あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



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照山日出男の証言:内乱軍に兵器を略奪される

スマトラ東海岸でオランダ軍に抗戦したのは、
わが猛虎隊が最後であった。
その抗戦も限界に来てしまった。

撃つ弾がなくなり、
他のインドネシア軍が逃げるばかりで抗戦しなくなったからである。

敵軍の圧迫もますますひどくなり、
止む無くトバ湖畔のテガラス町を離れた。
夜半に船に乗り、サモシール島へと逃避した。

その頃、第5大隊長のサラギラス少佐が
部下の起こしたクーデターで抑留されるなど、
猛虎隊の中でも内部紛争がおこり、
まとまりがつかなくなりつつあった。

猛虎隊そのものの力を殺ごうとする勢力もあった。

いわゆるイ軍の中での仲間割れ、勢力争いがあったのだ。

そういう中で、
私はヤコップシレガル中佐の許可を受け、
特別中隊(100名)を引率し、
ドバ地区並びにシャンタル地区でゲリラ戦を行うために出発した。

山を越え、川を渡り、粟飯を食べ、
間道、山道と何百キロを歩いて、
やっと、ドバ地区に到着した。

そこで、バンテンネガラの部隊長のマラオ少佐の妨害圧迫を受けた。

バンテンネガラの部隊は、
主にトバ人で構成されるクリスチャン教徒部隊であった。
この部隊は、一応イ国側であるが、
オランダ軍の密偵が多くいることが噂されていた。
猛虎隊の勢力を削ごうとする部隊のひとつでもあった。


そのバンテンネガラの幹部と協議中に、
オランダ軍の大々的攻撃を受けた。

会議中絶し、
我が中隊と、東海岸州より避難してきた猛虎隊のB旅団の一個中隊は、
朝8時半頃から薄暮迄、このオランダ軍と戦闘を交えることとなった。


後方の台地には、
もし我々が後退しようものなら、我々の武器を奪おうとする、
バンテンネガラの部隊が待ちうけていた。

前方は、勿論にオランダ軍である。

結局、私たちの2個中隊は、
前と後を挟まれた形での戦闘を余儀なくされた。


幸いに我が軍が防戦した村は、
四囲が1メートル位の高さに土が盛られてあり、
村の周囲は田で戦闘するには地の利を得ていた。

反対にオランダ軍の方は平坦な田を通って攻撃せねばならず、
攻撃困難なように見えた。

激しい戦闘であった。

夕方、オランダ軍は大砲を使用するに至り、
飛行機まで偵察に飛来した。
後日、村民に聞くと、敵軍の死傷者は中々多かったらしい。

我が軍はⅠ兵士が右上腕部に擦過傷を受けただけであった。
戦果は上々であった。

今迄敵軍に対して、抗戦らしい抗戦を見なかった住民は、
非常に喜んで、食糧の方は全責任を持つから、
是非ともこの地に留まってくれと要望された。

後方のバンテンネガラの部隊からは、
粛清し協力しようとの申し出あったが、
我々は後難を恐れてそれを断り、その地を出発した。


一晩中歩いて、「アサハン・アルミ」企業の発電所である、
シグラ・グラ村に到着した。

大休止後、アサハン川の竹橋を渡り、
対岸上にある民家に到着した。
この家の主人及び一家は感心な人達で、
我々230名の朝食を一軒で担当してくれた。

……..
約20年後の1969年、昔のお礼を言いたくて、この村を訪問したが、
3軒ばかり住んでいた村民は誰もあらず、家は廃屋となっていた。
……

その後、数日して我が中隊は、
ポルセア北部にある、ロンバン・ルブ村に宿泊した。
兵の宿舎として、山や森の中に仮宿舎を作ったが、
兵隊は自分の郷里に久しぶりで帰った。

夜中の2時ごろ、兵隊のほとんどがいなくなったところを、
バンテンネガラの部隊に包囲され、
所持兵器・百挺余りを掠奪された。

幸いに、シネトガ准尉を長とした、
一個小隊をオランダ軍攻撃の為、先発させていた。
その一個小隊分の兵器25挺ばかりが助かった。

次の戦いの「パラパット」オランダ軍攻撃は、
この25挺の兵器で行うこととなった。
by yosaku60 | 2013-06-30 12:36 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

