あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



カテゴリ:バリ島での独立戦争( 142 )


前回のシンガラジャ調査の報告

前回のシンガラジャ調査....
出発前にその目的をブログに、次のように書きました。

........

もうひとつ探しものがあります。
Padang Bulia と Nagasepaha と Sari Makar....
の三角地帯の真ん中辺に、なにやらモニュメントがあるらしいのです。
もしかしたら...
ングラライ軍の解散の地ではなかろうか?
であれば、解散を嘆き、松井が涙を流した処です。

   (註) 本によれば、閑散の地は、sukasada となっている。
       が、sukasada とは、スカサダ郡のこと、
       シンガラジャ市の少し山手~ブドグルの全域がスカサダ郡だ。
       その範囲が広すぎて、特定することが難しい。

確かめに行ってまいります。

........

その報告です。
モニュメントは、下図のNagasepahaの街の中にありました。
d0083068_7472216.jpg

が、ングラライ軍の解散のモニュメントではありませんでした。
d0083068_7355425.jpg

1947年11月7日ということは、
ングラライ死後、一年を経過しての戦いです。
その戦いで、地元のこの二人が戦死したのです。
d0083068_7363730.jpg

この地で戦いがあったのでしょうか。
それを確かめるべく、聞き込みしました。
写真は、その聞き込みをした、近所のお爺ちゃん(103歳)です。
本も読めるというが、高齢すぎて、ほとんどの会話がなりたたない。
ただ、モニュメントにある戦いは、panji(上の地図参照)だったということが解る。
d0083068_7474125.jpg

panji といえば....
平良定三さんが、70人ほどのバリ人を率いて立て篭もった処だ。
立て篭もった時期も、この戦いがあった頃で、合致する。
戦死した二人は、平良部隊の隊員だったのではなかろうか....
などと思ってみたが、それを確かめることの価値が見いだせない。
nagasepaha の調査、残念ながら不発。
by yosaku60 | 2017-01-21 07:37 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

明日のシンガラジャ行き(出発予告)

明日、一泊泊まりでシンガラジャに行って来ます。
以前、事前にブログに書いた結果が良かったので、
今回もゲンを担いでの.....出発予告です。
稲川さんと一緒に行きます。

稲川さんは、日本の統治時代、シンガラジャに居られました。
18歳~20歳の3年間だったそうです。
シンガラジャ行きは、そんな稲川さんから、
戦中の日本軍を教えてもらうのが主目的です。

もうひとつ、目的があります。
残留日本兵、ブンアリの隠遁地の調査です。

ブンアリは、「ウガヤマ」に籠ったと平良定三氏が書いております。
ウガヤマ.....ってどこだろうか?
と探していたところ、ウガヤマではなく、
プガヤマン(pegayaman)だろうと思ったのです。
何故に、プガヤマンと思ったったのか....
プガヤマンの村民は、全員がイスラムなんだそうです。
ブン・アリの、ブンと言う名は、バリ名ではなくジャワ名です。
プガヤマンに住んだから、「ブン・アリ」と名乗ったと思うのです。

そんな、プガヤマン(図の真下の村)に行ってみたいのです。
d0083068_9543413.jpg

もうひとつ探しものがあります。
Padang Bulia と Nagasepaha と Sari Makar....
の三角地帯の真ん中辺に、なにやらモニュメントがあるらしいのです。
もしかしたら...
ングラライ軍の解散の地ではなかろうか?
であれば、解散を嘆き、松井が涙を流した処です。

   (註) 本によれば、閑散の地は、sukasada となっている。
       が、sukasada とは、スカサダ郡のこと、
       シンガラジャ市の少し山手~ブドグルの全域がスカサダ郡だ。
       その範囲が広すぎて、特定することが難しい。

確かめに行ってまいります。
by yosaku60 | 2016-11-28 09:59 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

