あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



カテゴリ:日本=人生のかかわり方( 35 )


中学時代の同級生

私の中学時代......
以前にも書いたが、
オンナの前で、いいかっこしいで、
学業成績を気にする、イヤーな男であった。
で、中学時代を余り思い出したくなかった。
(今がどうかというと、本質的には変わっていない=笑)
その思い出したくない中学時代を
思いっきり思い出させてくれた、にっくき仲間がいる。
写真の面々だ。
d0083068_10162165.jpg
左から、「イトッサン」、次が私「ヨウジ」、
次のんは、私のカミさんだが、同級生ではない。
私の同級生が見たいと言って、しばし紛れ込んだだけ....
次が「アイカワ」、次が「タイゾウ」、右端が「ボーク」。

忘れていた事をいろいろ思い出させてくれた。

みんな、バレー部だった。
ただ、九人制だったので、部員が足らなくなり、途中で廃部になった.....
てなこと、私は忘れていたが....

ただ、全員、スポーツ万能だったので、
他の部に潜り込んで活動していたそうな....
てなこと私は忘れていたが...

じゃ、私は、どこに潜り込んだのだろうか、
アイカワが教えてくれた。
器械体操だったそうな。
そんな部がなかったはずだが、
マット運動や鉄棒ばかりしていたので、
そう言うふうに見えたのかも知れない。

廃部になっても、いつも、この5人で活動していたので、
かっこつけて「ファイブンメン」というグル-プ名を名乗っていた。

そう!
ファイブメンの面々なのだ。
中学を卒業してから、それほど付き合いがなかったが、
グループ名の「ファイブメン」を聞くと、心が躍るのだ。

今回も心が躍った。
「タイゾー」は、この日のために、東京から駆けつけてくれた。

「ボーク」が言った。
「一番変わったのは、ヨージ(私)だ」
何が、と聞くと、「メタボは、ヨージだけ」という。

言われてもしようがない。
そのとおりだ。
今でも他の四人は、何かの社会貢献をしている。
私だけが、フラフラ何もしていない。
情けないが、今更、四人に追いつけない。

次は、中学時代のファイブメンだ。
まずは、ひとり、ひとり....
d0083068_11004702.jpg
次に全員。
d0083068_11032648.jpg
左から、イトッサン、ボーク、アイカワ、タイゾー、ヨウジ。
最近の中学生から見れば、大人地味ていると思いませんか。

by yosaku60 | 2017-10-11 10:46 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(0)

71歳になりました

私、71歳になりました。
結構に長く生きてきました。
おかげさまで、まだまだ元気です。
おかげさまというと、そらぞらしいでしょうが、
本当にそう思っております。
全ての方に感謝です。
昨夜は、カミさんと写真のお二人が祝ってくれました。
で、見てください。
赤い矢印。
d0083068_07570779.jpg
これ、ピーナッツです。
実が5個入っています。
d0083068_08004306.jpg
5個入っているのを見つけると、ビールが一本もらえるのです。
上の写真のビールは、そうしていただいたビール.....うれしい!
てな、ここは、レストラン「ムティアラ」....
輝く(たぶん)71歳は、ムティアラから始まりました。

by yosaku60 | 2017-04-02 07:58 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(4)

自分のこと(その10; ひゅうすとん丸・その4)

