あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



<   2013年 08月 ( 41 )   > この月の画像一覧


福祉友の会(その5)日系二世の訪日

先に私が感涙したと書いた「日系二世の訪日」と「生存している残留日本兵全員への大使表彰」の二つを書いて、福祉友の会の記事を終わりとします。
まずは、日系二世の訪日です。
この時期は、月報100号の発行を終え、ひと段落した頃でした。
健康を取り戻していた乙戸は、ひときわ感慨深いものがあったと思います。

さて、

1990年9月21日、乙戸昇は東京・青山会館にいた。

ホールでは、約250名のインドネシア関係者を集め、インドネシア共和国45周年記念祝賀会と日系二世訪日団一行の歓迎会が盛んに行われていた。

会場にはガムラン音楽が流れ、テーブルに盛り付けられたトロピカルフルーツが異国情緒をかもしだしていた。 インドネシア共和国。ヨギスパルディ駐日大使は日イ両国の友好親善を述べ、なごやかな雰囲気の中で会は進行していった。

日本側の代表者がインドネシア独立の経過を述べ、残留日本兵の二世についての話をすると、乙戸は「やっとここまで辿りついたか・・・・」と安堵の気持を覚えた。

9月13日、スカルノ・ハッタ空港を飛び立ち、日系二世訪日団一行を率いてきたのは乙戸である。 来日の目的は彼等二世を日本の社会に紹介することであった。
今回の来日の主役は、あくまでも二世であって乙戸ではない。

しかし、残留元日本兵が積み上げてきたインドネシアと日本の関係を次代に引き継ぐことは、老い先短い残留元日本兵の責務だと乙戸は信じていた。

二世団の団長、マノボ・オクヤマが日本語で挨拶を始めた。 マノボの父親、奥山寿一郎は岐阜県の出身で、戦前は自動車関係の仕事に従事、敗戦とともに帰国した。
その後の生死は不明である。 マノボは幼少の頃、日本人の子といじめられたこともあったが、多感な青春期を迎えたマノボには、経済大国に発展した父の国は輝いて映った。
日本に憧れ、日本の夢を見、父の祖国に行くために独学で日本語をマスターし、早稲田大学に留学した。 現在はジャカルタでインドネシア産品を輸出する会社を経営している。

「日本のみなさん、こんにちは。 我々二世は、父の国を見たいと願いながら、やっと思いをかなえることができました。 ほんとうに幸せです。 私達のお父さんは、日本の兵隊さんとしてインドネシアに来ました。 そして日本に帰らずインドネシアの独立戦争を戦いました。 私たちは父が日本人であることを誇りに思います。 父の国、日本も誇りに思います。 ここにいる二世もみな日本を第二の故郷と思っています。 今年はインドネシア独立から45年目にあたります。 この場をお借りして、インドネシアの独立を祝し、我々二世の歓迎会を開催していただいた皆様に感謝いたします。 インドネシアと日本、両国の友好発展を祈り感謝の言葉に代えたいと思います。」

マノボの挨拶が終ると、会場には拍手の渦が巻き起こった。
マノボは二世といってもすでに45歳、戦後女手ひとつで育てられ、辛酸をなめてきたマノボは今、父の国で歓迎されていた。

乙戸は会場の拍手にこの訪日が成功した手ごたえを感じ「10年間の労苦はやはり無駄ではなかった」と思った。

福祉友の会の資金確保のため乙戸はこれまで何度も自費で来日し、日本国内を奔走した。
「あんたら好きで残ったのだろう、今頃泣き言を言うな」「逃亡兵のくせに」などと陰口をたたかれたことも一度や二度ではなかった。 日本から要人がインドネシアに来ると、残留元日本兵の地位の向上と福祉友の会への援助を陳情した。 それも、残留元日本兵がインドネシアでそれなりの地位を得ていたからこそであった。

会場は宴に入り、舞台ではガムラン音楽に合わせ、バリダンスが演じられていた。 バリダンスを知っている何人かの男女が舞台に上がり踊り始めた。バリダンスが終わり、ガムランの余韻が残る中を43歳になるプロ歌手の二世リチャード・イシミネがギターを持って舞台に上がった。 

リチャードの父親は戦後インドネシアに残り現地結婚し、1990年の1月9日に病気で亡くなった沖縄県出身の元陸軍伍長・石嶺英雄である。 リチャードのギターが哀調を込めた音色で会場に響きわたり「ブンガワンソロ」の歌声が場内に流れ、やがて会場は「ブンガワンソロ」の合唱へと変わっていった。 二世団が舞台に上がり肩に手をまわし歌った。 
いつしか数人の二世達の目から涙がこぼれ落ちた。

乙戸は静かに舞台を見つめていた。 
ジャワ島を流れるソロ川を乙戸が初めて見たのは、1944年1月、ジャワにある陸軍予備士官学校に入学した時であった。 
かってのソロの流域にはマタラム王国、シンゴサリ王国を始め、多くの王朝が栄えた。 
9ヶ月の幹部候補生の訓練の合間に聞いた王朝の名に心を踊らせたのも昨日のことのように思えた。 

あれから46年、
人生は余りにも不可思議であると、乙戸は思った。 
インドネシアで生き続けた残留元日本兵の血は絶えることなく、
悠久の流れソロ川のように永遠に生き続けるのである。 

歌が「ハローハローバンドン」の合唱に変わり、
乙戸の脳裏に、出征、独立戦争、戦後の困難な慈愛が走馬灯のように流れていった。 
会場から「ムルデカ、ムルデカ、ムルデカ」の声が上がった。

乙戸は独立戦争後、日本人を前にして初めて、
晴れがましい気分で「ムルデカ」の三唱を聞いた。
by yosaku60 | 2013-08-31 01:46 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

福祉友の会(その4)17年間、月報を書き続ける

週報を発展的に廃刊とする。

1978年12月15日、設立準備委員会を開いた。
当日はジャワ各地より残留者が集り、出席者数25名に達した。
それまでの残留者会合の中でも最大のものとなった。
ここで組織名をメダンの山本敏雄氏提案による、
ヤヤサン・ワルガ・プルサハバタン(日本名:福祉友の会)とした。
定款は準備されたとおりに定められ、ヤヤサン設立時の初代役員も決定した。


但し、これは名のとおり準備委員会であって、正式設立には登録が必要である。
発起人による、それもできるだけ多くの発起人登録を目指すこととした。


週報を活用し、発起人参加を呼びかけた。
正式登記は1979年7月14日であったが、その直前まで発起人への申請を呼びかけ、
次の推移を経て、最終的には107名からの応諾があった。

(1979年)
5月27日  発起人申請者数  30名  週報 34号
6月2日            58名     35号
6月10日           79名     36号
6月17日           92名     37号
6月24日           97名     38号
7月1日           102名     39号
7月8日           103名     40号
ヤヤサン設立当日(7月14日) 107名

