あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



カテゴリ:インドネシア独立戦争( 56 )


柳川宗成物語(その19; 最終回)

戦後、ペタの卒業生が柳川に尽くした話に移る。
戦後三十余年を経て、スハルト時代になった。
インドネシア国軍のトップの多くがペタ出身だった。
そうした元生徒が、柳川をインドネシアに呼んだ。

柳川への感謝の意味だ。
老後をインドネシアで送ることを提案したのだ。

昭和三十九年、柳川はその誘いを受けた。
家族と共にインドネシアに住み始めた。
その後、インドネシア国籍も取得した。
インドネシアに住んだ柳川は教え子たちに大事にされた。

どれほど大事にされたかの実話を書きたい。

私が直接に聞いたエピソードである。
前にも書いたように、柳川は、拓殖大学出身である。
バリ島残留日本兵の私の調査に助言してくれる人がいる。
東京在住の稲川義郎さんだ。

稲川さんは現在九十歳、戦中は軍属としてバリ島に住んでおられた。
戦後、商社に就職しインドネシア各地を歩いた。
その稲川義郎さんも拓殖大学ご出身だ。
大学の後輩として稲川さんは、柳川宗成とは何度も会っている。
稲川さんから直接聞かされた、その時の体験談である。

ある日、稲川さんは柳川さんの家に遊びに行った。
朝食を終えた頃に柳川邸を訪れた。
朝の訪問は、初めてであった。

ヤッ、稲川君、
柳川さんは、いつものように快活に迎えてくれた。
どんな話をしたか覚えていない、しばらく雑談が続いた。
と、家の前に黒塗りの車が止まり中から白衣の数人が降りて来た。
聞くと、医師団一行で、毎朝来るとのこと。
柳川さんが健康で過ごせているかの健診だとのこと。
稲川さんは、驚いた。
インドネシアは、なんと柳川さんを大事にしていることかと。

こんな話もしてくれた。
インドネシアは、柳川宗成にインドネシア名を名乗ってくれるように懇願してきた。
将来とも柳川さんの恩に報いるためインドネシアにお墓を建てたかったからだ。
日本名のままでは、宗教上お墓が造れないそうな。
が、柳川宗成は、それを拒んだ。
親からもらった名前をそんなに簡単に変えれるか、と最後まで拒んだ。
と、稲川さんは、男としての生き方を通した柳川宗成を語ってくれた。

日本が敗戦した後にインドネシア独立戦争が起こった。
敗戦しても日本に帰らず、現地人と共に独立戦争を戦った日本兵が一千余名いた。
いわゆる残留日本兵だ。

戦後、残留日本兵が集まって「福祉友の会」を作った。
ジャカルタにいた柳川は、「福祉友の会」を陰ながら応援、援助した。
が、「福祉友の会」には入会しなかった。

柳川は、インドネシア兵として独立戦争を戦いたかった。
が、連合軍に収監され、戦いに参加できなかった。
そのことを生涯悔やんだ。
インドネシアのために戦えなかったことを恥とした。
そのため「福祉友の会」の会員たる資格がないとして入会しなかった。
柳川宗成....
昭和六十年十月七日、ジャカルタの自宅で逝去、享年七十一歳。
死の直前まで豪胆に生きた。

by yosaku60 | 2017-04-27 08:01 | インドネシア独立戦争 | Comments(2)

柳川宗成物語(その16; サンペ・マティ)

ペタ解散直後一か月ほどして起こったスラバヤ戦争についても紹介したい。
ペタが解散しているということは、勿論、日本の敗戦後の話だ。
これがインドネシア独立戦争の奔りにもなった。
ペタが中心のインドネシア軍に対し連合軍側は英国軍であった。
一九四五年九月下旬、英国軍はスラバヤに上陸してきた。
旧宗主国であった同盟国のオランダから聞かされていた。

インドネシア人は極めて従順な種族である。
日本軍が降伏してしまった現在、我々が上陸すれば、彼らはただちに元どおり従順になる。

しかし、インドネシア軍はもはや従順ではなかった。
日本軍によって訓練されていたのだ。
インドネシアの民衆軍(ペタ)に強襲され、たちまち一個師団が全滅してしまった。
英国軍がかくも簡単に負けたのは、ペタの戦う気持ちが強かったからである。

