あけっぴろげてあらいざらいのあるがまま



カテゴリ:バリ島での独立戦争( 154 )


本物だろうか?この写真....

Face Bookに バリ島の歴史....
ってことで、マルガラナの戦いの跡の写真が載っていた。
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バリ島の独立戦争を調べている、私にとっては、衝撃の写真だ。
だが、よく見ると、なんだかしっくりしない。
もしかしたら、映画あたりで撮られたシーンではなかろうか。
と思ってきたのだ。

マルガラナの戦闘で語り継がれていることを抜粋してみる。

①、戦闘は、1946年11月20日の朝から夕方まで続けられた。
②、死体の収容は、バリ側もオランダ側も翌日行われた。
③、ングラライ軍の戦死者は96名であった。
④、戦死理由の多くは、飛行機による機銃掃射であった。
④、オランダ側の戦死者は、おおよそ300名であった。
⑤、ングラライ軍の96名の内、56名は、殆ど急ごしらえの民兵であった。
  その56名は、全員がマルガから7キロ以内の近隣の民である。
  (3キロ以内と絞っても41名いる)
  すなわち、兵士の多くが「近所の若者」だったのだ。
⑥、ングラライ軍の残りの兵の死体の多くは、検死のため他の場所に移動された。
⑦、その場所は、12キロ先のムグイの「日本人集結所」であった。

こういう状況の中で撮られたのが、この写真だとすると.....
次のような疑問があるのだ。

①、竹槍を持つのは、わざとらしい。
②、戦って死んでいるのに死体がきれいすぎる。
③、埋葬光景が史実と一致しない(例えば、場所、それに雰囲気)

いずれにしても、戦死者(その骨)は、その後、タバナン英雄墓地に移されている。
タバナン英雄墓地にいる埋葬者で、マルガラナで戦って戦死したバリ兵を数えてみた。
と、全部で(日本人を含まない)62体あった。
タバナン出身の民兵がほとんど入っていることになる。
(ングラライやウィスヌやスギアニャールは、タバナン英雄墓地には入っていない)

タバナン出身の民兵....
写真は、まさにそんな感じであるが、
戦死した次の日のこと、
近所なのだから、家族が受け取りに来るのではなかろうか。
写真には、そういう雰囲気が感ぜられない。

私にとっては、貴重な写真だが....
この写真、ほんものかどうか、疑わしく思っている。

by yosaku60 | 2017-08-05 13:39 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

マルガ英雄墓地(?)とタバナン英雄墓地の見方

odayakanao さん、おはようございます。
ご友人をマルガラナに、ご案内し、
次は、タバナン英雄墓地に、ご案内したいとの書き込み拝誦致しました。
説明が多岐にわたるので、このブログをもって返答したく思います。

1、タバナン英雄墓地の場所

スバック博物館の小路を通り越し、左に大きく回ると信号があります。
その信号を渡って、すぐに左に廻ると、墓地前の広場に入れます。

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2、マルガラナ英雄墓地(?)とタバナン英雄墓地の見方

マルガラナには、すでに行かれたということなので、お分かりかと思いますが、
あそこは「英雄墓地」ではありません....というか、日本でいう「お墓」では
ありません。こちらの言葉では「チャンディ」と呼ばれます。
チャンディの日本語訳はわかりません。
私が勝手に「祈祷塔」とか呼んでいますが、「墓標」と呼ぶ人もいるようです。
いずれにしましても、日本にはないものなので、日本語にならなくて当然かも
知れません。
それに比べ、タバナンは「お墓」です。
ですから、タバナン英雄墓地は、真の英雄墓地です。

どういう基準で、これらの中にと入ることができるかを知ると、二つの違いが
明確に解るかと思います。
マルガラナは、独立戦争中に戦死し、その事実があきらかな兵士を祀っており
ます。 日本兵関係は次表のとおりです。