米軍機は、ひゅうすとん丸の左後方至近の海上に墜落した。
それを見て、船長(藤瀬紫郎さん)は、右いっぱいに舵を切った。
ひゅうすとん丸は、右回頭を始めた。
大きな船がぐるっとひと廻りするには少なくとも10分はかかる。
その間、私は米軍機を見張り続けた。
黒い煙に包まれた中ほどに赤い炎もあった。
飛行機も燃えるのだ!
燃料に引火したからであろうが、その時は、そうは思わず、
なんともはや、不思議に思えたことを覚えている。
ぐるっとひと廻りし終えた時、
ひゅうすとん丸は、墜落地点から遠く離れてしまった。
肉眼では、よく見えない距離にまでなった。
そう....ひと廻りすると、距離も遠くなるのだ。
船長は、エンジンをフルアヘッド(全速前進)にした。
少しでも早く、墜落地点に行こうとしたのだ。
船は、徐々に速力をあげていった。
米軍機の黒い煙は、幾分と少なくなっていた。
煙の下から、黒いものが見えた。
が、それが何であるか、
波の間に間に見え隠れするので、解らない。
墜落地点の近くまで来て、やっと解った。
それは、タイヤであった。
タイヤはゴムでできているので浮いているのだ。
ということは、機体がばらばらになったということだ。
船は、速度をもったまま、墜落地点に到着した。
と、黒い大きなタイヤの横に赤いものが見えた。
救命胴衣である。
赤い点滅灯も見えた。
その上に小さな頭が見えた。
人だ!
人がいる。
と、頭が動いた。
こちらを見て居る。
生きて居るのだ。
顔を見た。
煙にやられたのか、どすぐろい。
が、ひゅうすとん丸は、助けることができなかった。
まさか、人が生存しているとは思わなかった。
全速力で現場に来たのだ。
大きな船は、突然に止まることができない。
で、「人、発見」の電報を付近の船に打電した。
当時は、船舶間に通じ合える電話がなかった。
全て、無線電報を使ったのだ。
ひゅうすとん丸に続いて、墜落地点に向かって来る船があった。
結局は、その船が、救命胴衣の男を救助した。
そのアメリカ人からの情報が付近の船に伝わった。
飛行機には、12名の乗員がいたという情報だ。
ということは、残り11名を探さなければならない。
墜落事故を聞きつけて、フイリッピンから別の飛行機が飛んで来た。
その飛行機から、次から次と指令(依頼)が届いた。
こうした連携しての捜索では、まずは司令船を決めるとのこと。
その司令船は、最初に現場に到達した船が担うとのこと。
今回の場合は、ひゅうすとん丸が司令船になる。
米軍機からの指令は、まずは、ひゅうすとん丸になされる。
それを受け、ひゅうすとん丸から付近の全船に指令を出すということになる。
その指令だが、
捜索に参加する全船がそれぞれに決められた、
一定の地点から一定の針路で進むことで、見落としなく全海面をチェックし、
そのチェックの範囲を徐々に拡大するといった指令だ。
そんな、捜索が一日続いた。
何も発見できなかった。
11名は、飛行機と一緒に海底に沈んでしまったのだろう。
その後、米軍機から「捜索解除」の指令が来て、おひらきになった。
11名もの犠牲者が出たのに、捜索をはやくあきらめすぎだ。
米軍って、なんと淡白なのだろう、なんと潔いのだろう....と、私は思った。
私の米軍に対する感想、この時の思いが今も尾を引いている。
by yosaku60 | 2017-01-26 09:56 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(2)

自分のこと(その10; ひゅうすとん丸・その3)

台湾とフイリッピンの間の海をバシー海峡と言う。
昭和43年、日本を出てバシー海峡に入らんとする時であった。
「材木船沈没、救助頼む」の救援要請電報が舞い込んだ。
日本の船であった。
セオル号ではないが、材木船の沈没事故はよくあることだ。
材木は軽いため、甲板上に高く積み上げる。
その材木が荷崩れすると、沈没しやすいのだ。
人命救助は、海洋国際法上、絶対的遵守義務がある。
針路を右に変え、現場に向かった。
遭難後、一日経過の現場であった。
付近には、救助に駆けつけた、日本船が10隻ほどいた。
十数人が既に救助され、十数人が未だ行方不明であった。
現場付近には、積み荷の材木が散々としていた。
材木をスクリューに巻き込んではならない。
材木を発見するたびに、それをかわし、行方不明者の捜索にあたった。
その捜索にあたった次の日であった。
フイリッピンから米軍の飛行機が現場に来てくれた。
我々の救助活動をサポートしてくれるのだ。
船からは見えないが、上空の飛行機からは良く見える。
「どこどこに残骸が浮いている」との情報をくれるのだ。
その情報だが、発光信号で送られてくる。
モールス信号を受けるのは、無線士の役目であるが、
発光信号を受けるのは、航海士の役目である。
上空を飛ぶ飛行機から発せられる光を目で追いながら、
一字一字読み取るのは、大変だ。
幸いに、私の当直中には、一度だけであった。
それも簡単な英文だったので、無能がばれずに済んだ。
さて、そんな捜索中であった。
私は、船橋の左ウイングにあって、前方海上を見張っていた。
前方から米軍機が飛んで来た。
そして、私のすぐ横、100mほどだろうか、を通過した。
操縦士の顔が見えるほどに近い! そして、 低い!
飛行機は本船の後部を通りすぎた。
私は、その陰影を目で追っていた。
と、飛行機は、そのまま海に飛び込んでいくではないか。
何が起こったか、瞬間的に判断がつかなかった。
そして、多分、10秒ほどだろうか、
ぼっと火が付き飛行機が燃え出した。
墜落事故だ! 始めて気付いた。
d0083068_9234070.jpg