が、他にも原因があった。
英国軍は自国の植民地のインドから兵隊を連れて来ていた。
このインド兵が、インドネシア兵を見て驚いたのだ。
おなじアジア人だ。
なのにインドネシア兵は強い。
それに独立に一生懸命だ。
インドネシアが羨ましい。
我々もインドに帰って自国の独立のために戦いたい。
インド兵は、真剣にインドネシア兵と戦う気が失せてしまった。
鉄砲を空に向けて撃ったとの話も残っている。
驚いたのが英国兵だ。
インド兵はまともに動いてくれない。
考えてみれば、我々はオランダが来るまでのつなぎ役だ。
それなのに、旅団長のマラビー准将までも射殺された。
死傷者もすでに千三百七十七名出ている。

スラバヤ戦争に嫌気がさし始めた。
結局、英軍はスラバヤの市街地を占領するのに百日間も費やした。
それも、一応形だけ整えた占領だった。
形を整えると、英軍はすぐに軍事制圧を断念し和平交渉に転じた。
で、一九四六年、軍隊を撤退させた。

撤退の起因するところ、やはりペタの存在だった。
ペタがいたからこその勝利であった。
青年道場の合言葉はペタの合言葉にも引き継がれていた。
「死ぬまでやる(サンペ・マティ)」
それがあったからこその勝利であった。

以後、ペタは、インドネシア独立戦争にどっぷり入ってゆく。
そのインドネシア側軍隊としての中心的存在がペタであった。

が、ペタであったが、ペタではなかった。
なぜなら、日本敗戦とほぼ同時にペタは解散していたからだ。

解散し存在しないペタが独立戦争を戦えるはずがない。
それを発言したのが、第二代大統領のスハルトだ。
一九八七年、元ペタの将校が集まって、スハルト大統領と会談した。

元ペタの将校たちは、大統領に要望した。

ペタこそが、かって独立戦争の中軸となって戦った。
その後のインドネシア国軍の母体を築いたのもペタである。
このことを認めて欲しい。

と、大統領に迫ったのだ。

by yosaku60 | 2017-04-24 09:36 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その15; ペタがあったからこそ独立がなった)

約五百名の大団の中に七名ほどの日本人指導者を置いたが、それは脇役であった。
軍の幹部も生徒も全てインドネシア人による構成だ。
但し、幹部になるために最初の教育だけは、日本軍が担当した。

「ジャワ郷土防衛義勇軍幹部錬成隊」である。
地元で義勇軍を育てるための教官を育てる機関だ。
ペタ促進のために、背中を押してやる役だ。

昭和十八年十月のこの錬成隊には四つの中隊があった。
その中で最も重要な中隊は、
ジャカルタ州、バンテン州、ブスキ州、バニュマス州を管轄する第三中隊であった。
第三中隊の生徒は小団長要員二百名であった。

柳川は、その中隊の隊長を勤めながら錬成隊全体に目を配った。
が、中隊を受け持ちながら全体を見るのは少し無理があった。
柳川は「錬成隊」を「教育隊」と改名し、若干の組織替えをした。
そして、その「教育隊」の隊長の任についた。

正式な役職名は、ジャワ防衛義勇軍幹部教育隊長である。
教育隊で学んだ幹部が次々と地元に帰り、ペタを広げていった。
ペタの開設から解散までの期間は約二年間であった。

その二年間の内にペタの軍勢は、六十六大団、三万六千人に膨れた。
柳川が目論んだとおりであった。

そんなペタも解散の日が来た。
一九四五年八月一五日、日本軍が敗戦した。
その二日後の八月一七日、スカルノらによるインドネシア独立宣言があった。
さらに、その二日後、ペタは解散した。

ペタが解散した後に、インドネシア独立戦争が始まった。
独立戦争には、ペタが大きく貢献した。
その証言は、今も多くが語り継がれている。

そのうちのいくつかを紹介したい。

まずは、柳川の教え子、後のジャティクス陸軍中将の弁である。
「もし、我々(ペタ)がいなかったら独立宣言もただ一枚の紙だった」
すごい自信である。
五年を超える困難な独立戦争を戦ってきた自負があったのだろう。

by yosaku60 | 2017-04-23 07:56 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その14; ペタの創成)

木登りだけではない。
教育全般について生徒の母親から感謝の手紙が届いた。

息子は以前は全く弟たちの世話をしませんでした。
それが、先日帰って来た時は、良く世話するようになっていました。 
どんな教育をされたか判りませんが、丈夫になり、
見違えるような青年になり本当にありがとうございます。

