木登りだけではない。
教育全般について生徒の母親から感謝の手紙が届いた。
息子は以前は全く弟たちの世話をしませんでした。
それが、先日帰って来た時は、良く世話するようになっていました。
どんな教育をされたか判りませんが、丈夫になり、
見違えるような青年になり本当にありがとうございます。
ということで、柳川の「青年道場」は、その成果著しいものがあった。
昭和十八年六月、第一期生五十名の教育を完了した。
柳川は書いている。
タンゲランで、第一期生と涙の別れをしました。
また逢えると思っていても心血を注いだ生徒たちとの別れは本当に辛かったものです。
生徒たちには、預金していたお金を小遣いとして持たせました。
生徒たちには半年ぶりの帰省でした。
但し、第二期生の新規募集も含めての帰省でした。
というこで、応募を終え、翌月には、もう第二期生の教育を開始した。
そうした教育を始めて二か月ほどした頃であった。
日本側とインドネシア側の双方から同時にある要望がなされた。
インドネシアの民族軍が必要である、との要望だ。
但し、双方の思惑は、異なっていた。
日本側は、不人気になりつつある「兵補」に代わるものを求めた。
インドネシア側は、日本抜きの自立した「民族軍」を求めた。
目的は違っていたが、作りたいものは同じであった。
柳川は、それを聞きつけて動いた。
柳川が思い描いたのは、「兵補」の延長ではない。
「インドネシア民族隊」の創立だ。
胸の中には、かねてからの構想があった。
青年道場を開設して以来、腹案として持っていたのだ。
で、立案は簡単だった。
団、分団と分けた。
一個大団を五百名とし、一個大団の中に四個中隊、一個中隊に三個小団とした。
第一期生は、「青年道場」から横滑りさせ骨格を作れば良い。
そんな柳川の案が通った。
多分に、原田熊吉司令官の後押しがあったのだろう。
昭和十八年十月二十六日、インドネシア民族軍ができた。
名称は、柳川の案どおりに「郷土防衛義勇軍(ペタ)」と名付けた。
柳川が苦心したのは、日本名を使わぬことであった。
「兵補」は、日本語である。
インドネシア人にも「ヘイホ」と呼ばせた。
これではいけない。
インドネシア人をして、日本に加担するためとなってしまう。
要するに、押しつけになってしまう。
郷土防衛義勇軍は、そうであってはならない。
郷土防衛義勇軍は、インドネシア軍である。
インドネシアの呼び方をすべきだ。
柳川は、頭文字をとり「PETA(ペタ)」と呼ばせた。