あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま:帰らなかった日本兵
2023-08-16T14:09:46+09:00
yosaku60
常時ほろ酔い候
Excite Blog
終戦記念日にはねあがる私のホームページ
http://yosaku60.exblog.jp/29666779/
2023-08-16T11:41:00+09:00
2023-08-16T14:09:46+09:00
2023-08-16T11:41:39+09:00
yosaku60
帰らなかった日本兵
天皇陛下の終戦の詔書を読んでいただければ判ります。
終戦の詔書には、次のように書かれています。
敵は新たに残虐なる爆弾を使用してしきりに無辜を殺傷し
惨害の及ぶところ真にはからべかざるに至る。
無辜(むこ)とは何の罪もない民をいいます。
戦争行為は国際法上認められております。
が一般の民を無作為に殺すのは戦争ではありません。
それは虐殺であって国際法上の戦争では禁止されています。
原爆投下は国際法違反です。
東京空襲も国際法違反です。
終戦の詔書では......
天皇は敵の国際法違反に屈せざるを得ないことの悔しさを書いています。
ついでに開戦の詔書ですが、
大東亜の西欧から独立を謳っております。
だから「大東亜戦争」と銘打っていました。
それがいつの間にか「アジア太平洋戦争」と名を変えられ、
挙句の果ては「太平洋戦争」という呼び名に変えられました。
ここまで来ると大東亜の独立という目的が消えてしまいます。
こういう国際的な呼び名の変更には何らかの意図が隠されています。
何らかの意図、すなわち陰謀です。
私が気にしている陰謀があります。
昔は「地球温暖化」という言葉で流布されました。
それが「気候変動」に変えられ国際的コンセンサスがとられました。
英語でみて見ましょう。
地球温暖化; Global Warming
気候変動; Climate Change
判りますよね。
Global Warming と言われると、そんなことないだろうと、
科学的学術的に突っ込まれて反論ができず嘘がばれてしまいます。
そうなんです。
最近、世界の300名の科学者が連名で地球温暖化の嘘をあばきました。
(近々、ブログでも書く予定にしています=乞うご期待)。
ところが Climate Change だと、
そんなのどんな理由でもどこにでもある、と反論できないのです。
ここにグローバリスト(ダボス会議)の陰謀が隠されているのです。
ダボス会議の陰謀と言えば、
みなさんおかしいと気づきませんか。
あのクラウス・シュワブがバリ島のG20に来ましたよね。
なんで民間の組織がG20に参加できるのでしょう(??)。
グレートリセット???
コロナで乱れた世界を再構築する、だなんて、
自分で仕掛けておいて、次の解決、だなんて、
全くのマッチポンプだ。
騙されてはいけない。
なのに、、G20のトップがみんなそろって、
コロナパンデミック対策にサインしたそうな。
これって、世界統一的なワクチンパスポートを発行する準備です。
冗談じゃない、これこそ全体主義の陰謀です。
ワクチンパスポートには国連のWHOも推奨しています。
WHOの事務総長はテドロス・アダノムです。
エチオピア出身の筋金入りの共産主義議者です。
グローバリストのダボス会議と馬が合って当然です。
このWHO、最近、変なこと言い出しました。
★ 新しいオミクロンの変異株、XBB系統のものが流行し出しました。
★ 今までのワクチンによる免疫が効かなくなりつつあります。
★ でも、ご安心ください。
★ それに対応する新しいワクチンが既に作られております。
日本でも変なことをいう学者がいます。
★ 新しいワクチンを打ってください。
★ でも過去に副反応が激しかった人は留意してください。
いつまでも続けるのですかね~
なんだかなんだか、いやになりますね~
脱線、脱線、今日は思い切り脱線しました。
表題の「終戦記念日にはねあがる私のホームページ」に戻ります。
私のホームページはインドネシアの残留日本兵に特化したものです。
戦争とか、独立とかで検索すると私のHPにぶつかるのでしょうね~
カウンターが跳ね上がるのです。
もう何年も更新していないのに未だに読んでくださる方がいます。
ありがとうございます。
私のHPのカウンターは閲覧者のIPアドレスで動くようにしています。
なので九千が出てくれば、ほぼ九千人が見てくれたことになります。
一万が出た時に、万歳と言って、お祝いしようと思っています(笑)
独立記念日になると私のHPの閲覧と同時に、
私が書いた過去の大東亜戦争のブログもよく読まれます。
昨日の終戦記念日に読まれた私の過去のブログを掲載します。
私が今読み返しても面白いです。
よくもこれだけ書いてきたものです。
自分で自分を誉めたく思います(笑)。
★ 三人の方が読んでくれた過去のブログ
少なからぬ因縁を感じています。
2022年8月20日記、
「日本人の誇り」のカテゴリの一編、
真の日本人に感動しながらこの記事を書きました。
説明不要、読んでみてください。
★ 二人の方が読んでくれた過去のブログ
アンボン島(日本軍その1;アンボン攻略)
2016年5月6日記、
「マルク諸島」のカテゴリの一編、
実際にアンボンに行って来たので.....
★ 一人の方が読んでくれた過去のブログ
市来龍夫物語(その3)
2013年5月11日記、
「帰らなかった日本兵」のカテゴリの一編、
私はジャワ島で彼の墓を探し出しました。
バリ島における日本兵行動年表
2014年7月1日記、
「帰らなかった日本兵」のカテゴリの一編、
自分の頭の整理にまとめたものです。
今見ても、よくまとまっております(笑)
バリ島残留日本兵の階級
2015年12月31日記、
「帰らなかった日本兵」のカテゴリの一編、
大晦日に何故にこんなものをまとめたのだろう。
当時を思い出せない(笑)。
柳川宗成物語(その19; 最終回)
2017年4月27日記、
「インドネシア独立戦争」のカテゴリの一編、
お世話になった稲川さまのことが思い出されます。
日米/中、冷戦時代(その2C;古寧頭の戦..
2018年4月2日記、
「国際時事ニュース」のカテゴリの一編、
今も金門島は台湾です。
これを書くまでその理由を知りませんでした。
根本博の潔さ、感動しながら書きました。
さて、明日はインドネシアの独立記念日です。
日本の終戦記念日の2日後です。
この2日間のジャカルタの動き大変なものがありました。
ドラマです......私の過去のブログに書いています。
それはそれとして、現在の私も
インドネシア独立記念日には少々影響を受けています。
私が参加しているバンジャールのヨガ教室ですが、.
明日の独立式典が行われる場所を使っているのです。
昨夕はその場所でこんな風に式典の練習が行われていました。
場所が占領されたのです。
ヨガの仲間が集まってしばらく歓談して待ちましたが、
待ちきれず中止になりました.....しようがありません。
]]>
土岐時治、その後の証言
http://yosaku60.exblog.jp/29608755/
2023-06-22T12:03:00+09:00
2023-06-22T16:08:05+09:00
2023-06-22T12:03:19+09:00
yosaku60
帰らなかった日本兵
驚きました。
昨日、最も読まれたのは「土岐時治の証言:一時帰国」でした。
2013年7月.....ですから10年も前に書いたものです。
そんな古い書き込みを120名もの方が読んでくれました。
残留日本兵の土岐時治の郷里は石川県加賀市(大聖寺)です。
現在の私は参政党の党員として石川県支部に属し少々発信しています。
そうしたつながりで過去のものを読んでいただけたように思います。
うれしいことです。
昨日、「土岐時治の証言:一時帰国」を読んで頂いた方に申し上げます。
ブログに書かなかった、その後の土岐時治をここに書き加えます。
お読みください。
土岐時治の証言
1984年1月....