今日は、シンガラジャに行く日、
その出発時間がせまって来て、書く時間がありません。
つづきは、シンガラジャ(一泊どまり)から帰ってきてからにします。
by yosaku60 | 2017-01-24 09:25 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(0)

自分のこと(その10; ひゅうすとん丸・その2)

50年前のアメリカに行った場合の、
日本へのお土産の有名な3っつといえば、
1、キスチョコ
2、ミルク
3、お人形
でした。 
信じられないでしょう。
お人形....って、何故?
とにかくアメリカのお人形は、でっかい!
ので、日本では珍しかったのです。
当時は、一ドル=360円。
アメリカには、1ドル弁当というのがありました。
船に来る労働者が持参する、その弁当....
なんとも豪華で、さすがアメリカ...と思ったものでした。
まあ、それが50年前、
で、55年前(昭和35年頃)になると、びっくりするお土産が、
当時、私は、まだ高校生。
で、後日、船乗りから聞いた話なのですが、
なんと、船乗り仲間では、「背広」が、大受けだったそうです。
アメリカで、中古の背広を安く買って、
繕いを外して、ばらばらにして、生地を裏返して、縫い直すのです。
それをアメリカから日本へ帰る航海中にやるそうです。
日本に着くころには、新品の背広ができるそうです。
話しだけで、私は縫い直したものを見たことがありません。
が、「日本人、すごい!」と思ったものです。

ついでに、雑談....
50年前の他の国からのお土産事情。

中南米では、ワニの剥製。
一メートルほどのワニが5ドル。

西アフリカ(主にナイジェリア)からは、
黒檀の彫り物(当時で5000円~一万円の価値)。
お金ではなく、物々交換。
日本から持参するものは、「半袖ワイシャツ」
神戸のダイエーで、半袖シャツ、1000円((確か...)
東アフリカ、モンバサからは、
象牙、一万円(後日持ち込み禁止に...)

インドからは、九官鳥。
シンガポールからは、オーム(これは、後日持ち込み禁止に...)
南米からは、蝶の羽根の飾り物(これも、後日持ち込み禁止に....)

ヨーロッパ(主としてドイツ)からは、羽毛布団。

一方、日本から後進国へ持って行くお土産で、
もっとも喜ばれたものは、自動巻き腕時計....
自動巻き腕時計は、腕を振ると反動でゼンマイが巻かれるもので、
現在は、もう販売されていませんが、当時の価格は、約一万円、
どの国に行っても大受けで、誰もが欲しがりました。

などなどでしたが、
私は、いつもお金にピーピーしていたので、
最小限のお土産しか買いませんでした。
by yosaku60 | 2017-01-23 10:51 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(0)

自分のこと(その9; ひゅうすとん丸・その1)

社会に出て3年目の昭和43年、
会社より、ひゅうすとん丸乗船の指示を受ける。
その時のオレ....
やった、ひゅうすとん丸だ! 
と喜んだことを覚えている。

その頃のオレ....
上昇志向に燃えていた。
粋がりだけの、つまらない男だ。
今思ったら恥ずかしいほどである。

は、ともかく....
何故に、ひゅうすとん丸を喜んだのか。

その頃の会社の航海士への格付けであるが、
先ずは、三等航海士として、東南アジア航路で勉強する。
十分に慣れたと判断された時、アメリカ航路の船に乗る。
で、ベテランになって、ヨーロッパ航路の船に乗る。
という順序になっていた。

それを一巡すると、二等航海士に昇進し、
また東南アジア航路の船に乗り、次いで、アメリカ航路、
次いで、ヨーロッパ航路の船に就労する。
で、その就労成績が認められれば、一等航海士に昇進する。