「サヨナラ」は、もはやインドネシア語だ。

次の日、ジャワ島のソロに戻るという清水さんをタナアロンにご案内した。

タナアロン; 独立戦争における有名な激戦地。
        1946年7月7日、
        アグン山の麓のタナアロンの地に陣を敷いたングラライ軍....
        をオランダの大軍が 四方から攻めて来た。
        残留日本兵、松井の12.7㎜重機が火を吹いた。
        で、迎え撃つングラライ軍は、ひとりの戦死者出さず、
        攻めるオランダ軍に82名の戦死者が出た。   
d0083068_913695.jpg

ングラライ軍の軍勢...
明確な資料がないが、500名ほどだったと思われる。
d0083068_935559.jpg

管理人不在であったが、受付窓にこんな張り紙があった。
d0083068_95624.jpg

近寄って見ると、 ングラライの命日に行われる...
セレモニーの予定表であった。
d0083068_97537.jpg

と、それを読んでいた、清水さんが見つけた。
最後の行に、「さよなら」 がある。
d0083068_98452.jpg

Bongkar tenda dan sayonara.....
テントを片付け、解散.....の意であろう。
要するに、お別れの意味の、Sayonara である。

この Sayonara は....
敗戦した日本軍がインドネシアを去る時に....
感謝を込めてインドネシアが使った日本軍への別れの言葉....
「サヨナラ、サヨナラ またあいましょう」の一節から来ている。
こういう処にも使われていたなんて!..........嬉しい。
by yosaku60 | 2016-11-26 09:11 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

マルガラナ大祭に参加して想うこと

ングラライ部隊96名の鎮魂のためのマグラナ大祭....
d0083068_8293672.jpg

に参加して、いつも感銘を受けることがある。
今年も感銘をあらたにした。

それは....

バリ人が心をひとつにしてお詣りする様(さま)である。
d0083068_830495.jpg

翻って、今の日本...
には、そうしたことがない。
国を憂い、国を想うことに、必ず横やりが入る。
何でだ!!

私は、全体主義は嫌いだ。
社会の常に甘えて、本物を見失いがちだからだ。
といって、私は、個人主義も嫌いだ。
人権という言葉を拡大解釈して甘えるからだ。

どちらも責任感不在の甘えがある。

翻って、そんな私....
考えてみれば、あれにもこれにも、甘えている。
思索と実行動が一致しない。
最近、そんな自分を持てあますことが多い。
by yosaku60 | 2016-11-23 08:39 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

Puputan margarana Tahun 1946

11月20日は、ングラライの命日....
マルガラナで96名が玉砕した日です。
今年は、70年という節目の大祭でした。
例年より、盛大だったように思えます。
d0083068_15272665.jpg

お歴々.....
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圧巻....
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クバヤ盛装...
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私....
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青いクバヤの方は、ウイスヌ少佐(ングラライ軍NO.2)のお子さん。
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残留日本兵遺児のマデ、スラジャさん。
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by yosaku60 | 2016-11-22 15:34 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

ヌサマラ村の戦いの6月2日が解せない理由(その2; ジャワ海軍上陸地点との関係)

島村中尉が消息を絶ったヌサマラ村の戦い...
のジェンブラナ県、ヌサマラ付近の地図を見て欲しい。
d0083068_10334029.jpg

中央にヌサマラ村がある。
その右にPulukan村というのがある。
そこには、オランダ軍の硝所があった。
ジャワから来たマルカディ大尉は、その硝所を襲撃している。
戦いがあったのだ。
戦いがあれば、必ずその記念モニュメントが残されている。
で、Pulukan村に行ってみた。
あった! 
村の外れは山路への道路の行き止まりでもあった。
そこに、こんなのがあった。
が、残念ながら、
戦いがあったということだけ書いて、その期日が抜けている。
d0083068_1040334.jpg

本(Bali Berjuang)には、次のように書かれている。

......