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固有のチャンディを持つ日本人は、「ングラライの長征」に参加した人に限られております。
その理由は、バリ人にも知られる日本兵だからです。
ただ、祈祷塔が作られた後に、バリ人に知られる日本兵と解った人は、1372番に入って
いると見なされています。 
大舘は、ワナギリの戦い、で戦死したことが知れ渡っております。
工藤栄は、タンジュンブノアにバリ人の建てた慰霊碑があり、知れ渡っております。
曽我は、バリ兵が書いた「日本兵」の項で、戦死が書かれております。

一方、タバナン英雄墓地は、独立戦争に参加した兵士で、タバナン出身であれば、誰もが入る
ことができます。 戦後生き残り、最近に死んだ元兵士も、ここに祀られます。
ちなみに、1992年には、601名(私は全員の名簿を持っております)でしたが、現在は
800名ほどに増えているはすです。

次に、遺骨に関連しての違いです。
マルガラナは、祈祷塔なので、地下に骨はありません。
それに比べ、タバナンは本当のお墓なので、地下に「骨もしくは灰」があります。
タバナン英雄墓地は、「骨」そのものがそのままあります。
ですが、シンガラジャ英雄墓地は、原則として「灰」だけに限られています。
「骨」が持ち込まれる場合、10年に一度ほど、まとまって骨を焼いて灰にして
埋めなおす儀式をしているとのことです。
この違いは、何故なのかは、過去の私のブログに書いております。


3、タバナン英雄墓地には、どんな日本人が入っているのか。

名前が刻んであるのは、110番のブンアリとブンマデです。
ブンアリとブンマデは、タバナン地区のワナサリで戦死し、名前も
はっきりわかっているので、名前が刻まれています。

名無しの日本兵のお墓は、9個あります。
次の人達です。カッコ内は、戦死場所で、全てタバナン地区です。
戦死した日付順に並べてみます。

1、長野兵曹長(スディマラ)
2、島村兵曹長(ヌサマラ)
3、大舘(ワナギリ)
4、ブンチャング(マルガ)
5、ブンスラマット(マルガ)
6、高木米治(マルガ)
7、荒木武友(マルガ)
8、松井久年(マルガ)
9、不明

これらは、他に埋められていたのを移設する際、名前がわからないまま
tanpa nama (無名)として、お墓が作られました。
この無名のお墓は、墓地に入って右手前の「最近死亡した人を祀る場所」
の奥に、比較的まとまって在ります。


odayakanao さん、
タバナン英雄墓地を見る際の概略を取り急ぎ書いてみました。
お友達をよろしくご案内してあげてください。

4、最後にバリ島の日本兵の数を書いてみます。

バリ島でインドネシア独立戦争に加担した日本兵は、
わかっているかぎりでいえば、32名です。
32名の内、6名が生き残り、その6名のうちの3名は日本に帰り、
2名がジャワ島に住み、1名がバリ島に住みました。
で、26名が戦死した訳ですが、
そのうちの14名がマルガラナに祀られていますが、
残り12名のうち、長野、島村の両氏は、タバナン英雄墓地、
白石勉は、タンジュンブノアに祀られていることは解っていますが、
残り、9名は、どうなっているのかわかりません。
敬虔なバリ人のことですから、
私がまだ探せないところで祀られているのかも知れません。

by yosaku60 | 2017-07-26 09:07 | バリ島での独立戦争 | Comments(1)

独立戦争史跡巡り(タバナン地区)

大東亜戦争の日本兵のお墓をお詣りして、
ジャワ島、スラウエシ島、スンバ島を巡っておられる清水さん....
がバリ島に来られた。
独立戦争の史跡巡りにタバナン地区をご案内した。
朝の10時に出発、午後5時に帰るという、
7時間の史跡巡りを写真で紹介する。
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① ムンドックマラン