照山日出男の証言:撃つ弾、撃つ弾、次々命中

(証言)

そうした位置に着き、第一日目無事であった。
二日目も何もなかったので、後方100メートルの空家に入り就床する。

三日目の明朝8時オランダ軍は、
パンセル7台・ジープ4台・トラック7台位に分乗して攻撃して来た。

私の壕の位置とオランダ軍の最前パンセルの間は、
せいぜい25メートルであった。
幸いなことにパンセルは道路の関係上横隊になれない。
私の所持兵器はマドソン。
敵先頭パンセルから猛烈に機関銃を射って来る。

「こ奴を射殺、沈黙させれば、敵の戦闘力の半分は減勢できる」
と思い、マドソンでよく照準する。

3発を射つ。
うまく銃眼に入ったようだ。

間もなく血が少ししたたるのを認められる。
敵パンセルの射撃が止まった。

と同時に、前の高地から機関銃を連射してくる。
その相手を狙い1発射った。
命中。


交代射手が3発と射撃しない内に、
又、その射手を射ち命中。


私の所持していたマドソンはバネが弱いために、
時々射撃不能になるため、
一緒に壕内に居た現地兵の日本軍の38式歩兵銃と交換し、
弾丸も16~17発貰っておいたのである。

丘の軽機関銃がその後射撃して来ない。
と、丘から7名ばかりのオランダ軍が降りて来て、
パンセル傍で膝射ちの姿勢をとる。
その分隊長らしい兵の胸を狙い射つ。
勿論命中。


2人のオランダ兵はおどろいて崖に落ち、
あとの兵はパンセルの後に隠れた。
勇敢な敵兵1人がステンガンをパンセルに乗せ、
そっと手を出し、頭を出しかける。
やっと口のあたりまで出した時、
私の1発を額に食らい倒れた。


より勇敢な色の白い敵兵が、
切断道路に飛び降り、こちらに向かおうとしている。
同壕内の現地兵の注意で慌てた私は、
腰がめで1発射つ。
うまく命中。


弾丸も射ちつくしたので後退だ。
現地兵は先に逃げたが、
私はアメーバ赤痢とマラリアのため体力が衰えて走れない。
怖いが諦めてぼつぼつ歩く。
1Kmばかり後退すると、同部隊の兵隊達に会い、
その晩は切断道路から若干離れた村に宿泊する。


翌朝、私は兵隊達に昨日の壕を利用せず、
もっと後退して壕を造るように命じた。

又、今日はオランダ軍も作戦協議や資材準備のため、来ないだろうが、
明日には必ず来るので、その際は抵抗することなく後退しろと命じた。


そのとおりとなった。

10月31日朝8時、オランダ軍は徒歩で進撃してきた。
兵が1人もいないのを確認して、私は道路に飛び下り退却する。
一昨日の壕に砲弾が命中している。
予感が的中した。
いち早く壕を後退させておいたて良かった。


脇の細道に入ると、
上田氏所属の擲弾筒の弾丸持参の少年が1人ぼんやりと待っている。
その少年を連れて、切断道路崖下の森林中に潜伏した。
オランダ軍がどういうことを言うか、聞きたかったのである。


弾丸の音が絶えると、
道路資材を下ろす音が聞こえ、オランダ兵が現地人を逮捕し、
「一昨日、ここで抵抗した日本人は誰か」
「兵隊を14名も殺したのだ、名前を教えろ!」
と殴打しているのが聞こえる。

これで私は、(おー、一昨日、敵はそんなに死んだのか)と思った。
一昨日の戦闘では壕近くに砲弾が落下して、
俺の体は土砂だらけだった。
戦闘当初に撃った上田氏の擲弾筒の弾丸も敵のジープに命中したようだ。


