あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



カテゴリ:インドネシア独立戦争( 71 )


ングラライを忖度(そんたく)する

バリ島の英雄、ングラライ....

5万ルピア紙幣の顔ですが、嘆かわしいかな、それすら知らない....
インドネシア人、時にはバリ人、時にはバリ在住の日本人、がいる。

バリ島の独立の歴史は、ングラライだけではない。
が、調べてゆくと、どうしてもングラライにぶつかる。

独立戦争の歴史は約5年。
そのうち、ングラライが歴史に出てくるのは1年だけ。
ってことは、5分の1、なのに、何故に、ングラライなのか。
何故に、パ・ジョコをもっと語らないのか。

その理由を一言でいうと....
ングラライのいた一年間だけ、バリの一般島民が一緒に戦ったからだ。
その闘争の結果であるが、はっきり言って、オランダが勝利した。
さらに、はっきり言おう。
オランダを勝利させたのも、バリ島民だ。
バリ人にとっては、歴史の恥部である(と、私は思うのだが)。
でも、生きてゆくためにしようがなかった部分がある。
ングラライもそれを認めながら、苦しく戦った。

さて、ングラライがマルガラナで玉砕した後、
闘争は、日本軍がいた時と同じように、地下に潜る。
実際には、地下でなくて、山に登って籠るのだが(笑)。
地下に潜ると、一般島民は参加できにくくなる。
で、一般島民は騒がなくなって....
歴史として、語らなくなって...

というのが、
ングラライだけが語り残され、
残りが歴史から消えた真相である。

さて、
ングラライだが、私は、長年、ングラライを忖度してきた。
その上で、ングラライの主たる闘争歴史.....の
そのスタート....(1945年12月13日)と、
その終わり.......(1946年11月20日)に、
日本人が大いに関わっていたことが解ってきた。

これは、どんな本にも書いていない。
私がングラライの心を忖度して解ってきたことだ。

バリ人は、こんなことを思っても記述に残さない。
かといって、日本人の誰も、ここまで興味を持たない。
ングラライの日本人に対する心の忖度をする者がいない。

日本人に対する、ングラライ司令を一言で忖度すると、
スタートは「憎しみ」。 
終わりは「感謝」だった。

そういう話、書き残したいが、私には文才がない。
一度、挑戦して、よーく解っている。

お酒飲むときの「私の得意なお話し」にしておこう(笑)。
一緒に飲む機会があったら、ングラライを質問してね。
待ってます~

by yosaku60 | 2017-05-28 08:24 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

スマラン事件(その12; 最終回)

病院からの迎えの自動車が待ち遠しく、
一分が一時間ほどの気がしました。

病院へ行けば、輸血も考えられるので,

「閣下、血液型は何ですか」
「血液型を聞いて何にする」
「俺は輸血の必要がない」

「それでは私が困る、軍医に聞かれても応えられない」
「A型だ、けれど輸血の必要は無いぞ、それよりか水を一杯くれ」

「水、水は差し上げることはできません」
「腹部重傷に水を飲んだら助かるものも助からぬことになります」
「こればかりは閣下の命令でも私は絶対にお上げすることはできません」
「そうか、皆に済まぬ、野市にも気の毒なことをした」

(野市さんは寺垣局長が銃で撃たれるのを防ぐため、
 身を挺して護り暴徒の竹槍に刺され戦死した)