永らくご無沙汰しました。実は小生、1983年12月20日の朝10時ごろ、俄雨に叩かれたことが原因で体の不調を来たし、病床んに臥しました。老年ですからいろいろの病気が併発し苦しみました。しかし幸いにして医師や薬や養生のお陰で1984年1月25日、床払いをしました。今、明るい気持ちでヤヤサン宛にこの令状を書いております。(中略)憎まれていた子供から、時々お父さんと書いた情愛の手紙が届きます。血のつながりが海より深く山より高いとつくづく思います。(中略)インドネシアに住んでいる我々日本人は、分けても南部スマトラの日本人は4名しかいません。みなさん大変に苦労なさっております。信用できるのは自分自身しかありません。すべてが泣き寝入りです。味気ない日を送っております。その寂しい暮らしの中で月報あるいは書籍をヤヤサンに感謝しつつ、読み返し読み返し感涙しています。ヤヤサンに会費(寄付金)を送りたい気持ちはいっぱいですが、現在の生活では不可能。皆様に対して恥ずかしいやら、本当に申し訳ありません。お許し下さい。どうにもならない運命にゆられて一生を送ると思うと,只々子供たちの成長を楽しみに生きていきます。
1984年11月....
去る11月22日、タンジョンカランから夜行列車で明朝5時無事帰宅しました。帰着後間もない午前9時長洋弘氏が拙宅を訪問されました。長さんのお話によれば先祖は加賀百万国の前田家の家老でお父さんも金沢出身とのこと。小生も同郷、不思議な奇遇にお互い懐かしく感じました。
(長洋弘氏と土岐時治さんのこと)
長洋弘さんは、土岐時治さんを取材撮影された結果を、著書「戦争とインドネシア残留日本兵」「草の根出版社」の中の一章、”妻の墓に土下座したい”で、観る者を圧倒する素晴らしい何枚もの写真「1995年、帰らなかった日本兵」で林忠彦賞を受賞しています。その時に長洋弘さんは最後につぎのようなまとめを書いています。
土岐さんは、私の質問に感情を抑えながら、時として堪え切れすに涙を流しながら半生を語ってくれた。私は土岐さんの深い悲しみに圧倒されていた。1997年2月、土岐さんはプラブムリで87歳の生涯を終えた。土岐さんが福祉友の会に出した最後の手紙には「もうこれ以上書けません」とあった。6月、私は大聖寺町の土岐康男さんを訪ねた.康男さんは私の質問に静かに「こう終わったことですから」と言った。
(私からの補足)
私も長さんの”妻の墓に土下座したい”の写真を本の中で見たことがあります。がその本、どこにいったか探しても見つかりません。長さんと私は同じものを求めながら一度もお会いできていません。すれ違ったことがあります。長さんがはジャワ島マランの小野盛の家を訪ねています。小野盛は最後に残った残留日本兵です。手が片方なくなったのは自分の持つ手榴弾の暴発でした。老年になって目も見えなくなっていました。それでも明るく生き日本兵としてインドネシアの行く末を最後まで気にかけていた方です。
私は残留日本兵の日本隊を率いた市来竜夫が戦死した場所に行って市来のお墓を探しまわったことがあります。ジャングルの中の傾斜地の狭い平地にある小さな墓を探せましたが、その時に村人の「このお墓に年に一回、片手のないおじさんが墓参りに来るよ」を聞きつけ「それはたぶん小野盛だ」と気づき、村人の記憶の小野盛の家を一日かけて探し当て訪ねたことがあります。残念ながら小野盛は既にお亡くなりになっており、その息子さんとお話できました(その息子さんとは今も交友があります)。もう少し早ければ小野盛さんや長洋弘さんとお会いできたかと思うと残念です。
石川県加賀市大聖寺町の皆様、
以前のブログに書かなかった土岐時治さんの追加情報です。
大聖寺にお住まいになる方々に拡散していただければ嬉しいです。
]]>
うみゆかば♫を口ずさむ武田勝彦さん
http://yosaku60.exblog.jp/29475448/
2023-01-19T11:00:00+09:00
2023-01-19T11:04:19+09:00
2023-01-19T11:00:09+09:00
yosaku60
帰らなかった日本兵
プラガの深い谷の川にある大岩の下で息絶えたワジャ....
村人はインドネシアの為に戦ってくれたワジャをここに運び埋葬した。
日本人は誰もそのことを知らなかった。
この墓を発見したのは私だ。
発見当時は鬱蒼とした木々に隠れて墓は外から見えなかった。
村の長に頼み木々を伐採しお墓の周辺をきれいにしてもらった。
だから私はワジャの墓には思入れがある。
そんな墓に武田勝彦氏を案内した。
武田さんは、ワジャの墓の前で「うみゆかば」を口ずさんだ。
「うみゆかば」は....
ワジャに聞かせるにふさわしい。
私は思った。
ワジャを思う日本人は長い間、私ひとりだった。
そこに戦友が現れた。
私の戦友かワジャの戦友か...どっちでもよい。
とにかく戦友が来て、
ワジャに「うみゆかば」を歌ってくれた。
ワジャ.....良かったな~
ふと、そんな時代錯誤な感覚に陥った。
ワジャのお墓の周囲はきれいに清掃されていた。
村の人が掃除してくれていたのだ。
ありがたい。
お礼に行った。
写真の一家に「墓護り」を依頼している。
あしかけ10年、ワジャの墓を護ってくれている。
右端がカミさん。
写真を写すときは必ず笑顔になる。
写真写りがうまーい。
それが!!!
私が入ると突然にそっぽを向く!!!
まあ、いいってことよ。
私は度量が大きい(笑笑)。
]]>
高市早苗の靖国神社参拝に想う。
http://yosaku60.exblog.jp/28896690/
2021-10-05T13:09:00+09:00
2021-10-06T14:33:25+09:00
2021-10-05T13:09:33+09:00
yosaku60
帰らなかった日本兵
★ お国の為に命を捧げた人への尊崇の念は当たり前だ。
★ お詣りして当然だ。
★ ただ、それを中国が批判する。
★ 制裁として日本に厳しくなる。
★ 中国と取引のある中小企業で困る人が出てくる。
★ そうした困る人があっても靖国参拝をするのか。
馬鹿か、橋下徹!
私は、どちらかと言えば、橋下徹のファンだった。
過去のブログを見てもらったら解る。
相当に橋下徹に入れ込んだ時期があった。
しかし今回のこの言葉で橋下徹の馬鹿さ加減に幻滅した。
そういうことは聞くもんじゃないのよ、橋本。
答えようがないだろうが。
靖国神社参拝を非難する中国に非があるんだ。
そういう非がある国と商売をするなら覚悟すべきことだ。
中小企業のオヤジなら悪戦苦闘を経験している。
そんな覚悟は当然にしている。
だけど、その「当然」を口に出して聞けるかい。
聞けないだろうが、バカ者!
本来なら高市はこう言いたい。
「困る中小企業が出てくる....」
「そう言うことがあるかも知れないわね~」
「だから、どうだって言うの~」
「別問題じゃないの~」
と応えればいいのだけど、
そんなことテレビの前で言えないだろうが。
言えないことが判っている質問をする橋下徹の子供っぽさ!!
