたかも知れないふしがある。
  真意を調べたい。


7、プナルンガン村から日本軍の収容所があった、「バハ」までは6キロほどである。
  「バハ」に出向き、日本軍が収容されていた痕跡を調べたい。


8、プナルンガン村に行く途中のスンピ村から、
  脇道に入りしばらく行ったところに松井と荒木を祀った寺院があるという。
  車が入れないらしくバイクに乗って調べに行きたい。

9、福祉友の会の調査による、独立戦争に参加して、
  バリ島で行方不明になったものとして、次の3名を挙げている。
  
  ① 姓名不詳                  海軍将校
  ② 中野                     陸軍伍長
  ③ 福士由蔵   北海道  22特攻    水長

  ①は、多分、堀内秀雄のことであろう。
  ②は、墓標554の中野のことであろう。
  が、③の福士については、情報がない。
  福士由蔵の情報を得るべく心にとどめておきたい。
by yosaku60 | 2013-09-04 06:59 | 帰らなかった日本兵 | Comments(10)

バリ島の残留日本兵(その人数)

d0083068_1074122.jpg右の写真は、マルガ英雄墓地の全景。
バリ島での独立戦争で戦死した、
1372名を祀っている墓地である。
この中に12名の日本人が眠っている。
ただ、バリ島の残留日本兵は、
12名だけかというとそうではない。
では、何人いたのか。
いろいろと語り継がれる中、
生き残った平良定三氏の言う、
20名が最も多い数字である。
ただし、平良氏も「自分の知る限り」
と注釈を入れて、20名をあげている。
実際にはそれ以上の人数がいたものと思われる。
いずれにしても、わかっているだけの20名を下表にまとめてみた。
墓標は、マルガ英雄墓地に掲げられたナンバーである。
墓標1372番は、工藤であるか曾我であるか判断がつかない。
d0083068_416716.jpg

d0083068_10271714.jpgバリでの独立戦争における戦闘では、
ププタン・マルガラナがよく知られている。
「マルガラナの玉砕」と訳してよいと思う。
その戦闘のことを少々書きたい。
写真は、その時に玉砕したグラライ将軍。
バリの国際空港も彼の名をとって、
グラライ空港と呼ばれる。
また、5万ルピア紙幣にも彼が採用されている。
要するに今も英雄とあがめられている。
グラライは、人民治安軍の中佐であった。
彼は、独立戦争が始まると、
徹底したゲリラ戦術で8ヶ月間戦い抜いた。
タバナン県のオランダ軍補充部隊の兵舎を襲撃して成功を収めた。
しかし、その数日後にオランダ軍と遭遇しマルガにて戦闘となった。
その際、率いていた96名全員が降伏勧告を拒否し、壮絶に戦って玉砕した。
バリでは、この玉砕をププタンと呼ばれ、名誉ある戦死とされている。
ということで、マルガ英雄墓地に掲げられた1372名の中でも、
グラライと共に玉砕した96名が特別に見られる傾向にある。
その96名の中に何名の日本人がいたのか、定かではない。
が、上表の1~3の3人(荒木・高木・松井)であった可能性が高い。

(注)

調べてゆくうちに事実が分かったので、追記する。
マルガラナの玉砕で戦死した日本人は、松井・荒木 と、
墓標322のブン・スラマットの3名である。

さらに追記する.....
マルガラナで玉砕した日本人は計5名であった(2014年7月修正)
by yosaku60 | 2013-09-02 10:29 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

福祉友の会(その7)全員への大使表彰

日本兵がインドネシア独立戦争に参加するということは、
許された行為ではなく、そのためには、日本軍から離脱しなければならなかった。

いわゆる「脱走兵」にならなければならなかった。
覚悟して日本軍を離脱したものの、自分が「脱走兵」であるとの過去に、
独立戦争を生き残った後、全ての残留日本兵が悩むことになる。

