あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



カテゴリ:帰らなかった日本兵( 231 )


自費出版「尊崇」の販売

自費出版「尊崇」は、300冊作りました。
その内、200冊は売れ、残り100冊になりました。
その100冊ですが、バリ島に30冊、日本に70冊の在庫があります。

読んでいただいてなんぼのモノ...ですから、
早く処分したく思っています。

で、販売を次のように致します。

(バリ島での販売)


30冊全てをレストラン「ムティアラ」に販売委託します。
一冊=150000ルピアです。
お買いくださる方は、セセタン通りの「ムティアラ」でお求めください。

(日本での販売)

来年の2月上旬まで、私は、石川県の自宅に居ります。
日本でお求めの方は、私のメールアドレス 
yoji-yoko@po3.nsknet.or.jp
に、送り先と冊数を連絡下さい。
郵送致します。
ただ、郵便局の「代引き」で送りますので、
本代1500円+送り代650円+郵便局手数料350円....
の計約2500円となることご承知おき下さい。

青木茜様に申し上げます。

青木さま、
ということで、日本での送り先を教えてください。
日本に戻ってから、郵送いたします。

.....

写真は、一昨日、バリ島の我が家に来られ、
6冊(それも一万円で)お買い頂いた、小山政史先生(ドクター)。
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by yosaku60 | 2017-11-08 12:53 | 帰らなかった日本兵 | Comments(2)

残留日本兵の卒論で賞を受けた斎藤紗季さん。

斎藤紗季さんが御両親と家に来てくれた。

2015年2月11日~2月15日の私のブログ.....
「紗季さんの一週間」を見て欲しい。

当時、中央大学の大学3年生だった、斎藤紗季さんは、
卒業論文に「バリの残留日本兵」を書くことにした。
で、私の処に取材に来て、
私がバリを案内した記述が「紗季さんの一週間」であった。

次の年、紗季さんは卒業論文を書きあげ提出した。
それが優秀と認められ賞を受けた。
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卒業論文は、私が指導した訳でない。
私は、逢うべき人を紹介し、見るべきところを案内したに過ぎない。
書いたのは、全て斎藤紗季さんだ。
が、そんな紗季さんが表彰を受けて、わがことのように嬉しかった。

それから、一年.....

それが、それが.....本日、
紗季さんが、卒業論文が掲載された「報告書」を持って、
ご両親と一緒に私に挨拶に来てくれた。
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左から、紗季さん、お母さん、お父さん、エヴィ.....
紗季さんは、見てのとおりお母さん似の美人であるが、
それに慢心することなく心根が優しい。

さて、

お礼を言われると舞い上がってしまう傾向がある、私...
先ほど来、ふんわふわと舞い上がっている。

by yosaku60 | 2017-09-19 16:58 | 帰らなかった日本兵 | Comments(2)

出版記念パーティー

出版記念パーティを主催して頂いた、佳子さん邸....
の一階ロビー。
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25メートルのプールは泳ぎ甲斐がありそう。
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2階に上がり....
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外を見ると、ちょうど「凧揚げ大会」の真っ最中。
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で、始まった「お食事」....
夫のフイリップはフランス人。
で、佳子さんもフランス料理がお得意。
エヴィ達女性陣は、さすが詳しい。
横文字をいっぱい並べた料理の数々をどれも美味しいと感嘆する。
私は、どれが何でどれがそれか全くわからない。
手前の「ちまき」は、佳子さんちの使用人シェフ。
それ以外は、全て佳子さんご自身の手作り。
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をテラスでいただき....
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んで、次に始まったのが、新聞社の取材。
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続いて「説明会」というのかな....
私がもっとも苦手とする「おはなし」
が、後ろの方に、バリ人のグループが話を聞いてくれていた。
話は、ところどころ、エヴィが通訳してくれた。
実は、私が「尊崇」をもっとも読んで欲しいと思っているのは、バリ人。
話しながら、時々、バリの方々が頷いてくれるのが嬉しかった。
そして、終わったら....
バリ人の若い男の人が挨拶に来て、
「バリ人への語りかけ、心に届きました」
「感激しました、ありがとう」
と言ってくれたのです。
私は、話し下手ですが、このひとことで救われました。
ありがとう。
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佳子さん!!
素人の私なんぞが書いた本「尊崇」のため、
かくも盛大な「出版パーティ」を開いてくださってありがとうございます。
身に余る光栄なひとときでした。
写真は佳子さんとフランス名誉領事。
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by yosaku60 | 2017-08-21 10:56 | 帰らなかった日本兵 | Comments(2)