107名の応諾があった裏話として、後に乙戸は次のように語っている。



(証言) 乙戸昇

残留者の60%が設立発起人になったとはいえ、当時発起人の過半数がヤヤサンを支持した訳ではなかった。 逆にその大多数がヤヤサンに懐疑的であり、又、ヤヤサンは中途で瓦解すると考ええいた。 それは残留者による組織で成功例がなかったからであった。
それにもかかわらず多くの残留者が発起人とあったことは、先ず残留者の過半数が年齢60歳代、初老期を迎えていたという時代背景を挙げられよう。
更にヤヤサン設立委員会は週報を地方有志に配布し、ヤヤサン設立の必要性を呼びかけた。その週報を通じ、どのような福祉組織とすべきか、具体的提案を促した。そして集った提案を再度週報に掲載し、その案を他の有志に検討してもらって、無意識のうちにヤヤサン設立に参加するよう仕向けた。 又、同時にその週報を通じて発起人として設立参加者を募集し、逐次参加確約者を週報に発表した。 悪く言えば、発起人として参加せねば取り残されるという不安をかきたてた。 多くの残留者はヤヤサンに対して懐疑的ではあったが、ヤヤサンが設立された場合の発言権確保を考え、一応発起人として名前を連ねておこうと発起人となってくれた。
参加の理由はどうであれ、発起人の増加は歓迎であった。 数が物をいい、数が力を生み出すからであった。

(後略)


そんな訳で、107名もの発起人を得て、
1979年7月14日に、福祉友の会は正式に登録された。
その正式登録された福祉友の会の第一回総会が行われたのは、
1980年3月15日であった。

さて、それまで意義大として発行し続けた週報であるが、
この第一回総会の記事を書いた翌日の3月16日をもって打ち切ることとなった。
約1年半、毎週休むことなく発刊を続けた週報の最終号は75号であった。
組織ができ、その機関紙として配布されるべきものであれば、
よりよきなんらかの発行をすることとして週報は発展的に廃刊されたのである。


「月報」を200号まで発行する

結論から先に書くと、月報は一旦発行されると、
ただのひと月も休刊されることなく、200号まで発行された。 
17年間、毎月発行され続けたと言うことになる。
月報に関しての乙戸の証言をところどころ拾ってみる。



(証言) 乙戸昇

1982年に自分の能力も考えずに、私が月報の編集を買ってでたのは、当ヤヤサンに会誌がなかったためである。 広大なイ国に点在する日系人を対象としたヤヤサンに、定期にコミュニケーションを計る媒体があいということは、致命的な欠陥であった。
仮に月報の内容が低俗であってもないよりはましである。ヤヤサンを設立した限り、その存続と発展を図らねばならない。 設立したヤヤサンが消滅した場合、日系人の良識が疑われ、且つ日系人の面目丸つぶれである。日本人相互の連絡がなければ理解も生まれず、日系人の親睦も相互扶助も有り得ない。 “当って砕けろ”という気持で月報に取り組んだのは、1982年4月であった。(中略)


年を越えた1983年に入ると、残留者よりの投稿が寄せられるようになった。
その第一は、スマラン在住の藤田清口述の寺岡守一筆記の体験記「白い砂」であった。
同年3月号に掲載されると残留者間に反響を呼び起こし、以後多くの残留者が投稿してくれるようになった。(中略)
1982年5月号から月報の編集をした小生であったが、当時すでに60歳代の半ばに達していたし、まだ自分自身の仕事にも携わっていた。生半可な考えではヤヤサンの信用を損ねる事態も生じかねない。 編集を引き受けたからには、成し遂げねば成らずと腹をくくり、当初の目標として月報100号までは引き受けようと決心した。 8年4ヶ月の歳月を必要とすることである。 100号に達した際の小生の年齢は満72歳を超えていることになる。 しかし8年先のことを案じても事が進まない。誠意をもって体当たりすることにした。(中略)

d0083068_7304921.jpg


月報の順調な滑り出しにもかかわらず、ヤヤサン自身の運営資金が不足してきた。ヤヤサン事務所の堤氏も退職してもらうことになった。 1985年6月のことである。 以後の月報は編集から清書までの作業の全てを小生が一括して担当することになった。同時に私自身も運営資金の調達に奔走した。(中略)


1990年8月、当初の目標である100号が発刊された。8年4ヶ月の間、自分自身の仕事もあったし、体調を崩したこともあった。 2週間3週間と国外を旅したこともあった。 しかし月報だけは遅刊・欠刊のないように腐心した。 ヤヤサン関係の事務処理は総て会社に持ち込まず、日曜、祭日、朝の出勤前、帰宅後の総ての時間をそれに充当した。 そして大過なく月報100号を発行できた喜びを満喫した。(中略)


100号が発刊されたことで後任者を物色したが引き受けてくれるものがいなかった。 結局小生が引き受けざるを得なかった。 それまでは持病の糖尿や慢性の腎臓病に加え、長年に亘って顔や手足の皮膚が黄色味を帯び慢性化していた。 それが月報を100号まで発行するということで健康に注意してきたためか、100号の発行時には黄疸症状も消え、体調も以前に比べ好転していた。 自分自身の体力にもある程度自信が持てるようになってきていた。小生は月報第2の目標を150号とした。(中略)


1991年6月、小生は実務から引退した。 7月以降は月報編集作業を含む、福祉活動に専念できるようになった。 引退後の小生は、月報のような書きものをせねばならない場合、自分の事務所に持ち込んで処理している。そして、1994年10月、月報150号も大過なく発行することができた。 100号より4年2ヶ月、当初より通算すると12年6ヶ月の歳月を経、小生の年齢も喜寿を越えた。
月報は当初、在留日系人間のコミュニケーションの媒体としての機能を主とし、対外広報機能を従目的として発足した。 ヤヤサン発足時の在留日系人は約180名であった。 しかし150号を発行した現在、僅か76名になってしまった。 しかも長期間病床に臥し、あるいは視力が衰えて、月報の読めぬ残留者も日を追って増してきている。 現在なお月報を読んでおられる残留日系人は、50名を割るのではなかろうか。
それにもかかわらず、現在の発行部数は毎号/毎月510部である。
それは換言すれば、コムニケーション機能より、外部に対する広報機能が主になっているということである。(中略)


当ヤヤサンはようやく基礎が整ってきた段階である。前途はなお遠く、且つ希望に満ちたものである。 現状に即し、次の時代に適応できる有能な若い世代に、引き継いでもらわねば成らない時期に至ったと考えている。 しかし、現実の問題として、次の編集後継者は誰かと問われても、現在の小生には具体的な腹案はまだ持っていない。 当ヤヤサンの役員、有志によって広範に人材を求め、選出してもらいたい。 それを期待し、それまでを小生の今後の目標として、老骨に鞭打って編集作業を続けることにする。(中略)


月報最終号200号の編集が終りました。 1994年、当ヤヤサンの運営が二世たちの手に委譲された時点で、その機関紙の編集も二世たちの手にゆだねねばなりませんでした。 しかし当時の二世たちの依頼により暫時月報の編集を続けることとし、現在に至りました。 そして西暦2000年、20世紀最後の年を1ヶ年後にひかえ、この12月、区切りよく200号に達しました。 この好機を得ると共に、戦後の世代に適した新しい機関紙の発刊を期待し、当月報の編集を終え、同時に廃刊といたします。(中略)
by yosaku60 | 2013-08-30 08:09 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