遠いところから行くということで、まずは、ムンドックマランに行った。
1946年4月14日、ングラライ軍が旗揚げ式をした処である。
2000人の兵が、バリ島中から、ここに集結した。
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集まった2000人の中に、次の10名の日本兵がいた。
ワヤンスクラ、マデスクリ、ブンアリ、ブンチャング、ブンマデ、
ニョーマンスニア、ニョーマンサヤン、マデプトラ、イクトット、イグデ、
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②; ワナサリの戦い慰霊碑

1946年10月5日、
日本兵のブンアリとブンマデが10名の部下を従え、
オランダ軍と戦い、この地で戦死した。
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前に訪れた時も「ワンカップ大関」があったが、
今回も新しい「お酒パック」が御供えされていた。
日本人の誰かが、お詣りしてくれたようである。
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慰霊碑のあるお寺の同じ敷地内には、
神格化された、ガジュマロの樹がある。
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③;ベンケルアニャール

ムンドックマランを逃れたングラライ軍は、
次の司令部をベンケルアニャールに置いた。
その司令部跡にこんなお寺が建てられている。
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ここまでくる、観光客はいない。
村人に珍しがられる。
インドネシア30年の清水さんは、村人ともすぐに仲良くなる。
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④;タバナン英雄墓地

ワナサリで戦死した、ブンアリとブンマデのお墓をお詣りする。
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手前のお墓は、イスラム教徒の戦死者。
支柱の頭の形が違う。
さらにお墓の方向がメッカの方に向いている。

ところで、ワナサリの戦いでは、
ブンアリとブンマデは、こういう格好で戦死した。
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当時、その場所に埋められた二人を
戦後、タバナン墓地ができ、そこに移すため、掘り起こしたところ、
二人の骨は、くっついたままで離れなかったそうな。
で、タバナン墓地には、二人一緒のお墓に入っている。
800余名のお墓で、二人で入っているのは、ブンアリとブンマデだけである。

ここには、無名の日本兵のお墓もある。
7個あると思っていたが、数えなおすと9個あった。
墓守(左)に確かめると、全て日本兵とのこと。
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by yosaku60 | 2017-07-25 10:50 | バリ島での独立戦争 | Comments(1)

バリ島の地形(その10;ングラライ軍ー8)

パングジャラン村の戦い その2


(写真;中央のご婦人の叔父さんが戦死した)
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その西の方向から、自動小銃の音が聞こえてきた。