バリ島の残留日本兵である、平良定三氏が
1993年4月、NHKラジオ「アジアに生きる」の番組の中で次のように語っている。

(証言) 平良定三

私たちは、日本の厚生省の帳簿には脱走兵と記載されている筈です。 
脱走兵としてなんですよ。 
そのことは領事館から聞いたのですが、その時丁度おられた某博士が、
貴方たちは日本の政府から脱走兵として見られているよ、と言うのです。
終戦になって、軍紀が乱れてきて、私達は部隊から離れました。 
大東亜戦争の目的にそって行動したと思っています。 
しかしながら確かに脱走兵です。



国籍の問題が浮上する

「脱走兵」とは、汚名です。
汚名であるがゆえに、問題が多くあった。
まず最初に問題となったのは、国籍のことであった。
脱走であったため、パスポートは勿論なんらの身分証明書も持っていない。

残留兵の多くは、独立戦争時イ国軍に在籍していたことそのものが、
すでにイ国民、イ国籍人として受け入れられていると安易に考えていた。

確かに国籍証明書を待たぬまま、地域社会からイ国民として認められ、
支障なく暮らせる人もいたが、
他地域に移動する場合や大きな都市に住む場合は、
何かにつけて国籍証明書が必要となった。

特に1957年になると、ジャカルタ居住在留者は外人税が徴収されるようになった。
それは本人だけではなく、たとえ現地の妻からその子供までが対象に徴収された。
一般大衆からはインドネシア人として受け入れられているのに、
このような扱いを受けるのは問題があると、
残留日本兵は、在郷軍人省を通じて国籍申請手続きをした。
独立戦争後8年を経っての申請であった。


二人の親日家を経てイ国籍が付与される

残留日本兵の国籍申請を受けて、
陸軍参謀長の名において次の仮国籍証明書が発給された。


.........証明書.........
 
添付記載の者達は、
インドネシア独立戦争を戦ったインドネシア国軍の元軍人であることを証明する。
      
彼らの法的身分は当局において尚処理中である。
本件関係官庁のご了承を得たく、又、正式決定のある迄の間、
インドネシア国人同様に扱われたし。

                ジャカルタ  1957年8月31日
                陸軍参謀長の名において
                陸軍参謀次長 准将 ガトットスブロト


この仮証明書は、イ国籍を申請した者全員に発給されたもので、その意義は誠に大であった。
残留者を准イ国人として取り扱うということで、彼らにとって、慈雨に等しく蘇生の思いであった。但し、当時の政府機関関係者の中には必ずしも好意を持っている人ばかりでなく、この仮国籍証明書は、ガトットスブロト個人の好意で強引に認めさせたものであった。
したがって、この仮国籍証明書が本物の国籍証明書に変わるまでには、歳月を必要とした。


なかなか決定されない発給を一挙に解決したのは、スカルノ大統領であった。

1963年12月18日、
インドネシア共和国大統領スカルノ署名による、
「国籍に関するインドネシア大統領決定」と記された書類が発行された。
大統領マークの印されたものであった。
一名の却下者もなく申請者の全員に発給された。

残留者一同スカルノ大統領の措置に感激し、
それまでの苦労が一挙に報いられた想いであった。

この大統領決定書発給については、次のような裏話がある。

1963年7月、当時の駐イ大使・古内閣下が
アチェ州のテケゴンの紙・パルプ工場建設予定地を視察された際、
お供した残留日本兵の山梨茂氏に「残留者の当面の問題」を尋ねた。
山梨氏は残留者の国籍の問題が最大の関心事である旨答えられたという。
その後、古内大使はスカルノ大統領の秘書官を通じ、大統領に早期善処をお願いした。

というものであった。
ではあるが、スカルノ大統領が親日家であった為の発給処置であった、
ことは間違いのないことである。


軍人恩給の受給

インドネシアの国からは国籍証明書が出たが、日本国の方は難しかった。
「脱走兵」の汚名がなかなか消えないのである。

残留日本兵自らが汚名を消す為の運動を始めたのは、戦後35年経ってからであった。
それまでは、生きてゆくのに忙しく、そういう運動ができなかったということであろう。

「日本国」が約束したことを守らなかったので、
「日本人の自分」が代わりに約束を守ったとの自負を持つ残留日本兵は、
日本国が軍人恩給を払うべきと訴えたのである。
お金が欲しいわけではなかった。
日本軍人と認められて恩給が出るということであれば、
「脱走兵」ではなくなるという意味があったからだ。

