あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



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東部ジャワ島旅行(総括)

6月7日は、浜のカデの誕生日。
旅の疲れがあって遅れたが、先程お祝いを届けた。
23歳の時に知りあった彼女も30歳になった。
両親を看ているので、結婚できないでいる。
そんなカデへの誕生日のお祝い….
いつから渡すようになったかも忘れた。
お祝い品….最近は衣服を贈ることに決めている。
身体が大きすぎて、合うものを探すのが難しい。
が、ここ2年は、ぴったり合うものを贈れている。
彼女との付き合いも進歩してきている(笑)。
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さて、5泊6日のオレの東部ジャワ島旅行….
総括することで、書き終えにしたい。

まずは、
自宅を出て戻るまでの総走行距離だが、約1700km
バリ島内の300キロを除くと、ジャワ島での分は1400km。
何時間かけて、1400km走ったかであるが、
考えるのも嫌になるので、やめとこう。

ひとつ書き加えておきたい。
最初の日に「金輪際こんな無謀な運転をしない」と書いた。
が、ゆったり帰る筈のバリへの帰り道。
又も追い越せ追い抜けの激走劇を演じた。
ゆったり走っていると、
追い越して来た車が、急に目前に割り込んで来る。
それはそれで危険なのだ。
遅く走る大きな車は、追い越した方が安全なのだ。
結局は、ジャワ島での運転の結論は、
少々無理な運転をしなければ安全が確保できない、となる。

さて、次は、旅を終えて心に残ったことである。

まずは、初代インドネシア大統領スカルノのカリスマ性。
今もって、国民から崇拝されていることが判った。
同時に、インドネシアにとって、
独立への悲願が、どれだけ強かったか。
ゆえに、独立した時の喜びがいかほどであったか。
あらためて、私の心に染み入った。

そして、そのスカルノと一緒に
インドネシア独立戦争を戦った日本人がいたこと。

中でも市来竜夫の戦い….
ゲリラと言っても逃げるのではない。
常に戦うことのみを求めて行軍した。
日本人9人が参加したアルジャサリの戦い……
日本刀と拳銃だけを持って戦闘を指揮していた市来。
敵を目前にして、日本刀をインドネシア兵に渡し、
そのインドネシア兵がもっていた小銃を受けとり、
最前線の小銃隊に飛び込んで行った。

隊長は、後方で指揮するのが普通。
が、彼は、一人でも多くの敵軍を殺したい、
と心が逸って、そういう行動をとったのだろう。

43歳にして、なお血気盛んな市来竜夫。
日本軍がインドネシアに来る前から、
すでにインドネシアの独立を願って行動していた。
その行動の期間も強さも筋金入りであった。

そんな彼、小銃隊と共に、
トウモロコシ畑に身をひそめ、
敵を撃とうと立ち上がったところを
3発の銃弾に撃たれ即死した。

今度の旅で、その撃たれた場所もおおよそ確認できた。

そして、撃たれた隊長を起こそうとしたインドネシア兵二人、
その重さに、隊長をずり落としてしまった。
そのインドネシア兵は、
申し訳なさから、その場から逃走した。
ずり落ちた市来の死体は、谷の途中で止まった。
なかなか発見できにくい場所であった。

今度の旅で、その場所に立つこともできた。

その場所に立ったオレ、
こういう場所で戦い、こういう場所で死んだのか。
65年前のことが、そんなに昔でないように思えた。

が、市来龍夫のことを思うと….
彼は日本軍がインドネシアに来る前からの、
筋金入りのインドネシア独立推進派であった。
インドネシア独立を知ることなく道の途上で戦死した。
それはそれで、彼は本望だったのではなかろうか。
市来竜夫は、この地で終えたことを納得している筈だ。

市来龍夫が眠るその地を訪れて、
私は、あらためてそのように思うのだ。
が、私にとって、それは、さらりとした思いだ。

この地を訪れて、
この地の空気に触れたオレにとって、
さらりとではなく、もっと思いを深くしたものがある。
市来龍夫隊長に仕えた残留日本兵のことである。

たとえば、小野盛。
北海道の富良野で育った小野盛。
広々とした自然に囲まれ、真っ直ぐな性格だったのだろう。
以前にも書いたことがあるが、
彼のメモは、全て月日が記入されている。
真っ直ぐであり、且つ生真面目でもあった。