味方のサルジャ中尉隊の自動小銃だった。

サルジャ中尉隊は、昨夜から南の方の番屋で休んでいた。

外から見て、本隊が西に逃げるということを事前に察していた。

で、本隊の西に廻り、敵が待ち伏せるのを待ち伏せていたのだ。


西に廻ろうとした敵は総崩れし、退却した。

ただ、この時のサルジャ中尉隊の自動小銃は、弾が一五発しかなかった。

九発撃って、残り四発しか残っていなかった。


ングラライ隊は、開けた西に向かって谷を降りた。

少し降りたら、平らな台地があった。

先ほどの位置から百メートルほど離れている。

その台地に布陣し、敵の動向をうかがった。

午後五時三〇分ごろだった。

あたりが暗くなり始めた。

オランダ軍は、決して夜は戦いを仕掛けてこなかった。

それは、今までの体験からわかっていた。

待ちに待った、その夜がきた。


ングラライ隊は、台地から抜け出ようと動いた。

七時ごろだったろうか、その時であった。

北の方角で爆発音が響いた。

とたん、味方の隠れた台地が明るく照らされた。

昼間のような明るさだ。

照明弾だ。

照明弾など見たこともない隊員が多かったのでパニックになった。

台地の真ん中に迫撃砲弾が落ちた。

隊員はますますパニックになり、西に南に逃げた。

逃げ終えて空になった台地に迫撃砲弾があられのように降ってきた。


間一髪であった。


南に逃げた者も西に逃げた者も、ゆくゆくは同じ谷底に落ちて行った。

暗くて何も見えない。

下に下にと落ちてゆくだけだった。

道はなかった。

雨水の流れ道があった。

その道を辿りながら谷へと落ちて行った。


みんな疲れていた。

ここまでは追ってこない。

とりあえず寝ることにした。

が、寝る場所を探せない。

誰かが木に足を踏ん張って寝た。

その者の肩を踏み台にして、木にしがみつき誰かが寝た。

その誰かに背中をくっつけて誰かが寝た。

そんな夜が明けて、翌日になった。


ばらばらになった隊をまとめるのが大変だった。

サルジャとダンガが谷に落ち上がれなくなっていた。

そこには、ジャワ海軍部隊の何人かも一緒だった。

八メートルほど下の穴に落ちていた。

直径一メートルほどの穴に押し合いながら座っていた。

身動きできない風だった。


みんなで引っ張り上げた。

深い谷底を彷徨する


ングラライ隊は、滑るように谷底に落ちて止まった。

ングラライは、ウィスヌに指示して全部隊の点呼をとった。

スギアニャール大尉隊は、アグン山を越えなかった者が七名いた。

(日本人二人を含む)


その七名は、隊に帰って来なかった。

ブランディンガン村では、ひとりが行方不明になった。

昨夜、パンガジャラン村では、二人が戦死した。

ウィジャナ大尉のタバナン隊の一個小隊が行方不明だった。

その一個小隊は、クレデック軽機隊であった。

マルカディ大尉のジャワ海軍隊は、全員そろっていた。

スイジャ大尉のブレレン隊は、全員そろっていた。

ムディタ中尉のバンリ隊は、全員そろっていた。

ディアサ中尉の対空射撃小隊は、全員そろっていた。

ピンダ中尉の擲弾筒部隊も全員揃っていた。

ウィスヌ少佐指揮下の本部スタッフは、四名が行方不明であった。

以上が谷底に集まった小スンダ連隊本隊の約三百名であった。


全員が空腹だった。

小銃や機関銃はあったが、弾丸はほとんどなかった。

オランダ軍や山のオランダ兵は、この様な状態を知っているだろう。

オランダ軍にとっては、牙と爪を失った大虎同然だ。

ングラライは思った。

大虎よりも猫かネズミの方が良かったかも知れない。

逃げ回れるし、食料を探すのも楽だ。

ングラライ隊は、士気が低下している。

戦う弾丸がなく、生きる食料が不足している。

なのに、敵はだんだんと士気があがっているように思える。

以前は、夜には、戦って来なかった。

が、今は昼夜、戦いをしかけてくる。

以前は、一方から攻めてきた。

が、今は、二方、三方より挟み撃ちに来る。

戦う人数が増えている。

村人の多くが、親蘭派になっている。

なぜに、村人が、こんな風になったのだろうか。

理由はふたつあった。

ひとつは、脅されて恐怖がゆえに親蘭派になった。

もうひとつは、オランダ軍の効果的な宣伝だ。

メラプティ派は、強盗や盗賊で社会を混乱させている。

そんな風に言いふらして、それを信用する村人も多い。

いずれにしても、オランダは長い宗主国の経験があった。

植民地の住民を手なずけるに慣れていた。

今のングラライは、どうしようもできなかった。

谷底を逃げるのみであった。

が、谷底を逃げるのも全く安全とは言えなかった。

時々、飛行機が襲ってくるのだ。

飛行機は決まって、昨夜宿営した場所に爆撃弾を落とす。

崖の上から村人が見つけて通報するのだろう。

で、宿営しても夜明け前に起きて、その場所を抜けだした。


どれだけ歩いたろうか。

谷が浅くなった場所に出た。

少し登れば、道路のようなものがあるようだ。

まばらだが、人家がある。

斥候を出し、確認すると、クランディス村という。

それに嬉しいことに村民の全てがメラプティ派とのこと。

ングラライは、全員が谷から出るよう命令した。


(写真;パングジャラン村にある闘争モニュメント)
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by yosaku60 | 2017-07-03 07:56 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