思いやりが下品で、やんちゃ坊主の域を出ない。
首相が靖国神社を参拝する本当の意義を知らない。
そう思ってみると、橋下徹も小泉純一郎と同じだ。
小泉純一郎が靖国神社を参拝した時に、言った。
詳しい言葉は忘れたが、こんな意味のことを言った。
「行きたくないのに行かされた戦争で犠牲になって.....」
この言葉に怒ったのが小野田實郎(おのだひろお)だ。
ルバング島で30年間戦い続けた日本陸軍少尉だ。
靖国神社に眠る御霊に話しかける言葉ではない。
お国を想って死んだ人に話しかける枕言葉ではない。
小野田實郎は言う。
「黙って手を合わせればいいんだ」
小泉純一郎は、そんなことが判らなかった。
もっともらしい一言が多いのだ。
橋本徹も、そうであろう。
二人ともうすっぺらい。
私はここ10年、残留日本兵を勉強してきた。
当初は興味半分の勉強だった。
だが3年ほど過ぎた頃から変化があった。
残留日本兵の心に寄り添うようになってきたのだ。
具体的に書こう。
何故に残留日本兵になったのだろうか.....
調べ始めた当初「現地に恋人ができたとの理由」.....
もあるのではなかろうかとイヤらしく思っていた。
しかし、そんな例がほとんどないのに驚いた。
ジャワ島で戦った市来龍夫がいう。
彼は民間人乍ら残留日本兵を率いる隊長(少佐)だった。
「オンナ関係でこの国に残るものは今すぐ出てゆけ」
「それはそれでいい、止めはしない」
「この国の独立に命を預ける者のみここに残れ」
その市来龍夫が戦死した場所にも行ってみた。
崖下の足の踏み場もないところに小さい墓があった。
小さいことよりも墓があったことに感動したことを思い出す。
話が少しそれてきた。
それたついでに書く。
残留日本兵が何故にこの地に残ったのか。
誰もが知りたい処であろう。
残留日本兵の集まりの「福祉友の会」がまとめた......
「インドネシア独立戦争に参加した帰らなかった日本兵1千名の声」
に書かれている。
私のホームページにも書いているので、そこから引っ張て来る....
このとおりなのだ。
最も多かった目的は、捕虜となるのを嫌い.....
それまで日本が約束していた独立支援のため....
積極的に残留......だった。
ただ、ここで私は言いたい。
他国を独立させたい.....
との日本人の想いの真実度を掘り下げてみたい。
確実な処から踏み込みたい。
天皇陛下の「開戦の詔書」を読むと解る。
天皇陛下は戦争をしたくないことを訴えている。
しかし戦争せざるを得なくなった経緯を告白している。
当時、東南アジアはタイを除いて全て欧米の植民地になっていた。
かくなる上は、欧米の迫害からアジアを護る....
そのための戦争である。
この開戦の詔書は、書かれた通りに理解すべきだ。
それ以上でもなければそれ以下でもない。
書かれたとおりだ。
だが、だが.....
実際のところ、戦いの現地ではそうはいかない。
日本兵は現地人に対し、威張る、怒る、殴る...のもいる。
戦争だから、しようがない、それは解るが、
現地人を上から目線で見る日本兵も多かったのだ。
残念ながら、そうなのだ。
当時を調べると、そうした事実が生生と出てくる。
余りにも生々しいので、私も「どう思って良いやら.....」
と、日本人としてとまどってしまった事を思い出す。
ジャカルタの「モナス」には日本兵の残虐さの展示がある。
デンパサールの「パジュラサンディ」にもそうした展示がある。
インドネシアの歴史教科書にもそうした記述がある。
私も現地調査で昔のバリ人から直接に日本兵の生意気さを聞いている。
日本人として悔しいが受け入れざるを得ない事実だ。
天皇陛下の開戦の詔書どおりの将軍や兵士もいる。
だが、そういう目的を理解しない将軍や兵士もいる。
当然に両方いるのだ。
1945年12月13日.....
私はこの日のことを「バリ島の同時多発テロ」と呼んでいる。
シンガラジャ、ヌガラ、ムグイ、デンパサールでテロが起こった。
もう戦争が終わった。
そんな中、日本兵の残虐さの恨みを晴らすためのテロが起こった。
ほとんどのテロが成功しなかった。
バリ人は悔しさに打ちひしがれた。
バリ島に戦前から住んでいる三浦襄という明治の男がいた。
三浦は、バリ人と日本兵の間に立ってもめごとを処理した。
その際の三浦襄の言い分は、
バリ人のみなさん、我慢してください.....
日本はインドネシアを独立させるためにやって来ました.....
そのうちに平和な島になります......
我慢してください......だった。
三浦を尊敬するバリ人は三浦を信じて我慢した。
だが、日本が戦争に敗けてしまった。
三浦はバリ人に嘘をついたことになる。
三浦はバリ島の各村々を廻り、村長さん達に謝った。
その数、39の村々になる。
そのバリ島行脚が終わったあと、自決した。
嘘をつくことになった日本人をゆるしてください....
私が自決してお詫びいたします.....
との言葉を残して自決した。
その三浦襄のお墓がこれだ。
この三浦襄のお墓が最近汚れてきている。
昔、バリ人が管理している時はきれいに整備されていた。
私は思う。
三浦襄の存在を誇る日本人が現れてから汚れ出した。
三浦襄の存在を誇る.....
誇る......その考え方が、上から目線なのじゃないかい。
三浦襄の気持ちを全然わかっていない。
話を戻せば、これが小泉純一郎、橋下徹に通ずると思うのだ。
私が三浦襄に思うこと、
というかお詣りの仕方だが、
無言で手を合わせ...
「貴方のご意思に沿って考えたく思っています」
「三浦さん同様にバリ人に(ごめんなさい)を言います」
「そして、三浦さん(ありがとう)」....
「私は貴方のお蔭でバリ人と同化してこの地に住めています」
という、お詣りの仕方をしている。
バリ人のために尽くした日本人をお詣りするという気持ちはない。
三浦襄に寄り添ってできるだけ同じ気持ちを持つということだけだ。
残留日本兵に対しても同じだ。
日本がインドネシアを独立させたなんて思いません。
天皇陛下の開戦の詔書はその通りでした。
だけど、現地ではそうでない行為も多かったのです。
そう言う中で、救いが「残留日本兵」なのです。
その残留日本兵の存在を威張ってはいけません。
残留日本兵でバリ人に威張った人は誰もいません。
バリ人と一緒になって身を投げだして戦っただけです。
バリ人でも日本人でもありません。
同じ気持ちで同じ目的で戦っただけです。
私は残留日本兵をライフワークとして勉強している。
その際に残留日本兵に寄り添って考えることにしている。
残留日本兵はバリ人になり切りバリ人の枠を外れることはなかった。
外れるだけでなくバリ人の枠を超えることもなかった。
私もバリ人の枠の中で残留日本兵と共にあります。
もうすぐ、ングラライ大祭(11月20日)があります。
バリの英雄、ングラライのププアン(玉砕)の日です。
マルガラナの地で盛大な催事が行われます。
私は毎年、来賓として出席していましたが、
今年は日本に帰るので出席できません。
少し心配です。
観光客気分の日本人で「日本人が独立を助けてやった」....
といわんばかりに、ングラライ大祭に参加する方がいるのです。
もし残留日本兵がその場に居たらどういうでしょう。
「バカ、おこがましい(恥ずかしい)だろう」
きっと怒って、ぶんなぐられると思うのです。
事実私はそうした輩に怒ってその場から追っ払ったことがあります。
私が怒るのではなく残留日本兵が怒ったつもりで怒りました。
日本人は高潔であってしかるべきです。
高潔な人は上から目線で見ません。
バリ人が行う大事な祭事を自分ごとで汚してはいけません。
日本のみなさん、そしてバリに住む日本人のみなさん、
もし、ングラライ大祭に参加するのであれば、
是非にバリ人と同化して一緒に大会を祝ってください。
日本人はバリ人に、こういうことをしてあげた.....
なんて上から目線で参加しないでください。
ある年のングラライ大祭の話をします。
マルガラナには1300余の英霊祈念塔があります。
その中の12基が日本人です。
ある日のこと.....
