あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



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バリ島で自費出版(その6;日本への送料)

自費出版の本「尊崇」300冊の配布先...
バリで150冊、日本で、150冊と漠然と考えていた。
が、それは無理だとわかった。
理由は、日本への送り代が高すぎるのである。

バリから日本に物を送る場合、
いろいろあるが、郵便局が安くて安全らしい。

で、本を送りに郵便局(本局;写真)に行ってみた。
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まずは、本を書くにあたって、
もっともお世話になった方に一冊、送るべく申し出た。
で、その一冊の料金(航空便)だが、300000ルピア(2500円)だった。
おお、高い! でもまあ ....

で、次に船便で大量に送る場合を聞いてみた。
と、船便の重量限度は30キロだという。
ということは、50冊しか送れない。
 いくつも梱包すれば、いけるのだろうけど...
そして、その料金だが、
1300000ルピア(11300円)という。

料金はともかく、
最大3ヶ月かかるいう、その輸送期間だ。
今から送っても、今度私が日本に帰っている間に受け取れないかも知れない。

どうも、ある量を手荷物として、持っていかねばならないようだ。



まあ、こんなことはどうでもよい。
今日は、インドネシアの独立記念日。
現在の私、少々思い入れのある日だ。
朝風呂を浴びて、すでに体を清めている。
スダ、シアップーシアップ だ。

by yosaku60 | 2017-08-17 08:09 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島で自費出版(その5;あとがき)

自費出版「尊崇」のもうひとつの売り(笑)は、

ところどころに手書きの地図を載せていることです。

バリ島の地図を手元におき、本書を読むと、

それが何処の話かということがすぐに解るようになっています。

本書を読み終わるころは、バリ島の隅々がわかるように....

であったらいいな(笑)と思っております。

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んで、あとがき....