さて、大東亜戦争…

日本は、アメリカから経済の兵糧締めに遭い、
その兵糧をインドネシアに求めた。
インドネシアに至るまでの制海権、制空権を得るためには、
マレー半島、フイリッピン、太平洋諸島を
掌中にしなければならなかった。
で、アジアに攻め入った。

攻め入る口実をアジア各国が欧米列強から独立するためとした。
いろいろあったが、戦時中にそれを実行できた。
インドネシア以外のアジア諸国には、独立を約束し自治を認めた。
が、インドネシアだけには、そうはさせなかった。
なぜなら、インドネシアの資源を奪うことが目的だったからだ。
大東亜戦争の最終目的がインドネシア統治だったのだ。

独立させるためにインドネシアに上陸した….
これは、日本の嘘であった。

当初、現地で戦う日本軍の実戦部隊は、
そういう嘘には気付かない。
が、徐々に気付くことになる。

嘘が嫌いな日本人、
中でも嘘が徹底的に嫌いな僅かな日本人、
インドネシア全土で1000人程度….
が、残留日本兵として、インドネシアに残った。
そして、国としての約束を守るために、
インドネシア人と共に独立戦争を戦った。
もとより、死ぬ覚悟であった。

要するに、残留日本兵は、
自分の命よりも約束を重んじたのだ。
さらに言えば、
日本に残した家族よりも約束を重んじたのだ。
武士道を重んずる、サムライだったのだ。

翻って、今の日本、
自分本位の人ばかりが蔓延している。
嘘が嫌いな日本人、70年前に4万人の中の千人だった。
今、そういう人が何人いるだろうか。
ほんのひとにぎりだけだろう。
オレはどうだろうか…….

さて、明確にしておきたい。
オレは、そのたった千人の行為をもって、
日本軍のインドネシア侵略を美化したくない。
日本はどうであれ、
インドネシアにとっては、侵略であった。

たった2年半だが、
インドネシア人にいっぱいの苦しみを与えた。
過去350年、オランダから苦しめられたことよりも
2年半、日本に苦しめられたことの方が酷であった。
と評する歴史書もある。
今も残る「ロウムシャ」の言葉がそれを物語る。

さて、話を戻す。
残留日本兵の一人の小野盛….

市来隊長のお墓を作り、毎年、命日に訪れている。
失明するまで、続けられたというから、
多分、80余歳まで、続けたのであろう。
律儀である。

戦争で片腕を失った小野盛。
一枚の写真に収まらないような、
広大な土地を片腕で開墾した。
努力家である。

お子さん達に残した言葉、
「曲がったことをするな」だった。
嘘をついてはならない、ということだ。
そういう、小野盛だったからこそ、
残留日本兵として、インドネシアに身を投げ出したのだ。
義を重んじる人であった。

今、私は、インドネシアに住んでいる。
過去、日本が日本のわがままで、
インドネシアに迷惑をかけたことを心に刻んでいる。
が、そういうことを口にしてもしようがない。
過去は戻ってこない。

東部ジャワ島の旅で、
残留日本兵の過去に接してあらためて思う。

ささやかであるが、
今、私ができる範囲内で、
インドネシア人のためにできることをしてあげたい。
いや、させていただきたい….と思うのである。
by yosaku60 | 2015-06-10 13:47 | ジャワ島= | Comments(4)

東部ジャワ島旅行(ホテル事情)

5泊6日の旅であった。
Tulungagung の NARITA に2泊。
Malang の Regends park hotel に2泊。
Besuki の 安宿に一泊。
の計、3か所で宿泊した。
ジャワ島のホテルは、概して安い。

1、NARITA

朝食付き、税金10%込みで、一泊一部屋、4千円。
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2、Regends park hotel

 朝食付き、税金10%込みで、一泊一部屋、5千円。
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3、Bintang