この戦闘では、私1人で3時間、敵と防戦したことになる。
こんな状態では、インドネシアの独立は至難だ。

いっそ死んだほうが良いかも知れないという、自暴自棄の気持ちになる反面、
俺は日本人である、という自尊心があって、複雑な思いにかられた。

日本軍時代も師団司令部つきであったので、
戦争らしい戦争をしたのはシンガポールへ上陸してからだった。


日本軍の時は、上官の命令に従い、絶対的信用ができたが、
現地軍を指揮してみて、把握指揮が如何に難しいか分かった。

怖いのは誰も同じで、我々も怖ければ敵も同様なのだ。
誰が先制勇敢に戦うかで勝負が決まる。

精神状態と教育が如何に大切であるか痛感した。
by yosaku60 | 2013-06-29 06:12 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

サヌールの浜が壊れ始めた(つづきのつづき)

毎日、写真を撮っているオレを見て、
波で前の道路が壊された店の主人から頼まれた。
写真に撮れておれば、デンパサールに訴えでて欲しい。
嬉しいじゃないですか、バリ人に頼まれるなんて!
で、先日のブログの写真をしかるべき人を通じて届け出ることにした。
20日間でどれくらいの砂が削り取られたかの証拠写真(下)も添えて....
修復工事がこれで早まってくれれば、嬉しい。
勿論、海上道路のためだなんて、やぼな理屈は言わない(笑)。
お役人に現実を知ってもらうだけだ。
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by yosaku60 | 2013-06-28 16:35 | バリ島=社会・生活 | Comments(0)

照山日出男の証言:壕に隠れてオランダ軍を待ち伏せる。

翌日の午後、
機関銃の修理をしている最中にオランダ軍に包囲された。

突然に一斉射撃を受けた。
女看護婦達の叫び声が聞こえて来る。

「それっ」と手許に置いていた各自の荷物を
わし掴みにして一目散に草原に逃げる。

途中、他部隊の妨害を若干受けたが、
夜明けにやっと猛虎隊の本部所在地である、ブラスタギーの町に到着した。

大隊長のバヨン・バグン大尉に会い状況を話し、
バスで後方に送ってもらう。

集結地の村に到着してみると、
40名余の日本人が集まっていた。

その中には既知の者もあり、未知の者もいたが、
皆、同じ環境にあるので近親感以上の兄弟愛みたいな気持ちになり、 
すぐに10年の知己のようになる。

我々の最後になるかも知れんというので、
各自所持品を出し合って平等に分配する。

数日後、私ほか2名がバグン大尉に呼ばれ作戦会議を行った。

私はインドネシア語をわりに知っていたので、
前線部隊長に任命され、全日本人と2個中隊(約300名)を引率して、
明け方、プラスタギー前線に向かうよう命令を受けた。


その後、カロー地区の戦闘は思わしくなく、戦果もあがらなかった。

私は、そうした際の取り決めであった、7名ばかりの日本人を連れて、
サラギラス少佐の指揮する猛虎隊の所在地である、
シャンタル前線まで下がった。

サラギラス少佐に会うと、
喜んでくれ、前線部隊長兼参謀を命ぜられた。

「シマルグン」のシャンタル前線地区では食事は普通であった。
前の「カロー」地区では煙草はあるが紙がなく、
食物の材料はあるが塩がなかったが、この地区ではそんなことはなかった。

上等ではないが、避難兵の吾々にとっては、普通であった。

「パネトガ」近辺で戦友、宮下外次郎の壮烈な戦死を聞き泣いた。
夕方遺骨埋葬(軍葬)し、其の後は主にゲリラ戦をやる。


忘れもしない1947年10月29日のことである。

一旦「カロー」地区まで進撃したオランダ軍は、補給路確保と治安維持のために、
再び「カロー」地区より「サンタル」に向かうとの報を入手した。

我がインドネシア軍はその途上の「ゴンテン・ラヤ」村の道路を切断して、
オランダ軍の侵攻を阻止しようとした。

その切断道路は両側が険しい崖になっており、
左側は森林、もう一方は崖下のちょっとした平坦地は田、
その向こうが高い丘になっていて、全く地の利を得ていた。

深さ3メートル、長さ7メートル位に道を掘り、
その前面の「カロー」方面と切断道路の後方に壕を設けた。


私の位置した壕は、道路面より2mばかり高く3人を収容できるものであった。
切断道路際でオランダ軍が来たら、真正面に対抗せねばならぬ場所である。
この壕でオランダ軍を待ち伏せた。
by yosaku60 | 2013-06-28 10:21 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

