odayakanao さん、おはようございます。
ご友人をマルガラナに、ご案内し、
次は、タバナン英雄墓地に、ご案内したいとの書き込み拝誦致しました。
説明が多岐にわたるので、このブログをもって返答したく思います。
1、タバナン英雄墓地の場所
スバック博物館の小路を通り越し、左に大きく回ると信号があります。
その信号を渡って、すぐに左に廻ると、墓地前の広場に入れます。
2、マルガラナ英雄墓地(?)とタバナン英雄墓地の見方
マルガラナには、すでに行かれたということなので、お分かりかと思いますが、
あそこは「英雄墓地」ではありません....というか、日本でいう「お墓」では
ありません。こちらの言葉では「チャンディ」と呼ばれます。
チャンディの日本語訳はわかりません。
私が勝手に「祈祷塔」とか呼んでいますが、「墓標」と呼ぶ人もいるようです。
いずれにしましても、日本にはないものなので、日本語にならなくて当然かも
知れません。
それに比べ、タバナンは「お墓」です。
ですから、タバナン英雄墓地は、真の英雄墓地です。
どういう基準で、これらの中にと入ることができるかを知ると、二つの違いが
明確に解るかと思います。
マルガラナは、独立戦争中に戦死し、その事実があきらかな兵士を祀っており
ます。 日本兵関係は次表のとおりです。
固有のチャンディを持つ日本人は、「ングラライの長征」に参加した人に限られております。
その理由は、バリ人にも知られる日本兵だからです。
ただ、祈祷塔が作られた後に、バリ人に知られる日本兵と解った人は、1372番に入って
いると見なされています。
大舘は、ワナギリの戦い、で戦死したことが知れ渡っております。
工藤栄は、タンジュンブノアにバリ人の建てた慰霊碑があり、知れ渡っております。
曽我は、バリ兵が書いた「日本兵」の項で、戦死が書かれております。
一方、タバナン英雄墓地は、独立戦争に参加した兵士で、タバナン出身であれば、誰もが入る
ことができます。 戦後生き残り、最近に死んだ元兵士も、ここに祀られます。
ちなみに、1992年には、601名(私は全員の名簿を持っております)でしたが、現在は
800名ほどに増えているはすです。
次に、遺骨に関連しての違いです。
マルガラナは、祈祷塔なので、地下に骨はありません。
それに比べ、タバナンは本当のお墓なので、地下に「骨もしくは灰」があります。
タバナン英雄墓地は、「骨」そのものがそのままあります。
ですが、シンガラジャ英雄墓地は、原則として「灰」だけに限られています。
「骨」が持ち込まれる場合、10年に一度ほど、まとまって骨を焼いて灰にして
埋めなおす儀式をしているとのことです。
この違いは、何故なのかは、過去の私のブログに書いております。
3、タバナン英雄墓地には、どんな日本人が入っているのか。
名前が刻んであるのは、110番のブンアリとブンマデです。
ブンアリとブンマデは、タバナン地区のワナサリで戦死し、名前も
はっきりわかっているので、名前が刻まれています。
名無しの日本兵のお墓は、9個あります。
次の人達です。カッコ内は、戦死場所で、全てタバナン地区です。
戦死した日付順に並べてみます。
1、長野兵曹長(スディマラ)
2、島村兵曹長(ヌサマラ)
3、大舘(ワナギリ)
4、ブンチャング(マルガ)
5、ブンスラマット(マルガ)
6、高木米治(マルガ)
7、荒木武友(マルガ)
8、松井久年(マルガ)
9、不明
これらは、他に埋められていたのを移設する際、名前がわからないまま
tanpa nama (無名)として、お墓が作られました。
この無名のお墓は、墓地に入って右手前の「最近死亡した人を祀る場所」
の奥に、比較的まとまって在ります。
odayakanao さん、
タバナン英雄墓地を見る際の概略を取り急ぎ書いてみました。
お友達をよろしくご案内してあげてください。
4、最後にバリ島の日本兵の数を書いてみます。
バリ島でインドネシア独立戦争に加担した日本兵は、
わかっているかぎりでいえば、32名です。
32名の内、6名が生き残り、その6名のうちの3名は日本に帰り、
2名がジャワ島に住み、1名がバリ島に住みました。
で、26名が戦死した訳ですが、
そのうちの14名がマルガラナに祀られていますが、
残り12名のうち、長野、島村の両氏は、タバナン英雄墓地、
白石勉は、タンジュンブノアに祀られていることは解っていますが、
残り、9名は、どうなっているのかわかりません。
敬虔なバリ人のことですから、
私がまだ探せないところで祀られているのかも知れません。