私はプロの物書きではない。

「まえがき」「あとがき」の本当の意味を知らない。

で、勝手に決めつけている。

「まえがき」は、書き始めるにあたっての「心づもり」であろう。

そういうつもりで「まえがき」を書き、続いて本文を書き始めた。

で、「あとがき」であるが、

書き終わった後の「心の締めくくり」であろうと思っている。

そういうつもりで「あとがき」を書きたい。

私は書き始める前から、

何に重きをおいて、何を書こうと決めていた訳ではない。

が、書き終わって、何を書いて来たかは、はっきりしている。

書き始める前の漠然とした気持ちではなく、

書き終わったのだから、ファクト(事実)として、

数量的に計算、分析できるのだから、当然である。

私は、何を書いてきたか。

結果として、次の三つを書いて来た。

一、バリ人・バリ兵

一、日本人・日本兵

一、これら二つのコラボレーション

あくまでも私流と断って上で、

これら三つをあらためて、あからさまにしたい。

まずは、簡単なものから、書く。

三番目の「二つのコラボレーション」である。

この結論は、三八八頁に既に述べてきた。

曰く、

ングラライは思った。


日本兵との思い出は、過去は「憎しみ」だった。

が、今は「感謝」に変わっている。


当時のングラライの心を忖度すると、これ以外の言葉が見つからない。

ただ、注釈が入る。

広く日本人にではなく、一緒に戦ってくれた日本兵に、

対してのングラライの想いである。

が、そうであっても構わない。

残留日本兵のおかげで、

ングラライが日本人の違う一面を知ることになった。

私は、その恩恵を受けて、

現在バリ島でバリ人に護られ暮らしている。

私が残留日本兵を尊崇して当然だ。


二つ目の「日本人・日本兵」に移りたい。

これについては、言いたいことがいっぱいある。

戦後教育、マスコミに対してだ。

事実を公表せず、隠していることが多すぎる。

大東亜戦争を終わる際の「玉音放送」だが、余りにも一方的過ぎる。

世間に流されるのは、

いつも「忍び難きを忍び、堪え難きを堪え」だけである。

そこは終わりの方のほんの一部だ。

その前段に大事なところがいっぱいあるのに、全く語られない。

天皇陛下は、玉音放送の中で英米の国際法違反を訴えている。

米英と戦うことは本意ではないと前置きし、

米英が意図的に経済断行をしてきたための自存と自衛の戦争であること、

目的は東アジアの永遠の平和を確立するため、と訴え、

戦争を止める理由の一つに、

「残虐な爆弾(原子爆弾)」の存在を訴えている。

前者の「自衛戦争」は、国際法上認められた権利である。

また後者の民間人の無差別殺戮は国際法上禁止されている。

この二つの交際法違反を戦勝国の米英が黙殺するのは解る。

が、日本人がそれを言わなくなっている。

日本人に正義はなくなったのだろうか。

まだ、全く語ってこなかったことがある。

戦争を終わる「玉音放送」があれば、

戦争開始の「開戦の詔書」がある。

実は、私も「開戦の詔書」の存在を知らなかった。

私がそれを知ったのは、

ルバング島で戦い続けた小野田少尉の言葉である。

小野田少尉は、日本に帰還し、

何故に日本人は「開戦の詔書」をないがしろにするのかと憤慨した。 

小野田少尉は、その言葉を諳んじていた。

彼は、その場で「開戦の詔書」を一句一言間違わずに言った。 

それがルバング島で三十年間戦い続けた理由なので当然であったろう。

その小野田少尉のその時のことが昔も今も全く報じられていない。 

また、小野田少尉がそらんじた、

「開戦の詔書」の存在すら全く報じられていない。

なので代わりに、ここで書こう。

「開戦の詔書」と「玉音放送」は一対のものである。

どちらも、東アジアの平和を訴えている。

ここまで、書くと、あれは「本音と建て前があって」という人がいる。

私も本書で、そう書いているところがある。

それはそれで、いろいろあって由としよう。

が、絶対に由とできない対象が居る。

東アジアの平和を願って、命を落とした残留日本兵にである。

彼らの一人ひとりが、

天皇のお言葉があったが故の行動をとったかどうか、私は解らない。

が、解ることがある。

欧米諸国にいじめられるアジア人としての憤慨だ。

「開戦の詔書」と「玉音放送」を聞くに、

天皇も多分そう思われたものと想像する。

戦地で戦う兵士も同じ思いであった。

前線の兵士は、東アジアの現地人と戦ったのではない。

植民地を支配する欧米人と戦ったのだ。

欧米人にいじめられるアジア人として反発したのだ。

日本人の反発もインドネシアの独立も同一線上のものだったろう。

インドネシアの独立のために命を捨てた残留日本兵の行為は、

彼らが日本人として国体を背負っている気構えがあったからこそ、

できた行為である。

ちっぽけな理屈で彼らを評するのは不遜である。

尊崇の心で敬うのみである。


さて、最後の「バリ人・バリ兵」である。

これに関して、私が理解に苦しんだところがある。

バリ島の独立戦争を調べてゆくと、

バリ人とオランダ人の戦いだけではなく、

バリ人と「山のオランダ人(親蘭派バリ人)」との戦いの呈もある。

言ってみれば、バリ人同士の戦いなのだ。

少ない量ではない。

本文を読んでいただいたら解るが、

マタマタ(スパイ)が横行する複雑な人間模様があった。

独立戦争を戦ったメラプティ派の兵士にとっては、

バリ人の八割が敵方だったと評する人もいるほどだ。

さて、それから、七十年過ぎた。

私は、歴史を調べ始めた。

昔ではない、ほんの最近の歴史である。

なのに、バリ人同士が争った痕跡が何も見つからない。

バリ人は、昔をみんな忘れてしまっている。

というか、昔をみな許し合っている。

インドネシアは、オランダに三百五十年の永きに亘って蹂躙された。

そのオランダと五年間にわたって独立戦争をした。