照山日出男の証言:村人に捕まり殺されそうになる。

インドネシア独立戦争においてのスマトラ戦線では、
インドネシア側(残留日本兵)に、芳しい戦果はありませんでした。
が、照山日出男の撃つ弾は、次から次と敵兵に命中するのです。
お読みください。

(証言者) 

照山日出男
1916年9月11日生 茨城県出身
近第2師団 准尉


(証言)

1947年、オランダ軍の行ったネシア全地区の第一次攻撃で、
メダンのインドネシア前線部隊は、
支離滅裂し難民と共に各自の郷里、地方に遁走した。

私たちのような残留日本兵は行く先がない。

所属部隊と行動するか、
所属部隊の司令部所在地に非難するしか方法がなかった。

私は、その頃、
ヤコップ・シレガル中佐を長とする全スマトラ国民司令部に所属していた。
そのシレガル中佐とは、
メダン西方60キロのカロー地区に集結するとの事前協定があった。

この事前協定にしたがい、私は前線を離脱し、カロー地区に向かった。


途中、地理は不明だが、広い田園地帯に出た。
この田園地帯を横断すればカロー地区に通ずる道があることは想像できた。

村を通過しては危険であった。
オランダに内通している日本兵がいるとのデマが飛んでいたからだ。

が、村と村の間が狭まった大通りの近くで村民に見付かってしまった。

「待て」と言って、10名余りの村民が竹槍を片手に追いかけてくる。
ピストルの弾丸は、40発ある。
2・3発威嚇射撃しようとしたが、待て、待て、そんなことしたら、
俺は本当にオランダ軍の手先と思われる、と思い直して、彼らの到着を待つ。

勿論、彼らも気が立っている。
竹槍で突くような挙動が見られたら、その時こそ戦おう、と思っていた。

が、そのグループの長らしいのが、
仲間をなだめているのを見て、ピストルから手を離す。
殺さないと見透かしたからだ。

村に入ると老若男女が何百人と集まり、
思い思いに私の兵器、所持品、金などを掠奪する。

私は内心すこぶる不満だったので、
「君達の中に兵補か義勇軍出身者はいないか」と尋ねると、
元軍曹とか兵長とか言った人間が4・5名いた。

俺は言った。

「仮に俺がオランダ軍の密偵か手先であっても、
こんな村庭でこんな調査の仕方はないだろう。
君達の屯所がある筈だ。 
そこで調べるべきだ」

と、なるほどもっともだ、と了解してくれ、
屯所に連行された。

屯所では、氏名、住所、その他必要なことを訊問された。
俺は、「俺の指揮官はヤコップ・シレガル中佐で、俺は猛虎隊の少佐だ」
と、言うと、

彼らは、シレガル中佐の様相を訊問し、所持証明書を見て、
「貴方は我々の指導者だったのか」と驚き、
村民に命じて私の所有物を返してくれた。

30分ぐらいして、知り合いの前線中隊長と5~60名の部下も到着した。
中隊長は「我々の指導者に何かしたら、この村を全焼する」と脅かされ、
村人は皆シュンとして各自の家に隠れた。

その内、某村民宅に誘われ、温かい飯・焼き鯉・酒などご馳走になり、
濡れた服を乾いたのと換えてくれ、親切にしてくれた。
今までの疲労が出、満腹になったので、前後不覚に眠ってしまい、
翌朝 兵隊が出発したのも全然知らなかった。

それでも中隊長は、残っていて、
「オランダ軍は、シレガル中佐駐屯本部である、バビロン・ウル方面に向かっている」
「中隊は、これをやり過ごしてパラパットのトバ地区に行く」と言う。