ということで、柳川の「青年道場」は、その成果著しいものがあった。
昭和十八年六月、第一期生五十名の教育を完了した。

柳川は書いている。

タンゲランで、第一期生と涙の別れをしました。
また逢えると思っていても心血を注いだ生徒たちとの別れは本当に辛かったものです。
生徒たちには、預金していたお金を小遣いとして持たせました。
生徒たちには半年ぶりの帰省でした。
但し、第二期生の新規募集も含めての帰省でした。

ということで、応募を終え、翌月には、もう第二期生の教育を開始した。
そうした教育を始めて二か月ほどした頃であった。
日本側とインドネシア側の双方から同時にある要望がなされた。
インドネシアの民族軍が必要である、との要望だ。

但し、双方の思惑は、異なっていた。
日本側は、不人気になりつつある「兵補」に代わるものを求めた。
インドネシア側は、日本抜きの自立した「民族軍」を求めた。
目的は違っていたが、作りたいものは同じであった。

柳川は、それを聞きつけて動いた。
柳川が思い描いたのは、「兵補」の延長ではない。
「インドネシア民族隊」の創立だ。

胸の中には、かねてからの構想があった。
青年道場を開設して以来、腹案として持っていたのだ。
で、立案は簡単だった。

団、分団と分けた。
一個大団を五百名とし、一個大団の中に四個中隊、一個中隊に三個小団とした。

第一期生は、「青年道場」から横滑りさせ骨格を作れば良い。
そんな柳川の案が通った。

多分に、原田熊吉司令官の後押しがあったのだろう。
昭和十八年十月二十六日、インドネシア民族軍ができた。
名称は、柳川の案どおりに「郷土防衛義勇軍(ペタ)」と名付けた。

柳川が苦心したのは、日本名を使わぬことであった。
「兵補」は、日本語である。
インドネシア人にも「ヘイホ」と呼ばせた。
これではいけない。
インドネシア人をして、日本に加担するためとなってしまう。
要するに、押しつけになってしまう。
郷土防衛義勇軍は、そうであってはならない。
郷土防衛義勇軍は、インドネシア軍である。
インドネシアの呼び方をすべきだ。
柳川は、頭文字をとり「PETA(ペタ)」と呼ばせた。

by yosaku60 | 2017-04-22 07:39 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その14; ペタの創成)

木登りだけではない。
教育全般について生徒の母親から感謝の手紙が届いた。

息子は以前は全く弟たちの世話をしませんでした。
それが、先日帰って来た時は、良く世話するようになっていました。 
どんな教育をされたか判りませんが、丈夫になり、
見違えるような青年になり本当にありがとうございます。

ということで、柳川の「青年道場」は、その成果著しいものがあった。
昭和十八年六月、第一期生五十名の教育を完了した。

柳川は書いている。

タンゲランで、第一期生と涙の別れをしました。
また逢えると思っていても心血を注いだ生徒たちとの別れは本当に辛かったものです。
生徒たちには、預金していたお金を小遣いとして持たせました。
生徒たちには半年ぶりの帰省でした。
但し、第二期生の新規募集も含めての帰省でした。

というこで、応募を終え、翌月には、もう第二期生の教育を開始した。
そうした教育を始めて二か月ほどした頃であった。
日本側とインドネシア側の双方から同時にある要望がなされた。
インドネシアの民族軍が必要である、との要望だ。

但し、双方の思惑は、異なっていた。
日本側は、不人気になりつつある「兵補」に代わるものを求めた。
インドネシア側は、日本抜きの自立した「民族軍」を求めた。
目的は違っていたが、作りたいものは同じであった。

柳川は、それを聞きつけて動いた。
柳川が思い描いたのは、「兵補」の延長ではない。
「インドネシア民族隊」の創立だ。

胸の中には、かねてからの構想があった。
青年道場を開設して以来、腹案として持っていたのだ。
で、立案は簡単だった。

団、分団と分けた。
一個大団を五百名とし、一個大団の中に四個中隊、一個中隊に三個小団とした。

第一期生は、「青年道場」から横滑りさせ骨格を作れば良い。
そんな柳川の案が通った。

多分に、原田熊吉司令官の後押しがあったのだろう。
昭和十八年十月二十六日、インドネシア民族軍ができた。
名称は、柳川の案どおりに「郷土防衛義勇軍(ペタ)」と名付けた。