その12基の祈念塔に日の丸の鉢巻がかけられていました。
日本人の誰かが日の丸の鉢巻をかけたのです。
残留日本兵は日の丸の鉢巻をして嬉しいでしょうか。
私は、そうは思いません。
残留日本兵を長年勉強して来て彼らの思いが判ります。
彼らは、多分、悲しむでしょう。
どなたが残留日本兵の英霊に鉢巻をかけたのか存じません。
鉢巻をかけたい気持ちは判らないでもありません。
でも日の丸の鉢巻をした日本人の英霊を見てバリ人はどう思うでしょう。
そのバリ人がどう思うかを考える残留日本兵はどう思うでしょうか。
そこまで考えて欲しいのです。
高市早苗の靖国神社参拝の話が、思わぬところから、
私の信条告白となりました......脱線、お許しください。
]]>
ワジャ(残留日本兵)に逢いに行って来ました。
http://yosaku60.exblog.jp/28876035/
2021-09-21T10:05:00+09:00
2021-09-21T10:26:09+09:00
2021-09-21T10:05:43+09:00
yosaku60
帰らなかった日本兵
日本に帰ろうかな......
であればバリでの心残りをなくしとかなくちゃ.......
その一環で、昨日「ワジャ」に逢ってきました。
ワジャは残留日本兵のひとりです。
日本名はわかりません。
プラガの山の中で殺され村人がお墓を作ってくれました。
戦後70年間、日本人の誰もがお詣りしていないお墓でした。
発見時、お墓には誰も近づけないほどの藪に覆われていました。
藪を刈り取り、お墓の廻りを整備してもらいました。
バリでは、お墓の整備はいろいろと制約があります。
簡単にはできないんです。
地元の有力者のマスタさんのご尽力で出来ました。
以来ワジャに逢いに行く度にマスタさんに挨拶しています。
しばらくワジャに逢いに来れません。
そのことをマスタさんにも報告しておかねばなりません。
朝の11時に家を出ました。
ブラキューに12時頃に着くからです。
昼食は、ブラキューの「Sawah Sawah」です。
ワジャに逢いに行く時の定番のコースです。
こんなレストランです。
写真の右に見える池を見て下さい。
ここに大きい川魚がいっぱい泳いでいます。
この魚料理がここの自慢です。
家を出て2時間、プラガの街に入りました。
驚きました。
全ての家の道路際に手洗い容器(青色)があります。
街としてまとまっている感が伺えます。
ワジャのお墓につきました。
私は付近の木の伐採、カミさんが草むしり.....
そして、お詣り....
左は、ワジャと一緒に戦死したバリ人のお墓です。
これがワジャのお墓に彫られています。
DJEPANG と彫られています。
昔の書き方ですが、JAPAN のことです。
わざわざ、こうして表示してくれてることもありがたい....
マスタさんご夫婦は.....
家はプラガ町内にありますが、
日中はご自分の果樹園に居ることが多く今回もそこを訪ねました。
帰り際、いつも自家製の果物をいっぱい貰います。
今回も、これだけ頂きました。
お墓を護って下さった上にここまでしてくれます。
感謝するしかありません。
マルキサ、レモン、蜜柑、パパイヤ、です。
中央の白いのを見て下さい。
鶏の卵ですが、鶏は自由に果樹園の中を飛び歩いています。
鶏を飼っている訳ではありません。
鶏が勝手に果樹園に棲みついているのです。
その卵ですから超自然です。
その卵、昨晩の晩酌時、ありがたく頂きましたが、
久しぶりの長旅で疲れたのでしょう....
少しのお酒で酔っぱらってしまって....
お味の方は覚えていません(笑)。
]]>
ホームページのカウンター8000を超えた。
http://yosaku60.exblog.jp/28682607/
2021-06-20T14:26:00+09:00
2021-06-20T14:29:13+09:00
2021-06-20T14:26:21+09:00
yosaku60
帰らなかった日本兵
私のホームページ「残留日本兵の証言」.....
http://www3.nsknet.or.jp/~yoji-yoko/index.htm
最近は更新していないが、時々読んでくれる人がいる。
このほどカウンターが8000を超えた。 嬉しい!
]]>
残留日本兵の「ひ孫さん」が家に来てくれた。
http://yosaku60.exblog.jp/28267301/
2020-10-18T09:12:00+09:00
2020-10-18T10:08:01+09:00
2020-10-18T09:12:03+09:00
yosaku60
帰らなかった日本兵
残留日本兵と呼ばれている。
バリ島に移住以来、私はバリ島の残留日本兵を調べてきた。
43名のそれぞれの戦死を5年かけて洗い出し「尊崇」という本に書いた。
が、残留日本兵との関わり合いを本の出版で終わりにしたくなかった。
独立戦争で戦死した残留日本兵がバリに残した遺児が2人いる。
高木さんと曽我さんである。
高木さんは海軍の兵曹長であり日本の親類も解っている。
だが、民間人であった曽我さんはどこの誰かと解っていない。
一緒に戦ったバリ人の間に次の資料があるだけだ。
Nama asli pejuang yang bernama I Soga ini, sampai saat sekarang belum diketahui. Menurut penuturan I Nyoman Buleleng, I Soga sangat akrab dengan pemuda pejuang di desa Sibang Kaja, Badung. Saking akrabnya dengan pemuda pejuang di desa itu, sampai akhirnya beliau kawin dengan seorang puteri yang menjadi tambatan hatinya yang berasal dari desa tersebut. Pasangan suami-istri ini dikaruniai seorang putera.
Konon, setelah beberapa bulan berada di Sibang Kaja, terus ikut berjuang bersama pemuda pejuang. Namun sayang, dalam kurungan yang terjadi di Baturiti Tabanan beliau tertangkap oleh serdadu Netherlands Indies Civil Administration (NICA). Setelah tertangkap, badannya diikat dengan tali ladung kemudan diikat pada truk NICA dan selanjutnya diseret, sehingga beliau gugur sebagai kusuma bangsa dalam seretan truk NICA. Sungguh keji luar biasa perbuatan serdadu NICA itu. Mereka sama sekali tidak mengenal perikemanusiaan.
Dernikianlah nasib seorang pejuang berkebangsaan Jepang itu. Beliau teah mengorbankan jiwa dan raga seutuhnya, dalam upaya ikut serta membela dan mempertahankan kemerdekaan RI.
要約すると......、
ニョーマン・ブレレンによれば、彼の日本名は曽我であった。
彼はバドゥンのシバンガジャに住んでいた。
シバンカジャでは、村の若者と一緒に戦闘に参加した。
戦闘には非常に精通していた。
彼は住んでいた家の娘と結婚した。
男の子が産まれた。
彼はタバナンのバトリティーでオランダ軍に捕らえられた。
オランダは見せしめのため、彼をトラックにロープで結び、
引きずり回して殺した。
彼は、まさに身体と魂を犠牲にしてインドネシアの独立のために戦った。
.......
であった。
「男の子が産まれた」....
この記述を読んで私はその「男の子」を探し始めた。
これぞと思う土地を聞き込み聞き込み二年かけて探し得た。
中央の人(スラッジャさん)だ。
左がスラッジャさんの奥さま、右が私。
曽我さんが戦死した時、スラッジャさんは3歳だった。
「父は背が高くほっそりしていた」としか覚えていないという。
現在スラッジャさんは77歳、私は時々お会いしに行っている。
三人いるスラッジャさんのお子さんはみな女の人だ。
........
と、ここまでが、先日までの話....