福祉友の会(その3)スマトラ組とジャワ組の確執

残留日本兵の会を立ち上げるのは、簡単ではなかった。
その大きな障害のひとつが、スマトラ組とジャワ組の確執であった。
乙戸は、福祉友の会を立ち上げた20年後にその確執を振り返って、次を証言している。


(証言) 乙戸昇

一匹狼的な者も少なくない残留者を、ひとつの組織の下にまとめるのは生半可なことではなかった。又、残留者は自己の意志で所属日本軍部隊、又は団体を離脱したことから、脱走兵・逃亡者という烙印を日本社会の一部から押されていた。 その精神的な引け目が多くの残留者をその後の人生において、種々の形で影響を与えたと考えられる。
そんな残留者自身の間に残留者自身を“ジャワ組”と“スマトラ組”とする区別があった。
私自身40年余ジャカルタに住んでいるが、“スマトラ出身者”である。
特にジャワの大都市では、スマトラ出身者が1950年代、1960年代に移転し生計を営んでいる者が多い。生死を共にした青年期の連帯感が厳然とあるのである。 そのような残留者の抱える要素に配慮し、組織をまとめねばならぬ苦労があった。

(後略)


具体的には、スマトラ組から次のような反発があった。
1978年10月15日付のメダン在住山本敏雄氏からの信による、
メダン地区残留者はヤヤサン設立計画には批判的であるとの指摘であった。

1、先ず定款を提示せよ。参加不参加はその後の問題である。

2、各方面に援助を願う 乞食根性は賛成できぬ。

3、設立の場合、残留日系人一世のみとし、
  その他日系人・日系二世は後日の問題である。


これに対して、乙戸は、
週報6ページ中、4ページを費やして答えると共に、
6名の残留者個々に私信を書いて発送した。 
要約すると次のとおりである。

1、定款の遅延は申し訳ないが、大事な定款であれば、
  どのような内容にすべきか諸氏の積極的なアドバイスを頂きたい。

2、福祉組織の性質上、寄付を集めることはそのものは乞食根性ではない。 
  集めた資金の運用如何が問題である。 
  適正な資金運用で実績を得ることにより信用を得ることができる。

3、同感である。 
  当初は残留者を対象とすることだけでも手一杯と思われる。
  しかし、それだけの力が養われてきた際は、対象範囲を拡大してゆきたい。


この他に、やはり北スマトラ在住残留日系人を主に
次のような質疑や提案、主張があった。

1、日系人の組織作りをすることそのものが反対であった。 
  主としてスマトラ在住者から出たもので、
  自ら日系人であることを宣言するのは得策ではないと言う、理由であった。

2、福祉組織であり、政治不関与であるが、
  日本企業などへの援助申請などがあれば、政治関与の疑いを招来する。

3、インドネシア全土に亘って一組織にせず、
  各地区に組織をつくり、連合形態にすべき。

4、日系人の組織作りはイ国民への同化を阻害するや否や、での意見の不統一。


ただ、乙戸は、
このように諸問題の質疑や提案・主張が積極的に出てくるということは、
それだけ深い関心を有しているということと、前向きに捉えて対処していた。
その対処の例を書いてみる。


1、早い時期にメダン地区の残留者に影響力のある樋口修氏に組織参加の承諾を得る。

2、会の名称を北スマトラのオピニオンリーダーであった山本敏雄の提案を採用する。

3、福祉友の会が正式登録された4ヵ月後、
  日本大使より数名のヤヤサン会員を夕食に招待したいとの申し出があった。
  乙戸は、この機会を逃してはならないと、
  総領事を通じ招待者を9名に増員してもらうように交渉し、
  できるだけスマトラ出身者を参加させるように仕組んだ。
  結果、ジャワ出身3名、スマトラ出身6名の参加となった。

この大使招宴に関し、メダン地区を代表してこの招宴に加わった石峰英雄は、
「メダン地区在住残留者の視野の狭さを痛感した」と述べている。

その後、招宴に加わったスマトラ出身者を中心に、
スマトラ地区の残留者のヤヤサンに対する理解が深まった。  

スマトラ組とジャワ組を近づけ、その確執を少なくした出来事であったが、
これも乙戸の仕組んだ、地方を優先するという思いやり施策であった
by yosaku60 | 2013-08-29 06:44 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

福祉友の会(その2)75週間続けられた週報

さて、乙戸は、立ち上げの一ヶ月の間に4信のヤヤサン連絡簿を
書いたわけですが、その後、送り先がどんどん増えていきます。
そして、「週報」と名づけられ、会員への連絡信として続けられるのです。
実に75号まで、一年半もの間、一週も休むことなく書かれます。


この週報の意義は大きく、
白川正雄、石井正治、樋口修は、
「週報」をして、次のように書いています。



(証言)白川正雄


日ごろ誠実一点張りの乙戸兄が、義をみて成さざる勇なきなりと健筆をふるって苦心惨憺、あの広大な全インドネシアの各地に分布する残留日系インドネシア人の一人ひとりに呼びかけたのが、あの有名な週報であります。
この週報は全く乙戸兄個人の費用と労力で何ヶ月と続けられ、その間、諸説粉々・甲論乙駁の意見交換や齟齬はありましたが、とにかく乙戸兄の物心両面に亘るご尽力によって、はじめてインドネシア全国に散らばっていた約177名の残留元日本軍人軍属の存在が明らかになるとともに、最後はその全員が慈善会の結成に賛同され、遂に1979年7月14日、107名の発起人からなる福祉友の会が結成されたのである。
実に乙戸兄の誠魂がこり固まって出来上がったと言っても過言ではありません。



(証言)石井正治


戦後35年を経ても、元日本兵がどこにいるのか分明ならず、ジャカルタ有志による名簿作り。
乙戸氏の異常な熱意によって書き続けられた週報。
その成果が実り107名の名が記帳されたことによって、設立総会に漕ぎ着けたものでした。


(証言)樋口修


福祉友の会は10年前に乙戸昇が中心になり、結成されました。
この10年の間、日本人の生存者名簿は、雑誌に新聞に、インドネシア独立戦争に参加した「天皇の兵士」たち、の題目で「望郷日本人」として大特集されました。
これらのニュースは中央紙にとどまらず、地方紙にも報道されました。
10年間にわたる乙戸昇氏の努力とその筆跡の力が、それであることは、会員一同の共通認識であります。 厚くお礼を述べ、会員の総意として賛辞を呈します。



一方、乙戸本人ですが、
週報の発送につき、次のように証言しております。



(証言) 乙戸昇


週報を書き出してから身辺が忙しくなった。
今次、もし「会」の結成ができぬ場合、今後の結成の機会は皆無である。
前進あるのみと毎週週報を書き続け、号を増やすと共に送付先を追加していった。