そうした情報をもとに、中隊から別れ、また1人の逃避行を始めた。
で、スリブ・ドロックの町に着くと、
そこには猛虎隊員が沢山集結していた。
友人宅に泊まった。
by yosaku60 | 2013-06-27 08:06 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

サヌールの浜が壊れ始めた(つづき)

昨日が11時なら、今日は多分12時ってんで、行ってきました、物好きなオレ。
そのとおりでした。
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ジョギングで走る石畳の道を波が削っていました。
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これでも、昨日よりは小さいそうです。
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悲しくなったオレ、昼からヤケ酒....てな訳じゃないけど、
大瓶2本もくらって、帰りのバイクは飲酒運転.....
が怖いので、マッサージ店に入って、酔いざまし。
が、足をもんでもらいながら、鼾をかいてたらしい。
いつもなら、カミさんが起こしてくれるのに、
カミさんも隣でグーグーとは、トホホッ!
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昼酒は効くッでした。
by yosaku60 | 2013-06-26 18:21 | バリ島=社会・生活 | Comments(0)

サヌールの浜が壊れ始めた

6月23日が満月、大潮は満月から三日後まで続く。
昨日(6月25日)の波の打ち入り方は、異常だったようだ。
写真を見てくれ。
根っこの砂を取られて、木が倒れている。
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お昼頃、まるで津波のような大きな波が打ち上げたそうな。
「何時ごろだったの?」と、浜で働く人びとに聞いてみた。
10時~12時の間と言う者、11時だと言う者、考えた末、1時だと言う者。
例により、バリ人の答はいろいろである。
年齢や時間について、バリ人はおおらかである。
その中で正確なものを知るには、とにかく沢山の情報を集めることだ。
さらに、場所を変えて、何人にも聞いてみた。
総合しての平均値は、11時であった。
てなことはともかく、次の写真を見てくれ。
新造中の船(価格=30万円)が、ずり落ちて傾いている。
海にさらわれそうになったそうになったのをロープをかけて止めたそうな。
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砂を削られたり、ゴミが打ち上げたりで、今朝の浜茶屋は大忙しであった。
純粋な目をした子供のような子も働いていた。
齢を聞くと、13歳だと言う。
ジャワ島出身で、学校には行っていないと言う。
ほんに、バリはいろいろだ!
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にしても、今年の波の打ち上げ方は異常である。
サヌールビーチが壊れ始めている。
この原因だが、オレは新しくできた海上道路と関係があると睨んでいる。
ブノア湾の中央部を横断する、空港とブノアを結ぶ道路である(写真)。
大きな波になる、メカニズムはこうである。
うねりや波や海流が合い交えて起こる振動は、海面より少々下を伝う。
ブノア港に入るこうした振動だが、以前は湾奥のマングローブで吸収されていた。
が、その手前に海上道路が出来て振動がさえぎられるようになった。
さえぎられた振動は、反発して沖に跳ね返る。
その跳ね返り振動は、サヌール沖で海岸に迫りくる振動とぶつかる。
方向が逆な振動は干渉しあって、海面で大きな波になる。
だからなのだ!!
こんなことを言う、バリ人、いやインドネシア人は、誰もいない。
でも、オレは、ひそかにそう思っている(笑)。
でも、笑い事じゃないいんだよなア....本当のところ。
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6月23日は満月を理由に、この新しい道路のお祈りがあった。
バリヒンドゥーにのっとったお祈りであった(テレビ放映)。
で、牛が何頭も生贄のために、生きたまま海に放り込まれた。
一夜明けた昨日が、橋の開通日であった。
昨日の大波、この牛達が海底で大暴れしたのかも(笑)。
by yosaku60 | 2013-06-26 11:21 | バリ島=社会・生活 | Comments(0)

新しい店探し(ブノア地区)