独立戦争を終わるに際し、

オランダがインドネシアに債務負担を請求した。

国を荒らされたインドネシアが請求したのではない、

荒らした方のオランダがインドネシアに請求したのだ。 

「独立を認めよう、が、手切れ金を払え」

と言わんばかりの厚かましさである。

が結局、インドネシアは、債務負担(少し値切るが)を受け入れる。

まだある。

そんなことまでしておきながら、

オランダはインドネシアを真からは認めなかった。

オランダがインドネシアの独立を本当に認めたのは、二〇〇五年である。

インドネシア建国六十周年を記念して認めたのだ。

何を認めたかというと、

一九四五年八月十七日のスカルノの

「インドネシア独立宣言」を有効と認めたのです。

さて、こういうことは歴史を勉強すれば解ること。

私が言いたいのは、別のことです。

前置きが長くなりました。

最初に書いた、私が理解に苦しんだことです。

バリ人はオランダにここまでされても、彼らを憎むことはないのです。

七十年前のバリ人同士の殺し合いも忘れるし、

三百五十年にわたって、苦しめられ、お金までとられ、

その後も六十年間、

国際常識を無視してきたオランダを恨むこともしないのです。

なんと、あっけらかんとしているのでしょう。

その、「あっけらかん」は、どこから来るのでしょう。

私は、バリ人が信仰するバリヒンドゥー教にあると思うのです。

バリヒンドゥー教は、

インドネシアの憲法ともいえるパンチャシーラに合わせ、

一応「神はひとつ」としているが、本来は「多神教」です。

日本の神道と似ている。

木の神がいて、水の神がいて、悪魔の神までいる。

では、そんな沢山いる神に何を祈るかというと、

神に自分のことを祈ることはない。

何を祈るのですか、とバリ人に聞いても満足な答えが返ってこない。

愚問のようである。

どうも「神様、元気でいてくださいよ」とか、

「悪魔の神様暴れないでね」とか祈っているように思える。

多神教と違い一神教は「絶対の神」である。

そこには例外がない。

多神教はその逆になる。

「絶対」というものがなく例外も多い。

バリ人と付き合いだすと、特に感ずることである。

バリ人の間には、「絶対」と思うものがない。

だから許せる範囲が多くなる。

本誌から例を拾ってみる。

本文の156頁を見て頂きたい。

残留日本兵の工藤栄氏の慰霊塔を建て直すことになった。

バリヒンドゥーのお坊様に来てもらって祀りごとの全てを終えた。

お坊さんといっても、その所作は日本の神主さんと同じだった。

その神主さん(お坊さん)が言う。

「終わりましたから....」

「このあとはどんな宗教で祈っていただいても結構ですよ」

これが、バリヒンドゥーの垣根の無さである。

他の宗教をおしのけたりしない。

宗教だけではない。

バリ人の社会生活の中でも許し合うことが多い。

「済んだことは済んだこと」

「その時はその時」

「何かの事情があってそうなったのでしょう」

「いいじゃないですか」

バリ人は、こういう言葉を良く使う。

本書は70年前の歴史を書いている。

バリ人と話していると、

余りにも歴史に興味を持たないことに驚くことが多い。

が、正確に言えば、興味を持たないのではない。

歴史に執着しないのだ。

同様に恨むことにも執着しない。

ヒンドゥ―教一筋に千年の結果なのだろう。

バリ島に住んで十年、それが少し解ってきた。

ングラライが、いつも兵士に語っていた。

「オランダ側につく住民を恨んではいけません」

「彼らには、彼らの事情があるのです」

「その家には、その家の事情があるのです」

「その村には、その村の事情があるのです」

このングラライの言葉を

「バリ人・バリ兵」のまとめとし、

「あとがき」の締めくくりとする。


by yosaku60 | 2017-08-16 11:05 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

バリ島で自費出版(その4;お買い上げいただく方へ)

自費出版「尊崇」をお買い上げいただく方のため、
バリの自宅の地図を掲載します。
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① バンジャール・タマンで、プスケスマスのある路地(ギャン)
  に入って20メートルほど進んだ右側にある、サヤンタマン
  と言う名のビラに住んでおります。
② わからない場合は、サヌールのバイパスのマクドナルドの前で
  待っていただき、電話(081-5575-1231)下されば、
  バイクで5分ぐらいで行けますので、持ってあがります。


クルンクンのかおりさん、
お買い上げありがとうございます。
上記の①もしくは、②のどちらでもお選びください。

今度、バリ島に来られる松倉様。
お買い上げありがとうございます。
上記の①もしくは②をお選びください。
ただ、私は、9月20日から日本に行きますので、
9月11日~9月19日の間にお会いしたいと思います。
よろしくお願いします。
by yosaku60 | 2017-08-15 14:50 | 帰らなかった日本兵 | Comments(2)

バリ島で自費出版(その2;目次)

自費出版の本....
300冊と、ちょっと多すぎる冊数を作ったので、
気にしておりましたが、初日で約50冊の行先が決まりました。
思った以上の売れ行きです(笑)。
ご協力いただいた方、この場を借りてお礼申し上げます。

(本の裏表紙)
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本の中身の紹介ですが、
全体で405頁です。
今日は「目次」、明日は「まえがき」、明後日は「あとがき」と、
三日に亘ってブログに書きます。

で、目次です。

まえがき.....