出版記念パーティーでの挨拶

本日の出版記念パーティーでの挨拶...
佳子さんから、私の過去の経験、
特にベトナム戦争中のサイゴン(現在のホーチミン市)の話でも、
とのリクエストがあった。
が、ベトナム人に化けて市内に潜入の話なんて、
無謀すぎて、面白くもなんともない。
それに、昔すぎる。

済んだ過去よりも、これからの話のほうが良い。
で、昨夜、ゆっくり考えて、
本「尊崇」の今後の活用について話すことに決めた。

1、バリ人に対しては、

  バリ人は、歴史を語りたがらない。
  史実を残すのに、村と村との連携がない。
  そうした連携を作る為の資料に使ってもらえないかな~
  具体的には、バリ島のトゥグパラワンに特化した本(パンフレット)の出版。
  エヴィ、翻訳頼むよ!

2、日本人に対して、

  独立戦争に日本人が加わった足跡を
  見て歩くだけでも、3日~5日はかかる。
  ビーチや段々畑だけでなく、新しいバリ島の観光として、
  日本兵の足跡探検ツアーなどを企画する旅行会社が現れないかな~

を話す予定にしている。
んでも、オレ、話し下手だしな~

by yosaku60 | 2017-08-20 11:43 | 帰らなかった日本兵 | Comments(5)

急遽、明日、出版記念パーティーをば....

自費出版した「尊崇」....

私の友人の佳子さんが、
「出版記念パーティーをやりましょう」
と、急遽、準備してくれました。

ありがたい話です。

で、「尊崇」をお買い上げいただく予定の方は、
是非にご参加ください。
15万ルピアのところ、
当日会場では10万ルピアにさせていただきますので...

主催者の佳子さんからは、
「何人来ても結構よ」と、了解をもらっていますので、
初めてお会いする方も遠慮なさらずに、ご参加ください。

会場は、佳子さんの家...
サヌールのムルタサリビーチの南端の大きな家です。
(マングローブの北の端の通り沿いの一軒家です)
(大きな門があって、道路からは二階建ての白い家が見えます)
開催時間は、明日(日曜日)の午後一時からです。
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by yosaku60 | 2017-08-19 14:31 | 帰らなかった日本兵 | Comments(3)

バリ島で自費出版(その6;日本への送料)

自費出版の本「尊崇」300冊の配布先...
バリで150冊、日本で、150冊と漠然と考えていた。
が、それは無理だとわかった。
理由は、日本への送り代が高すぎるのである。

バリから日本に物を送る場合、
いろいろあるが、郵便局が安くて安全らしい。

で、本を送りに郵便局(本局;写真)に行ってみた。
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まずは、本を書くにあたって、
もっともお世話になった方に一冊、送るべく申し出た。
で、その一冊の料金(航空便)だが、300000ルピア(2500円)だった。
おお、高い! でもまあ ....

で、次に船便で大量に送る場合を聞いてみた。
と、船便の重量限度は30キロだという。
ということは、50冊しか送れない。
 いくつも梱包すれば、いけるのだろうけど...
そして、その料金だが、
1300000ルピア(11300円)という。

料金はともかく、
最大3ヶ月かかるいう、その輸送期間だ。
今から送っても、今度私が日本に帰っている間に受け取れないかも知れない。

どうも、ある量を手荷物として、持っていかねばならないようだ。



まあ、こんなことはどうでもよい。
今日は、インドネシアの独立記念日。
現在の私、少々思い入れのある日だ。
朝風呂を浴びて、すでに体を清めている。
スダ、シアップーシアップ だ。

by yosaku60 | 2017-08-17 08:09 | 帰らなかった日本兵 | Comments(2)

バリ島で自費出版(その5;あとがき)

自費出版「尊崇」のもうひとつの売り(笑)は、

ところどころに手書きの地図を載せていることです。

バリ島の地図を手元におき、本書を読むと、

それが何処の話かということがすぐに解るようになっています。

本書を読み終わるころは、バリ島の隅々がわかるように....