バリ島の地形(その9;ングラライ軍ー7)

パングジャラン村の戦い その1


どこを歩いても親蘭派ばかりだ。

メラプティ派の村がなくなった。

ングラライは、メラプティ派を求めて山へ山へと入った。


スルルン村辺りに来た時だった。

道端に二人の男が腰を落として座っていた。

よく見ると二人とも眠っていた。

「おじさん、ちょっと話があるのだけど」

起こされた二人は、ングラライ隊を見て飛び跳ねて逃げた。

その様子を見て、すぐに理解できた。

彼らは、ングラライ隊が来るのを見張っていたのだ。

ここにも山のオランダ人がいた。

至る所が親蘭派になっている。

明日は、ここにオランダ軍が来るだろう。

ングラライは先を急いだ。

一夜を通して歩き、パングジャラン村に着いた。

人里離れた小さな村である。

が、村にはすぐに入らなかった。

川を挟んだ対岸の森の中に隠れた。

川の水は澄んでいた。

隊員は体を洗い、衣服までも洗濯した。

蚤退治の新しい方法も見つけた。

衣服を石の上に広げる。

丸い平らな石で衣服を押しながらこする。

すると、蚤がプチプチと音をたててつぶれるのだ。

隊員は久しぶりにくつろいだ。

カランガッサムのサム部落を思い出した。

ひとつ違うのは、火を使えなかったことだ。

サム部落は火を使っても通報されることはなかった。

が、ここで火を使うことの安全性は確認されていなかった。

野生のものでも火を使わないと食べられないものがある。

火を使っても大丈夫だろうか。

パングジャラン村にもスパイがいるだろうか。

ングラライは、それらを確認するための斥候を出した。

斥候が帰ってきた。

村民はメラプティ派でもなければ親蘭派でもない。

そうしたことに村民は無縁に過ごしている。

ということであった。


(現在のパングジャランの村;昔と変わってないという)

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ングラライ隊は、村に入って行った。

この村には、トウモロコシがいっぱいあった。

食べてもいいですか、と聞くと、

「どうぞ、どうぞ」の返事が返ってきた。

隊員は、村のあちこちに分かれて休息した。

その晩は、みながゆっくり眠れた。


翌日であった。

みんなが寝ている小屋の上に鳥が飛んできた。

そして、やかましいほどに鳴いた。

隊員は、知っていた。

鳥が来て鳴くとオランダ兵が来る。

その前触れに鳥が来て鳴く。

なんども、その鳥に助けられた。

もうすぐ、オランダ兵がここに来る。

ングラライに知らせねばならない。

ングラライの寝ている家までは遠い。


すぐに伝令が走った。

知らせを受けたングラライは、すぐに斥候を出した。

その斥候を待ったために、臨戦準備が遅れた。

斥候が帰って来た時、敵は北東方向二キロに来ていた。

敵はトラックに乗っていた。

ングラライは、すぐに全軍迎撃態勢を命令した。

隊員は、走ずり回った。


その時だった。

南の方角、わずか三〇メートルから銃声が聞こえた。

タッタッタッタッ

あきらかに自動小銃の音である。

準備が遅れた。

誰もがパニックになった。

そんな時、報告があった。


歩哨に立っていた二人が一〇メートルの至近から撃たれた。

「撃たれたのは誰だ」ピンダが聞いた。

「イ・グデとデワ・ウィです」の答えが返ってきた。

敵は、北東と南から来ている。

西方向は、険しい谷底になっている。

西に逃げるしか道がない。

が、そうしたことは、オランダ軍はすでに知っているだろう。

西の崖の手前に待伏せているに違いない。

ただし、手薄であろうから、その囲いを突破するしかない。


と、思った時だった。


by yosaku60 | 2017-07-02 07:58 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

バリ島の地形(その8;ングラライ軍ー6)

ングラライのゲリラ戦、
①の地点の往路の二つの戦い、
ランプーの戦いとボンの戦いを書いた。
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この二つの戦いに関して(行軍)と(自軍)
をまとめて一言でいうと、

(行軍)

まだ、敵の攻撃が厳しくなく、クランディス渓谷の峰を歩けた。

(自軍)

次から次と入隊希望の若者が現れて、兵員数1000名に膨れ上がり、
当然に、その中には、親蘭派のスパイが紛れ込んでいたため、作戦が
敵に筒抜けとなり、ングラライは、その対応に困った。

で........