週報の内容はその時々の問題を当方から提議し、それに対する各地有志の意見を求め、その意見を整理して次の週報に採り上げ、他の有志の意見を引き出すべく努めた。

そしてその間、問題に対する委員会側の考えを述べるとともに種々の意見を誘導し、組織形成のためのコンセンサスをつくっていった。

誘導によるコンセンサスつくりは少しの遅滞も許されない。
“鉄は熱いうちに打て”である。

間切れなく輿論をリードしてゆくための機関紙は週報が絶対に必要である。
月報ではタイミングを失する虞がある。
文字どおり毎週休むことなく書き続け、且つ発送した。
最後には30数名に達し、その封筒の宛名書きだけでも少なくない時間を要するようになった。

そんな週報書きは自分との戦いでもあった。 
体調が悪いと言っても書かぬわけにはいかなかった。 
会社の仕事を理由に休刊することは気持が許さなかった。
毎休日はもちろん朝の出勤前、退社帰宅後も週報と格闘した。

それを承知で組織作りをよびかけ週報を書き出したのである。
なお、輿論をリードし、残留者を結集させるためには週報だけが全てではなかった。
週報に加え、各地有志個人宛に私信も書いて発送した。

毎週2~3通の私信を順次有志に送ることによって、週報の及ばぬ点を補ったが、私信は相互の理解と信頼を深めるうえで、多大の効果があったものと確信している。
by yosaku60 | 2013-08-28 04:34 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

福祉友の会(その1)立ち上げ初動

乙戸昇と福祉友の会を語るとき、
是非に横に置いて欲しいのは、その歳月である。

1、あることがきっかけで残留日本兵の会を立ち上げこととなった。
  が、実際に立ち上げたのは、それから3年も経てであった。
  乙戸は、その3年間を変わることなく同じ思いを持ち続けた。
2、立ち上げの世話人となるやいなや一ヶ月で軌道に乗せた。
3、軌道に乗ったあとも毎週の「週報」を75週間休まずに発行し続けた。
4、「会」の発足後は「月報」を17年(200号)毎月発行し続けた。

上の1~4の期間は、23年間になる。
この歳月の長さは、そのまま乙戸の努力と真面目さを物語っている。
歳月の重さを意識しながら、読んでいただければ、
乙戸の思いを理解していたでけるものと思う。
私も23年間の重みを心に刻みながら、書き進んでいきたい。


「残留日本兵の会」の立ち上げを決意する


先に、残留日本兵の掘江義男が仲間から看取られずに、
淋しく病死してしまったことが、会の結成のきっかけになり、
乙戸がその世話をすることになった、と書いた。

しかし、実際にはそんなに簡単ではなかった。
きっかけになった、堀江義男が亡くなったのは、1975年11月25日、
乙戸が世話をすることを決断したのは、1978年9月6日である。

その間、約3年間も空いている。
その間、何もしていなっかたのではない。

1976年には、組織つくりの世話人が決まっていた。
中瀬元蔵・中川義郎・喜岡尚之・出口良夫・石井淑普・
藤山秀雄・高瀬源之助・河原井勇・並木正夫の諸氏である。
勿論、スラバヤ・メダン在住有志にも呼びかけている。
時々、ジャカルタの「菊川」で会合もあった。

その時の会合につき、乙戸は次のように証言している。

「会合の都度、酒類を飲みながらの協議であったため、
協議会というより、親睦会に近い集まりとなって、
解散するのが常であった。」

そういう会合だったが、乙戸は欠かさず出席していた。

そして、1978年9月6日に、
乙戸が世話をすることを決断することになるが、
そのことを乙戸は日記に次のように書いている。

「残留者の年齢を考えると、今組織を作らねば機会を逸する。
今まで、私は多くの先輩がおられることから、残留者の前面に
出ることは控えていたが、逡巡は許されぬ現状である。
因って今後積極的に運動するので支援を乞うと申し入れ賛同を得た。」


会の結成のきっかけになるできごとがあってから、
自らが世話人になることを申し出るまでの3年間は、
乙戸自身の意識の醸成期間でもあったのだろう。
今こそと、機が熟した感があった。
故に決めたあとの乙戸の行動はすばやかった。
昼間は自分の事務所で仕事を普通にこなしながらの行動であった。


鉄は熱いうちに打て(初動の1ヶ月)

9月13日から10月14日までの30日間の乙戸の日記を拾ってみる。

9月13日: 
中瀬元蔵氏を訪ね、積極的な参加を申し入れる。
今年中のヤヤサンの設立を約した。

9月18日:  
有志に連絡し、昼休みに集ってもらい打ち合わせる。
集合者:藤山秀雄・喜岡尚之・中川義郎

9月20日:
夕方、クラヨラン・バルーの出口良夫氏宅を訪問。
出口氏はヤヤサン設立は望みなしと断念していたが、再度参加を要請し快諾を得る。

9月23日: 
小泉敏雄氏の事務所を訪問。設立準備金の協力を要請。
30万ルピアの寄付を約束してくれる。
同氏は残留者の成功者であると共に、親分肌の人柄は、残留者間の人望も高く、
他の残留者に及ぼす影響は大きい。
夜、ボゴール市の常世田茂男氏に電話し、
設立準備のための専任職員として協力を要請する。

9月24日:(第1信)   
常世田氏拙宅に来訪。専任職員の職を受けてもらう。
ジャカルタ在住有志の同意はほぼ得られたが、コミュニケーションの難しい、
地方有志、特に北部スマトラには、種々の意見があり、楽観をゆるさぬものがあった。
よって、地方在住有志を対象に組織結成の呼びかけを執筆。
夜に呼びかけ状を書き終え、次の諸氏に送ることとした。
アチェ地区:  白川正雄
メダン地区:  広田実・石峰英雄
バダン地区:  鈴木正雄
バンドン地区: 本坊高利
スラバヤ地区: 石井正治

9月26日:  
昼食を清水宏氏と共にし、参加を要請同意を得る。
同時に氏に、樋口修氏への参加協力方伝言依頼する。

9月27日:  
出口良夫氏より電話あり、村上隆氏より積極的運動はできないが、
資金を出すとして10万ルピアの寄付金をもらった、と言う。
幸先良し、出口氏も動いてくれている様子である。

9月28日:  
清水氏より電話あり樋口氏がジャカルタに来ていると知る。

9月29日:  
朝の8時半、ジャカルタ事務所の樋口修氏を訪ねる。
組織参加の承諾を得る。
同氏のヤヤサン参加はメダン地区諸氏に対しても好影響を与えると期待される。

10月2日: 
専任職員の常世田氏から連絡がないため、同氏宅を訪ねる。
よびかけ状の返信第1報がスラバヤの石井正治氏より届く。
内容は「今まで生活に追われヤヤサン結成までは考えなかったが、
できるだけ協力する」という力強いものであった。

10月3日:(第2信) 
メダンの石峰秀雄氏より電話あり“趣旨賛成”とのこと。
呼びかけ状の反響を確信する。
その晩一旦就寝したが、気になって起きだしヤヤサン連絡第2信を書く。 
2信の宛て先に前回に加え、スラバヤの前田実氏を加える。