その先日、私のスマホにSMSが入ってきた。
名前はディアンです。
シバンに住んでいます。
おじいちゃんから貴方のことを聞きました。
日本語を勉強したいです。
教えてください。
との内容だった。
シバンで知っているのはスラッジャさんだけ。
スラッジャさんを「お爺ちゃん」と呼ぶとなると.....
残留日本兵の曽我さんの「ひ孫」さん。
これは嬉しい話だ。
OK, OK, 任せなさい....
土曜日にアリに教えるのでその授業風景を見に来ませんか.....
と、私は直ぐに返信した。
んで、我が家に来てくれたのが昨日、次の写真。
私の横の女の子がディアンさん(高校一年生)。
赤いシャツの女性がディアンさんのお姉さん(大学3年生)。
右がアリさん。
ディアン.....
ちょっと教えてみたが、明るくてなかなか良い娘さんだ。
私とアリの勉強方法は「楽しく勉強する」ことをモットーにしている。
その光景を見て、ディアンも安心してくれたようだ。
高校を卒業する頃には日本語をものにできるようにしたいと思っている。
だって、日本人の血が8分の1入っているんだから.....
]]>
稲川義郎様告別式のお悔やみの言葉
http://yosaku60.exblog.jp/27994326/
2020-03-06T04:32:00+09:00
2020-03-06T16:29:21+09:00
2020-03-06T04:32:29+09:00
yosaku60
帰らなかった日本兵
関係のある方に申し上げます。
本日は、稲川義郎様の告別式の日です。
清水様ご仲介で式場には「バリ島在住一同」で供花を捧げました。
本日のブログは私が稲川様に語りかける形で書きたいと思います。
戦前戦中にはバリ島に沢山の日本人が住んでいました。
戦後、そうした日本人がバリを偲んで立ちあげたのが「バリ日本会」でした。
私の手元に「バリ日本会」の30周年記念特集があります。
発行が1979年ですから設立が30年前というと昭和24年になります。終戦の4年後です。
大変な時期に設立されたのに300余名の方の入会がありました。
みなさま、バリ島に住んだ印象が強かったのでしょうね。
お察しできます。
稲川様は発足当初から「日本バリ会」に参画されました。
「日本バリ会」に呼応してバリ島ではバリ人による「バリ日本会」ができました。
日本人の「日本バリ会」とバリ人の「バリ日本会」の交流が始まりました。
数十年そうした交流が続きました。
この交流も稲川様が中心になってなされたとお聞きします。
ご苦労様でした。
ただ、年を経て「日本バリ会」も「バリ日本会」も会員が少なくなってきました。
ご高齢でお亡くなりになる会員が増えたのです。
先に「バリ日本会」が閉会になりました。
ここ数年は稲川さまおひとりで「日本バリ会」を守って来られました。
足かけ70年に亘り日本人とバリ人の友好をつないで来られたことになります。
稲川さま、本当にありがとうございました。
稲川さまは、このブログをお読みくださっていました。
今日は稲川さまとの思い出をブログに書き綴りたいと思います。
稲川さまが読んでくださることを確信し書き綴ります。
稲川さま、
まずはスギアシさんからのお悔やみの言葉をつづらせてください。
スギアシさん(写真)から、私に次のようなメールが届きました。
Saya sangat sedih mendengar Inagawa san meninggal. Dia pengganti ayah saya yang sudahmeninggal . Pagi jam 8 waktu japan meninggal. Saya sangat sedih sekali. Airmata saya menetes karena sangat kehilangan tokoh ayah yang setia pada teman nyadi Bali. Semoga arwah nya diterima disini Tuhan. Saya doakan Inagawa sanberjumpa teman teman nya di alam sama. Aminインドネシア語が堪能な稲川さまの前で恥ずかしいのですが、
私の下手なインドネシア語で意訳します。
「稲川さんがお亡くなりになったことお聞きしました」「稲川さんは亡くなった私の父に代わる私のお父さまでした」
「私はとても悲しいです」
「稲川さんはバリをとても大切に思ってくださいました」
「そんな稲川さんがお亡くなりになりました」
「それを思うと悲しくて涙が止まりません」
「どうぞ神のお加護がありますように....」
「天国で沢山のお友達とお会いできることを祈っております」
稲川さま、スギアシさんが言われるように、
まずはスギアシさんのお父さまのマデ・ダマさんにお会いするのでしょうね。
マデ・ダマさんは稲川さまの最も親しいバリの友人でした。
マデ・ダマさんの死の間際、耳元で、
「ピンダ隊の大砲の弾を運んだことを思いだし元気だせ」
と叫んだことをお聞きしました。
マデ・ダマさんと稲川さまは国境を越えた真の友人だったことが想像できます。
この写真は去年の11月に撮ったものです。
稲川さまにはまだお見せしていなかった写真です。
後ろにはマデ・ダマさんがおられます。 稲川さま、マデ・ダマさんのご家族の写真を載せます。稲川さまがバリに来られると、ご家族は必ず「マデ・ダマさんの誕生会」を祝いました。
この時はマデ・ダマさんの娘さんのアユさんが大きなケーキを作ってくれました。 マデ・ダマさんの奥さまと共同作業でろうそくの灯を消されました。
後ろのご家族の嬉しい顔を見てあげてください。
心が通った本当に良い瞬間でした。
稲川さま。
稲川さまのお付き合いで私がもらい泣きしたことがあります。
この写真、覚えておられますよね。
アントンさんご家族が稲川さんにお会いした時の写真です。
カリマンタン島に住むアントンさんはバリ島に来られる体力が残っていませんでした。
でも「稲川さんにお礼を言わないと死んでも死にきれない」と奥さんに頼みました。
アントンさんの娘さんも「お父さんの体が心配」とバリまでついてきました。
私がもらい泣きしたのは、この写真の時です。アントンさんが稲川さまの手を握り顔をくしゃくしゃにしました。
眼が真っ赤でしたが嬉しそうでした。
アントンさんの稲川さまへの想いが伝わってきて突然もらい泣きしました。
アントンさんと稲川さまはジャカルタでご近所に住んでいました。
それほど深いお付き合いではありませんでした。
ご近所のお知り合いという程度でした。
アントンさんは手術が必要な重いガンを患いました。
稲川さまはアントンさんを東京に連れて行き手術を受けさせました。
当時の日本の名医の手術を受けたそうでアントンさんの手術は成功しました。
30年ほど前の話だそうです。
稲川さまは、困った人を徹底的に面倒みます。
稲川さまの人を大事にする心の広さを知りました。
この写真から三カ月、アントンさんの奥さまから私に電話がありました。
「アントンが亡くなりました、稲川さんにお知らせください」
感謝を込めた奥さまのお言葉でした。
稲川さま、
日本人でありながらインドネシア独立戦争を戦い死んだ曽我さんのお子さんです。
お父さんが死んだ時は、3歳だったので面影が薄くしかありません。
その面影を確かにしたのが稲川さんです。
稲川さまは、バリに来られると必ず曽我さんにお会いになられました。
曽我さんのご家族も稲川さまを戦死したお父様のように接していました。
特に曽我さんのお孫さんのユリアさん(右)は稲川さまとお会いすることをいつも楽しみにしていました。
稲川さまからは戦時中のバリ島のことをいろいろ教えて頂きました。
その中で、特に印象に残ったことが二つあります。
ひとつはバリ島の独立戦争を戦ったパ・ジョコの存在でした。
有名なングラライ将軍は8カ月戦ってマルガラナで戦死しました。
その後4年間の独立戦争を戦ったバリ島のリーダーがパ・ジョコでした。
左はパ・ジョコの息子さんのレオさんです。
パ・ジョコの記念館の前で撮ったものです。
稲川さんは、戦後、パ・ジョコとも親しく付き合っておられました。
パ・ジョコの活躍の話は稲川さんから直にお聞きできました。
私にとっては目から鱗の話ばかりでした。
もうひとつは、柳川宗成と稲川さまのご交流です。
同じ大学のご出身ということでジャカルタでご交流がありました。
昭和17年3月1日、日本軍がジャワ島に上陸しました。
蘭印軍6万5千の総司令官ポールテン中将はバンドンに居ました。
柳川宗成は通訳二人を連れ徒歩で八日かけてバンドンに着きました。
その夜、ポールテンの寝室に忍び入り首にナイフを突きつけて言う。
「もう日本軍が取り囲んでいる。降参しろ!」
その日、蘭印軍は降伏しました。
この話、私は本で読んで知っていました。
でも、稲川さまは柳川宗成から直接に聞いたことを私に教えてくださいました。
私が残留日本兵の本「尊崇」を書く気になったのは稲川さまのこのお話がきっかけでした。
11月20日はバリ島の英雄、ングラライ将軍の命日です。
マルガラナでは、ングラライを偲ぶ「マルガラナ大祭」の催しがあります。
稲川さまは「バリ日本会」代表として必ずご出席されました。
来客として最前列に座り、バリの兵士からは歓迎されました。
そして、独立戦争を戦って戦死した残留日本兵をお詣りしました。 マルガラナだけではなく、荒木・松井の慰霊碑にもお詣りしました。
これがプナルンガン村の慰霊碑です。
昨年の11月のもので稲川さんにまだお見せしていなかった写真です。
これがブルングンガン村の慰霊碑です。
この写真も昨年の11月のものです。
ところで稲川さま...