Probolinggo から1時間東のBesuki あたりの安宿。
Bintang というので、星がいくつのホテルだろうと探してみたが、
Bintang という名前のホテルだった(笑)
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1000円~2000円の部屋ばかりだが、
唯一3200円の特別ルームがあったのでそこにする。
写真左が泊まった部屋。
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疲れていたので、すぐに寝ることができた....十分だ。
ナシゴレンとコーヒーの朝食もついていた。
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by yosaku60 | 2015-06-09 15:41 | ジャワ島= | Comments(0)

東部ジャワ島旅行(Suyonoさんが語る)

小野盛氏の息子さんのEru Suyonoさん(写真)は、
日本で働いていた経験がある。
日本語が通ずるのがありがたい。
彼から、いろいろなことを教えてもらった。
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小野盛が市来のお墓を建てた

お墓を建てたのは、1990年7月8日。
市来が死んだ場所が特定されなくなるのを気にし、
小野盛が費用を負担し、お墓を建てた。

その頃、戦友のほとんどがすでに亡くなっており、
お墓作りに参加したのは、次の方々だった。
1、小野盛さんと息子のSuyonoさん
2、林源治の奥様(アルジャサリ生まれ)
3、酒井富夫の奥様(アルジャサリ生まれ)と子供さん達

40年以上、土の中にあったからであろう。
深く掘ってみたが埋められた骨を確認できなかった、とのこと。
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左手前が林源治さんの奥様。
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酒井富夫さんの奥様。
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村人総出で手伝ってくれたそうな。
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インドネシア独立後の残留日本兵の生活

市来の率いる特別ゲリラ隊の規律は厳しかった。
女性との関係でインドネシアに残るような安易さを許さなかった。
真にインドネシアの独立を願うもののみで部隊編成がされた。
日本への望郷はすでに捨てていた。
インドネシア独立をMalang の地で迎えた彼らの多くは、
日本に帰ることなく、この地の女性と結婚した。
そして、戦後、お互いに家を訪ねる間柄であったとのこと。
小野盛の家にもっとも頻繁に来たのは、杉山長幹だったとのこと。
杉山は、市来亡き後、部隊長となり市来の弔い合戦を成功させた男である。
後にスラウェシ島のマカッサルに移り住む。

戦後の小野盛の生活

小野盛は、Batuの女性と結婚した。
広大な畑を開墾し果物や野菜を作って生計を立てた。
その畑、広すぎるので一枚の写真には収まらない。
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これをみな、片腕で耕したの?
Suyonoさんは言う。
「そうです」
「お父さんの頑張りは真似ができません」
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次の写真の下、すなわち川の畔まで畑が続く。
畑は子供たちに分配され、Suyonoさんの畑は一番下にあるそうだ。
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目が見えなくなったのは10年前から

小野盛さんは、亡くなる10年ほど前から失明した。
ということは、10年前から市来のお墓に行けなかったということですか?
と聞くと、「そうです」との返事。
さらに小野盛はSuyonoさんに、
市来の慰霊碑は、Malangの英雄墓地にもある、
と言っていたそうだが、Suyonoさんが後日、
英雄墓地を捜したが見つからなかったとのこと。

小野盛さんが片手を失ったいきさつ

オランダ軍に追っかけられて、逃走した時、
腰から吊るした手りゅう弾が落ち、その場で爆発したそうです。
最初は手だけ吹っ飛ばされたのですが、その後腐りはじめ、
上腕から切断することになったとのこと。
そんなお父さんが厳しく子供たちに語ったことは、
「曲がったことをするな、いつも正道を歩め」であったとのこと。

インドネシアに独立させるといっておきながら
いつまでも独立を認めず、ずるずると戦争をした日本。
小野盛は、日本のそうした嘘に義憤を覚えて、
終戦を迎えても日本に帰らず、
インドネシアの独立戦争に加担した........