第一章 インドネシア独立戦争に貢献した日本人5傑

      今村 均
      前田 精
      柳川宗成
      吉住留五郎
      市来龍夫

第二章 日本軍統治時代にバリ島の治政に貢献した日本人

      堀内豊秋
      三浦 襄

第三章 戦後のバリ島で命を落とした四三名の日本人

    第一話 終戦直後に起きた事件

        現金盗難事件
        チャンディクスマ事件
        ブノア港荷揚げ事件
        ヌサドゥアの戦い
        林田部隊事件
        
    第二話 インドネシア独立に加担した日本兵

        林田部隊から出た残留日本兵
        阿南大隊から出た残留日本兵
        日本人集結所から出た残留日本兵

    第三話 バリ島炎上直前の三ヶ月

    第四話 ジャワ島からバリ島の上陸作戦

        ングラライ部隊の上陸作戦
        ジャワ海軍部隊の上陸作戦

    第五話 バリ島における独立戦争初期

        リンディキットの戦い
        第一次バンクンバンカの戦い
        デンパサールの戦い
        カランアニャールの戦い
        ムンドックマランに集まった日本兵
        ムンドックマランの戦い
        プネベルの戦い
        ワナギリの戦い
        温泉に集まった五人の日本兵
        第二次バンクンバンカの戦い
        日本兵17名が揃う

    第六話 ングラライ軍の長征

        ブレレン山岳地帯の行軍
        日本兵による特別遊撃隊
        アグン山麓の行軍
        タナアロンの戦い
        アグン山山頂越え
        バングジャランの戦い
        アンブンガンの戦い

    第七話 マルガラナの玉砕

        部隊の解散と再会
        ワナサリの戦い
        チュウワナラ隊結成
        タバナン蘭軍警察兵舎襲撃
        マルガの戦い
        一人残った日本兵

あとがき......

by yosaku60 | 2017-08-14 08:16 | 帰らなかった日本兵 | Comments(4)

バリ島で自費出版(その1;費用)

上手く書けず、一旦あきらめていた、バリ島の日本兵の話。
カミさんの「記録として残しておくだけでも」の言葉に勇気づけられて、
再開し、このほど書き上げ、自費出版しました。

題名;尊崇
副題;戦争が終わったバリ島で43名の日本兵が命を絶った理由
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自費出版と言っても、
バリ島では、日本語の活字がないので、全てをPDFファイルで書きあげ、
印刷して、製本するだけの話です。
でも、意外にお金がかかったのは、予想外でした。

今日は、その自費出版の費用(印刷及び製本代)の話です。

① 本の重さ

  できあがって、まず驚いたのが、本が重いことでした。
  一冊600グラムあるので、100冊で60キロになります。
  重い原因は、ハードカバーです。
  小説ではなく、記録として残される本を意識したので、
  丈夫なハードカバーをオーダーした処、こんな重さになりました。

② 印刷がうすい

  日本の本に比べて、印刷が少し薄いのです。
  でも、これはしようがないところがあります。
  というのは、紙質の厚いもので製本すると、価格がぐーんとあがります。
  一冊2000円以上になるのです。
  それで、紙質を少し薄いものにしたのですが、濃く印刷すると、
  裏から透けるて見えるのです。
  で、透けて見えない程度の印刷の濃さにとどめたのです。
  ですから、費用とのかねあいで、印刷がうすい本になりました。

③ 本の厚さ

  紙質を薄くしたので、良いところもありました。
  400頁という量にもかかわらず、
  本の厚さを2センチに抑えることができました。

④ 本の綴じ方

  インドネシアの本は、何度も開くとページがばらばらになるものがあります。
  製本技術が日本より劣るように思えます。
  で、しっかりしたページ綴じをオーダーしたのですが、
  できあがりは、60点、まあまあ、及第というところでした。

⑤ 表紙の装丁

  表紙の装丁をプロに頼んだのですが、ネット上に落ちている写真を使うなど、
  気に食わなかったので、断り、全部、自分で装丁しました。
  で、発生した費用は、「断わり代」の500000ルピアだけでした。


⑥ 印刷、製本の費用

  こんな店を何軒かまわり、もっとも安い店を探しました。
  それでも、300冊で46500000ルピアかかりました。
  200冊でも、40000000ルピアかかるので、
  ちょっと多いのですが、思い切って300冊にしました。