稲川さまの前の女性は稲川さまの古くからのお知りあいでした。
稲川さまがブルングンガン村に入ると必ず来てくれました。
それは知っておりますが、お名前を聞いておりませんでした。
今年の11月にはお会いしてきます。
稲川さまが一緒でないことにがっかりなされると思います。
荒木・松井と言えば、この方を思いだします。
荒木・松井と同じ家に住んでいたスサンディーさんです。
稲川さまとは旧知の仲でした。
残留日本兵の平良定三さんの家でお会いした時のものです。
稲川さま、
この写真を覚えておられますか。
残留日本兵として戦死しプラガの町にお墓がある「ワジャ」をお詣りした時のものです。
お墓をお守りしてくれるバンジャール会長の家の前で撮ったものです。
「ワジャ」の日本名がわかりません。
稲川様もお調べしてくださいましたが解りませんでした。
これも残留日本兵・工藤栄のお墓です。
お墓に巻かれた布が汚れていました。
稲川さまは「新しい布を買ってください」
と墓守のバリ人に気前よくお金を上げました。
稲川さま、
この場所を覚えておられますか。
ングラライが旗揚げをしたムンドックマランです。
稲川さまがご存知の堀内秀夫の銅像があります。
戦後、稲川さまが堀内秀夫を「日本バリ会」にお誘いしたと聞いております。
話、変わります。稲川さまは戦後間もなくムグイの日本人集結所に住んでおられました。
その場所が思いだせないと私に探してくれと頼まれました。
ようやく探せて、その場所にご一緒したのがこの写真です。
当時と全く景色が違っていることに戸惑いになられました。
バリに住む日本人の知人の話に移ります。バリに住む日本人なら誰もが知る著名な方がおられます。
イスカンダール万亀子さんです。 ある日、稲川さんのお泊りになっているホテルに入った時、
イスカンダール万亀子さんから、長い自筆の手紙が届いてました。
「お会いできませんでしたが足の痛みに効くお薬を届けます....」
とのことが書かれていました。
古くからの友人だそうですね。
イスカンダール万亀子さんもお悔やみになってることと思います。
ラマツアーという旅行会社を経営するイスカンダール万亀子さん。
その会社に入社したのが、右の村澤崇広さん。
「村澤君、村澤君」と、どこに行くにも村澤さんにお声がけをしていました。お孫さんのように可愛がっている様子がうかがえました。
稲川さま、清水様から伝言がありました。
バリの知人とのお付き合いを私と村澤さんに継いで欲しい....
と清水様に伝えていたことを知りました。
清水様も稲川さまを継いで毎年「マルガラナ大祭」に参加すると言っておられます。
大丈夫です。稲川さま...私たちは稲川さまのご意志を継いで参ります。
天国で沢山の友人とお会いできるようスギアシさんと一緒に祈っております。
]]>
残留日本兵を調べに来た、嬉しい訪問客
http://yosaku60.exblog.jp/27971188/
2020-02-15T09:50:00+09:00
2020-02-15T09:57:57+09:00
2020-02-15T09:50:54+09:00
yosaku60
帰らなかった日本兵
右端が日本の大学、その隣がバリの大学.....
私の左隣のお二人は日本の大学生....
さらに、その左のお二人はバリの大学生....
こんなに沢山の人が私を訪ねてきてくれたのです。
目的はバリ島の残留日本兵の取材...
こんなことを勉強したがるとは、なんと嬉しいことか!
しかも、こんなにお若い方々が。
日本の大学の教授さんが、
知蘭の特攻隊のこと...
敗戦で日本兵がインドネシア人に武器を渡したくとも、
渡せずに殺されたこと....
映画「ムルデカ」のこと....
残留日本兵の英雄墓地での扱い...
など、専門的なことを次々と聞いて来る。
残留日本兵に興味を持ってくれることが嬉しい。
ありがとう、訪ねてきてくれて嬉しかったです。
私が書いたバリ島の残留日本兵の本...
事実を淡々と書いたもので面白くありませんが....
と説明すると、
中央の三つ編みの学生さんが
「それがいいんです」
「事実を知りたいのです」
「全部読ませていただきます」....
と言うじゃありませんか。
ご立派.....ありがとう。
]]>
稲川さん、曽我さんと会う
http://yosaku60.exblog.jp/27876395/
2019-11-25T10:25:00+09:00
2019-11-25T10:25:28+09:00
2019-11-25T10:25:28+09:00
yosaku60
帰らなかった日本兵
海軍民政部で物品購入担当をしていた。
同じ経理畑に曽我さんが住んでいた。
曽我さんはインドネシア独立戦争を一兵士として戦った。
でオランダ軍に殺された。
稲川さんと曽我さんも同じ官舎に住んでいた。
職場も同じなら官舎も同じだった。
曽我さんはバリ人と結婚しお子さんがいた。
まだヨチヨチ歩きだったそのお子さんを稲川さんは覚えている。
そのお子さんと稲川さん....
当時から73年経って二人は再会した(写真)。
今まで、曽我さんの家には何人もの日本人をお連れした。
だが、曽我さんがもっとも喜んでくれるのは稲川さんと会う時だ。
父親が殺された時は、2~3歳。うっすらと覚えているという。
そんな父親の面影を稲川さんに見るからだろう。
]]>
工藤栄のお墓が移動していました。
http://yosaku60.exblog.jp/27869100/
2019-11-19T09:16:00+09:00
2019-11-19T09:16:33+09:00
2019-11-19T09:16:33+09:00
yosaku60
帰らなかった日本兵
三年前になるだろうか、
稲川さんがお金を出してくれてお墓の飾りの一新を村民にお願いした。
それがどのようになっているかを見たいという。
私もそれ以来お詣りしていない。
工藤栄のお墓はタンジュンブノアの先端近くの東海岸にある。
で、現地に着くと....びっくり!