「曲がったことをするな」は、
小野盛の生涯変わらぬ信念だったのでしょう。

市来の奥様もお墓に訪れていました。

いつごろの写真か聞き忘れましたが、
アルジャサリの地主さんの家の前でのスナップ。
左端が小野盛、その右が市来竜夫の奥様だそうです。
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by yosaku60 | 2015-06-09 13:30 | ジャワ島= | Comments(2)

東部ジャワ島旅行(小野盛さんの家を探し当てる)

翌朝、Tulungagung のホテルを8時に出る。
Malang までは、4時間、
Malang からBatuまでは、1時間、
の計5時間の運転.....のつもりがちょっと慣れたのか、
30分早くBatuに着く。

が、それからが大変。
Sidomulyo の街はすぐに見つかったものの、
次の、「Cemara Kipas通り」がなかなか探せない。
バリもそうだが、ジャワも住所だけで目的地に行くのは難しい。

何人に聞いただろうか、誰も知らない。
その中の一人、「この近くであることは確かだ」という。
で、そこから10m先に Cemara Kipas 通りがあった。

自分の家の周辺10mぐらいは、
知っておいて当たり前だろうが....と怒る気にもなれない。

さて、Cemara Kipas 通りに入った....狭い! 
車とバイクは交差できるが、車と車はすれ違えない。

番地も分かっているが、番地で探せないことは百も承知。
ここまで近くに来たら、氏名を言えば探せる。
が、小野盛のインドネシア名(ラハマット)をど忘れした。
小野盛では通ずる訳がない。
で、「片腕のない日本人」で聞き込みを続けた。

と、みんなが知っていた、が、それからも大変。
坂を下りた家というので、坂を下りて聞くと、
坂を上った家、という。
狭い一本道を上ったり下りたりの繰り返し。

もう、この辺りだろうと検討をつけ、駄菓子屋に飛び込んだ。
おばあちゃんが店番をしていた。
おばあちゃん、腕のない日本人を知っている。
「知ってるよ」
去年亡くなったはずだけど。
と、「そう」と、おろおろと涙ぐむ。
おばあちゃん、泣いていないで家を教えてよ。
と、おばあちゃん、もう喋ってくれない。
指を右に振るだけ.....どう見てもお隣さんの様だ。

ということは、オレが車を止めた処だ。
急いで、お隣さんに飛び込み
「小野さんの家ですか」と聞いてみる。

その時、ちょうど13時。
アポを入れておいた時間にピッタリ。
suyono さんは待ってたらしく、すぐに出て来た。
てなわけで、小野盛さんの息子さんとお会いできた。
小野盛さんの家の前で、Eru Suyono さんとオレ。
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by yosaku60 | 2015-06-09 09:35 | ジャワ島= | Comments(0)

東部ジャワ島旅行(エヴィ一家とお別れの会食)

スカルノに会い、吉住に会い、市来にも会えた。
Bromo行は、失敗したが、お遊びなのでたいしたことはない。
今宵は、Tulungagung に戻り、エヴィ一家とお別れ会食。
と言っても、みんなエヴィのパパにお任せ。

ジャワでのオレの目的はみんなオワリってんで、

Malang で泊まった翌朝、
またまた、運転をエヴィにお願いして、
Tulungagung まで、車を走らせる。
4時間のぶっ飛ばし。

が......
助手席で、ジャワの旅の総括のため、
メモを広げていたオレ、とんでもないことに気付く。

バリを出発する前に、情報収集しておいた、
残留日本兵、小野盛の住所を見ていた時である。

事前に調べた住所は、Sidomoyo であった。
ジャカルタの福祉協会に電話して、
庭師のワヤンに聞き取らせて書かせた住所である。

Sidomoyo という町は、ジャワ中部の南の海辺にある。
とてもじゃないが遠すぎるので、訪問をあきらめていた。

が、もしかして、
Sidomoyo ではなく、Sidomulyo では、なかろうか。
Sidomulyoならば、Malang の近くのBatuにある。

確かめてみよう。
幸いに小野盛さんの娘さんの電話番号を控えてある。
エヴィに電話をかけてもらい確かめた。

と、彼女はスラバヤに住んでいるが、
双子の弟(Eru Suyonoさん)が、
今もBatuに住んでいるという。

やはり、そうか。
逢いたい。
是非に会って、市来の墓のことも聞きたい。

その場で、Suyonoさんに連絡を取り、
明日の午後一時に家に伺うことで快諾いただいた。

うん!そうか! 
明日は、小野盛さん(英霊)にもお会いできる。
いろいろと勘違いがあり、ばたばたしたが最後は間に合う。
オレは、本当についてる!
ありがたい。

そんな感謝を込めて、
夕方、エヴィの一家とのお別れ会にも臨めた。
この中華レストランは、2度目になる。
前回も美味しかったが、今回も全ての料理が美味しい。
こんなレストランがバリにあったら、毎晩行くのになぁ~
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左から、エヴィのお母さんの従妹。
次が、その息子さん(エヴィとは、またいとこ)