閣下は自動車の中で多少苦痛を訴えておられたが、
その内に何も言われず、
握っていた手も大分冷たくなっていました。

もしかすると駄目かもしれぬと思ってきました。
「閣下、何か遺言がありませんか」
「何もない、みなに済まぬ」
「留守宅への遺言は」
「何もない」

思わず、私は大声で泣きました。
閣下の目にも涙が出ていました。
さぞかし残念なことでしょう。

「この仇は必ず討ちます」
「.......」
この時、閣下は私の手をしっかりと握られ、
二度シャックリをされ、
これが永遠のお別れでした。


これが「スマラン事件」だ。
が、これは全容ではない、一部だけだ。
監獄に入れらた日本人を救出する場面だけだ。

日本の憲兵隊は、
監禁されたオランダ人・混血人・
親オランダ系住民をも救出している。
そのために、インドネシアの青年たちと戦い続けた。

インドネシア側の犠牲者は、千名から二千名いた。
こんなにも犠牲者数が曖昧なのは、
それだけ混乱していたからだ。

日本軍とインドネシアの過激な青年との戦争は五日間続いた。
これら全てを通して「スマラン事件」と呼ばれている。
by yosaku60 | 2017-05-19 07:37 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

スマラン事件(その11; 我が民族は動物なり)

隊長は、生き残った負傷者の手当てを託して、
この惨劇をインドネシアの代表者に検証させるため、
城戸部隊に軟禁中のオンソネゴロ省知事、
スカルジョ・プルサ病院長の両名を現場に連行して
各監房内の惨状を目撃させた。

正面から入って右側、
三番目の監房内の壁に書かれた

「インドネシアの独立を祈る、万歳」

血書の前で、
青木がオンソネゴロにこの文意を
インドネシア語で伝えると、
彼は顔面蒼白になり

「バハギャ キク ビナタン(我が民族は動物なり)」

と繰り返した。

以上が救出隊の分隊長であった、
青木氏の手記である。


........


あとひとつ手記があるので、これも語り継ぎたい。
松音友治氏(中部陸輸局員)が語る,
寺垣俊雄司政長官のその後である。

(松音友治氏手記)

私は、閣下の安否を尋ね大声で
「寺垣閣下、寺垣閣下」と叫び続けた処、
折よく憲兵隊長が来られて

「閣下は重傷だ、すぐ行け、そこの布団の上に寝ておられる」

と言うので駆けつけますと、
何とお気の毒に全身血まみれて既に顔面の血色もない、

「閣下、松音です。傷は浅い。大丈夫です」

「ウン、有り難う。俺は腹を遣られているから多分駄目だ。」
「手足はもう痺れている。皆に申し訳ない。」
「自分としてはできるだけのことはしたつもりだが、今となっては何にもならない。」
「みなによろしく伝えてくれ。」
「それにしてもお前が助かったことはせめてもの幸せだ。」
「俺のいた室の壁に遺書を書いてあるから後で見てくれ」


ただ涙のみで物は言わず、
すぐに病院へと思いましたが、戦闘中で如何ともできず、
幸いオランダ人医者が来て、カンフル注射三本をうちました。

閣下の傷は下腹部、臍の下を自動小銃で貫通していました。
閣下が言っておられた遺書のことが気になり、
他の同僚に閣下をお願いし、室に参りますと、
その中で二十数名折り重なって憤死し、
その惨状はとても言葉や筆は表現できるものではありません。
by yosaku60 | 2017-05-18 08:04 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

スマラン事件(その10; 壁に書かれた血書)

決死隊員は逃げて行く青年たちには目もくれず、
各監房内の日本人救出に全力をあげた。

丁度その時、血まみれになった日本人数名が
監房内から転がるようになって飛び出して来た。

この人達は我々の身体に抱きつくなり,
「ありがとうございました」
と泣きながら礼を言っていた。

この中のひとりは、
中部陸輸総局の寺垣司政長官であったが、
寺垣氏は我々に礼を言った後、
それ以上は口を利く気力もなく、
所内の庭に崩れる様に倒れてしまった。

中部陸輸総局で特殊任務に携わっていた青木分隊長は、
これが寺垣俊雄司政長官閣下であることが一目でわかった。

青木は長官に傍に駆け寄り、
「救護班がすぐに来ますから、どうぞ頑張ってください」
と大声で告げ、携帯していた三角巾で、
出血の激しい腹部の応急手当てをして差し上げると、