ブノア港のヨットハーバーに隣接する、Bali Marina.
ヨット仲間が集まりそうな佇まいだ。
ブノアのポリス詰め所を左に折れて、突き当たったところのここが入り口。
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結構に豪華な外洋ヨットが横付けしていた。
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船乗りが好みそうなカウンター席の高い椅子。
足の短いオレ等夫婦、登って腰掛けるのが大変。
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出来て何年になるの?......に、聞いてくるから待ってて。
ええ、どうして知らないの?.....に、勤めてまだ2週間なの。
と、アリちゃん、17歳。
聞いて来た答は、40年....とは由緒を感じるゥ!
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そうそう、肝心の料金....素晴しい開放感を加味しての納得価格。
by yosaku60 | 2013-06-25 02:21 | バリ島=レストラン | Comments(0)

樋口修の証言:黒岩通という男

日本軍がスマトラ島に攻め入ったのは、1942年3月12日の夜であった。
上陸地点はスマトラ北端のサバン島と、コタ・ラジャ近くのウジュン・バティであった。
当時アチェ地区にはホーセンソン大佐の率いる強固なオランダ軍がいた。
これを16日間の短期間で降伏させたのは、近衛歩兵3.4聯隊であった。
この戦いは、スマトラ勘定作戦と呼ばれ、スマトラの中部と北部を制定し、
4000名のオランダ兵を捕虜とした。
証言者の樋口修は、この戦いに参加した近衛歩兵である。
日本の敗戦後、樋口修はインドネシア側に与し、独立戦争を戦った。
黒岩通のことを証言しているが、自身も多くの戦いに寄与している。
独立戦争後は、福祉友の会の初代理事長を勤めている。
樋口修は、この証言を書いた6年後、
自宅に押し入った4人組の強盗に殺され非業の死を遂げている(合掌)。


(証言者) 

樋口修
1919年1月31日生 群馬県出身
近衛歩兵4聯隊 兵技軍曹


(証言)

日本軍統治時代のアチェ軍政部に「特別警察」なる組織があった。
機動警察的な任務と、治安と情報の蒐集を目的としていた。
残置スパイの摘発、限られた局地的治安異常には実力行動をとる警察の役をしていた。
この隊長が黒岩通であった。

彼は占領下の諜報と闇の横行や隠匿物資による流通の阻害に注意し、
オランダ分子とその系統と見られる人物に対して強硬手段を用いて弾圧していた。
隊員の軍規も義勇軍に勝るものであった。

黒岩氏は台湾軍の出身で、
中国の南支那の南寧作戦に現役で従軍し原隊復帰後、
台湾の南方作戦研究室に勤務して居た。
そこでシンガポール作戦の参謀馬奈木敬信の知遇を得た。
その関係と思われるがシンガポール陥落後、
アチェ州軍政要員として、コタ・ラジャに送り込まれ、特別警察隊長となった。
黒龍会のメンバーであり“我国眼”と自称していた。

彼の特別警察は有名になり、土地の人々は“特別”と言っただけでも通じた。
憲兵(M.P)以上に恐れられた。
隊員の選抜に工夫がなされ厳選された。
一芸に秀でたもの、飛抜けた技量の者が優先された。
例えばボクシングの選手、サーカスの曲芸の出来る男、
又特に服役中のスリや泥棒で特にその特技のある者を引取り、
警察官の中から射撃の上手者を特に訓練して超一流の射撃者に仕上げた。

隊員の服装も、特命ある場合以外は平服着用で、
制服は儀式のある場合しか着せなかった。

命令は絶対で、命令を守る為に生命を捨てる事は当たり前で、
命令を守れぬものは死刑になっても仕方がないと言った規則を守り、規律を徹底させた。
その代わり給与と食事は公務員の中で最高に高いものが与えられ、
隊員の自負心も高く、軍部より高い評価が与えられていた。

ウルバランやオランダ側からすれば、最もいやな奴であった。
それで終戦後は、戦犯のトップに挙げられ、自身もそれは充分覚悟していた。

終戦後、インドネシア側の武器の要求とそれに派生する事件が多発するようになった。
これに抗するため、
1945年11月中旬頃から、コタ・ラジャ周辺の軍隊と、
残留した軍政部の日本人が、ブラン・ビンタン飛行場に集合した。
飛行場には、既にサバン島引揚げた、海軍第9根・廣瀬部隊が居た。
それに合同したのだから、大集結であった。