  ただ、インドネシアは、
  いとこであろうが、またいとこであろうが、はいとこであろうが、
  みんなスププ(いとこ)という。

次が、エヴィのお母さんの弟さん、
次が、エヴィのお母さんのお兄さん(オレとおんなじ齢)
そして、エヴィのお母さん、
そしてエヴィ。
続いて、オレにカミさん。
その右がエヴィのお父さん。
右端が向かいのご婦人の夫。
インドネシア人は、初対面でも気になりません。
すぐに打ち解けて、会話を楽しめます。

みなさん、お世話になりました。
明日は小野盛の家に寄ってからバリに戻りますので、
早朝、挨拶せずにホテルを出発します、お許しください。
by yosaku60 | 2015-06-08 13:30 | ジャワ島= | Comments(0)

東部ジャワ島旅行(Bromo泊に失敗)

市来竜夫のお墓を捜せたあと、
ジョコさんをKepanjenの家に送り、
エヴィの運転で Malang までぶっ飛ばす。

Malang に着く。
宿は、決めていない。
玄関ホールの見栄えの良さから
Regents park hotel を選ぶ。

チェックインして、早速に、ご苦労さん会!
おお、日本料理もある。
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寿司が出てくるのを待つエヴィとカミさん。
エヴィ、ありがとう。
おかげで市来のお墓を捜せた。
それに、オレもやっとビールにありつけた。
ジャワでは、ビールを捜すのが難しいのだ。
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翌日、さわやかに目覚める。
さて、今日は Bromo行に挑戦だ。
Bromo山は、有名な観光地、ホテルも沢山ある。
ちょっとしたホテルに泊まって一日ゆったりする計画だ。
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朝日を見て、夕日を見るのが、Bromoの売りだが、
そんなのはどうでも良い。
Bromo登山もする気はない。
ホテルで美味しいものを食べて、ゆっくりするだけ。
Malang から Bromo までは、約50キロ。
たいした距離ではない。
10時に、ホテルを出た。
途中からずーと登るだけの道になった。
高地なため、雲も近い。
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民家のない、山道に入った。
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Bromoは国立公園になっている。
公園の入り口に入場門がある。
そこで、車をストップさせられた。

ここからは、ジープでなければ行けないという。
Bromo山周辺は外輪山になっている。
外輪山を降りると、砂の平原(Sand sea)になっている。
Sand sea は、ジープじゃないと走れない規則だそうな。

しまった。
事前調査に欠けていた。
まあ、遊びの方だから、こんな失敗もある。

じゃ、ここに車を預けるのでジープを手配できるか。
てきる!...いくらだ?。
と、こうした交渉は、エヴィがしてくれる。
オレはエヴィに任せるだけ....らくちん。

が、この交渉、
あとでエヴィ曰く、外人とみて、吹っかけられたようで、
「片道、一万円」 といわれる。 
往復2万円か、払えないこともないが、やはり高い。

エヴィも同じように思ったのだろうか、
Bromo 行きをあきらめ、料金交渉を決裂させた。

......

Bromo行をあきらめたオレ達。
どうせ、良いホテルでのホテル泊を楽しむ予定。
であれば、もうひとつの観光地、Batu に行こうよ。
Batu にも ホテルがそろっているはずだ。

ってんで、Malang を挟んで反対側の 
Kawi山(2651m)の麓の町、Batuに向かう。

malang の町の混雑を抜け、
Batuの市内に入るが、その間ずーと混雑続き。
エヴィ、運転ご苦労様。

で、Batu市内を 「良いホテル」を探して、
ぐるぐる回るが...見つからない。

いい加減に、まあまあ、我慢できそうなホテル、
を見つけ入ってみるが、料金を聞いてびっくり。

7千円の部屋では、冷房も温水もない。
冷房つきになると、一万円。
温水がプラスされると、一万3千円。
という受付の女性の応対も良くない。
こんなボロホテルで、こんなサービスで、こんな価格、
冗談じゃない。
エヴィ、申し訳ないが、Malang に戻ろう。
ってんで、Malang の 
Regents park hotel に再宿泊することに。