てな、具合であった。
であるから、
アメリカ航路に従事する、ひゅうすとん丸乗船ということは、
三等航海士として、一人前になったと認識されたということなのだ。

んで、
上昇志向の強いオレ、「やった!」と、喜んだのだ(バカだね)。

さて、
そんな、ひゅうすとん丸だが、
18ノットの高速船であった。
当時、日本沿岸には、18ノットで走る船が少なかった。
ほとんどの船を追い抜けるので、操船が面白かった。
これが、その、ひゅうすとん丸。
どうお、速そうに見えるでしょう!
d0083068_9351719.jpg

ひゅうすとん丸の航路は、アメリカ南岸....
の、タンパ港、モビル港、ニューオリンズ港、バトンルージュ港、
ガルベストン港、ヒューストン港、フリーポート港、であった。

さて、当時は、日本はまだまだ発展途上...
アメリカとの国力の差は大きかった。
その差を物語るのが、当時のアメリカで買う「お土産」である。
次回は、それを書いてみたい。

「ベトナム戦争」「米国航空機墜落」の話は、さらに延期(笑)。
by yosaku60 | 2016-10-08 09:48 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(0)

自分のこと(その8; 船舶衛生管理者講習)

昭和43年当時、外国航路定期船には、約35名の乗組員がいた。
が、経済的観点から乗組員の員数を縮小する傾向が現われた。
まず、真っ先に減員を検討されたのが、「船医」であった。
「船医」になりてがない、当時の世情もそれに拍車をかけた。

で、船医の代わりに、
特定の乗組員に医学的な知識を持たせ、船医の代わりをさせることとなった。
特定の乗組員とは、まだ頭の固くない、ヤングオフサー(若い航海士)を言う。

そのための法整備も整えられた。
「船舶衛生管理者(国家資格)」の資格を持った乗組員がおれば、
船医が乗船していなくとも良い....ということになったのだ。

昭和43年、奈良山丸を下船し、郷里に帰っていた私に、
会社より「船舶衛生管理者としての資格をとるように」との指示があった。

受験のための講習は、一か月。
場所は、神戸掖済会病院という。
宿泊は会社の寮、食事代は会社払い、であった。

船乗りにとって、あこがれの港である神戸....
に、費用は会社払いで、堂々と一か月過ごせるのである。

この一か月..
あの場面、この場面、と何を思いだしても懐かしいことばかり...
その内容をここで語ると、「淡さ」 が 「泡」 になって消えてしまう!
んので、書きません(笑)。

ただ、この船舶衛生管理者の講習会。
もともと、人間の生理的構造に興味があった私は、
勉強に精進した記憶が残っています(ホントですよ)。

まあ、とかなんとかで、
昭和43年の春の一か月、
あこがれの港町、神戸でいっぱいの思い出を作りました。

で、無事に国家試験を取得し、
次に乗船したのが、ひゅうすとん丸....
「ベトナム戦争」、「米国航空機墜落」を経験した船です。
ゆっくり語りたく、次の機会にまわします。
by yosaku60 | 2016-10-01 10:33 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(0)

自分のこと(その7; 奈良山丸)

昨日、あふりか丸乗船の話をしたが、書き忘れたことがある。
ある上司から将来を左右するような教えを受けたことだ。
事実、その後の私の人生を変えてくれた。

教えてくれたのは、二等航海士(秋光正健さん)だ。

私は三等航海士、秋光さんは二等航海士。
部屋が隣だった。
沖待ちで仕事がなかった、ある日...
私は、二等航海士の部屋を覗いた。
秋光さんは、机に向かい何やら仕事をしていた。
挨拶しながら、近づいて見ると,
貨物の積み付けプランをたてていた。

貨物の積み付けプランとは、....

会社より、
1、どこの港で
2、どこの港行きの、
3、どんな貨物が、
4、何トンある
との情報がどんどん来る。

その情報を集めて、
1、どの場所に、
2、どれほどのスペースを使って、
3、どういう風な積み付けかたをするか、
の最適なプランを練ることである。

貨物、船舶、港を全て熟知しないとプランを練れない。
で、経験の多い、一等航海士の仕事である。
が、二等航海士の秋光さんが、それをしている。

「セコンドオフサー(二等航海士のこと)」
「なぜ、そんな仕事をしているのですか」

私は、秋光さんに聞いてみた。
その時の秋光さんの言葉に私は衝撃を受けた。

サードオフサー(私のこと)!
仕事というものは、与えられてするものではない!
与えられた仕事をするだけでは、それは「仕事する」なんて言えない!
「仕事をこなしている」だけだ!
それではいけない!
仕事というのは、自分で見つけてくるものだ!