そうした運動を始めたのは1982年、
申請資格者全員に恩給が支給されたのは、1993年であった。
種々の問題が解決されるのに10年の歳月を要したということである。

軍人恩給の金額そのものは数万円たらずという、少ない額であったが、
「脱走兵」の汚名が消えたとして感涙する者が多かった。


そのひとり、残留日本兵の田中年男の証言を紹介する。

「金額は少ないが、この事実により元日本軍人としての名誉回復できたことは喜びにたえません。これで祖国の亡父母等先祖に対して、日本軍人としての義務を果たしたことを立証できると共に、当地帰化した私共インドネシア共和国の二世・三世に対しても、軍人当時の父親を理解してもらえることは喜びにたえません。」



生存者全員に大使表彰がなされる


軍人恩給が出たといっても全員ではありませんでした。
ある規則のもとで、該当しない者もいました。
ただ、軍人恩給が出たということは、
過去の逃亡にそれなりの理由あった、と日本国が由と認めたということです。
関係他所からも評価されやすくなりました。

そういう意味もあったと思います。
1995年8月25日、その時期に生存していた残留元日本兵69名全員に、
日本国全権大使から表彰されることが決まったのです。 


私は、この「大使表彰」をもって、
残留日本兵の過去の汚名が完全に消えたと受け止めております。 

さらに、そればかりでなく名誉も獲得したものと思っています。
残留日本兵にとっては、本当に良いことでした。
乙戸昇が払ってきた努力の集大成が、この大使表彰でした。

そんな大使表彰を少々詳しく書いてみたく思います。


大使公邸で行われた表彰式の模様

当日は表彰される残留元日本兵69名中、36名が出席した。
式場の広間正面には金びょうぶが配置され、金びょうぶの右側には、
ウマル・ウィラハディ・クスマ元副大統領、ウマル・ヤディ元アセアン事務局長、
ウィヨゴ元ジャカルタ特別市長などの来賓の方々が、
左側には渡辺大使ご夫妻はじめ大使館員の方々が着席された。

そして金びょうぶ前の広間中央には、
椅子が2個づつ列をなして並べられ、受賞者夫妻あるいはお子様と共に着席された。

10時5分過ぎ司会者によって、表彰式開催が告げられました。

(中略)

さて、乾杯となって出席者全員が祝杯を手にし、
ウマル・ウィラハディ・クスマ元副大統領の音頭で乾杯をしました。

乾杯の後、元副大統領はマイクの前に立ち、
独立戦争時に共に戦った残留日本兵のことを述べられ、
多くの残留日本兵の功績を称えられました。 

その元大統領の挨拶を
乙戸は、予期せぬパパ・ウマルの称賛に残留日本人は感激し、
且つ参列者全員に深い感銘を与えたとし、
「聴きとめによるため、誤りがありましたらお詫びいたします」と、
月報で次のように紹介記事を書いている。

受賞者を代表しての石井正治氏の挨拶と共に、ここに転記する。



ウマル・ウィラハディ・クスマ元副大統領のご挨拶要旨

大使閣下並びにご出席の皆様、
皆様のご了承を得て、私より一言ご挨拶申し上げたいと存じます。

始めに、インドネシア政府および国民がインドネシア共和国独立50周年を記念する行事を行う中、ジャカルタにおいて日本政府が有意義な式典を挙行されたことに対し敬意を表します。
この日本政府の行為は、1945年8月17日の独立宣言を擁護し尊重すべくインドネシア民族が行った激しい闘争、並びにパンチャシラと1945年憲法に基づく公平を反映した社会および制度の建設を目指す開発を実現しようとする決意に対する、日本政府並びに国民の理解と関心が示されたものです。
この様な観点から、ここに参集しました私たちは、恒久の平和を反映した幸福な環境を創造する努力を行うパートナーとして、新しい世紀を共に迎えようとする両国国民の希望を確かにするために、ここに式典を遂行されましたことが、インドネシア及び日本においても伝えられることと確信致しております。