工藤栄のお墓の廻りにあったお土産店なんぞ一軒もない。
代わりに大きなビルが二つも建っていた。
マリンスポーツのためのビルである。
勿論に工藤栄のお墓もない。
付近にいた者に、
「元日本兵のお墓がどこに移されたのか」と聞くと、
一人が「あそこ」というので「あそこ」に行くと、
単なる「サンガ(家寺)」だった。
他のひとりが「ビルの屋上」というので、ビルをかけ昇ると、
やはり「サンガ(家寺)」だった。
いくら私でも「サンガ」と「お墓」の違いは分かる。
バリ人は信心深い。
お墓を取り壊すなんてことはない。
工藤栄のお墓は一体どこに移されたのだろうか。
工藤栄(残留日本兵)のお墓....
過去の経緯を写真で追いながら書きたい。
1、埋葬
第三警備隊の白石勉二等兵曹と工藤栄兵曹長が
独立戦争に関連してオランダ軍に殺された。
埋葬されたのは戦後1年の1946年である。
埋葬したのは上官の月森省三大尉であった。
月森省三は、その地に二人を埋葬し、
二人の名を書いた卒塔婆を残した。
2、お墓の建立
それから35年の1982年...
埋葬された地点付近に不審な事故が続いた。
日本兵二人の祟りがあると噂された。
それを慰霊しようとする動きが起こった。
地元の村長さん(ニョーマン・プゲグ)が中心になって、
月森が埋葬した同じ位置に慰霊碑を建てた。
左の写真の右から二番目が月森省三(バリに来た)、
左端が村長のニューマン・プゲグ。
右の写真はニョーマンプゲグの親族たち(現在)。
3、慰霊碑の発見
それから約30年、お墓のことは日本人の間で忘れられていた。
2014年、工藤栄さんの御親族から私に、
「工藤栄のお墓を探して欲しい」との依頼があった。
私は、タンジュンブノアの地で、お墓を見つけた。
左が、当初、村人の手で作られた慰霊碑。
右が、私がそれを見つけた時(傍に立つのはカミさん)。
写真を見比べて欲しい。
同じ慰霊碑なのに、右の方が低くなっている。
慰霊碑の下部の台座が石畳の下になっている。
バリ人はお墓の高さにこだわる。
で、慰霊碑を建て直すことにした。
4、慰霊碑の建て直し
慰霊碑建て直しの費用は工藤栄さんのご親族が負担された。
慰霊碑取り壊しの際は、神様の許しをもらわねばならない。
その取り壊しの儀に工藤栄さんのご親族がご出席された(写真)。
新しい慰霊碑が建てられた。
その入魂式にはバリ在住の多くの日本人にご参列をいただいた。
右の写真の奥の方に高く建っているのが新しい慰霊碑だ。
.......
こんな経緯の慰霊碑だ。
それが消えたのだ。
付近にいる誰に聞いても行方を知らない。
まあ、バリ人にはよくあることだ。
で、昔のことを知っている村長さんの家に行ってみた。
ニョーマンプゲグの多分、お孫さんだと思うが、
バパ・マデという人物(写真)に会えた。
ニューマン・プゲグの写真を見せると、
「私は間違いなく彼の子孫だ」という。
「日本兵の墓はどこに行ったのか」聞いた。
彼は、知っていた。
そして案内してくれた。
元の場所から南に500mほど離れた浜辺だった。
場所の名は、Pura Prajapati だという。
まあ、日本語で言えば、「火葬場」になるだろうか。
広い土地の中央に、こんなのが建っていた。
工藤栄と白石勉の慰霊碑だという。
以前の慰霊碑には、
その頂上に日本兵とわかる水兵の帽子を被った顔があった。
よくよく見たが、それがない。
5年前に新しくした卒塔婆もない。
同行したバパ・マデにそのことを確認すると、
卒塔婆はあった、だがなくなった。
水兵の帽子を被った顔の像は、この地の下に埋めたという。
そうなのだろう...
そうなのだろうが、
こうしたバリ人の話は完全に信用できない。
というのは、つぎのようなことがあった。
バパ・マデは、この地で沢山の日本人が殺されたという。
沢山の日本人が殺されて、私が知らないはずがない。
なんど聞きなおしても、そうだという。
そして、その場所は「あそこ」という。
彼の指さす「あそこ」は広い場所だった。
歩いて近寄ってみた。
中央に何かある。
更に近寄ると、こんなのがあった。
福神とある。
お墓の意味は解らないでもない。
でも、日本のお墓であれば色彩で飾らない。 この墓の横に、こんなのがあった。
書いてある文字の意味は解らないが、1970年とある。
独立戦争ではない。
1970年といえば、1967年がスハルトのクーデターの年だ。
スハルトは政権をとってすぐスカルノが大事にした「共産党」を弾圧した。
200万人にも及ぶ共産党員を殺したといわれる。
当時、中国共産党系列のインドネシア共産党の華僑も弾圧にあった。
数十万人の華僑が殺されたという。
もしかしたら、そうした華僑のお墓ではなかろうか。
年代がまあまあ合致する。
ただ、家に帰って調べると....
お墓に「福神」と書くのは、華僑よりも日本に多い。
どうしたものだろうか。
いずれにしても、
バパ・マデの「日本人がここで殺された」というのは信じがたい。
彼のいうことが信じがたいといえば、不安になる。
本当にこれが「工藤栄のお墓」なのだろうか。
バリで、こうしたお墓を確認する際には、本当に苦労する。
もう一回、この地に来て、ゆっくり調査したい。
それまで、工藤栄さんのご親族には知らさないことにする。
]]>
残留日本兵の足跡に案内する。
http://yosaku60.exblog.jp/27743721/
2019-08-26T11:10:00+09:00
2019-08-26T11:18:00+09:00
2019-08-26T11:10:07+09:00
yosaku60
帰らなかった日本兵
豪華なお花.....!!
ワジャもびっくりしているだろう。
お若い方のお詣りは嬉しいものです。
帰り道のプナルンガン村...
松井・荒木の祈念塔に案内した。
ブルンブンガン祈念塔の前の道路が整備され....
銘鈑も新しくなっていた。
小寺と言う名の日本兵、未だ探せないでいる....
新しい布が巻かれていた。
松井・荒木は今も村人に大事にされている。
]]>
高木米治兵曹長さんの遺児に会って来た。
http://yosaku60.exblog.jp/27586824/
2019-05-06T10:10:00+09:00
2019-05-06T10:24:56+09:00
2019-05-06T10:10:06+09:00
yosaku60
帰らなかった日本兵
いわゆる残留日本兵。
機関銃操作に秀でていてムンドックマラン上空を飛ぶ...
オランダの飛行機を地上から狙って撃ち落とした。
最後はマルガラナでングラライ将軍と一緒に玉砕した。
そんな高木兵曹長の遺児のアリアニさんにお会いしてきた。
カミさんはアリアにさんより20日ほど早く生まれた。
同級生と言うことで会うと話が合うらしい。
彼は、アリアニさんの息子さん。
高木兵曹長のお孫さんだ。
左は、奥さま。
大きな家に10人ほど一緒に暮らしている。
アリアニさんからスタートしたご家族...
ほとんどが日本人の血が流れている。
高木兵曹長のバリ名は、マデ・プトラ....