ングラライは、自軍の中にいるスパイ(マタマタ)一掃とスリム化の
ため、三日後に兵員数を半数にする。
それ以降、自軍の行動が敵にもれなくなり、また、兵のほとんどが、
火器を持つこととなり「強力なゲリラ軍」が出来上がる。

それが、タナアロンの大勝利につながる。
が、タナアロンで、殆どの弾薬を使い果たしてしまったゲリラ軍、
アグン山の山越えをしたあたりから、襲われると逃げ回ることの
多い、ゲリラ戦に変わって行った。

で......

そういう状態で、①の地点に戻ってきて、起こったのが、
パングジャランの戦い。
ングラライ軍は、逃げ落ちるように渓谷にはまり込んで行く。
その後、谷の底をはいずり歩く。

ということで.....

①という、同じ地点を、往路は峰を歩き、復路は谷底を歩く、
そうならざるを得なかった、ングラライはいかほどに悔しかっ
ただろうか。

明日は、そんな「パングジャランの戦い」を書く。

by yosaku60 | 2017-07-01 09:36 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

バリ島の地形(その7;ングラライ軍ー5)


①の付近であったングラライのゲリラ戦、
次は、ボンの戦い。
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パ・ジョコが離隊した、ボン村でも戦いがあった。
ランプ村のオランダ軍硝戒所襲撃が失敗した。
それは襲撃が失敗しただけでは終わらなかった。
ングラライ軍がランプ村周辺にいることがばれたのである。

オランダ軍が集中的にパトロールしてきた。
そのパトロール隊を襲おうとして逆撃ちに会った。
それが「ボンの戦い」だ。

一九四六年六月十三日であった。
陽が沈みかけた夕刻であった。
ングラライ隊は、ボン村にいた。

その村の近くを七人の敵のパトロール隊がやってきた。
味方軍は、それを事前に知り待ち伏せをしていた。

味方は小高い丘の上にいた。
断然に有利な位置取りであった。

パトロール隊が眼下に来たので襲った。
が、するりと抜け出て逃げられた。
で、逆に襲われてしまった。
マデ・スレムが正面から弾を受けた。
くるりと反転すると、今度は背後から撃たれた。
体の中が全部見えるほどの穴が開いた。
ダムダム弾を使った模様だ。
彼は、即死した。

(写真は、ボンにある戦闘モニュメント)
マデ・スレムが戦死した事が書かれている。
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グスティ・ナティも負傷した。
胸に被弾し、弾は肺を貫通していた。
一人が戦死し、一人が負傷した。
敵を撃つことすらできなかった。
完敗だった。

by yosaku60 | 2017-06-30 07:48 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

バリ島の地形(その6;ングラライ軍ー4)