柳川が苦心したのは、日本名を使わぬことであった。
「兵補」は、日本語である。
インドネシア人にも「ヘイホ」と呼ばせた。
これではいけない。
インドネシア人をして、日本に加担するためとなってしまう。
要するに、押しつけになってしまう。
郷土防衛義勇軍は、そうであってはならない。
郷土防衛義勇軍は、インドネシア軍である。
インドネシアの呼び方をすべきだ。
柳川は、頭文字をとり「PETA(ペタ)」と呼ばせた。

by yosaku60 | 2017-04-22 07:39 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その13; 木登り訓練)

柳川は、述懐している。

インドネシア人は真面目で粘り強い。
こんなにも優れた面を持つ人々をたとえ間接統治とはいえ、
三百四十年もの長きにわたり抑え続けて骨抜きにしたオランダ人に新たな怒りを感じた。

青年道場の敷地には、数百本の椰子の木があった。
毎日の相撲の後で自由に椰子の実をとって良いとしていた。
水を飲み、中のま白い果肉に塩を加えて喰った。
相撲で疲れた乾ききった咽喉を潤すには絶好であった。
相撲が終わると駆け足で道場南の椰子畑に行って実をとって食べた。
各班で木登りの得意な者を選んで椰子の実をとっている。
いつも同じ生徒が木登りに当たっている。

柳川は、それを見ていて思いついた。
これも訓練のひとつに加えよう。
自分の飲む分は自分で取って来るように仕向けるのだ。
全員が椰子の木に登れるように訓練するのだ。
それにはまず自分自身が木登りができないといけない。
柳川は、みんなが寝静まった真夜中に木登りの練習を始めた。
両手で引っ張り、両足で突っ張る「エテ公」式の登り方を習得した。
登るのは簡単で一晩で習得できたが、降りるのが大変であった。
こっそり練習を初めて四日目でなんとか登り降りできるようになった。

柳川は、生徒に申し渡した。

今日からは自分で食う椰子の実は、各人が登って取るようにしろ。
自分で取らぬ者は食うことならん。
日本人班長も同じである。
よしかかれ。
どれをとってもいい。
甘いものをとれ。

降りる時が難しかった。 
途中で力つきずり落ち、顔から胸まで擦りむいた者がいた。
残り二メートルを残し落下し気絶する者もいた。
が、そのうちに全員が登り降りできるようになった。

後日、こんな木登りについて、当時の生徒のひとりが思い出を語っている。
後に香港総領事となる、ブリアツナ准将だ。

私は生まれて初めて柳川隊長より椰子の木登りをやらされた。 
私はバンテン州バンデグラン県の県長の息子でした。 
椰子の実が欲しいと言えば使用人にすぐに取らせる地位にありました。 
自分で椰子の木に触ることもなかったし、
ましてや自分で椰子の木に登ることなど思ってもいませんでした。
それが生まれて初めて登らされたのであります。
大変な擦り傷をしましたが登れるという自信は大変なもので、
この点でも私自身独立戦争中に偵察に攻撃に自分で登って部下を驚かせました。
柳川隊長のおかげであります。

by yosaku60 | 2017-04-21 07:37 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その12; 水泳訓練)

水泳訓練だ。
水泳訓練に先立ち、柳川は次を訓示した。

明日から水泳訓練を実施する。
訓練は三日間と限る。
三日間の練習の後、一人でも泳げない者がいたら、その班の全員の責任とする。
泳げない者は、水の中を歩いてでも渡る覚悟で練習しろ。

実施の第一日目は、五メートルの跳び込み台から跳び込む訓練だった。
準備運動の後、後一列に並ばせ、順々に跳び込み台に登らせた。
先ず、柳川が跳び込んだ。 
続いて日本人教官が跳び込んだ。

生まれて初めて高飛び込みをした者がいたと思う。 
水泳の得意な者は、われ先にと飛び込んだ。
次に恐る恐る泳げる者が飛び込んだ。
第一回で飛び込めない者が約半数いた。