であったらいいな(笑)と思っております。

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んで、あとがき....


私はプロの物書きではない。

「まえがき」「あとがき」の本当の意味を知らない。

で、勝手に決めつけている。

「まえがき」は、書き始めるにあたっての「心づもり」であろう。

そういうつもりで「まえがき」を書き、続いて本文を書き始めた。

で、「あとがき」であるが、

書き終わった後の「心の締めくくり」であろうと思っている。

そういうつもりで「あとがき」を書きたい。

私は書き始める前から、

何に重きをおいて、何を書こうと決めていた訳ではない。

が、書き終わって、何を書いて来たかは、はっきりしている。

書き始める前の漠然とした気持ちではなく、

書き終わったのだから、ファクト(事実)として、

数量的に計算、分析できるのだから、当然である。

私は、何を書いてきたか。

結果として、次の三つを書いて来た。

一、バリ人・バリ兵

一、日本人・日本兵

一、これら二つのコラボレーション

あくまでも私流と断って上で、

これら三つをあらためて、あからさまにしたい。

まずは、簡単なものから、書く。

三番目の「二つのコラボレーション」である。

この結論は、三八八頁に既に述べてきた。

曰く、

ングラライは思った。


日本兵との思い出は、過去は「憎しみ」だった。

が、今は「感謝」に変わっている。


当時のングラライの心を忖度すると、これ以外の言葉が見つからない。

ただ、注釈が入る。

広く日本人にではなく、一緒に戦ってくれた日本兵に、

対してのングラライの想いである。

が、そうであっても構わない。

残留日本兵のおかげで、

ングラライが日本人の違う一面を知ることになった。

私は、その恩恵を受けて、

現在バリ島でバリ人に護られ暮らしている。

私が残留日本兵を尊崇して当然だ。


二つ目の「日本人・日本兵」に移りたい。

これについては、言いたいことがいっぱいある。

戦後教育、マスコミに対してだ。

事実を公表せず、隠していることが多すぎる。

大東亜戦争を終わる際の「玉音放送」だが、余りにも一方的過ぎる。

世間に流されるのは、

いつも「忍び難きを忍び、堪え難きを堪え」だけである。

そこは終わりの方のほんの一部だ。

その前段に大事なところがいっぱいあるのに、全く語られない。

天皇陛下は、玉音放送の中で英米の国際法違反を訴えている。

米英と戦うことは本意ではないと前置きし、

米英が意図的に経済断行をしてきたための自存と自衛の戦争であること、

目的は東アジアの永遠の平和を確立するため、と訴え、

戦争を止める理由の一つに、

「残虐な爆弾(原子爆弾)」の存在を訴えている。

前者の「自衛戦争」は、国際法上認められた権利である。

また後者の民間人の無差別殺戮は国際法上禁止されている。

この二つの交際法違反を戦勝国の米英が黙殺するのは解る。

が、日本人がそれを言わなくなっている。

日本人に正義はなくなったのだろうか。

まだ、全く語ってこなかったことがある。

戦争を終わる「玉音放送」があれば、

戦争開始の「開戦の詔書」がある。

実は、私も「開戦の詔書」の存在を知らなかった。

私がそれを知ったのは、

ルバング島で戦い続けた小野田少尉の言葉である。

小野田少尉は、日本に帰還し、

何故に日本人は「開戦の詔書」をないがしろにするのかと憤慨した。 

小野田少尉は、その言葉を諳んじていた。

彼は、その場で「開戦の詔書」を一句一言間違わずに言った。 

それがルバング島で三十年間戦い続けた理由なので当然であったろう。

その小野田少尉のその時のことが昔も今も全く報じられていない。 

また、小野田少尉がそらんじた、

「開戦の詔書」の存在すら全く報じられていない。

なので代わりに、ここで書こう。