①の地点で、
ングラライは、3度の戦いをしている。
1、ランプーの戦い
2、ボンの戦い
3、パンゲジャランの戦い
である。

ランプーの戦い、と、ボンの戦いは、「往路」である。
パングジャランの戦いは、「復路」である。

この「往路」と「復路」の戦いを比較してみると、
ングラライのゲリラ戦の全体像がよく見える。

やって見る。
まずは「ランプーの戦い」である。

ランプーの戦い

ランプ村には、オランダ軍の硝戒所があった。
ジクグ隊とグルブ隊が、そこを襲うことになった。
二隊合わせて二個小隊(八十名)ほどの軍勢であった。

ジクグ中尉もグルブ中尉も日本の義勇軍育ちであった。
訓練を十分に積んでいる。
立派に隊列を組み、出発して行った。

で、翌日早朝に隊は帰ってきた。
ジクグ中尉が腿に被弾し、二人の行方不明者があった。
襲うどころか襲われたのである。

敵は、とんでもないところに待ち伏せしていた。
その場所は、味方でなければわからない場所だった。
ということは、味方軍にスパイがいるということだ。

ングラライ軍が戦うと、味方してくれた村は、
あとで必ずオランダ軍により村が燃やされる。

村が燃やされるたびに、スパイが増える。
これには、ングラライも悩んだ。

同じく、パ・ジョコも悩んだ。
当時の二人の関係は微妙であった。

ングラライ隊にあって、パ・ジョコは参謀であった。
が、参謀以上の地位にあった。

パ・ジョコは一九二三年五月生まれで、当時は二三歳。
ングラライは、一九一七年一月生まれで、当時は二九歳。
年齢は、パ・ジョコの方が六歳若い。
が、パ・ジョコには、長い闘争歴があった。
日本軍がインドネシアに来た直後から闘争を始めている。
その時、パ・ジョコは、まだ十八歳だった。

二十歳でバリ島全てを統括する青年隊のトップになっていた。
今も、パ・ジョコをトップと崇めるバリ人青年が多くいた。
闘争に軍隊が必要と、ングラライを選んだのもパ・ジョコだった。

ングラライは「戦い」についてはウィスヌ少佐に相談した。
が、「独立闘争の仕方全般」についてはパ・ジョコに相談した。

二人は、そんな関係だった。
ベンケルアニャールの司令部を解いた時もそうだった。

ングラライの長征希望をパ・ジョコも賛成して決められた。
今回も二人は、話し合った。

ングラライの言い分は一貫していた。
あくまでも戦う。
戦って勝たなければ独立ができない。
が、今のままでは、勝てない。
ジャワ島からの援軍と武器の補給が必要だ。
そのために、東に向かって長征を続ける。
敵の目を東に向けて、西のジャワ軍上陸を助ける。

これに対して、パ・ジョコの意見は違った。
目的はインドネシア独立である。
親蘭派が増えれば増えるほど独立が遠のく。
戦えば戦うほど、親蘭派が増える。
戦わずして、島民の意識を変える方法を考えるべきだ。
長征して戦い続けるのは反対だ。

バリ島の中央部に司令部を構えて籠城する。
幸いに、この地の地形は複雑だ。
籠城するに最適だ。

それに、ブレレン県とバンリ県とバドゥン県の県境にある。
三つの県から注目を集める司令部ができる。
二人は、長時間話し合った。

お互いの考えがお互いに理解できた。
独立を望む闘争心は同じであった。

二人は、結論を出した。
お互いは助け合いながら独自の道を進む。

パ・ジョコは拠点をバドゥンに置き、バリ島の若者をまとめる。
パ・ジョコは、ボン村に入ったところで、ングラライ軍を離れた。
そこは、パ・ジョコの拠点であるバドゥン県だからであった。

(写真は、ランプー村にある戦闘記念モニュメント)
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by yosaku60 | 2017-06-29 13:34 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

バリ島の地形(その5;ングラライ軍ー3)

複雑なバリ島の地形....