幽かな声で、
「青木さん、ありがとうございました。
他の人達のこともよろしくおねがいします」
のみ、言い終わったが、
顔面は既に死相になっていた。


監房内の死体を搬出していた青木は、
薄暗い監房内の血痕の飛び散っているようなものに気付いた。

側によってよく見ると、

「インドネシアの独立を祈る、万歳」

と書かれた血書である。

機銃で射殺された日本人犠牲者が死を直前にして、
流れでる自らの血を指に採り書いたものである。
文字の大きさは、一文字十センチぐらいで、
最後の「万歳」の文字はもう精根尽き果てたという感じであった。

青木はすぐに、この文字のことを報告した。

隊長はこの文字の前に立って、
しばし茫然としていたが、ただ一言、

「遅かった」

と、腹の底から絞りだすような小声を残して壁から離れた。
by yosaku60 | 2017-05-17 13:36 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

スマラン事件(その9; 救助隊来る)

この三輪義雄氏の手記。
つぎのとおり救助隊が来たことが書いてある。


十月十五日の未明の三時を期して、
城戸部隊は完全装備し、
波状的に戦闘を開始した。

目的は市内の治安維持だった。
午前中には、インドネシアの青年隊(急進共産革命を目指す)が
占有している処を全て確保した。



引き続き市内の掃討作戦を展開している時、
日本人が拉致され、
拉致された人々はブルー刑務所に監禁され、
多数の死者が出ている、との情報が憲兵隊に入ってきた。


和田憲兵隊長は
早速に城戸部隊長に邦人救出の意見を具申したが、
ブルー刑務所に通ずる道路の強行突破は、
現状兵力では至難との返答であった。

和田憲兵隊長は部隊がやらなければ、
憲兵隊だけで決行しようと決断した。

これがため、決死隊を編成し、自らが救出隊長となり
四十名の救出隊を編成した。


編成は和田隊長率いる指揮班を根来准尉以下七名、
左側小路を進むのは田中第一分隊長以下の十六名、
右側小路を進むのは青木第二分隊長以下十六名とした。

前進中の田中部隊にガラン川の向こうから撃ってきた。
補助憲兵のひとりの腹部を貫通しその兵は間もなく戦死した。


田中部隊は、銃が撃ち込まれる中、さらに前進した。
三方の道路から前進した救出隊は、
夕暮れ近くの五時頃、
刑務所前の通りに辿り着いた。

和田隊長は道路を隔てて全面に立ち塞がっている
ブルー刑務所の正面扉を睨みながら、
河野曹長と青木分隊長に、正面扉を破って突入を命じた。


両名に向かって
付近の家屋の二階や物陰に潜んでいる敵から
機銃掃射があった。

両名は、それを意にせず、
十二メートル幅の道路を全速力で駆け抜け、
刑務所正面の木製扉に体当たりした。

扉は微動だにしなかった。
両名は、それにひるまず、
二度三度と身体中で扉にぶつかった。


その間、インドネシア青年隊が軽機関銃で
二人を目掛けて掃射を浴びせて来た。

両名は腰を低くして銃弾をよけながら、
なおも繰り返し扉に体当たりを続けたところ、
奇跡的に突然扉がギーと鈍い音をたてて開いた。

両名は開いた扉から転がり込むようにして、
刑務所内に飛び込んだ。

それを見て、和田隊長が「突撃」を指示した。

全員が刑務所内に飛び込んだ。
「日本人はどこにいるか、憲兵隊が救出に来たぞ」
と叫びながら、所内に駆け足でちらばっていった。

刑務所内にいたインドネシア青年二十名ぐらいが
高い塀をよじ登って、
われ先にと刑務所の外に逃げて行くのが見えた。
by yosaku60 | 2017-05-16 07:33 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

スマラン事件(その8; 部屋でただひとりの生還者)