柳川は各教官を飛び込み台下の両側に配して台上から注意を与えた。

おい、今から飛ばぬ奴を突き落す。
よし、というまで助けないように、少々水を呑んでも死なないことを教えてやるのだ。
いいか、よし、と行ったら初めて助ける。

下で、富樫通訳が青年たちに聞こえるように大声で通訳した。
台上でふるえて泣きっ面の生徒を無理やり飛び込ませた。
泳げる者はなんとかべそをかきながら飛び込んだ。

柳川は、自力で飛び込めない者を手で突き落していった。
全く泳げない者も何人かいた。
水中でアップアップしている。
少しばたつかせておいて助け上げる。

飲んだ水を吐かせてまたすぐ飛び込ませる。
真っ青になって台に登りまた溺れる。
泳げない連中は何度もアップアップする。
適当に水を飲んでから教官に引き上げさせる。

中には、失神する者もでる。
水を吐かせ、人工呼吸をして生気づくと直ちにまた飛び込ませる。
これを三回繰り返す。

全員が飛び込めるようになった。
飛び込めるようになったので、水泳を教えた。

泳げない連中には、プールの底を這わせた。
プールの浅い処ではない、一番深いところを選んだ。
すぐにアップアップしながら、同じところを行ったり来たりする。
教官が途中で引張ったり突いたりしながら対岸まで押してゆく。

途中で気力尽きてだんだんと沈んでゆく者もいる。
しかし、なんとか対岸まで、引いたり突き飛ばしたりして辿り着かせた。
こうした訓練をして三日目、全員が二十五メートル以上泳げるようになった。

若いインドネシア人が猛訓練についてきてくれる。
彼らは真剣に日本人教官に追いつこうとしたのだ。

by yosaku60 | 2017-04-19 07:33 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その11; 死ぬまでやる)

毎朝の点検後の体操をした後に駆け足もした。
一キロから二キロ、二キロから四キロと距離を伸ばした。
初めは、生徒どうしや教官に抱えられ、引張られて帰って来る者がいた。
が、一か月後には、全員元気で余裕を持って走れるようになった。

こうした火を吹くような訓練は、
適切で十分な給食と相まって、発育盛りの彼らの体位を急速に上昇させた。
四週間後には、全員の体重が増えた。

一方、精神面だが、独立精神を鍛えること終始した。
柳川は、彼らを次のように叱咤した。

独立は自らの力で取るものである。
与えられるものではない。
与えられたものは、すぐに奪われる。
自らの力が備われば、独立は自然にできる。
自らの力が備わるまで黙って勉強せよ。
黙々と自力を養うことだ。
そのためには、私たちは全霊全魂を捧げる。
私たちに負けるな。
私たちに負けるような力では独立はできない。
独立は諸君が私たちに如何にして勝つかにある。
一日も早く我々に優る能力を作るために全精力を体力、気力の養成に打ち込め。

柳川は、そう言って徹底的に精神力を鍛えた。
青年たちは、学科は熱心に聞いていた。
青年はたちは狭いジャワ観から一遍に世界観にまで視野を広げた。

柳川が書いている。

学科の勉強から受けた彼らの開眼は、目を見張るものがあった。
私が中野学校で受けたものの数十倍にもましての驚きであった。
当時の青年道場の合言葉は、

「死ぬまでやる(サンペ・マティ)」であった。

この合言葉が、端的に当時の教育の熾烈な状況を表している。
その「死ぬまでやる」を実践した訓練があった。

by yosaku60 | 2017-04-18 09:17 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その10; 教育カリキュラム)

そんな青年道場の教育内容だが、
柳川は、陸軍中野学校で自分が学んだことを中心に次のように組み立てた。

一、学科
(イ)精神教育(精神訓話)
(ロ)世界事情(和蘭東印度史)
(ハ)軍事学(軍隊内務、戦史、戦術、作戦、築城、交通通信)
(二)語学(日本語)

二、特殊教育
  諜報、宣伝、謀略、防諜、統計

三、実科
  教練、体操、相撲、水泳、銃剣術

四、術科
  射撃、偵察、連絡、潜行、潜在、破壊、殺傷

五、演習、見学

六、課外
  軍歌演習、軍歌解説、号令調整、その他一般常識

柳川は、青年たちの体力と精神との両面の向上に苦心した。
なぜなら、青年たちの最初の平均体重は四六・九キロだったからだ。
強い精神は、強い身体に宿る。
柳川は、まずは体力の増強に取り組んだ。
その手段に選んだのは、相撲だった。
土俵を作りさえすれば、あとは褌一本あれば良い。
それが相撲を選んだ理由だ。

幸いにも近くに元プロがいた。
別班本部で炊事係りをしていた戦前派の米山老人である。
齢こそ六十才だが、元十両の力士だった。
彼に泊まりこみで指導してもらい立派な土俵ができた。
相撲の指導は、押し相撲一点張りとした。

最初の内は「ズボン」でとっていたが、被服の破損が激しかった。
被服交換の日本人担当から苦情も出た。
そこで軍を介して帆布を手に入れ、それを切って褌を作った。
土俵と褌がそろい、相撲は本格的になった。
行司の教官の「用意」の号令で俵に足を突っ張り構える。