失敗続きのこの日....ですが帰り道、
有名なBatuのリンゴを購入するのは忘れませんでしたよ。
青りんごですが、酸っぱさがありません。
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さて、malang からBromo 行きですが、
泊まったホテルからも、観光のジープが出ていることを知りました。
6人乗りで料金1万6千円だそうです。
が、午前1時にホテルを出て、夕方6時にホテルに戻る、
睡眠なしの強行軍.....知っていても利用しなかったでしょう。

Bromo山は、オレを歓迎せず、
オレもBromo山を拒絶......てな結論で、Bromo の話、オワリ。
by yosaku60 | 2015-06-08 11:52 | ジャワ島= | Comments(0)

東部ジャワ島旅行(市来竜夫のお墓捜し;その4)

若者がみなを呼びにいっている間、
持参したメモを読み直してみた。

広岡勇は、書いている。

林が駆け込んできて、
隊長の遺体が見つかったことを知らせてくれた。
そこは小銃隊が戦った東側の谷の縁に小さなあぜ道があった。
が、高い草に覆われて、且つ谷側に遺体がずり落ちていたため、
あぜ道からは見えなかった。
そこを通り過ぎた時、死臭に気づき発見できたのである。

そうだ、そのとおりだ。
あぜ道がある。
オレも先ほどそのあぜ道に立った。
が、この場所が見えなかったじゃないか。

あぜ道の方を見上げて写真をとった。
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上の方に、かすかに空が見えている。
あそこから丘になっているのか。
市来は、あそこで戦った。
鉄砲で撃たれ即死した。
インドネシア兵が運ぼうとしたが、ずり落とした。
ずり落ちたまま、ここまで転がって来たのだ。

若者の報を受けたみながかけつけてくれた。
左から、この土地の持ち主、メスマンさん。
彼は、ここに降りて来るとすぐに周囲の草を抜き始めた。
自分の土地のお墓ということで、普段より手入れしているのだろう。
でないと、こういう「広場」が確保されない。
すぐに草茫々になるはずだ。
バリもそうだがジャワも同じだ。
地元民がよく管理してくれる。

次の体格の良い青年は、最初にバイクで案内してくれた若者。
そして、エヴィとカミさん。

次の背の高い青年が、後にバイクで案内してくれた若者。
で、右端の男は、みなが騒いでいるのでかけつけてくれた者。
彼のお父さんが、市来竜夫の死体をこの地に並び寝かせたとのこと。
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その彼が、何度もオレに言う。
1月になると、手のない男がお詣りに来ていた。
但し、最近は来ていない。
手のない男......小野盛かもしれない。
太ってる男か。
そうだ、太っている。
小野盛に違いない。
小野盛は、隊長としての市来竜夫に真髄していた。

そうか、小野盛が、毎年お詣りに来ていたのだ。
やはり、日本人、律儀である。
そんな小野盛も去年の8月に亡くなっている。
確か、94歳だったと思う。

さて、この地が、
遺体が転げ落ちるほどの急斜面であることを写真で見せたい。
まずは、お墓のお詣りを終え、あぜ道まで登って来るエヴィ。
あぜ道のオレから見ると、ほとんど真下だ。
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続いて、ようやくあぜ道まで登ってきたカミさん。
ずりおちないようにしっかりと前を行く若者に掴まっている。
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あぜ道も少しづつ広くなり、と、部落の道路に出る。
ここがその出口。
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出口を出ると、、
部落の人が何があったのかと珍しそうに集まっている。
本当は、こういう部落民に戦闘のことを聞きたい。
が、すでに日が暮れかかっている。
明るいうちに、kepanjeng を経て、Malang まで行きたい。
暗闇の運転は危険だ。
これ以上の情報収集をあきらめる。
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村人用にバリからお土産を準備してきていた。
それらお土産は、全てメスマンさん(地主)にお渡しすることにした。
写真はメスマンさんの家。
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メスマンさんと奥様。
メスマンさんは、言う。
手のない人(小野盛さんのこと)が来ると、
必ず家に寄って、この椅子に腰かけたのですよ。