車で走ると「バリ島っていいな~」と思える処がいっぱいあります。
ざーと、思いつくところをひろって見て、
何が良かったか、書いてみたいと思います。

まあ、次の9か所ですが、
まだ、調査中ですので、全部ではありません。
道路は、いい加減です(念のため)。

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まずは、①です。
私が大好きな場所です。
村でいえば、ランプー村近辺です。
ここに行くと、なぜか幸せを感じます。
この場所は、1、戦略的な位置 2、風光明媚
の二つの特徴があります。

で、今日は、この場所の戦略的な位置、の意義。

ここは、3県~4県の県境です。
バドゥン県に近く、
バンリ県に近く、
ブレレン県に近く、
それに、タバナン県もそれほど遠くないのです。

独立戦争の時のバリ兵は、県ごとに「隊」を作っていました。
4県の兵が集合しやすいのが、この場所なのです。

ングラライのあとのバリ島の指導者は、パジョコという人物です。
ングラライとパジョコは、ある時期一緒に戦略を練っていました。
で、この場所に来た時でした。

ングラライは、東に向けて行軍を主張。
パジョコは、この場所の戦略的意義を考え、ここで司令部を置き、
ここから、バリ中に指示を出すことを主張。

するのです。
結局は、ングラライの主張したとおり、ここから東に移動します。
で、パジョコは、この地点でングラライと別れるのです。

この場所は、そんな歴史的拠点なんです。
それが、私が時々行ってみたくなる理由の一つです。

by yosaku60 | 2017-06-28 10:35 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)

バリ島の地形(その4;ングラライ軍ー2)

バリ島の複雑な地形とングラライのゲリラ隊の関係....
密林に入ったり、渓谷に入ると飛行機からは狙われない。
平地に出たり峰を歩いたりすると、飛行機から撃たれる。

当時、飛行機はスラウェシ島のマカッサルから飛んできていた。
近いといっても2時間以上かかったから、常時狙われたのではない。
空から発見されやすい場所に出た時に襲われた。

さて、ングラライ軍は、半年間の間に6回、
飛行機から襲われた。
d0083068_13371501.jpg
①は、ジェンブラナである。
これはングラライ軍の本隊ではない、ジェンブラナ支隊が
襲われたものである。
唯一、渓谷の中にいるのに襲われた。
ただ、陸上からアンボン軍のあぶり出しがあった。
渓谷の上の峰からアンボン兵が撃つ、出てきたところを
飛行機から機銃掃射するという戦法で、相当の犠牲者が出た。

②は、タバナンのムンドックマランである。
起伏の緩やかな丘が多い地である。
飛行機からは丸見えだ。
迫りくる飛行機に高木米治が機関銃を撃ち、命中させる。
ただ、ふらふらしながらも、落ちなかった。
次の飛行機には、松井久年が12.7ミリ重機を命中させる。
この飛行機は至近に墜落した。
ここでのバリ軍の戦死者はゼロだった。

③の地は渓谷から峰に出た処を狙われた。
場所は、ブラタン湖の東のラワック村、
ングラライ軍は、東の渓谷に逃げて、戦死者ゼロ。
ただ、峰を歩くことの危険さを知る。
照明弾も撃ってきた。

④は、タナアロン。
96名のオランダ兵が殺され、次の日、怒ったオランダが
飛行機で追っかけてくる。 背丈の低い木の茂みに服をかけて
そこに居るようにカモフラジュするングラライ軍。
その服めがけて、飛行機から機銃掃射....
その隙を狙って、ングラライ軍はアグン山を越える。

⑤は、バトゥル湖の北、ブランディンガン村。
オランダのスパイに通報され、突然空から襲われる。
逃げ遅れた一名が戦死。

⑥は、パキサンからギギット間、
クランディス渓谷から出てくるングラライ軍を待ち受ける
オランダの飛行機。
埃をたてないように行軍し、なんとか見つからずに歩きぬく。

⑦は、マルガラナ。
陸と空からの波状攻撃を受ける。
逃げ込む林や渓谷の方は、全てオランダ軍が待ち受けていて、
平地に閉じ込められて、外に逃げれない。
そこを飛行機から機銃掃射される。
96名のチュウワナラ隊(ングラライ軍の最後の軍の名)は、
全滅、その多くは飛行機からの掃射で戦死。

by yosaku60 | 2017-06-27 14:00 | バリ島での独立戦争 | Comments(0)


常時ほろ酔い候
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