10月4日: 
夜、岩元富雄氏に連絡、
同氏の知っている残留者の生存者、死亡者表作成を依頼する。

10月6日: 
正午、伊丹秀夫氏私の事務所に来訪。結成援助を要請する。
夕刻5時、中瀬・中川・喜岡・岩元・高瀬源之助と会合。
折から押尾総領事がヤヤサン設立に個人的に協力してくれるとの話があり、
その好意を受けるかどうか協議する。
個人的援助と言うことで喜んでお受けすることにする。
残留者の間では日本の諸機関・日本企業などよりの援助を求めるなという声も少なくない。
”我々は個人の意志で残留したのだ”“今更、故国の方々に援助してくれと言えるか”
との理由だ。
それに対して私は、食べられないから援助してくれというものではない。
福祉組織をつくり、イ国の発展と日・イ両国親善により一層役立つ為で、
恥ずかしくことではない、と応じている。

10月8日:(第3信)
ヤヤサン連絡通信第3信執筆。
2信の送り先7氏に、バレンバンの板垣寛太氏と中部ジャワ・マゲランの
田中光行氏を加え9氏に発送することにした。

10月9日: 
昼休み、OCSの鹿毛等氏を訪ねるも不在、同事務所の室戸好夫氏に
ヤヤサン参加を要請同意を得る。

10月11日:
西部スマトラ・バダン市の鈴木正雄氏よりヤヤサン参加の知らせと、
共に一万ルピア送金されてきた。

10月12日: 
バンドン市の本坊高利氏、スラバヤの前田実氏、アチェ・ランサの
白川正雄氏より参加の連絡信入手。
白川氏よりは同時にアチェ在住残留者名簿が送られてきた。
よびかけ状に続く毎週の連絡信の反響が現れ始めた。

10月13日: 
午後5時より6名が集り、打ち合わせ例会。7時過ぎ閉会。

10月14日: 
ヤヤサン発足当初の資金源について私案をつくり、午後3時出口氏宅を訪問する。 
スラバヤの石井正治氏より東部ジャワ・バリの残留者名簿を入手する。

10月15日:(第4信)
朝8時半、松竹茂氏ら来宅。ヤヤサン参加申し込みあり。
ヤヤサン連絡簿第4信を書く。
第3信に加え、送付先にチボレンの狭間照隆氏、
タンゲランの河原井勇氏を加え、11名となる。
頑張るのみだ。 田中年夫氏に電話連絡する。


そして乙戸は、それら発送の封筒宛名書きだけでも、
時間を要するようになってきた、と書きながらも一方では、
「ヤヤサン設立の見通しもがたってきた」と、
10月15日の日記に、その成果を見通している。

乙戸のこの一ヶ月間の日記に記された残留日本兵を数えてみた。
25名を数えることができた。

日記に残された者だけなので、実際にはもっといるかも知れない。
それに、各人が一度だけでない。 何度も会っている人もいる。

曜日を見ると、活動は日曜日に多い。
仕事をかかえながら、活動していた証である。
乙戸は、再三にわたり「鉄は熱いうちに打て」と、書いている。

まさにそのとおりの、
目を見張る勢いの30日を経て「会」の設立が成ったのである。
by yosaku60 | 2013-08-27 11:53 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

新しい店探し:サヌール地区(その4)

d0083068_1128973.jpgパサール、シンドゥー近くの、
Danau Andakan 通りの
バイパスからちょっと入ったところ、
カユマニスのお隣に、
The Brassica という名の
新しいレストランができました。
Brassica とは、ラテン語で、
「ブロッコリー」の意味だそうです。
オーガニックの野菜を使っての、
メニューを揃えている店です。
先日、はじめて入って、
美味しかったので、昨晩は、
友人を誘って又行ってきました。
店内の照明が弱く、夜の店内は、
d0083068_11424035.jpg少々暗いのが気になりましたが、
それ以外の、清潔度、味、価格、
全てにおいて大満足でした。
ビールもよく冷えていて、
それも嬉しいことに、
大瓶が2万7千ルピア、
なんて、今時のサヌールでは、
ありえない価格です。
右の写真、ナシチャンプル
ですが、お米もタバナン産の
赤米を使っております。
野菜もふんだんに添えられています。
この店のオーナーですが、
実は私の尊敬する、我がバンジャールの村長さん.....の奥さんなのです。
カミさんの右の人です。
料理を作るのが好きなので始めたそうです。
家から歩いて行ける距離にあるのも嬉しく、常連になりそう。
d0083068_11545053.jpg

by yosaku60 | 2013-08-26 11:58 | バリ島=レストラン | Comments(0)

乙戸昇物語(その7)子供達への手紙の理由

乙戸昇は、ひとつのことを守り抜く意志が強い。
ここでの意志の強さは、思いを持ち続ける期間が長いことを言う。
人生のパターンを長く捉えているということだ。
私が勝手につけた題だが「子供達への手紙の理由」の話がある。
若い時の反省を梃に齢を経てその過ちを補う行動をとるという話である。
なんと、人生への誠実さに厳しいことか......

子供達への手紙の理由


乙戸の長男は日本に留学し、次男はアメリカに留学している。
その子供達に乙戸は、毎週欠かさず手紙を出している。
この毎週手紙を書く行為を知るにつけ、乙戸という人物を知り得るように
思うので紹介する。全て乙戸が書き残したものである。


(証言) 乙戸昇


若い頃の私の父は小さな田舎町で黒八丈の名前で知られた郷土の絹織物やマユの仲買を業としていた。 無口な父は子供達と談笑するようなことは全くなかった。

自然子供達からも積極的に父に話しかけることはまれであった。

1941年、弟が現役兵として海軍に入隊した。
入隊すると、一週間して上海に渡った。

徴兵検査で第二種乙種であった私は予備役に編入され軍需会社に勤めた。
少年時代8年間親許を離れていた私は、何れ軍隊に召集されることを見込んで、親許から勤めに通っていた。 其の頃の軍需会社は、“それ増産、やれ増産”の時期であった。

通勤列車の関係もあって、朝6時に家を出て、帰宅は夜の9時であった。

弟が出征して以来、それまで子供と余り話をしなかった父が、毎晩私に尋ねるのであった。

「弟に今日は手紙を出したか」ということであった。
まだ書いてないと答えると「明日は必ず書いて出しておけよ」というのであった。
同じ言葉のやり取りが父と私の間で毎晩毎晩繰り返された。
私も手紙を書かねばと思いつつも生来の物臭さに勤めの疲れも加わって、“明日、明日”と書きそびれてしまっていた。 弟に申し訳ないと考えつつも、ペンを持つ気にならなかった。
「毎晩言われなくとも判っているよ」と思いたくなるほど、父は毎晩そのことにこだわった。

私は私で「今日は書いて送ったよ」という返事の出来ぬ自分を情けなく思いながらも毎晩同じ言葉を繰り返すのみであった。 判で押したように毎晩同じ言葉を繰り返す父は、それまで全く知らない父親像であった。 子供との対話の少ない父であるが、深い愛情の一端をうかがい知らされた思いであった。