それを見て、野市友三氏(元名鉄)が
思わず飛び出して「待て、待て」と両手を上げ制止した。

今度は、その野市氏を竹槍で激しく突いた。
局長は少し後ろに動いた。
その時、銃声がして局長が倒れた。

それから我々への銃殺が始まった。
入り口を竹槍数人、自動小銃一人、小銃一人で囲み
「今より殺す」と宣言した。

一人一人立った者に向かって自動小銃が火を噴いた。
私も五・六人目に立ちあがった。
銃口を見つめた。

銃口が目に入った瞬間、
頭部と足の爪先に圧力がかかり、
身がキュット締め付けれられる思いがした。

ふと楽になった。
後は覚えがない。


ふと気がつくと山積みの死体の内に倒れている自分を発見した。
上に乗っている死体が重くて仕方がない。
跳ねのけようとしたが、どこを撃たれたのかその力もない。

(頭部貫通による脊髄損傷全身麻痺のためだった)

ままよ死期を待つのみと思った。
その時、声が聞こえた。
壁の前の寺垣局長の呻き声であった。

「野市君、三輪君、もういったか。水が欲しい」。 
私も水が欲しいが何ともならず、ウトウトとしてしまった。

もう駄目だと自らの命を首吊りで終える者もいた。
私も手首の血管に噛みついたがすぐに血が止まり、駄目、死ねない。

最後の止めの一発で終わるかなと、またウトウトした。
激しいスコールに目が覚めた。


軒からの雨滴が激しく落ちている。
何とか飲みたいともがいたが、身体が動かない。


呻き声は絶えた。
局長の声もない。

スコールが止んだ直後に「ワァー」という聞きなれた日本人の声がした。
救助隊の声だ。
救われた。

私の部屋で生存したのは、私(三輪)ただ一人だった。
by yosaku60 | 2017-05-15 07:35 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

スマラン事件(その7; 竹槍で突き刺した)

他の部屋でも生き残った人がいた。
中部陸輸局員の三輪義雄氏だ。
彼は中部陸輸局長の寺垣俊雄氏と一緒の牢に入れられた。

三輪義雄氏も手記を残している。


同じ部屋に入れられたのは、
局長の寺垣俊雄氏を中心とする局員、
邦人、軍人を交え四十三名であった。
部屋は間口二間・奥行二間のコンクリートの床敷だった。

四十三名では座るのが精一杯、
手足を伸ばすのも不自由だった。
その上、格子戸についている羽目板が閉ざされているので、
室内の蒸し暑さは言葉に絶し、
汗びっしょりで呼吸困難な状態であった。


見張り役に羽目板を開けるよう頼んだが
「喋ってはいかん」と叱られ、
明け方六時頃になってようやく
羽目板を開けてくれた。


八時頃、
鎖錠が外され二名づつ用便が認められ、
食事も与えられた。
この最中に銃声が聞こえ、
急遽入室を要求され再び監禁された。


そのあと、留置場の狭さを訴えたところ、
すぐに許され、
二十名が他の部屋に移され、
私の部屋は二十三名になった。



他所から銃声が聞こえ,
殺戮が続けられているようであった。
その内、あたりが暗くなり、
灯りのないこの部屋は真っ暗になった。

暗闇の射撃はできず、
匪賊は今日の襲撃は取りやめたようだ。 


翌十六日午前八時頃、
軽機を持った者が竹槍を持った五名を従えてやってきた。 

寺垣局長は、その中にたまたま顔見知りの者を見つけた。
その者に「陸輸ナショナルコミニツ」に連絡とるように依頼した。
相手は了承し引き上げた。 
部屋の者一同は安堵した。

午後三時頃に給食が出た。

それから三十分後、局長一人だけ外に出て、
話し合いが始まった。
ほんの少しして、竹槍で局長を突き始めた。
by yosaku60 | 2017-05-14 13:04 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