Pulukan村の敵硝所襲撃を終えた頃、
マルカディ大尉は、Gelarの味方ゲリラ基地(写真)....
d0083068_1046353.jpg

が、敵の大攻撃を受けた....
空からは飛行機で、地上からは熱帯地専門部隊を投入してきた....
で、Gelarの青年戦線は、完全に粉砕された....
との情報に接した。

ちょうど、その頃、マルカディ大尉は、ングラライより、
軍を東に進めて、ムンドックマランまで来てほしいとの手紙を受け取った。

  (註) ングラライ側の記述によれば、先にブログで書いたように、
      ングラライの使者のブレオがマルカディ大尉に会えた場所を
      Yeh Embang としている。
      Pulukan村とYeh Embangは、約10キロしか離れていない。
      地理的に、二つの証言は合致している。

マルカディ大尉は、ングラライの要望に応えるため、
膨れ上がった隊を三つに分けた。

一つは、マルカディ大尉が引率し、ムンドックマランに向かう。
一つは、当地での次の戦闘に備える(島村中尉隊)。
     (註)密告により敵に襲撃される(Nusa Mara村)
一つは、余剰として、ジャワ島に帰る。

........

ということである。
これらを解って、もう一度最初の地図を見て欲しい。

海岸に、マルカディ大尉隊の上陸記念モニュメントがあるじゃないか!
地元民に聞くと、マルカディ大尉軍がここに上陸したという。
マルカディ大尉は、ギリマヌクの南方海岸に上陸したはずだ。
なぜ、こんなところに上陸モニュメントがあるのだ!

とにかく行ってみた。
なーるほど、こんなのがあった。
潮が引いているので岩場に出ているが、
潮が満ちると、海上に浮いて見えるそうな...
そのとおりの佇まいである。
d0083068_11101347.jpg

さて、解っていただけるだろうか。
ここ2、3日のブログは、
「マルカディ大尉のバリ島上陸」の周辺を掘り下げて書いてきた。
地元民が、上陸地点は「此処!」と言い張るので、
それが本当かどうか、過去のブログを振り返り、
いろいろな本を読み直してきたのだ。

その結果、
Enjung Pulukan 海岸のモニュメントは、
単なるモニュメントであり、史実を受け継ぐモニュメントではない、
と結論付けることにした。

では、何故に、この地に、こんなモニュメントがあるのか...
実は、この海岸沿いに、Puri Dajuma Beach Resort というホテルがある。
そのホテルから見ると、このモニュメントは格好の場所にある。
ということで、ホテル側が観光用に作ったのではなかろうか。
純粋な地元民は、それを史実として語り継がれていできた....
のではなかろうか。


んまあ、こういうのがあるので、
島村中尉が消息を絶った原因となったヌサマラ村の戦い...
の期日が、1946年6月2日になっているのも、
「多分、いい加減なのだろう」と思い始めているんです(笑)。
by yosaku60 | 2016-09-02 11:10 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

Markadi 大尉隊のバリ島上陸の真相

Markadi 大尉隊のバリ島上陸を少々詳しく書きたい。


マラン海軍司令部は、島々の部隊編成を次の三つに分けた。

  1、カリマンタン派遣; 第4艦隊所属、Ziakaria大佐指揮
  2、セレベス派遣; 第6艦隊所属、Aris大佐指揮
  3、小スンダ派遣; 第5艦隊所属、Munadji大佐指揮

ここでの兵は、
カリマンタン派遣軍は、カリマンタン島出身者で、
セレベス派遣軍は、セレベス島出身者で、構成されたが、
小スンダ派遣軍は、小スンダ島民出身者がおらず、
スペッシャルスタッフの集まりである小部隊で構成された。
このスペッシャルスタッフの小部隊のひとつが「Markadi大尉隊」であった。

小スンダ派遣軍は、
バリ島上陸作戦を次のとおり第一波~第三波とした。

① 第一波部隊は、Woroka中尉が指揮し、
敵の目をバリの北側に向けさせるため、
バリ島北海岸のCelukan Bawang に上陸する。

② 第二波部隊は、Markadi大尉が指揮し、
口径7.7の機関銃3挺と小銃84挺及び鄭弾筒を持ち、
Candikusuma と Cupel 間付近に上陸する。

③ 第三波部隊は、本隊(司令部)である。
1946年6月29日を上陸日とする。

この中で、第一波部隊の上陸については、過去のブログで書いて来た。

第三波部隊の上陸は、
1946年7月1日、Tukad Aya海岸に上陸したものの、
待ち構えていたオランダ軍からもの凄い攻撃を受け、
司令官3人(Sastuhadi大尉、Sugiharto大尉、Suryadi大尉)が殺され、
生き残った者は逮捕されるという散々な目に合い成功しなかった。

で、これから語るのは、第二波部隊の上陸である。

第二波部隊の上陸....