私が一通の手紙も出さぬうちに、戦友から弟の死を報じた便りを受け取った。
弟の死は出征後2~3ヶ月以内のことであった様である。
弟の死はショックであった。 出征後一回も便りを出さなかった自責の念に身体の縮む思いであった。 それは私の怠慢と甘えによるものではあったが、或いは私は人並みの人情を持ち合わせていないのではないかと反省したほどであった。
この時の自責の感は、私が生涯忘れることのできぬものになった。
この時の悔恨の念が異国に渡った子供達に毎週一回手紙を出すことによって、少しでも軽減できればと願った贖罪感が無意識に働いたようである。
勿論、子供達からその都度返事があることは期待しないことにした。
返事があろうがなかろうが、手紙をかきつづけることにした。


長男への手紙を毎週書き出した。
主として日曜日を其の日に充当した。
物臭な私にとって、毎週手紙を書くことは、矢張り相当な負担であった。
然し子供の手紙を受け取ると、毎週書かねばと思うのであった。
当時毎月二回位送られた長男の便りは、その後月一回になり、2ヶ月に三回、誰かに教わったのであろうが比較的早くから日本語の手紙を書いてきた。
そして程なく私にも日本語で手紙を書くように申し入れて来た。
私のイ国語作文の演習には、ならなくなってしまった。
但し、日本語ではまだ理解できぬと思われる問題はイ国文にしたが、どの程度迄日本語が判るようになったか、判断に迷った。
さて、日本文の手紙といっても、戦前に教育を受けた私にとって並大抵の苦労ではなかった。

当用漢字、教育漢字は勿論、新しい送り仮名も知らなかった。
インドネシア語と同様、国語辞典と首っ引きでの手紙書きであった。
若干の誤りは許してもらわねばならなかった。
長男に続いて5年後の1980年9月、次男がアメリカに渡った。
「日本語は難しいから」と言うのが、その理由であった。
次男17才の時であった。
アメリカに関しては私自身無知であり、知人もなかった。
渡航の手続きや準備は次男自身に処理させた。
次男の渡航で毎週の手紙書きが2通になった。
日本語とインドネシア語文である。

インドネシア語作文の機会がまた来たが、益々負担が増大して来た。
先ず、イ国語の知っている単語が極く限られている事。
加えて、平生でたらめな発音していた事より、書く場合、綴りが解らない事。
或は文法に対する知識不足という事であった。

当時初老の域に入っていた私にとって辞書との首っ引き作業は、其の他の雑用もあわせて、日曜日を苦闘させることになってしまった。
休養日どころではなく、日曜日は朝から晩まで机に向かって書きものをする日になってしまった。

愚人の常で、何故若い頃に勉強しておかなかったと愚痴をこぼしたくなった。
しかも、同じ言葉を何回も何回も繰り返し、辞書を開かねばならなかった。
又、それ以上に困った事は、苦労して綴った文が果たして正しいかどうか、判断出来ない事であった。

私信を第三者に見てもらうには、ためらいがあったからである。
それでも私は毎週手紙を書き続けた。
インドネシア語は、構文や綴りに若干誤りがあっても、大体の意味が通ずるので、この点は有難かった。
又書き続けると何としてでも続けねばと考え、真夜中にペンをとった事もあった。
自分で励んでいるつもりでも、語学の勉強法を知らぬ私にとって、その効果はさっぱりあがらなかった。
私自身気付いていた事であるが、長男宛の私の手紙の堅苦しい文体を読んだ長男の友人が、これは親から子供に宛てた文体ではないと批判した由であった。
ともあれ私は毎週手紙を書き続けた。
子供達から返事があろうが無かろうが一方的に送り続けた。
次男の方は長男以上に怠慢で、半年に一通位しか便りが来なくなった。
但し電話は毎月一回位かけて来るので大体の状態は把握する事が出来た。
さてこの様に手紙を書き続けている間に気づいた事がある。

それは亡父と子供達の間のコミニュケーシヨンが不足であった事と同じ事が、私と子供達との間にもあったと言う事であった。

そして、それ以上に大事な点は、一方通行的な便りであるが、それによって従来以上に私と子供達とのコミュニケーションが増したと言う事であった。
遠く離れて、始めて父子のコミュニケーションが増したと言う様な事は、ほめた話ではない。

然し、過去はともかく一歩前進したと言うことは喜ばしい事であった。
例え一方的であっても、子供達が私の考え方に同意してもしなくとも、私の考え方が彼等に伝わっている事であった。
そのことに気付いて私は嬉しくなった。
これは予期しなかった収穫と私は愉快になった。
7年4ヶ月日本に行っていた長男が、1982年7月に帰ってきた。
元日本委任統治領であった、太平洋に浮かぶ芥子粒ほどの小島から、嫁を伴って帰って来た。

これで長男宛日本語の手紙は必要なくなった。
長男は一応人並みに素直に成長してくれた様だ。
ひと先ず安心である。
これで長男に対する親の責任は果たせたと思った。
将来については長男と嫁の責任で、協力して成長してもらいたい。
長男の嫁も素直で明るい性格の良い子であった。
長男一人を頼りに一名の知人もいない当国に来た丈あって、芯の強い嫁のようであった。
かって一度も不平・不満や泣きごとを口にした事がない。
良い嫁を得て、私も満足であった。
其の長男一家が帰国して私と同居し、孫娘も生まれ家庭内が誠に賑やかになった。
若し私の亡妻が生きていると仮定したら、子供達の成長を一番喜んでくれたであろう。
次男も渡米して4年7ヶ月たった。
次男の方も大過なくやっているようである。
私が送り続けた手紙について、長男からは何等意見を聞えていないが、次男が帰国するまで毎週私はイ国文の手紙を送り続けよう。
「父親の日常生活態度を見たら、子供達もその後からついて来てくれるであろう」と割り切り、子供達を半ば投げ出した形であったが、何とかついて来てくれた様である。

今後は子供達自身の力で、私を乗り越えて成長してもらいたい。
私は誠に幸運に恵まれた様である。
敗戦後独立戦争に挺身した頃のあれこれを振り返って見ると、現在迄生き永らえている事が、夢の様である。
特にイ日各界の皆様の御指導と御援助を得られた事が、一番の幸運であった、と痛切に感ずる今日この頃である。
by yosaku60 | 2013-08-26 07:17 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

凧揚げ大会の日の朝の光景

この時期のバリ.....さわやかな風が吹くだけ、雨が降りません。
だもんで、毎日曜日、なんらかの行事があります。
今日は、バリ島の州や都市対抗の凧揚げ大会があります。
朝の10時から開始だそうですが、その3時間前の会場の様子を撮ってきました。
なんの変哲もない光景ですが、なんとなくザワザワ感があるでしょう。
ときめくようでときめかない単なるザワザワ感.......
オレ、こんなの好きなんだな~
まずは、朝陽の低い引き潮の光景、ちゃぷちゃぷあるくだけの海。
d0083068_14264115.jpg

それをぼんやり眺める防潮堤の人々。
d0083068_14291878.jpg

凧揚げに参加のバリ島の各都市......の旗.
遠方から来て、この旗の下で一夜を明かし今朝を迎えた人も。
バリ人は凧揚げが大好きなんです。
その真剣さにオレはちょっと引き気味だけど。
d0083068_1432238.jpg