「開戦の詔書」と「玉音放送」は一対のものである。

どちらも、東アジアの平和を訴えている。

ここまで、書くと、あれは「本音と建て前があって」という人がいる。

私も本書で、そう書いているところがある。

それはそれで、いろいろあって由としよう。

が、絶対に由とできない対象が居る。

東アジアの平和を願って、命を落とした残留日本兵にである。

彼らの一人ひとりが、

天皇のお言葉があったが故の行動をとったかどうか、私は解らない。

が、解ることがある。

欧米諸国にいじめられるアジア人としての憤慨だ。

「開戦の詔書」と「玉音放送」を聞くに、

天皇も多分そう思われたものと想像する。

戦地で戦う兵士も同じ思いであった。

前線の兵士は、東アジアの現地人と戦ったのではない。

植民地を支配する欧米人と戦ったのだ。

欧米人にいじめられるアジア人として反発したのだ。

日本人の反発もインドネシアの独立も同一線上のものだったろう。

インドネシアの独立のために命を捨てた残留日本兵の行為は、

彼らが日本人として国体を背負っている気構えがあったからこそ、

できた行為である。

ちっぽけな理屈で彼らを評するのは不遜である。

尊崇の心で敬うのみである。


さて、最後の「バリ人・バリ兵」である。

これに関して、私が理解に苦しんだところがある。

バリ島の独立戦争を調べてゆくと、

バリ人とオランダ人の戦いだけではなく、

バリ人と「山のオランダ人(親蘭派バリ人)」との戦いの呈もある。

言ってみれば、バリ人同士の戦いなのだ。

少ない量ではない。

本文を読んでいただいたら解るが、

マタマタ(スパイ)が横行する複雑な人間模様があった。

独立戦争を戦ったメラプティ派の兵士にとっては、

バリ人の八割が敵方だったと評する人もいるほどだ。

さて、それから、七十年過ぎた。

私は、歴史を調べ始めた。

昔ではない、ほんの最近の歴史である。

なのに、バリ人同士が争った痕跡が何も見つからない。

バリ人は、昔をみんな忘れてしまっている。

というか、昔をみな許し合っている。

インドネシアは、オランダに三百五十年の永きに亘って蹂躙された。

そのオランダと五年間にわたって独立戦争をした。

独立戦争を終わるに際し、

オランダがインドネシアに債務負担を請求した。

国を荒らされたインドネシアが請求したのではない、

荒らした方のオランダがインドネシアに請求したのだ。 

「独立を認めよう、が、手切れ金を払え」

と言わんばかりの厚かましさである。

が結局、インドネシアは、債務負担(少し値切るが)を受け入れる。

まだある。

そんなことまでしておきながら、

オランダはインドネシアを真からは認めなかった。

オランダがインドネシアの独立を本当に認めたのは、二〇〇五年である。

インドネシア建国六十周年を記念して認めたのだ。

何を認めたかというと、

一九四五年八月十七日のスカルノの

「インドネシア独立宣言」を有効と認めたのです。

さて、こういうことは歴史を勉強すれば解ること。

私が言いたいのは、別のことです。

前置きが長くなりました。

最初に書いた、私が理解に苦しんだことです。

バリ人はオランダにここまでされても、彼らを憎むことはないのです。

七十年前のバリ人同士の殺し合いも忘れるし、

三百五十年にわたって、苦しめられ、お金までとられ、

その後も六十年間、

国際常識を無視してきたオランダを恨むこともしないのです。

なんと、あっけらかんとしているのでしょう。

その、「あっけらかん」は、どこから来るのでしょう。

私は、バリ人が信仰するバリヒンドゥー教にあると思うのです。

バリヒンドゥー教は、

インドネシアの憲法ともいえるパンチャシーラに合わせ、

一応「神はひとつ」としているが、本来は「多神教」です。

日本の神道と似ている。

木の神がいて、水の神がいて、悪魔の神までいる。