この大集結地は、トク・ニヤ・アリフの先祖代々の支配地であった。
トク・ニヤ・アリフは、ウルバランであったが、
穏健派であり、的確な情勢判断のできる人物であった。
大半のウルバランは、インドネシアには独立の能力はなく、
独立は時期尚早であり、オランダが権威を回復するものと考えていた。
しかし、トク・ニヤ・アリフは、問題はあるが、
インドネシアは独立を勝ち取ると考えていた、極めて少数派であった。

したがって、トク・ニヤ・アリフの先祖代々の支配下にある、
この大集結地は、比較的に安全であった。

ここに12月からは、軍政部も加わった。
更に宮部隊の一部の警備要員も加わったので、
全体としての日本人は、約4000人に近い数字になっていた。


この約4000名が、12月19日、遂に引揚げとなった。
プラン・ビンタンをあとに、開港オレレに集まり引揚船に乗ることとなったのだ。

プラン・ビンタンとオレレ間は、20キロあった。
途中で兵器を欲しがるインドネシア側の襲撃の恐れがあった。
ほとんどが自動車に乗れず、2~30台ある貨車は、食料を運ぶ為に使用された。
出発開始の当初は、その行動を内密にできるが、
プラン・ビンタンを出発すれば、遅かれ早かれ移動は明らかになる。
この時点から如何に対処するかが最大の問題であった。

事実、日本軍から兵器を奪取することは、インドネシア側の誰もが検討していた。
インドネシア共産党や国民党、それにインドネシア国軍がそれを検討していた。
しかし、日本海軍は完全武装しており、それを襲うことには無理があった。
唯一戦えそうなのが、ロンガのプシンドーであった。
プシンドーを除いて、強力な日本海軍に立ち向かえる集団はなかったのだ。

黒岩氏は、このプシンドーの指導者達に話を通していた。
話し合いで兵器を譲り受けることの提案をしていたのである。
プシンドーは、黒岩の提案を受け入れ、兵力を動かさなかった。

黒岩氏は、アチェ軍政部とも通じていた。
その軍政部を介し、海軍側に、
インドネシア側の情勢とその兵力及び戦闘能力につき連絡をしていた。

その際のアドバイスとして、
何らかの弾みで夜盗のごとき集団からの襲撃があった場合に備え、
万全の体制は必要であり、オレレへの移動はいつでも戦闘に応じられる準備が必要である。
が、これは夜盗であり、組織だってプシンドーが動くことはない。

ということを言明した。
黒岩氏は、プシンドーが動かないことの見返りとして、
オレレ引揚げの際、できる限りの兵器をプシンドーに渡るようにとの配慮を願い出た。

それらが全てうまく運んだわけではない。
連合軍の監視が厳しくて出来なかったことも多かった。
英海軍の軍艦から艦砲射撃があり、
残置兵器資材を持ち出すことができず切歯扼腕させたこともあった。

とはいうものの、それ相当の車両類と兵器がプシンドーの手に渡った。
もし、黒岩氏の協力がなかったなら、
恐らくほとんど残置されたものがなかったであろう。

その後、プシンドーの長であった、ニヤネ氏と黒岩氏の結びつきが強くなり、
黒岩氏は、ロンガのプシンドーの隊長に要請され、ロンガの日本人の第一号となった。

なお、プラン・ビンタンより撤退し、乗船完了した日本人は、
海軍3204名、陸軍485名、政庁26名、合計3715名であったと報ぜられている。
この多くの日本人への損害が皆無であったのは、
プシンドーを制止した黒岩氏の働きが寄与しものと思われる。

1990年8月  樋口修
by yosaku60 | 2013-06-24 06:18 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