ああ、小野盛さんにお会いしたかったなあ~
1年遅かった。
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さて、市来竜夫のお墓の場所は、
Ardjasari Sumber-putih であった。
まさに、広岡勇が記述したとおりの場所である。
by yosaku60 | 2015-06-07 18:55 | ジャワ島= | Comments(0)

東部ジャワ島旅行(市来竜夫のお墓捜し;その3)

走ってみると、山道でもなかった。
ただ、道路が狭く、バイクの車輪が乗るスペースしかない。
さらに、硬くなった土が濡れているので滑りやすい。
若者は、時々足をつきながら走ってくれた。

前方から、ご婦人とその後ろにおばあさん、
の二人が歩いてきた。
頭の上を超える高さまで草を担いでいる。
多分、牛の餌なのだろう。

バイクと人とは、すれ違う幅がない。
若者は、ご婦人に「下に降りてくれ」と頼んだようだ。
ご婦人は、50センチほど下の隣接する畑に飛び降りた。
が、おばあちゃんが降りられない。
若者はじーと待っている。
と、おばっちゃん、飛び降りて、畑に転がった。
おお、可哀想!
でも、やんわり起き上がり、ほんのりと笑う。
おお、強い!

とかなんとあり、細い道を更に進む。
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突然に若者は「ここだ」と谷を指さす。
たいした距離を走ってない。
まだ2キロなんて来ていない。
せいぜい500Mだ。
が、まあ、インドネシア人の距離感覚は曖昧だ。
今更でもあるまい。
んで、若者の指さす方を見るも、何も見えない。
d0083068_1736886.jpg

若者は「降りるからついてこい」という。
少し降り、上から見ると、
3m四方ほどの広場があった。
若者は「そこだ」と言う。
d0083068_17362446.jpg

その「そこだ」まで、降りた。
若者(写真)は、そこに立った。
d0083068_17364152.jpg

なにやら書いてあるが、泥に汚れて読めない。
手で泥を洗い落とし、読んでみると、
3、1、1949 が出て来た。
市来がオランダ軍の鉄砲玉に当たり死亡した日だ。
間違いない、これが市来のお墓だ。
若者に、間違いない、皆をこの場所に呼んできて欲しい、と頼んだ。
若者も嬉しかったのであろう。
すっ飛んで登って行った。
d0083068_17434965.jpg

(註)
ABR RACHMAN : アブトール ラフマン (市来のインドネシア名)
Mayor : インドネシア軍の階級で「少佐」。
CMDPGI: CMDは、特定できず(多分、所属旅団名)。
       PGI は、Pasukan Gerilia Istimea(特別ゲリラ隊)
by yosaku60 | 2015-06-07 17:36 | ジャワ島= | Comments(0)

東部ジャワ島旅行(市来竜夫のお墓捜し;その2)

が、前を行く若者(写真、中央の男)。
本当は、余り知らなかったらしい。

ただ、誰かから聞いたかすかな記憶があったらしい。
で、記憶の場所に来て、バイクを止め、
今度は若者自らが聞き込みを始めた。
d0083068_16543544.jpg

彼は、通りすがりの村人にも聞く。
誰に聞いても要領を得ない。

が、そんな時、
最初に聞き込んだ、おばさん連中が、
「もしかしたら、アブトールラフマンのことかい」と言う。
そう、そうだ! ラフマンの墓を捜しているのだ。
「であれば、谷の方だよ」と言う。

家の庭先ではないのか。
谷なのか。
ネット情報と違う。

とは思ったものの、行くしかない。
んで、そこに向かう。
ここまで案内してくれたバイクの若者に代わり、
この村の若者がバイクで先行してくれた。
みんな、みんな親切だ。

その二人目の若者が案内してくれた場所は、
途中で行き止まり(トウモロコシ畑)になっていた。
d0083068_1775131.jpg

そのトウモロコシ畑の前で案内の若者が言う。
「ここからは2キロある、徒歩でしか行けない」

ええ!!2キロの山道と言えば1時間…

オレ、そんな元気がない。
それに、こんな場所にあるはずがない。
オレは、まだ半信半疑だった。

そこにエヴィが助け舟を出してくれた。

「どうもバイク一台だけなら行けそうだよ」
「ヨシイさんだけバイクの後ろに乗って現場に行ってみたら」
「そしてホンモノだったら、呼びに戻って来て」

さすが、エヴィ、機転の利くこと。
頭がいい!