実は、この第二波部隊の中に、
Markadi大尉とMuhadji中尉の二人がいた。
Markadi大尉は、部隊長であり、
その部下として、Muhadji中尉がいたということだ。

第二波部隊は、
6トンクラスの船、4隻でジャワ島バニュワンギ港を出港した。
しかし、海が荒れ、そのうちの一隻だけ(Muhadji中尉の乗る船)が
バリ島に着いた。

他の三隻は、途中で風を掴めなくなり海上で立ち往生してしまったのだ。
オランダ軍は、立ち往生した三隻に向かって機関銃弾の雨をふらした。
立ち往生していた内の一隻がMarkadi大尉の乗る船であった。
その船にオランダ軍のモーターボートが近づいて来た。
海上での戦闘が始まった。
Markadi大尉の兵隊が投げた手榴弾が爆発し敵船は沈没した。

で、その後、三隻は、一旦バニュワンギ港に戻った。
そして、二日後、再度バリ島上陸に挑戦した。
今度は、ギリマヌク南方のPunginuman村に上陸できた。
これが巷間言われる、Markadi大尉隊のバリ上陸の経緯である。

......が、

つじつまの合わないことがあるのだ。
それは、明日のブログに書く。
by yosaku60 | 2016-09-01 14:41 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

過去のブログの修正(Muhaji中尉とMarkadi大尉)

ジャワ海軍のMarkadi大尉がバリ島に上陸した日と場所を検証している。
それに先立ち、以前に書いたブログ.....
2015年8月31日、ジャワ島からの援軍「Markadi大尉隊(その1)」...
の内容を修正したい。

まずは、Pulungan Batu にある、
ジェンブラナ県ゲリラ基地(写真)である。
Pulungan Batu と現在の地名を言っても誰にも通じないことが解った。
「Gelar ゲリラ基地」と書くべきであった。
d0083068_947416.jpg

d0083068_9481071.jpg

戦いに加勢したジャワ海軍であるが、
次のとおり、Muhaji海軍中尉と刻まれている。
d0083068_9504980.jpg

私は、この Muhaji を Marakadi と勝手に読み替えていた。
が、Muhaji と markadi 全く別人であることが解った。
過去のブログは、触らないでおくが、ここで修正した上で、
次のブログで、二人の関係を掘り下げてみたい。
by yosaku60 | 2016-09-01 09:48 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

ヌサマラ村の戦いの6月2日が解せない理由(その1;ピンダ証言)

島村中尉が消息を絶ったヌサマラの戦い....
そのモニュメントの日付が、1946年6月2日と記されていることが解せない。
検証したい。
島村中尉は、ジャワ海軍のマルカディ大尉に付いてバリに来た。
ということは、マルカディ大尉の行動を探れば、それが解る。

マルカディ大尉がバリ島に上陸した期日であるが、
ングラライ軍参謀のピンダ中尉が、詳しく書いている。

.........

(ピンダ中尉証言)

我々がムンドックマランに居た時(1946年4月中旬~5月上旬)のことである。
ングラライ将軍は、ジャワ海軍の援軍を心待ちにしていた。
そんな時、ギリマヌクの近くに、
マルカディ海軍大尉が率いる陸戦隊が上陸したとの報が届いた。
将軍は、早急に迎えに行くように、ジョコルダ・ングラに指示した。
ジョコルダ・ングラは、別名、ブレオと呼ばれていた。
ブレオは、マルカディ大尉に会いに行くため、
村人に変装し、森や村を抜け、ジャングルを歩いた。
10日後、Yeh Embang 村でマルカディ大尉に逢うことができた。