では、そんな沢山いる神に何を祈るかというと、

神に自分のことを祈ることはない。

何を祈るのですか、とバリ人に聞いても満足な答えが返ってこない。

愚問のようである。

どうも「神様、元気でいてくださいよ」とか、

「悪魔の神様暴れないでね」とか祈っているように思える。

多神教と違い一神教は「絶対の神」である。

そこには例外がない。

多神教はその逆になる。

「絶対」というものがなく例外も多い。

バリ人と付き合いだすと、特に感ずることである。

バリ人の間には、「絶対」と思うものがない。

だから許せる範囲が多くなる。

本誌から例を拾ってみる。

本文の156頁を見て頂きたい。

残留日本兵の工藤栄氏の慰霊塔を建て直すことになった。

バリヒンドゥーのお坊様に来てもらって祀りごとの全てを終えた。

お坊さんといっても、その所作は日本の神主さんと同じだった。

その神主さん(お坊さん)が言う。

「終わりましたから....」

「このあとはどんな宗教で祈っていただいても結構ですよ」

これが、バリヒンドゥーの垣根の無さである。

他の宗教をおしのけたりしない。

宗教だけではない。

バリ人の社会生活の中でも許し合うことが多い。

「済んだことは済んだこと」

「その時はその時」

「何かの事情があってそうなったのでしょう」

「いいじゃないですか」

バリ人は、こういう言葉を良く使う。

本書は70年前の歴史を書いている。

バリ人と話していると、

余りにも歴史に興味を持たないことに驚くことが多い。

が、正確に言えば、興味を持たないのではない。

歴史に執着しないのだ。

同様に恨むことにも執着しない。

ヒンドゥ―教一筋に千年の結果なのだろう。

バリ島に住んで十年、それが少し解ってきた。

ングラライが、いつも兵士に語っていた。

「オランダ側につく住民を恨んではいけません」

「彼らには、彼らの事情があるのです」

「その家には、その家の事情があるのです」

「その村には、その村の事情があるのです」

このングラライの言葉を

「バリ人・バリ兵」のまとめとし、

「あとがき」の締めくくりとする。


by yosaku60 | 2017-08-16 11:05 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島で自費出版(その4;お買い上げいただく方へ)

自費出版「尊崇」をお買い上げいただく方のため、
バリの自宅の地図を掲載します。
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① バンジャール・タマンで、プスケスマスのある路地(ギャン)
  に入って20メートルほど進んだ右側にある、サヤンタマン
  と言う名のビラに住んでおります。
② わからない場合は、サヌールのバイパスのマクドナルドの前で
  待っていただき、電話(081-5575-1231)下されば、
  バイクで5分ぐらいで行けますので、持ってあがります。


クルンクンのかおりさん、
お買い上げありがとうございます。
上記の①もしくは、②のどちらでもお選びください。

今度、バリ島に来られる松倉様。
お買い上げありがとうございます。
上記の①もしくは②をお選びください。
ただ、私は、9月20日から日本に行きますので、
9月11日~9月19日の間にお会いしたいと思います。
よろしくお願いします。
by yosaku60 | 2017-08-15 14:50 | 帰らなかった日本兵 | Comments(5)

バリ島で自費出版(その3;まえがき)

自費出版「尊崇」の売り(笑)は、全て現地調査して書いてるところです。

で、現地調査の際の写真を、そのページごとに挿入しております。

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んで、まえがき...