スマラン事件(その6; 何故に殺されるのか)

全く死の恐怖の断崖に立たされたが、
頭の中ではいろいろの事が思い浮かぶ。
身は傷つき所詮死は時間の問題だろう。
このまま潔く敵の弾で斃れても良いが、
故郷に愛する妻と
未だはっきりと見覚えぬまま残して来た赤子もいる。

一同疎開先で無事であるとの便りを受け取っている。

今このままで死ぬとは!
戦争も終わり、敗れたりとはいえ、
命を全うして復員できるのに! 
インドネシア独立運動の犠牲になるとは、
全く無意味で犬死に以上の何物でもない。

ここはなんとしても生きて帰るぞと決心し、
自分に言い聞かせ念じた。


敵匪の襲撃は留置場ごとに行われ、
その都度悪魔の銃声が響いた。

その内辺りは暗闇となり、
敵匪の作業は終わり、
大殺戮事件が行われた刑務所は
何事もなかったように静かになった。


気が落ち着いてくるにつけ、
インドネシア人の我々に対する鬼畜行為には
大いなる憤懣が湧いて来た。

我々はインドネシアの独立を助長こそすれ妨害した覚えはなく、
またする必要もないのに、何故恨まれなければならないのか。

彼らに我々の心情を知らせんものと、
流れている血潮を指先につけ部屋の白壁に

「パギャン インドネシア ムルデカ
(インドネシアの独立を祈る、万歳)」と書くものもいた。

「天皇陛下万歳」とか、
「自分の名や家族の名」を書く者もいた。


遠くから銃声が聞こえて来た。
息のある者もシーンとしている。
日本軍が我々の救出に動きだしたと祈っていた。

しばらくして、また敵匪が現れた。
室内の様子をうかがっている。
少しでも動いているものを発見するや狙い撃ちである。

申し訳ないと思いながらもそっと友の亡き骸を引きよせる。
賊はなおも弾を撃ち込んでくる。
息をこらし生きた心地がしない。

「助かりたい」の一念で友の死体を抱えていることを一晩中、
気に留めながらも、いつしか眠った様だ。

その内殺気と幽鬼が一杯立ち込めていた部屋にも
夜明けの光が見えて来た。
全く長い夜であった。


by yosaku60 | 2017-05-13 07:24 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

スマラン事件(その5; みな殺し)

前列に並んだ人は一瞬の間に至近弾を受けバタバタと斃れた。
急所を外れた者もおり部屋は阿鼻叫喚の地獄と化した。

私は部屋の一番奥にいたので、
直撃は避けれたが右ひざ関節あたりが生ぬるく感じ、
見るとズボンに丸く血がにじんでいた。
何かに当たった弾が跳ねてかすったのである。

辺りの様子がどんなに変化したか見極める余裕もなく、
専ら身を護ることが精一杯であった。

我々の部屋の襲撃を最初として、
しばらく間をおいて前の部屋の襲撃が始まり銃声が聞こえる。

死を覚悟した蛭間千代松氏(元東鉄局)の声で
「待て、待て、これから一人一人殺してくれ」
「格子の処に立つから指定したところを撃て」と、

その声に続いて一人づつ、
「ここを撃て」と頭、心臓、あるいは咽と指示し、

中には官姓名を名乗り、
または「天皇陛下万歳」を叫びながら、
刑務所の露と消えていった。

落合正男氏(元大鉄局)
古堂操氏(元名鉄局)の声も聞こえた。

私は、暴徒がまた襲撃に来る気配を感じ、
動ける者で最後の防戦をする準備をした。
まず扉を開いて中に入られてはおしまいだ。
幸い扉は内開きであるから、同胞の死体には気の毒であるが、
開き止めの盾になって貰おうと、
真っ暗の中、手探りで引き寄せた。