で、オレ、2キロとかの山道を
若者の腹をしっかり抱いて登ることになったのだ。
by yosaku60 | 2015-06-07 16:57 | ジャワ島= | Comments(0)

東部ジャワ島旅行(市来竜夫のお墓捜し;その1)

市来竜夫のお墓の所在地だが、
市来の部下の広岡勇が死体発見時、
その場所に埋葬し、大竹を半分に割り色鉛筆で、
その場所を次のように記入し目印に刺している。
Pertempuran-Ardjasari
Sunber-Putih Dmpit Malang

この情報以外に、
実際にお墓を捜し得た人が書いた文章もネット上に流れていた。
それによれば、ジャサリではなく、ボポン村であり、
それもスナリさんという家の庭先にお墓があったと書かれていた。

この二つのどちらが正しいのだろうか。
多分、後者の方が正しいのだろうと、
目星をつけて探すことにした。


さて、こうした昔のお墓探し。
東ジャワが故郷であるエヴィのお母さんが世話を焼いてくれた。
Kepanjen に住む同級生に援助を頼んでくれたのである。
その人が次の写真のジョコさん。
ジョコさんは、今は年金暮らしだが、元銀行員。
銀行の支店まわりで、大概の土地は知っているという。
そのジョコさん、
ちょうど奥さんと娘さんがジャカルタに遊びに行っていた。
で「ヒマだから何でも手伝うよ」と、二つ返事で受けてくれる。
(エヴィのお母さん、ありがとう)
d0083068_15383331.jpg

自宅にお邪魔し、事情を説明すると、ジョコさん。
Sumber-putih付近に詳しい近所の人(写真)を自宅に呼び、
みんなで話し合いながら、お墓探しの作戦を練る。
この人たちは、Dampit 出身という。
同じ郡内だから、ジョコさんよりも土地勘がある。
オレは全てお任せ、傍で聞くだけで、楽ちんだ。
d0083068_1540290.jpg

そして、お墓探しに出発する。
ジョコさんが運転もしてくれる。
これも、なんと楽ちんなことか。
d0083068_15404212.jpg

一時間少々でSumber-Putih の村に入る。
Sumber-putih と言っても人家はまばら、とてつもなく広い村だ。
とりあえず、少々家が建てこんでいる処に車を止めた。
そして、聞き込みをする。
が、チンプンカン、とりつく島もない状況であった。
が、写真の左のおばさん。
そういうことに詳しい人がいるので、聞きに行ってみる。
と走って坂を駆け下りて行ってくれる。
d0083068_15411347.jpg

彼女がその人を呼びに行っている間に村民と話す。
Sumber-Putih村は、とても広い....。
部落がまばらにある.....
Bapon や Retjasari  や Ardjasari  の部落だ.....と言う。

Bapon と聞いて、ネット情報を思い出した。
で、
「Bapon に スナリーさんと言う家がありませんか」
と聞いてみると、

Baponは、川向うになり、ここからは遠い….
ただ、そういう方はいないと思う……との返事。

さて、どうしたものか。

と思案をしているとき、
先のおばさんが若者を連れて戻って来た。
若者が何か情報を知ってるらしい。
でも若者は何も言わない、とにかくついてこいというので、
その若者のバイクを追っかけた。
写真左の先行するバイクが彼である。

道路の右に見える背の高い植物....
サトウキビかトウモロコシだろうか。
そういえば、市来が戦った場所について、
小野盛は「サトウキビ畑だった」と書き残し、
広岡勇が「いや、それはトウモロコシ畑が正しい」
と訂正している。

運転するのはジョコさん、
助手席はエヴィ(まつ毛が長~い)。

バイクはそれらしいところに向かっているようだ!
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by yosaku60 | 2015-06-07 15:43 | ジャワ島= | Comments(0)


常時ほろ酔い候
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