凧揚げ会場に隣接したワルン群.....の店の裏。
朝餉の煙ではありません。
夕べのゴミを燃やす煙、これが一番のザワザワ感かも。
d0083068_14342475.jpg

いきつけのワルンの頑張り屋のカデちゃん。
ちょっと太っていますが、見慣れたら可愛いいんです。
d0083068_1438663.jpg

の店の前をぞくぞくと人が通りだしました。
d0083068_14393153.jpg

あいにくの逆光.....なれど、
ぼつぼつと人が集りだしたの、撮れてるでしょうか?
ゆらゆらと人の影が揺れ始めた、朝の7時半。
d0083068_14462340.jpg

by yosaku60 | 2013-08-25 14:48 | バリ島=その日のできごと | Comments(0)

乙戸昇物語(その6)福祉友の会を立ち上げる

経済的に安定した乙戸は、
ある日、残留日本兵であった同胞が病死した際、
同じ残留日本兵の誰にも看取られなかったことを大いに反省する。
その反省が後の福祉友の会の設立に結びつく。
その間の経緯につき、少々詳しく次に書きおく。

福祉友の会を立ち上げる

1975年11月25日のことです。
残留日本兵のひとりである藤山秀雄の家に、
ひとりの青年が血相を変えて飛び込んできました。

青年は泣きながら
「お父さんが死んだ、死んでしまった」と繰り返しました。
彼は近くに住む元軍属で同じく残留日本兵であった、
堀江義男の二男でした。

藤山が堀江の家に駆けつけると、
彼は粗末なベッドに裸で横たわり、
体には無数の蟻と蝿が群がっていた。

「おい、堀江!どうした」
藤山が叫んだが応答がなかった。

堀江の姿は、まるで明日はわが身のように思えた。
多くの元日本兵は日本企業の現地駐在員に雇用されているが、
あくまでも現地採用であり、何の補償もなかった。
こんな姿では俺は死ねない、と藤山は思った。

藤山はポケットから千ルピア紙幣を数枚出すと、
二男に渡し、葬儀の準備をするように話した。

藤山の連絡を受けて駆けつけたのは、
岩元富夫と中瀬元蔵であった。

岩元は、「ウオー!堀江」と叫んで絶句した。
「こりゃ、ひどいな」
遺体に無数の蝿を追い払ったのは中瀬であった。

やっと仕事にありついても体を壊せばこの通りだ。
何の補償もないインドネシアで見放され死を迎える、
余りにも悲しくないか。

岩元は、そういうと目頭をおさえた。

俺は堀江の最後を看取れなかっただけに悔やまれる、
近くに住んでいて気づかなかった藤山が発言した。

その藤山に岩元、中瀬が諭した。

藤山さん、自分を責めてはいけない。
我々の多くがその日を暮らすのが精一杯だ。
とても仲間のことまでは手が廻らない。

俺らは逃亡兵かも知れない。
好きで残ったのであろうと言われればそれまでだ。
が、俺らがいたから日本に帰れた連中もいた。
これじゃ、逃亡兵、非国民の汚名をきて死ぬだけだ。
堀江にはインドネシアの国軍葬で送ってやろうじゃないか。

が、堀江の家には、
国軍葬に必要な英雄勲章などの書類が見付からなかった。
あるはずだが、見つける事ができず、どうにもできなかった。
堀江は英雄墓地に葬られることもなく、
一般墓地に埋葬された。


それから一週間、

日本食料理店「菊川」で堀江を偲ぶ会が行われた。
出席したのは約10名、その中に乙戸も入っていた。
3人の報告を聞いた乙戸は、
次第に自身への憤りがこみあげてきた。

なぜ、堀江に手を差しのべることができなかったのだろうか、
見殺しにしたのではなかろうか
そして、乙戸は集った仲間に言葉を噛みしめるように言った。

私は堀江さんの死に自責の念にかられております。
私は彼の窮状を知らず、
亡くなったことも知りませんでした。

戦後、我々は脇目もふらず働き、
仲間を省みる余裕はありませんでした。

私も堀江も出征、離隊、独立戦争と
同じ運命をたどった者です。
何時、我々が堀江と同じような運命にならないといえましょう。
今、私は堀江を支援できなかったことを
悔やまれてならないのです。


乙戸の話を聞き、
その時の席上の全員がそう思ったにちがいない。
が、堀江の死の衝撃が遠ざかるにつれ、
酒を飲みオダをあげて終わった。

が、時間が経てども乙戸の自責の念は変わらなかった。
ある日、乙戸は意を決して仲間に言った。

我々が集ったのは、堀江君の死を悼み、
二度と仲間があのような死に方をしてはいけない、
という反省が、皆さんの胸の中にあったからです。

このようにただ酒を飲んでいるだけでは意味がありません。
あのようなことが二度とないように、
困窮者に対しての相互扶助組織のようなものを早く作るべきです。

これにまず、藤山が賛同した。

我々は今、日系企業に就いてそれなりの収入を得ている。
しかし中には、その仕事に就けなかった者も多くいる。
それが運というなら、そうかも知れない。
しかし、堀江の死には、絶句した。
乙戸さんの言うことに賛成です。

しかし、誰がそれをやるのだ!
誰かが言い、互いが顔を見合わせた。

乙戸は言った。

どうです皆さん、非力ですが、
私にその世話人をやらせていただけませんか。
ここで、皆さんに賛同いただければ、
私が世話人をやらせていただきます。

誰かが言う。
日本人が組織を作れば、
一般民衆から暴動の対象にされるかも知れない。
中国人が目の仇にされているのも、そうした理由だ。
でなくとも、政府から睨まれるかも知れない。


乙戸はそれに、
それは大丈夫です。
我々は人数が少ないし経済力が全くありません。
そして我々が強いのは、独立戦争を戦った英雄だということです。
その我々をインドネシア社会がないがしろにするはずはありません。
そう信じましょう。

この話を傍で聞いていた「菊川」の経営者の菊池輝武は、
後日、次のように語っております。

彼らは個性的で飲めばつかみあいの喧嘩になりました。
乙戸君の人柄が皆を引きつけたのでしょう。



福祉友の会の世話をしながら生涯を終える


こうした経緯があって、残留日本兵の相互補助を目的とした、
「福祉友の会」を立ち上げました。

福祉友の会を立ち上げ、組織作りに尽力する乙戸に、
同じ残留日本兵であった、白川正雄が後(設立10周年の挨拶)に、

「乙戸兄の精魂がこり固まってできあがったといっても過言ではない」
と言っております。

福祉友の会を立ち上げる際の話と、
その後の会を成功理に結び付ける乙戸の精魂は、
是非に細かく書き残しておきたい。
で、紙面を別にして、あらためて書くことにします。