案の定、敵は人の動きを感じたか、
まだいきているぞ、
と無差別銃撃を始めた。

こちらも無我夢中で彼らの餌食になっては叶わぬと、
弾の死角を扉の内側に求めて身を隠した。
相手もさる者、生存者いると知るや、
今度は扉を開こうと取っ手をガチャガチャと廻したが駄目、
体当たりでも開かない。

敵はたまりかねて扉越しに弾を撃ち込んできた。
内側から扉上部を押さえていたが、バシッという音と共に、
左の尻たぶに丁度割り竹にビチャーと叩かれた様な、
軽い痛みと生暖かさを感じた。
上に手を当てるとべっとり血が付いた。
一発が肉を浅くかすめた貫通銃創であった。

しばらくして敵はあきらめて立ち去った。 
私は扉が開かないことが確認できたので、
僚友の死体に囲まれて横になり身体を休めた。

しばらくして、また外の音がして、
数人の敵匪が向かいの部屋を開いた。
死体を運び出し室内を洗っているらしい。

死体はどこに運び去られたのか、
川原にでも埋められたのか、
しばらくして、また辺りは静かになった。

by yosaku60 | 2017-05-12 07:50 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)

スマラン事件(その4; 無差別に撃ち出した)

城戸部隊が出動準備しているうちに暴徒が暴れていたのだ。
下町に住む日本人を次々といずれかに連れ去っていたのだ。

連れ去られ監禁されながらも、
九死に一生を得た、人の手記が残っている。
中部陸輸局員の北川哲夫氏の次の手記である。

十月十四日、今日は鉄道記念日。
このところの治安悪化では、いつ召集の声が係るかもしれず、
名鉄局工務畑の岩間八郎氏の発案で、
同郷の古瀬洋平氏と私の三名が食材を持ち寄り、
我が家で夕食会を開く。
鶏スキを囲み、ブランデーを飲み交わした。
これが永久の別れとも知らず、
打ち上げの盃を交わし解散した。

宴終了後、下男は後片付けを簡単に済まし,
「旦那さん、今夜は物騒だから外に出てはいかん。
青年団が夜警している」
と言い残して帰った。
今夜は屋外でピーピーと口笛を鳴らすインドネシア人の行き来が多いようだ。
私は特に気にも留めず、戸締りをして就寝した。
夜半ぐっすり寝込んだ所に突然玄関の扉を叩く音に眼を覚まされた。
出て扉を開けると武装した二人の青年がおり

「俺達は警備員だが世間が騒がしくなった。
ここにいては危険であるから、
保護するために日本人は集結してくれ今から案内する」

まさかの地獄の案内人とは知らず、
かねて緊急時のため用意していたリュックを背負って、
青年の後について行った。
近くの新聞社支部に着き中に入ると、
既に先客は沢山いたらしく、
部屋にはリュックなどの荷物が多数積んであった。

表にはバスが一台待っていた。
持ち物、リュックをその場に置き、身体検査後バスに乗せられ、
ブルー刑務所前で下車、そのまま狭い部屋に押し込まれた。

時刻は十五日午前三時頃、同室者は三十名近く、
ほとんどは顔見知りの鉄道隊員ばかりであった。
さしたる不安は感じなく、
まさかここが地獄とは思いもよらなかった。
昼食にやっと高粱米の石抜きしていない赤飯が配られた。
食べると小石がジャリッと歯に触る。

夕刻になって外部の様子がおかしくなり、
自動小銃を腰に構えた者と、
竹槍らしきものを持ったインドネシア青年二人が来て、

「これから用便のために出してやる。
その前に何人いるか点呼するから、
一同立って整列しろ」と言う。

やれやれ助かったと思い、
がやがや言いながら立ち上がり整列するや否や
銃を持った青年が引き金を引きバリバリと
無差別に我々に向かって掃射を始めた。

by yosaku60 | 2017-05-11 14:20 | インドネシア独立戦争 | Comments(0)


常時ほろ酔い候
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