今朝、私は、一等航海士のところに行き、
「私は余力がいっぱいあります」
「何か仕事をください」
と言ったら、
「積み付けプランをたてて欲しい」
と、頼まれたのだ。
で、喜んで引き受けたんだヨ!

これを聞いて、
今日は、ヒマで嬉しい...
何をして遊ぼうか....
などと考えていたオレ...
恥ずかしくなった。

その後の私。
自分で仕事を求める方向に変わったんです。
昔の私を知っている方、そんな訳なのです。

秋光正健さん!
マーロンブランドのような風貌の方でした。
その後も重ねてお世話になりました。
今頃、どうされているのだろうか。
くしゃみしておられるかも...
by yosaku60 | 2016-09-16 09:58 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(0)

自分のこと(その6; あふりか丸)

時々、昔の自分を振り返り、
「自分のこと」と題して書くことを宣言してきた。
前回の「自分のこと(その5)」は、今年の1月に書いた。
8か月も開いての「自分のこと」である。
前回は、4等航海士を終えるまでを書いている。
今日は、そのつづきである。

昭和41年10月、私は3等航海士に昇格した。
会社より指示を受けたのは、「あふりか丸」乗船である。

あふりか丸、約一万トン.....
貨客船に分類される、いわゆる「移民船」であった。
次の絵は、志賀源吾さんが描いた昭和33年当時のあふりか丸である。
志賀さんは、商船三井の船乗りであったが、後に画家に転向した人で面識がある。
d0083068_10301899.jpg

移民船の時は、約700名のお客を乗せていた。
が、私が乗船した時は、移民船としての使命をほぼ終え、
アフリカ東岸定期航路船として就航していた。

日本での寄港地は、
横浜、清水、名古屋、神戸....
途中で、香港、シンガポールに寄り、
アフリカ東岸の諸港を目指すという航路であった。

アフリカ東岸とは、
ケニア国; モンバサ港
タンザニア国; ダレスサレム港、ザンジバル港、タンガ港、ムトワラ港、
モザンピーク国; ベイラ港、ローレンソマルケス(現在のマプート)港、
南アフリカ国; ケープタウン港、ポートエリザベス港、イーストロンドン港、ダーバン港、
であった。

アフリカ西岸航路に比べ、寄港が少なく、
スケジュールもゆったりしていて、労働者(黒人)の性格もおとなしく、
船乗り生活を満喫した思い出がある。

そんな思い出の中から、いくつかひろって見る....

1、 モンバサ港での象牙

当時、象牙は自由に日本に持ちこめた。
一本、一万円であった。
できるだけ、まっすぐなものを見つけて購入し、
航海中、それを磨き、日本に着いた時は、
多少磨いてない場所を残した上で、税関に申告する。
そうすると、「自分用」ということで、無税で陸揚げできた。
今なら一本20万円するだろうに、良い時代だった。

ところで、私だが、
象牙を買わず、猿を一匹買った。
いくらで買ったか、値段は忘れた。
その猿は長生きし、珍しい猿だったらしく、
死後、石川県小松市の芦城公園で剥製にされた。

2、ローレンソマルケスでの柔道の道場開き

ポルトガル人の経営する「道場開き」に招かれ、
乗組員の中に有段者がいたので、彼を連れ参加した。
(柔道主のポルトガル人は一級だった。)
私は、唐手の演武を披露した。
唐手を初めて見たからだろう、拍手喝采(本当ダヨ)だった。

3、ケープタウン港での伊勢海老捕獲

近くの岸壁で、伊勢海老が捕れた。
風呂桶でボイルするほどに、いっぱい獲れた。
2~3匹食べると腹が膨れるほどの大きさの海老だった。
あれほどの食贅沢をした経験は、未だにない。
by yosaku60 | 2016-09-15 10:30 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(0)

自分のこと(その5; ありぞな丸)