まだ生存者がおられる。

今、書かないと書けなくなる。

そういう思いで、急ぎペンを走らせている。

インドネシアのバリ島の話である。

四国の三分の一にも満たない小さな島だ。

大東亜戦争中は、日本の統治下にあった。

七十年前の一九四五年八月、敗戦により日本の統治が終わった。

が、戦争が終わったにも関わらず死者が出ている。

この小さな島で戦後に四十三名もの日本人が死んでいる。

戦争中の話ではない。 

戦争が終わった後で命を落とした日本人だ。

戦争が終わった後に死亡した例としてシベリア抑留日本兵がある。

三万人の抑留日本兵がシベリアの地で死亡している。

原因は、極寒の地が故と、ひもじさの故であった。

が、バリ島はシベリアとは、違う。

南国の島である。

着るものがなくとも凍え死ぬことはない。

太陽がさんさんと輝き、雨も降り、水も豊富にある。

島の至る所にある木の実は、ほとんどが食べることができる。

野生の芋が至る所に自生する。

生き延びるだけなら、なんとでもなる。

まさに豊穣の島である。

が、戦後に四十三名もの日本人が命を落としている。

命を落とした理由は、いろいろある。

バリ人に殺された者、日本人に殺された者、オランダ人に殺された者などだ。

それらは、それぞれに悲惨である。 

だが、死の理由のどこかしこに日本人魂がほと走っている。

私は、そのことを書きたい。

埋もれたままにしておけない気持ちにかられる。

現在私は、七十一歳、バリ島に住んで十年になる。

日本人四十三名の死を確かめにバリ島の隅々まで歩いた。

言葉の壁があって、遅々として進まぬ調査であった。

が、ようやくまとめあげるほどに頭が整理された。

私は、物書きが専門ではない。

頭の中から引きだして語りかけるような書き方しかできない。

でも我慢して、まあ、聞いて欲しい。

死亡は戦争後、と書いた。

言っておくが、太平洋戦争のことではない。

大東亜戦争のことである。

太平洋戦争というのは、アメリカが言い出したもの。

インドネシアに住んでいる私にとっては、大東亜戦争と語ることがしっくりする。

しっくりする言い方にこだわらせて欲しい。

この大東亜戦争の戦争原因

みなさんは、どうお思いですか。

手前味噌的に考えるのなら、どうにでもに書ける。

大事なのは、相手がどう思っているかである。

それが良くわかる例として、バンドン会議を挙げたい。

第一回アジア・アフリカ会議(AA会議)のことだ。

バンドンで開催されたので、バンドン会議と呼ばれた。

バンドンは、インドネシアのジャワ島にある古い都市だ。

今は学園都市となって栄えている。

バンドン会議が開かれたのは、戦後十年の一九五五年四月である。

その頃の世界を見てみよう。

アジアには独立する国が増えてきていたが、

西欧の帝国主義的考えが一掃された訳ではなかった。

アメリカとソ連の冷戦状態が続いていた。

その隙を抜って、フランスによるインドシナ戦争があった。

そういう世界情勢にあった。

そうした中で危機意識を感じていた国々があった。

かっての欧米の植民地だ。

欧米から搾取され続けた、アジア、アフリカの諸国だ。

時計の針を逆に戻させてはならないと危機感をもっていた。

そのことを世界に発信しなければならないと思った。

で、その必要性をコロンボ会議に集まった五カ国で話し合った。

インド、インドネシア、セイロン、パキスタン、ビルマだ。

意見をリードしたのは、インドネシアだった。

そのインドネシアのリードによりバンドン会議が開かれた。

最終的には次の二十九カ国の集まる大きな会議となった。

アフガニスタン、イエメン王国、イラク、イラン、インド、インドネシア、英領ゴールドコースト、エジプト、エチオピア、カンボジア、サウジアラビア、シリア、スーダン、セイロン、タイ王国、中国、トルコ、日本、ネパール、パキスタン、ビルマ、ベトナム民主共和国、フイリッピン、ベトナム国、ヨルダン、ラオス、リビア、リベリア、レバノン、の二十九ヶ国だ。