残留日本兵・黒岩通のこと

近藤富男の証言の中に、
焦土作戦として、油田は友軍の手で燃やされた。
と、あります。

この友軍ですが、実はこれも日本兵によるのです。
黒岩通という日本兵です。

この黒岩通という日本兵・・・・私は、
インドネシア独立戦争時のスマトラで、もっとも活躍した日本人は、
この黒岩通だと思っています。


黒岩通は、少々なぞめいた人物です。
出身は東京で、南支戦線で活躍、金鵄勲章をもらった陸軍軍曹です。

残留日本兵の中では、クチアリーとの現地名で登場します。
日本名も黒岩通だけでなく、黒岩正吾とも名乗っています。
しかし、これらは全て偽名で、本名は「岸」だと言う情報もあります。


日本の敗戦直後のアチェ州の勢力図ですが、
親オランダ側としてウルバラン勢力がありました。

ウルバランというのは、その土地の有力者の集まりです。
ウルバランは、日本統治時代には、
日本軍の配下にあって群長を務めていました。
が、オランダが再進出してくると、
少々の例外を除き、ほとんどがオランダ寄りになりました。


一方、この親オランダ勢力に反発するインドネシア独立勢力ですが、
インドネシア共産党、国民党、インドネシア国軍、など種々の勢力が乱立してありました。
その中で、だんだんと力をつけ、インドネシア独立派をまとめあげたのが、
回教徒の青年の集まりである、プシンドーでした。


この親オランダのウルバラン、そして反オランダのプシンドー、
それらの中間にいるのが日本軍でした。

敗戦直後の日本軍は、この地区に海軍陸軍合わせ、約4000名いました。
その頃の連合軍側は、まだアチェ州の民衆を押え込む力がなく、
日本軍に治安維持を任さざるを得なく、
そのため日本軍の武装解除をしておりませんでした。


これら3者の状況を整理すると………、

まず、親オランダ派のウルバランですが、
過去の経緯から権威には強いものを持っていました。
が、だからこそ一般民衆からは恨まれる側面がありました。
また権威を持っていても、軍事面には素人であり、
日本兵の力を借りたかったのですが、
過去に日本軍との衝突があって、日本軍の評判はよくなく、
日本兵の援助を得るのは困難な状況にありました。


次に、反オランダであって、独立推進派のプシンドーですが、
士気は旺盛で人員もそろっていましたが、
それに見合った兵器が不足していました。
日本軍の持つ兵器をなんとしても譲り受けたく思っていました。


そして、日本軍ですが、十分な兵もいて兵器も十分にありました。
が、日本敗戦での本国からの指示により、
連合国側に協力しなければならず、兵器の使用についても、
インドネシア民衆の暴動発起を押える為しか使用できませんでした。
が、多くの日本兵の心中は、
日本に帰る際はインドネシア側に兵器を渡したいと思っていました。
しかし、連合国の目があって、そうはできませんでした。


要するに、3者の思惑と勢力は、3すくみの状態にあったのです。
こういう3すくみの中で暗躍したのが黒岩通だったのです。


結論から書きます。
黒岩は策略を用いて、日本軍の兵器の一部をプシンドーに横流ししたのです。
それだけでも、インドネシア側にとっては大きな援助でしたが、
それだけではなく、
其の後、黒岩はプシンドーの隊長になり、プシンドーの戦闘指導もしました。

また、そのプシンドーを指導しながら、
前述の油田の油を燃やす焦土作戦も成功させたのも黒岩でした。

さらに、1947年2月14日の
カンポンラランのオランダ軍陣地への総攻撃に際し、
残留日本兵全員を集め、それらを指揮し戦ったのも黒岩でした。

日本の終戦直後の黒岩ですが、
連合国側に与されるのを由とせず、
北アチェのグンパンという山砦に部下の特別警察隊員350人を引き連れ、
徹底抗戦を叫んで立ち籠り、軍政部長官の要請でやっと山を下りたそうです。
とにかく規格外の男だったようです。

次の残留日本兵の証言は、この黒岩通の周辺から書きたいと思います。
まずは、黒岩としばらくは行動を共にしていた、樋口修の証言です。
by yosaku60 | 2013-06-23 03:56 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)


常時ほろ酔い候
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