 
  (註)このYeh Embang 村の位置であるが、
     ギリマヌクから50キロと遠く、ここまで進軍して来ていたのだ。
     が、同時にそこは、ヌサマラ村から5キロの至近でもあった。
     ブレオがマルカディ大尉に会えた日であるが、
     記述がないものの、4月25日~5月5日の間であったと思われる。


以後、マルカディ大尉隊は、ブレオに案内され、ムンドックマランに向かった。
が、ムンドックマランの本部がオランダ軍の襲撃を受け(5月11日)、
ングラライは本部をムンドックマランからベンケルアニャールに移動した。
マルカディ大尉がングラライに会えたのは、そのベンケルアニャールの地であった。

...........

島村中尉がマルカディ大尉隊と分かれて分隊を作ったのは、
ングラライの使者のブレオがマルカディ大尉と会った頃と思われる。
であれば、4月25日~5月5日の間であると思われる。
同時に、その地は、ヌサ村に近かった。
なのに、島村中尉分隊の戦いがあったのは、6月2日。
敵から逃げ回りながら戦うゲリラ戦にあって、
一か月以上もの間、同じ地に潜んでいたなんて、解せない。
by yosaku60 | 2016-08-31 10:58 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

トゥグ・アメルタユダ(モニュメントの名)

バリ島北岸にジャワ海軍部隊が上陸したのは、一度か、二度か?
それを確かめるために、Celukan Bawang の現地調査に行ったこと...

昨日のブログに書きました。
今日は、そのつづきです。

Celukan Bawang で、
ジャワ海軍部隊上陸のモニュメントを発見した後、
もうひとつ、モニュメントがあるかも知れないと、
しつこく現地調査をしていたところ...

「ある....」

との聞き込みをしたのです。
でも、海岸ではなく、山の方の、Desa Paras という処。
んで、行ってみました。
で、二度と来れないような路地に入り、山に向かったところで、
見つけたのが、これ!
d0083068_102116.jpg

Tug Amerta Yuda という名のモニュメントとのこと。
管理しているのが、同じ敷地に住む、Hasanudinさん(写真)
d0083068_10332248.jpg

次は、Hasanudinさんが語ってくれた話。
1、私の父は、この地の有力者だった。
2、父を頼りに来た、3人の若者がいた。
3、Gusti Membe と Nadie と Jubad の3人だった。
4、3人は、インドネシア独立のために地下活動をしていた。
5、その3人の活動をオランダ軍に密告した村人がいた。
6、Madesitran という名の村人である。
7、ある日、オランダ軍が、どかどかと、この地に入って来た。
8、父が止めるのも聞かず、オランダ兵は、寝ている3人を銃殺した。
9、その後、父は、この他に匿っていないか折檻された。
10、その折檻の場には、Hasanudinさんもいた。
11、当時、Hasanudinさんは、5歳ほどだったそうで、今でも覚えているとのこと。
12、父は、オランダ軍に連れていかれて、山の中でさらなる折檻を受けたとのこと。
13、山から帰ってきた父のげっそり細った姿を今でも覚えて居るとのこと。
14、このモニュメントは、バリ兵のベテラン(戦友会)が作ったもの。
15、独立記念日は、このモニュメントの前で盛大なセレモニーが行われる。
16、密告した村人の家族は、この地に住めなくなって、どこかに消えた。
d0083068_10593825.jpg

ところで、
Celukan Bawang のジャワ軍上陸と、
このモニュメントは、何か関係がありますか....と聞いたところ、
16、それは、ない。 
17、此処では、戦いがあったのではなく、一方的に殺されただけだ。

Celukan Bawang のジャワ軍上陸は、一度ですか、二度ですか....
とも聞いてみたが、
18、一度だけでした。....と、明言した。

日本軍統治時代のこと、覚えていますか...とも聞いてみた。
19、父を通してよく覚えている。
20、村人に橋をかける作業をさせられた時、「丈夫でない」と何度も作り直された。
21、父は、日本人は厳しすぎると、いつも苦情を漏らしていた。
by yosaku60 | 2016-08-27 10:38 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)


常時ほろ酔い候
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