⑦ お願いがあります。

  販売目的で書いたものではないので、これで利益を得ようとの
  気持ちはありません。が、冊数が少し多すぎるので、買って
  くださる方があれば助かります(年金生活者なので=笑)。
  実費(155000ルピア)より、ほんの少々安いだけですが、
  一冊150000ルピアでお買い上げ頂きたくお願いします。

by yosaku60 | 2017-08-13 10:22 | 帰らなかった日本兵 | Comments(19)

クニンガンのワジャ(残留日本兵)

今朝はクバヤを着た女性が街にあふれております。
お盆の最後、クニンガンです。
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お盆の始めは、工藤栄さん(残留日本兵)のお墓をお詣りしました。
で、お盆の終わりは、ワジャ(残留日本兵)のお墓をお詣りしてきました。
ワジャの日本名は解っておりません。
ただ、その行動については、だいぶわかってきました。
そのうち、書きたいと思っております。
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ワジャのお墓の掃除は、地元プラグのバンジャールにお願いしております。
写真は、そのバンジャールの首長さんの奥さんと、お孫さん。
バリ人のお祈りは敬虔です。
この子たちは、きっとワジャの墓を護り継いでくれるでしょう。
工藤栄さんもそうですが、ワジャもバリ人に護られてお幸せです。
写真の中央の方は、清水さん。
インドネシアにある、残留日本兵のお墓をお詣りし続けています。
ソロでは、95歳の元ペタ(郷土防衛義勇軍)の兵士の面倒を見ておられます。
もちろん、インドネシア人の元兵士です。
が、もう目が見えなくなったそうです。
そんな方に日本人の清水さんが、今も寄り添っています。
一昨日は、マカッサルに行って三五名の日本兵のお墓をお詣りしてきています。
お付き合いさせていただいて、頭がさがります。
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同じく、残留日本兵の曽我さんをお詣りしてきました。
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遺児のマデ・スワルジャさんです。
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清水さん、七六歳、スワルジャさん七五歳、私、七一歳。
いろいろなことが、ありがたくなります。
齢をとるっていいいものですね。

by yosaku60 | 2017-04-15 09:52 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

ガルンガンの工藤栄さん

今日はガルンガン...日本でいえば「お盆」。
バリ人は、先祖のお詣りをします。
70年前、インドネシア独立戦争に貢献し、
この地で死んだ残留日本兵が二十六名います。
その中の一人、工藤栄さん。
タンジュンブノアの地で今もバリ人に大事にされています。
これは、今朝の写真。
チャナン(お供物)が、いっぱいありました。
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写真を撮っている間にもお詣りする人が絶えません。
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ありがとうございます。
同じ日本人として感謝いたします。
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by yosaku60 | 2017-04-05 10:22 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

Pegayaman 現地調査報告(その4; 総括)

Pegayaman の日本軍が造った武器庫....
思った以上に、大掛かりなものであった。
一人二人の日本兵では、これほどのものは造れない。
武器庫を護るため、大木に見張り所も作ったという。
今は、朽ちてしまったが、Wani(ワニ)という木だそうな。
マンゴに似た実をつける大木になるそうだ。
現場付近のWaniの木を写真に収めてみた。
枝がしっかりして登りやすそうな木だ。
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さて、発見した武器保管庫....
村民に助けられたにしてもひとりふたりの日本兵では造れなかった。
結構にまとまった日本兵がいたに違いない。
当時のシンガラジャの地にインドネシア独立の志に燃え...
しかもまとまった兵員数となると、林田部隊しかいない。
隠れて武器を持っていたのも林田部隊だけである。
ということで、林田部隊の残党がここに棲みついた、と結論付けたい。

あとひとつ、証拠づけることがる。
残留日本兵の曽我さんの息子さんのスラジャさん(写真)....
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の語った話と重なるのだ。
スラジャさんは、過去、父の戦死場所を調査に歩いたことがあった。
その調査の過程で、ギギット付近で、日本兵がオランダ兵に殺された....
との情報を得たそうな。
Pegayaman の村を出て、本通りに入ったところがギギットである。
林田部隊の誰かが、オランダ兵に殺されたのだと思う。

それにしても、Pegayaman は、特殊な村であった。
なんとも子供の多い村であった。
バリ島は、どんな小さな村にも「ワルン(売店)」がある。
が、pegayamanでは、ワルンを見なかった。
村人は、何をして生計をたてているのだろうか。
コミン曰く「チンケ(Cengkeh)」が異常に多いという。
気温の低い高地にある木だ。
チンケから、ミニャックが採れる。
昔は安かったが、今は高く売れるという。
どうもそれだけでは、やってゆけないように思うが....