日本人として、バリ人に溶け込み、命を全うされた。
毎回、背筋が伸びる想いで、ご一家を訪ねる。
]]>
残留日本兵・平良さん宅を訪ねる
http://yosaku60.exblog.jp/27444246/
2019-02-15T12:49:00+09:00
2019-02-16T07:13:19+09:00
2019-02-15T12:49:31+09:00
yosaku60
帰らなかった日本兵
曽我さん、高木さんはインドネシアの独立戦争で戦死した。
曽我さんの場合、遺児として男の子が残った。
高木さんの場合、遺児として女の子が残った。
そのお二人には、時々お会いしに行く。
3軒のうちの残るもう一軒は平良定三さんの家である。
平良さんは戦後も生き残ったので8人のお子さんがいる。
その内の4名が今もご健在だ。
現在、平良家を継いでいるのは4番目のクトッさんだ。
先日、そのクトッさんをお訪ねした。
お元気だった(写真)。
応接間には新しい絵が飾ってあった。
クトッさんの息子さん(平良さんのお孫さん)が
描いた平良さんご夫婦だ。
よく似ている、ほんとうに良く似ている。
今はお二人ともお亡くなりになったが、
私は奥さまとは何度もお会いしている。
平良さんのことを奥さまの口から直接にお聞きしている。
平良さんご本人とはお会いできなかったが、
残留日本兵の調査を進めてゆくと、
その行きつく先で、いつも平良さんのご存在があった。
お孫さんが描かれた平良さんの肖像画を見ながら...
私があちこちで「出会った平良さん」を思いだしたい。
1、バリ島の本に記述の日本兵はほとんど平良さんが語ったものだ。
バリ島で独立戦争を戦って戦死した兵士の略歴を
書いた本(インドネシア語)がある。
私もその本を読みながら、残留日本兵を探した。
その略歴記述のところで「ニョーマンブレレン曰く...」
との注釈が入っていた。
ニョーマンブレレンとは、平良定三さんのバリ名である。
2、工藤栄さんの慰霊碑お護りに平良さんが関わっていた。
工藤栄さんのご家族から私に
「工藤の慰霊碑があるはずなので見つけて欲しい」
とのメールがあった。
それを縁に工藤栄のご家族と懇意にさせていただいた。
そんな時いただいた資料に、
慰霊碑には上官の月森省三さんが関係していることが書かれてあった。
その月森さんがバリ島に来て、
工藤栄の慰霊碑を見つけた時に同行したのが平良さんだった。
平良さんは地元のバンジャールと交渉し、
慰霊碑の安寧に尽力した。
3、曽我さんの口から出た最初の言葉は「ニョーマンブレレン」だった。
曽我と言う日本兵がいてオランダ兵に殺されたとの記述があり、
そこには曽我さんには遺児がいる...
と書かれてあった。
私は2年かけて曽我さんの遺児探しをした。
そしてついに見つけた時、本当に日本兵の遺児かどうか疑いを持った。
が、探せた曽我さんが、
「ニョーマンブレレンが時々家を訪ねてくれた」と言う。
平良定三さんが日本兵の遺児を見守るためにこの家に来ていたのだ。
間違いなく、目の前にいるのが曽我さんのご遺児だ。
確認できてうれしかった。
4、マルガラナに行くたびに平良さんに出会えた。
独立戦争中に戦死した兵士は全員、
マルガラナに祈祷塔(チャンディ)が造られている。
日本兵の祈祷塔は11基ある。
このうち日本名が判っているものには漢字で氏名が表記してある。
この日本名表記は、
平良さんがバリ州に許可をもらって書きこんだものだ。
私は毎年マルガラナに行き祈祷塔をお詣りするが
日本名を見るたびに平良さんのご苦労を思う。
5、ブンアリの隠れ里「プガヤマン」を知ったのは平良さんの記述による。
「ブンアリ」という名の勇敢な日本兵の潜伏したところを
平良さんは「ウガヤマ」と記述していた。
そこには日本の義勇兵が何人も潜んでいた。
是非に「ウガヤマ」の地を探したいと私はブレレン中を探し回った。
ある日「プガヤマン」という地を見つけた。
「ウガヤマ」と似ている。
その地に行ってみた。
日本兵が潜んだ三つの洞窟を見つけた。
ブンアリの潜伏先を見つけて日本兵の足跡が埋まった。
「尊崇」を書き上げ自費出版する自信を得た。
これも平良さんのお蔭である。
なお、ブンアリはワナサリで戦死した。
ワナサリの戦死の地にブンアリの慰霊碑(写真)が建っている。
6、日本兵の心意気を知った。
平良さんは2004年にお亡くなりになった。
インドネシアの陸軍儀杖隊のラッパに送られ8名の兵士が棺を運んだ。
2004年と言えば、15年前である。
ついこの間である。
戦後50年以上をかけて過去を語ってくれた。
直接にお会いできなかったが、
間接的に戦中・戦後・戦争というものを多く学んだ。
戦後の日本からの観光客がうすっぺらすぎる、
と、強く嘆いておられたのも知った。
平良さんと会ったことのある坂野徳隆氏のご著書は
「サムライ、バリに殉ず」だ。
それを読むと、名のとおり「サムライ」であることがわかる。
死ぬこと、負けることなど、もともと考えていない。
サムライ....
私は、平良さんのご家族にお会いすると、
平良さんの戦い方を思いだし....
それがいつか、ルバング島の小野田少尉の戦い方に繋がる。
どちらもゲリラ戦だ。
激しさでは同じようなものだった。
小野田少尉がルバング島を出て来た時、私は28歳だった。
人生で最も多感な時だった。
私は小野田少尉のことを根ほりはおり追いかけた。
多くのことが脳裏に残っている。
その脳裏に残ることを何度も再確認したくなる。
昨日もそうであった。
昨日一日、私は小野田少尉に浸った。
これまで何度も読んだものをもう一度読んだ。
あらたな感動があった。
感動と同時に怒りもあった。
この怒りは新しいものだった。
当時、小野田が悩んだことは新聞で知っていた。
小野田は日本に嫌気がさしブラジルに逃げた。
30年も戦った兵士と言うことで、
当時世界中が小野田の勇気と日本魂を賞賛した。
私は、そんな世界の評判を嬉しく読んだ。
日本魂イコール小野田....を誇りに思っていた。
そんな世界に誇れる男を日本が追い落としたのだ。
誰が、何が、そうさせたのか。
その理由を当時の私は知らなかった。
知りたかったが新聞でも確か詳しく書かれなかった。
が、昨夜、その理由を語る小野田の映像に出会えた。
解った。小野田を苦しめたのは....
現在の日本のリベラルと言われる輩からの攻撃だった。
今もまだ続いているということだ。
それに後日だが、小野田は、
パフォーマンスに終始する小泉元総理をも怒っている。
明日は、小野田少尉のこれらふたつの怒りを書きたい。
]]>
自費出版「尊崇」の販売
http://yosaku60.exblog.jp/26105495/
2017-11-08T12:53:00+09:00
2017-11-08T13:37:22+09:00
2017-11-08T12:53:43+09:00
yosaku60
帰らなかった日本兵
その内、200冊は売れ、残り100冊になりました。
その100冊ですが、バリ島に30冊、日本に70冊の在庫があります。
読んでいただいてなんぼのモノ...ですから、
早く処分したく思っています。
で、販売を次のように致します。
(バリ島での販売)
30冊全てをレストラン「ムティアラ」に販売委託します。
一冊=150000ルピアです。
お買いくださる方は、セセタン通りの「ムティアラ」でお求めください。
(日本での販売)
来年の2月上旬まで、私は、石川県の自宅に居ります。
日本でお求めの方は、私のメールアドレス
yoji-yoko@po3.nsknet.or.jp
に、送り先と冊数を連絡下さい。
郵送致します。
ただ、郵便局の「代引き」で送りますので、
本代1500円+送り代650円+郵便局手数料350円....
の計約2500円となることご承知おき下さい。
青木茜様に申し上げます。
青木さま、
ということで、日本での送り先を教えてください。
日本に戻ってから、郵送いたします。
.....
写真は、一昨日、バリ島の我が家に来られ、
6冊(それも一万円で)お買い頂いた、小山政史先生(ドクター)。
]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/