昭和41年4月、私は「商船三井」に航海士として採用された。
新米の航海士は、半年間は4等航海士として働くことが決まっていた。
船には航海士が3名いる。
1等航海士、2等航海士、3等航海士の3名である。
3名がそれぞれに専門分野を受け持っている。
4等航海士は、まあ言ってみれば、はみ出しの余分の航海士である。
が、半年後には3等航海士として、どこかの航路で働くことが決まっている。
半年間で、全てを学び終えなければならない。

私は、一万トンの雑貨船「ありぞな丸」に4等航海士として乗船した。
日本と西アフリカ及び南ヨーロッパを4か月かけて渡り歩く定期航路船である。
d0083068_1084669.jpg

昔は、今のようにコンテナなんてなかった。
全ての貨物が、木箱に入っていたり、カートンに入っていた。

それらの貨物を積むのが.....

日本諸港、及び香港、シンガポール。
日本諸港とは、横浜、清水、名古屋、神戸であった。

それらの貨物を揚げるのが.....

1、南アフリカ (ダーバン、ケープタウン)
2、カメルーン (ドアラ)
3、ナイジェリア (ラゴス、アッパッパ、ポートハーコート)
4、ベニン (コトノウ)
5、トーゴ (ロメ、クペメ)
6、ガーナ (テマ、タコラジ)
7、コートジボアール (アビジャン)
8、リベリア (モンロビア)
9、セネガル (ダカール)
10、シエラレオネ (フリータウン)
11、ポルトガル(リスボン)

であった。
国なんてどうでも良い。
問題は、16 もの港を寄港することであった。
この16港の行き先の順序を頭にしっかり叩きこまねばならない。
というのは、ケープタウン行きの貨物の上に、
例えば、それよりも奥地のラゴス行きの貨物を積んだら、
ケープタウンでは、貨物が下敷きになっていて、引っ張り出せないからである。

が、頭が弱いオレ、
寄港地名と、その寄港順序が頭に入って来ない。
メモを見ている様じゃ、プロの航海士ではない。
というのは、「航海士」というのは、航海中の話、
港に停泊中は、「荷役士」になる。
で、プロの荷役士になれないのは、
プロの航海士ではないってことになる。

ということで、実社会に出て、最初に困ったのが、
オレの頭の悪さであった。
そして、頭の悪さをごまかすための、いいかっこしいであった。

まあ、4等航海士の思い出と言えば、こんなところであろうか。


ああ、そうそう、あとひとつ、強烈な思い出がある。

カメルーンの ドアラ港での話。
ドアラの人夫達....
みんなみんな頑強な大男(勿論に黒人)なのだ。
しかも顔がきつく、怖いのなんのって。

アフリカ諸港では、貨物も揚げるが日本行きの貨物も積む。
積む貨物は、丁寧に積まないとスペースが足らなくなる。

で、その大男たちに、「もっと高く、もっと奥に詰めろ」
と、言うのだが、誰もオレの言うこと何か聞いてくれない。

ちょっときつく言うと、彼らは反抗して怒りだした。
数人がオレに襲い掛かりそうな勢い。
その中の数人、何やらニヤニヤ笑っている。
そこは、誰も来ない船底の船倉。
いわば、外から見えない隔離された密室。

突然に、先輩が言っていたことを思いだす。
日本の若者は、可愛い!!!
彼らにとって格好の強姦の餌食だ。

オレは、怖くなって、その場から逃げた。
梯子を一気に登って、デッキまで逃げた。

んで、オレは、今でも黒人の大男が怖い。
ドアラの港も好きではない。

アフリカは東岸と西岸とでは、同じ黒人でも体格が違う
西岸だけを見ても、
カメルーン、ナイジェリアは、屈強で大柄な体格。
ガーナやトーゴになると小柄で可愛くなる。
それが、セネガル、シエラレオネまで来ると、また大きくなる。

と思うのだが、最近のアフリカのことではない。
50年前は、そうだったということ。

んん、まあ、ということで、
4等航海士時代の思い出は、
苦しかっただけ、楽しいことが少なかったように思う。
by yosaku60 | 2016-01-14 10:08 | 日本=人生のかかわり方 | Comments(0)


常時ほろ酔い候
カテゴリ
画像一覧
以前の記事
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月