100%イスラムというのも特殊だ。
同行したコミンは、
「私が一緒でなければ、村に入れなかった」という。
バリ人にとっては、薄気味が悪い村のようだ。

こんな特殊な村の存在.....
ブンアリ達は、どうして知ったのだろうか。
それを考えると、またまた現地に行って調べたくなる。
もういい、もういい(笑)。
もうこの辺で調査を終わりにする.....オワリ
by yosaku60 | 2017-01-31 09:52 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

Pegayaman 現地調査報告(その3; 武器格納庫発見)

バリ島の残留日本兵を追っている私....
いつも思うことがある。

バリ人は歴史に興味を持たない。
村落間(隣村と...)の横のつながりが少ない。
村落の中でも村民相互間に情報の共有がない。
当時の文盲率は95%、文字で書き残す習慣もない。

で、調査は、現地に直接出向き....
それを知る人と直接に逢うより....方法がない。

ということで、Pegayaman の調査....
1月24日、午後一時、村に入った。
こんな処だ。
村の歴史に詳しい人を探していると告げると、
小学校の先生のムハジルさんに逢うことを勧めてくれた。
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小学校に行ってみた。
ムハジルさんは、家に帰っているとのことだった。
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若者に案内され、ムハジルさんの家に向かった。
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この人がムハジルさんだ。
会話はバリ語で行われた。
ムハジルさんは、ムスリムのハジという階級。
バリ語も尊敬語を多く使われ、コミン、少々難しいとぼやく(笑)。
そんな会話が交わされる中、次のことが解った。
1、日本人が作った武器庫が山の中に三つと川沿いにひとつある。
2、何人の日本人がいたかは知らない。
3、日本人の名前も伝わっていない。
4、山の武器庫の近くには、高い高い大きな木があった。
5、その木のてっぺんに人が登り近づく者を見張った。
6、その木は、大きすぎて、今は朽ちてしまって、もうない。
7、日本人は、住民に戦い方を教えてくれた。

やった!!
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若者の案内で山に向かった。
村内には、子供が多い。
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道路は迷路のように入りくんでいた。
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村はずれに出たように、思ったが....。
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まだまだ家が続いた。
子供が家の手伝いをしていた。
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昔は、小さい村だったらしい。
が、今は相当の人口があるようだ。
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やっと、村はずれに出た。
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で、記念写真。
左の若者、名前をワヤンハッサンと言う。
名前からして、バリヒンドゥーとムスリムの混在だ。
が、その彼、村民は100%ムスリムと胸をはる。
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山への上り道となった。
この時点で、少々息があがり気味。
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脇道に入った。
本格的に山に入るようだ。
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私は、ワヤンハッサンに続く2番手として山に入った。
が、前を行く、彼を見失った。
足が早すぎる。
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居た、居た!
ハーハー息をつぎながら追いついた。
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山の入り口に、こんな家があった。
これが最後の家、これから上は、家がないとのこと。
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これから上は、写真が少ない。
手があかない。
こんな段差をいくつも昇り降りするからだ。
上がる時は若者が手を引っ張ってくれ、
降りる時は、転げる体を下で受けてくれた。
d0083068_9475398.jpg

おまけに前方も見えない程の藪もある。
d0083068_948679.jpg

で、最初に出逢ったのが、これ!
コンクリートの塊りだ。
武器庫だったとのこと。
d0083068_9482793.jpg

煉瓦造りだ。
d0083068_9485765.jpg

背後からみると、こんなんだ。
飛行機から爆撃されても壊れそうにないほど堅固だ。
d0083068_949182.jpg

もう一つは、この藪の下にあるという。
が、足元のおぼつかない私は、崖を降りるのは無理だ。
コマンに行ってもらって、写真を撮ってもらうことにした。
d0083068_9493822.jpg

で、コマンの写してくれた写真がこれ。
d0083068_9495172.jpg

ここも相当に大きい。
d0083068_948434.jpg

しかも発見されにくい藪の中にある。
d0083068_950987.jpg

三つ目の武器保管庫に向かった。
そこへの道は、険しかった(で、写真がない)。
ちょっと、広い場所に出た。
で、出会った第3の武器保管庫がこれ!
d0083068_9502733.jpg