何世紀も続いた世界の帝国主義

そして、植民地主義の終焉を宣言したのだ。

白人に対する有色人種の正当で堂々たる叫びだった。

ここで見て欲しい。

この二十九ヶ国の中に日本が入っているのだ。

会議を主導したのは、インドネシアだった。

インドネシアは何故に日本を仲間として招待したのか。

自国に日本軍が来て戦場と化し凄惨をなめている。

日本人はすぐに「バカヤロ」と怒った。

「ロウムシャ」に駆り立てられ、何人も死んだ。

それでも日本を仲間として招待したのだ。

インドネシアは日本に本音と建前があることを知っていた。

建て前は大東亜の国々の独立だ。

が、本音は石油欲しさの侵略だった。

それが解った上で、日本を招待したのだ。

本音はどうであっても良い。

結果として日本の画策した建て前どおりになった。

日本のおかげで独立できたと評価したのだ。

インドネシアが思うだけでは、そうはならなかった。

他のアジア、アフリカ諸国も同じように思ったのだ。

戦後十年してバンドン会議が開かれた。

帝国主義の終焉を宣言する会議であった。

日本もその会議の一員として招かれた。

勝手に参加したのではない。

同じ仲間として招待された。

この意義をもって、私は大東亜戦争を総括している。

話が多いにそれている。

本書の目的は

終戦後にバリ島で命を落とした日本人を書くことにある。

時々、目的を確認しないと、話が逸れ続ける。

年寄りの悪い癖だ。

さて、終戦後バリ島で命を落とした四十三名。

ここで、その内訳を確認しておきたい。

マルガラナ英雄墓地に祀られているのは、次の十四名だ。

ブンアリ、高木米治、松井久年、荒木武友、ブンスラマット、ブンチャングー、グデ、クトット、美馬芳夫、ブンマデ、ワジャ、工藤栄、曽我、大舘、

次は、ジェンブラナの地でバリ人に殺された十名だ。

前田久一、後藤和、永井精作、迫貞雄、川畑松義、窪田昌平、宮永清、村野穣、前田英司、池田初雄

次は悲惨である。

シンガラジャの地で日本人に殺された七名だ。

軽部一郎、他六名(名前不詳)

その他に戦死したことが解っているのが次の十二名だ。

長野兵曹、原田、渡辺、田中軍曹、シンタロー伍長、大久保宗臣、満留四齢、福士由蔵、竹崎清、白石勉、中野、島村中尉、

これらを合わせると、四十三名になる。

本書の目的は、これら四十三名の全員について語ることにある。

彼らとバリ人の関わり合いを語りたい。

戦時中、日本人はバリ人にいっぱい迷惑をかけた。

遺恨に思われてもしようがないほどの迷惑だ。

が。彼らのお蔭でその遺恨が随分と緩和されている。

私は今その恩恵を受けてバリ島に住んでいる。

私にとっては、まさに尊崇な存在である。


by yosaku60 | 2017-08-15 09:39 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島で自費出版(その2;目次)

自費出版の本....
300冊と、ちょっと多すぎる冊数を作ったので、
気にしておりましたが、初日で約50冊の行先が決まりました。
思った以上の売れ行きです(笑)。
ご協力いただいた方、この場を借りてお礼申し上げます。

(本の裏表紙)
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本の中身の紹介ですが、
全体で405頁です。
今日は「目次」、明日は「まえがき」、明後日は「あとがき」と、
三日に亘ってブログに書きます。

で、目次です。

まえがき.....

第一章 インドネシア独立戦争に貢献した日本人5傑

      今村 均
      前田 精
      柳川宗成
      吉住留五郎
      市来龍夫

第二章 日本軍統治時代にバリ島の治政に貢献した日本人

      堀内豊秋
      三浦 襄

第三章 戦後のバリ島で命を落とした四三名の日本人

    第一話 終戦直後に起きた事件

        現金盗難事件
        チャンディクスマ事件
        ブノア港荷揚げ事件
        ヌサドゥアの戦い
        林田部隊事件
        
    第二話 インドネシア独立に加担した日本兵

        林田部隊から出た残留日本兵
        阿南大隊から出た残留日本兵
        日本人集結所から出た残留日本兵

    第三話 バリ島炎上直前の三ヶ月

    第四話 ジャワ島からバリ島の上陸作戦

        ングラライ部隊の上陸作戦
        ジャワ海軍部隊の上陸作戦

    第五話 バリ島における独立戦争初期

        リンディキットの戦い
        第一次バンクンバンカの戦い
        デンパサールの戦い
        カランアニャールの戦い
        ムンドックマランに集まった日本兵
        ムンドックマランの戦い
        プネベルの戦い
        ワナギリの戦い
        温泉に集まった五人の日本兵
        第二次バンクンバンカの戦い
        日本兵17名が揃う

    第六話 ングラライ軍の長征

        ブレレン山岳地帯の行軍
        日本兵による特別遊撃隊
        アグン山麓の行軍
        タナアロンの戦い
        アグン山山頂越え
        バングジャランの戦い
        アンブンガンの戦い

    第七話 マルガラナの玉砕

        部隊の解散と再会
        ワナサリの戦い
        チュウワナラ隊結成
        タバナン蘭軍警察兵舎襲撃
        マルガの戦い
        一人残った日本兵

あとがき......

by yosaku60 | 2017-08-14 08:16 | 帰らなかった日本兵 | Comments(4)


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