乙戸と福祉友の会のかかわりを氏が同会の役員として、
名を連ねた経歴から述べると次のとおりです。

1979年~1986年 事務局長
1986年~1990年 事務局
1990年~1992年 副理事長
1992年~2000年 発起人会長

乙戸は82歳の時の2000年12月19日に逝去しました。
その直前まで福祉友の会の活動にかかわっていたことになります。

福祉友の会の定款を原文のまま、記しますと、

「ヤヤサンの独力で或いは政府、民間の援助を得て、インドネシア国民又はインドネシア民族の、なかんづくヤヤサン設立人一同および曾つのインドネシア共和国独立戦争において闘争の軌跡を辿った元日本人でインドネシア国民に帰化しインドネシアに居る者およびその二世、三世の連帯意識の滋養強化並びに福祉の向上を精神的、物質的両面から授けることをヤヤサンの目的とする。


であり、乙戸はこの定款どおりの活動を続けます。
例をあげると、次のような活動です。

1、 残留日本兵の里帰り
2、 軍人恩給一時支給申請
3、 体の不自由な者、貧困者のための生活補助金支給
4、 その子弟への学費の援助
5、 日系二世に対する日本語教育講座の開催
6、 日系二世への奨学資金の支給
7、 月報(毎月)の発行
8、 日本語学校の設立
9、 日系二世の訪日
10、全生存者の大使表彰

これらの活動には資金が必要でした。
福祉友の会は、会費制ではありません。
その運営資金は、残留日本兵の会員と日本国内関係者の寄付で
まかなわれていました。
資金確保のために、乙戸が自費で何度も日本を往復しています。

これらの活動のどれもが簡単ではありませんでした。

そのうちの「日系二世の訪日」と「全生存者の大使表彰」については、
乙戸の長年の努力が実ったものと、読みながら私は涙しました。
福祉友の会のところで書くことにいたします。
by yosaku60 | 2013-08-25 06:19 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

乙戸昇物語(その5)工場経営に成功する

1950年過ぎ頃から、メダン市内にも占領下の日本製と記された、
雑貨類が店頭にならびはじめ、インドネシアと日本の仲介役として、
多くの元日本兵が、日系企業に雇われていったが、
1956年末になっても乙戸はまだムラティ村にいた。

しかし、乙戸は考えた。
生きる喜びを感じるよう新しい人生を踏み出そう、
四十歳になってからでは遅い、
ダリム一家と別れることがつらかったが、
今こそ新しい人生に踏み出さなければ、
この地で埋もれてしまうに違いないと思った。

鹿島貿易の駐在員となることを勧める知人がおり、
その話を受けることとした。

そして村を離れる二日間は、
町から医者をよび村人の健康診断を施した。
その費用はすべて乙戸がもった。
村人に対する乙戸のささやかな感謝の気持だった。

ダリム一家には乙戸が手に入れた田の全てを与えた。

それを終え、鹿島貿易メダン事務所を訪ねたのは、
1957年5月上旬であった。


その時の思いを乙戸は手記にこう記している。

「私が村を離れた時は満三十九歳でした。
再出発の遅れたことは、
その後ことあるごとに痛感させられたが、
遅れた反面私は診療所で蓄えた30万ルピアの資金を
活用することができました。
当時市内の中心部の二階建ての商店が
15万ルピアで購入できる時代でしたから大金でした。
それは私の生活費の三年分に値する額で、
資金は経済的なゆとりを私に与えたばかりでなく、
精神面においても、
計り知れないゆとりをもたらしてくれました。」


メダンの鹿島貿易駐在事務所の社員となった乙戸は、
その年ジャカルタの駐在事務所に移った。
商売のコツが誠意と熱意であることを確信したのは、
この頃のことである。

乙戸はこの頃のことを次のように話している。

「ジャカルタに出て独立した時の方が大変だった。
初めのころはインフレがひどく、
物価が一年で2倍にも3倍にもなった。
そういうときの自分の資金作りが大変だった。
結局ものをいうのは、信用でした。
あの人なら貸してもいいとなるのに、
一年やそこらではできなかった。
私は日本との関係を大事にしようと思いました。
結果的に祖国を大切にした残留者が信用され安定しました。」

ジャカルタに出て落ち着くと乙戸は、
中部ジャワ出身のジャワ人、カスノイと結婚し、
エディとブディの二人の子供をもうけている。

(乙戸がインドネシアで育んだ家族)
d0083068_1845596.jpg


1970年の9月、乙戸は商用を兼ね、
妻とともに日本の土を踏み、
仕事の合間をぬって大阪で行われていたに万国博覧会を訪れた。
戦後の日本の繁栄に度肝を抜かれた。

その一週間後、妻カスノイは体調を壊し33歳の若さで命を落した。
乙戸昇52歳、これからと言う時に妻は逝ってしまった。
何もいいおもいを妻にさせることができなかったことが心残りだった。

その時の心境を乙戸は手記にこう書いている。

「残された15歳の中学生の長男と、
9歳の小学生の次男を抱えて、どうしたものかと思いました。
二人は妻が亡くなったあと、母のことを一切口にしませんでした。
それは私にとって救いでありましたが、不憫でもありました。
私は妻の両親を家に呼びいれ面倒をみてもらいました
そして私は独身でとおすべきか、
再婚すべきかを考えました。
わたし自身のことはどうにでもなりましたが、
肝心なことは子ども達のために何ができるかということでした。
母親なしで子どもの教育に自信があるか、
と問われれば答えられません。
また再婚した時の子ども達の反応も、
予想することができませんでした。
結局、私は結論を出すことができず、
私の後ろ姿をみせることで子ども達は、
ついて来てくれるだろうと思いました。」


1972年10月、乙戸と明和グラビア社長、大島康弘の努力が
実り工場設置の許可がインドネシア工業省から下りた。
工場の建材は、国内の冬眠工場を買取り、
他の機材も日本から取り寄せなければならなかった。
そしてインドネシアで第一号となる塩化ビニールの工場、
メイワ・インドネシアが設立され、
現地法人の代表として副社長に就任したのが乙戸だった。

工場が動き始めると、家庭用のカーテン、
テーブルクロスを生産し順調に滑り出した。
翌年のオイルショックで原料不足に悩んだものの、
社員のやる気で乗り越えた。
大島は後にオイルショックを乗り切ったのは
「乙戸の力に負うところが大きい」と述懐している。

その後世界各国からインドネシアに自動車部門が進出し、
乙戸の会社、メイワ・インドネシアは、
自動車内装材の生産で、大きく成長していった。

乙戸と大島のイスラム教国での工場生産の成功は、
この国の人々に対する細やかな配慮があったからである。

イスラム教徒の生活の中には、「信仰の告白」「拝礼」
「喜捨」「巡礼」「断食」の五行が日常的にある。
礼拝は一日に五回メッカに向かって祈らなければならないし、
「断食」は、一年に一ヶ月間、イスラム暦の第九月(ラマダン月)に、
日の出から日没までは飲食をしてはならない。

このように日常生活と結びついているイスラム教の人達を
従業員として雇うにはそれなりの工夫と努力がなければならない。

乙戸もまたクンプルというインドネシア名を持った、
イスラム教徒である。
従業員のために工場内にモスク(イスラム寺院)を作り、
五行をおろそかにしなかったことが、
工場経営を成功理に導いたといえる。
by yosaku60 | 2013-08-24 06:25 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)


常時ほろ酔い候
カテゴリ
画像一覧
以前の記事
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月