「始め」で突進する。
一直線に相手につき進む。
後退とか横に飛ぶことは許さない。
うっちゃりも絶対に許さない。
前進、ただ前進のみである。
最初は、なかなかうまくいかなかった。
どちらかが、怖れるか、遅れるからだ。
ちょっとでも立ち遅れると、構えたまま後ろにつき飛ばされる。
立ち会いに気合負けする者は残し、何度でもやらせる。
苦しまぎれにうっちゃりをやった者は負けである。
押し合い、突っ張りが合いが永くなると「止め」の号令で中止。
改めてやらせる。

顔面青黒くなり、眼は必至の力を表し、ふらふらしながらも激突する。

「相手をオランダと思え、敵と思え」
「お前がいかねば、敵が来るぞ」

互いに心気伯仲すれば、土俵の中央で頭と頭、額と額がガッと衝突する。
両者ともにひっくり返る。
時々、両者とも、額に刃物で切ったような傷ができる。
ヨーチンをつけ繃帯をして、またすぐ始めさせる。
恐怖と苦痛で青黒くなった顔に目を血走らせて相撃つ肉弾戦は鬼気迫るほどになった。

柳川自身も土俵の鬼になった。
五十名ひとりひとりを入れ替わり立ち替わり突き飛ばした。
当初は全く赤子を扱うような有様であった。
その彼らのへっぴり腰が二十日もすると、腰もすわった。
必死の眼光に青光りする鋭気を加えて、見違えるほどになった。

by yosaku60 | 2017-04-17 07:28 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

柳川宗成物語(その9; 道場開きの挨拶)

柳川は、この地に決めた。
後に「タンゲラン青年道場」と呼ばれたり、
生徒をして「タンゲラン一期生」などと呼ばれたのは、そのためである。
昭和十八年一月、青年道場の開場式があった。
開場式にあたり、生徒たちを全員いがぐり頭にした。
そのいがぐり頭にオランダ軍から押収した戦闘帽を被せた。
軍服、帯剣、編上靴も押収品であった。
ただ、脚絆だけは日本式に巻かせた。
五十名の生徒を一班と二班に分け、二列横隊に並ばせた。
国旗掲揚台には、日の丸を掲げた。

柳川は、生徒たちに向かい訓示した。

今日、只今から諸君と此処で起居を共にし、一身一体となり一緒に勉強する。
諸君は選ばれた「インドネシア青年」として一日も早く、
我々から学び取り得る全てを学び、
強く、正しく、新しい「インドネシア青年」として生まれ変わってもらいたい。
諸君自らの手で、我々と共にアジア解放に、共戦共死できるようになってもらいたい。
我々のアジアは我々の手で解放しよう。
諸君は選ばれた戦士らしく、我々と共にアジア建設の捨て石となってもらいたい。
今日、我々はアジアをアジア人の手に取り戻すために戦っている。
普通の時代ではないのだ。
我々が一日休めば敵は一日進歩し前進する。
諸君は圧政下三百四十年の遅れがある。
それを一気に最も短い期間に取り戻さなくてはならない。
これは全く無理な話である。
この無理を承知してやるのだ。
大変な覚悟が必要である。
覚悟を十分にしてもらいたい。
ここでの教育は特に厳格にし、また強度のものとする考えである。
その程度は諸君の力量と見合わせ、だんだんと強めてゆく。
勿論、我々にできることを諸君に要求するのだ。
我々も人間、諸君も同じ人間だ。
我々にできることは諸君に出来ぬことはないと思う。
私は出来ぬ者があれば、みんなが出来るまでやらせる方針である。
もし一人でだめなら二人で、それでもできなければ三人ででもやり遂げさす。 
全員、何物にも負けず努力してもらいたい。
判ったか!
本日の開場式は、これで終わる。 
今日からは私が諸君の父である。 
各班長は諸君の母と思え。
他の教官は全員が諸君の兄貴であり兄弟である。
何事でも良い、相談するように。
何事でも困ったことは申し出るように。
また終わったことは忘れてもいい。
忘れたら覚え直せ。
忘れては覚え、忘れては覚えしている間に、いつかは覚えて来る。
先ず、理屈抜きで身体で覚えるのだ。
身体で覚えたものはちょっとのことで忘れるものではない。

by yosaku60 | 2017-04-16 07:14 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)


常時ほろ酔い候
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