ご列席の皆様
只今、私たちは日本政府から70名の日本出身インドネシア国民及び1名の日本国籍日本人に対する表彰式に立会いました。
彼等は50年以上に亘りインドネシアと日本の相互理解と友好関係増進に寄与されました。
更には、この大多数の方は、われわれ民族の独立闘争に参加された方であります。
ここに参加した私達インドネシア国民は、皆様方の功績に対し敬意と感謝を申しあげます。
本日は71名の内37名しかここに出席できませんでした。
欠席された方に対し、私達の気持を直接お伝え出来ませんことはまことに残念なことです。

私個人、西部ジャワの私の指揮下にあったシリワンギ部隊の中に数名の日本人兵士がおり、武器を手にオランダに対する戦闘に加わった彼らの真剣さと勇敢さを目の当たりにした経験があります。 組織的に彼らは私の部隊の中で完全に同化し、他のインドネシア兵士と区別できなくなりました。 私は彼らの他の兵士との親しい交流を観察し、戦闘を含む任務及び上官の命令を果たす規律を見てからは、インドネシア共和国独立のため真剣に戦う部隊への彼らの忠節さを疑う余地はありませんでした。

私の部隊の日本人兵士の功績のお陰で、大日本軍の諸行為と、その中の人々の個人的な行為を区別できます。 大日本軍はオランダ政府とその軍隊を威嚇攻撃しましたが、それはインドネシア民族を攻撃したのではありませんでした。

私たちは、インドネシア国土において戦闘を行った大日本軍の行為が、インドネシア国民に多大な苦難と損害を与えたことを経験し、認識しておりますが、日本人将兵の中に、一部には規律を遵守しつつ、一個人としてインドネシアとの関係において真実の声を聞いた方がおられました。 かかる人的交流が発展し、植民地支配から解放され独立した民族としての生き方を獲得するため、われわれ被支配民族の熱意に対し、彼らより物的な理解及び支援を得るに至りました。 私は、私達の日本人の友人の、私が前に述べた人々を含むインドネシア民族に対する功績に対し、本日ここに、日本政府より表彰されたことは正当なものと思います。

恐らく、私たちが立ち会いましたこの式典は、マスメディアを通じインドネシア及び日本全土に放映されることになりましょう。この式典は、将来両国間の共通の利益のために、インドネシアと日本との協力の土台を強化することができましょう。

最後に、ここ参集しましたインドネシア国民と共に、深甚なる意味を持つ表彰を今朝受けられた日系の友人全員にお祝いの言葉を申し上げます。 皆様方がここインドネシアの地において、平和で幸福な生活を末永く享受されますことを願ってやみません。


石井正治氏、受賞者代表挨拶

本日は大使閣下のご恩情により、残留日系人一世の私共、及び長い間市井にあり友好・親善に努められた方々と共に表彰を賜りましたのは、身に余る光栄と厚くお礼申し上げます。
時まさに戦後も50年、長い年月でございましたが、私共は敗残兵の身としては、ある時は逃亡兵として誹を受けましたが5年間にわたるこの国の独立戦には身を挺して戦い抜き多くの戦友を犠牲にしてしまいました。
戦後は善良なインドネシア国民として巷に融け込み現在に至りましたが、殆どの同胞とは幽明境を異にし、今日の晴れの日にも出席できぬのは誠に残念と云わねばなりません。

この時にあたり大使閣下より表彰を拝受いたしましたのは、私達残留者にとっては、50年来待ち望んだ故国からの免罪符をやっと手にした思い、又、民衆の中にあった友好・親善を実践された方々も、今やっと永年の苦労が報われた思いも一入、共々に感謝・感激あるばかりでございます。

私共は皆すでに老境にあり余命も幾許も無いと思われますが、倒れ付すその日に至るまで、日・イ両国親善融和のため、尚一臂の力を捧げ以ってインドネシア日系人の歴史を飾りたいと考えますので、これからよろしくご指導ご愛願賜ります様切にお願い申し上げ、簡単ではございますが受賞者一同を代表しまして一言お礼の言葉を申し上げます。
by yosaku60 | 2013-09-01 07:49 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)


常時ほろ酔い候
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