卵型の天井....日本軍のものそのものだ。
奥で右に続いた穴があるとのこと。
d0083068_9504333.jpg

それがあちら側の入り口に繋がっているとのこと。
d0083068_9505640.jpg

そう、左側にかすかに通路が見える。
これも日本軍の造りだ。
d0083068_9511088.jpg

最後に記念撮影....
横の若者、最初から最後まで私の手を引いてくれた。
名前も聞かず、名前を呼んでやることもしなかった(申し訳ない)。 
でも、ありがとう。
d0083068_9512356.jpg

pegayaman 調査の総括は、明日のブログ....
by yosaku60 | 2017-01-30 08:58 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)

Pegayaman 現地調査報告(その2; イスラム教徒.....)

残留日本兵の中で、「ブン」がつく名前を名乗っているのは4名いる。
ブンアリ、ブンマデ、ブンチャング、ブンスラマットである。
ブンとは、イスラム教徒が使う呼び名である。

ブンスラマットは、マルカデ海軍大尉と共にジャワ島から来た日本兵である。
ジャワ島は、ほとんどがイスラム教徒である。
で、ブンスラマットの名乗った理由は理解できる。

が、残りの、ブンアリ、ブンマデ、ブンチャングは、バリ島に居た。
バリ島住民は、ほとんどがバリヒンドゥーで、イスラム教徒は少ない。
が、この3人は、イスラム教徒名を名乗っている。
何故なのか。

ブンアリであるが、林田隊の隊員だったことは、ほぼ解っている。
同じく、ブンマデだが、ワナサリで、ブンアリと共に戦死している。
彼は、最初から最後までブンアリと共に行動した。
で、同じく、林田隊の隊員で二人は戦友だったと思える。

ブンチャングは、途中から別の行動をとっている。
が、ングラライ軍にあって、特別小隊をひきいるほどの人物であった。
その経歴から、やはり林田隊の隊員だったと想像できる。

他に、バリ名はついていないが、気になる日本兵が4名いる。
原田、渡辺、田中軍曹、シンタロー伍長である。

この内の原田、渡辺は、1946年4月6日の「リンディキットの戦い」....
に、ブンアリと共に参戦している。
この二人も林田隊員なのだろう。

田中軍曹であるが、それから2日後の1946年4月8日、
パンクンバンカで、ひとりで8名のオランダ軍兵士を殺している。
時、場所の双方を考えると、彼も林田隊員なのだろう。

シンタロー伍長であるが、1946年6月19日、
パンクンバンカで、オランダ軍のトラックを襲い粉砕している。
場所から、想定して彼も林田隊員だったのではなかろうか。

ということは、名前が残っているだけで、
6名の林田隊員がいることになる。
一個分隊に近い兵員数だ。
死を覚悟した兵隊が、これだけおれば何でもできる。

で、かれらの潜伏地だが、
戦闘をおこした、パンクンバンカ付近だったのではなかろうか。
その潜伏地が、イスラム教徒の村であれば、なおさらに有力だ。

パンクンバンカというのは、古い地名で今は使われていない。
が、土地の者に聞くと、ギギットからワナギリの間という。
で、その間の村を調べてみる。
ギギットに近いところに、Pegayaman がある。

私の家のお手伝いさんのカデの実家は、
この近くのpegadungan 村である。
一キロ離れた隣の村がPegayamanである。

で、カデに聞いてみた。
pegayamanて、どういうところ?
....と、「イスラム教徒の村です」
「怖くて近寄らないので知りません」

一キロしか離れていないのに、知らないとは...んん!!
これなら、スパイの目からも逃れることができる。

当時は、独立派、独立阻止派の二つに分かれて、
バリ島中にマタマタ(スパイ)が暗躍していた。
で、秘密裏に潜伏するのは、大変だった。

ここだ!
林田隊員が数名まとまって、潜伏した地だ!
その地に、大量の武器を隠したに違いない。
ということで、Pegayaman の調査、即ち、

何人もの日本人が潜伏していたこと....
大量の武器を隠れ持っていたこと....

の痕跡があるかどうか、調べに行ったのです。
by yosaku60 | 2017-01-29 11:48 | 帰らなかった日本兵 | Comments(0)


常時ほろ酔い候
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